無礼講のはじまり
無礼講とは、貴賎や身分の上下の差別をせず、礼儀を捨てて行なう酒宴のことをいう。この語は古く、「その心をうかがい見むために、無礼講という事を始められける」と「太平記」に書かれている。
後醍醐天皇(1288-1339)は、無礼講と呼ばれる大宴会を連日開き、宴会にかこつけて日野俊基、日野資基、花山院師賢、四条隆資、武士の土岐頼貞、多治見国長らと語らい、討幕の計画を練った。「献杯のしだい、上下をとわず、男は烏帽子を脱いで、もとどりを放ち、法師は衣を着ずして白衣となり、年十七、八歳ばかりの、みめ形すこぶる美しく、肌のきれいな女たちが二十余人、絹のひとえを素肌につけ、雪白の肌はすけて、さながら蓮華が水中から出てきたよう、遊び、たわむれ、舞い、歌う」という盛大な無礼講であった。この乱痴気さわぎのかげで、幕府を滅ぼす計画で持ちきりだあった。ところが、直前になって土岐頼員(ときよりかず)が寝物語に抱き寄せた愛妻の口から六波羅探題に事情が密告されてしまう。日野俊基、日野資基は捕縛、土岐頼貞、多治見国長は斬罪に処せられる。これを「正中の変」(1324年)という。
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