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2007年4月28日 (土)

幸田露伴とその家族

    幸田露伴(1867-1947)は、慶応3年、江戸下谷三枚橋横町俗称新屋敷に幸田成延、猷(ゆう)の第四子として生まれる。名は成行(しげゆき)、通称鉄四郎。幸田成延は幕臣の奥お坊主衆今西家の出で、家付き娘である猷のところに入籍したのだが、ふたりとも詩歌管弦に明るく、学問にも造詣が深かった。両親の影響で幸田家男五人女二人の兄弟、このうち、三男は幼い頃に亡くなり、五男修造も東京音楽校在学中に夭折しているが、ほかは皆、英才ぞろいであった。

   長男の幸田成常は実業家、二男の郡司成忠は千島探検家、四男の幸田成行(しげゆき)は小説家、五男の幸田成友(こうだしげとも、1873-1954)は歴史家、長女の幸田延(ピアニスト、1870-1946)、二女の幸田幸(こうだこう、ヴァイオリニスト、1878-1963)は結婚して安藤幸。また幸田露伴の娘の幸田文(1904-1990)、孫は青木玉(作家)、ひ孫は青木奈緒(作家)である。

   幸田露伴は電気技師として北海道余市に赴任後、文学を志して帰京。尾崎紅葉と並び称されたが、その深い教養はいつどのように修得したのであろうか。府立中学、東京英語学校は中退している。父の幸田成延は明治になって一時大蔵省に勤務したといわれるが、明治20年ごろには神田末広町に「愛々堂(あいあいどう)」という紙屋を開いた。この屋号はキリスト教に凝ったためという。(成延は明治17年に下谷教会牧師・植村正久から受洗したことで、幸田家は露伴を除いて全員が受洗している)しかし事業は成功せず、家族は貧困状態にあった。少年時代の幸田露伴が最も熱心に通ったのは、そのころできた図書館であろう。明治5年8月に文部省の書籍館(湯島聖堂)として開館した、わが国唯一の国立図書館は、明治8年4月に東京書籍館と改称し、5月に開館した。明治13年7月1日より、東京図書館と改称し、7月8日より閲覧を開始している。このとき露伴14歳で東京中学を退学し、湯島の東京図書館に通い独学で勉強していたことが知られている。図書館では夜間開館と無料であった。明治17年8月に図書館は上野に移転し有料となる。19歳の露伴は明治18年には北海道余市に赴任することになる。つまり露伴の東京図書館利用は14歳から18歳までの湯島聖堂での東京図書館時代である。享年81歳。

    高木卓(1907-1974、小説家、東京大学卒業。ドイツ文学者)は、昭和15年に、歴史小説「歌と門の盾」で芥川賞に決定したが辞退している。芥川賞の長い歴史の中でも受賞辞退はめずらしい。実は高木卓は幸田露伴の甥にあたる。高木の本名は安藤熙(あんどうひろし)といい、二女の幸田幸子の子である。高木の幼い記憶と母の話では、露伴の父母の仲はよくなかったらしい。五男の幸田成友が書いた「幸田家は微禄ではあるが、瓦解前は世禄を食み、門構の屋敷に住していた」とあるが、まるで幸田家は武士の家柄のように見えるが「お坊主衆」であったが、幸田の兄弟は士族を誇る傾向があったといっている。母の猷のきびしい躾がすぐれた兄弟を育てたことは間違いなく、賢母の典型ではあるが、婿の成延にはやりきれない妻だったともある。そして成延と猷の別居は明治34年より前に始まったことは確実であり、夫婦としては不幸だったという意外な真実を語っている。(参考:高木卓「露伴の父母」現代文学大系3,筑摩書房)

    郡司成忠(ぐんじしげただ)は、海軍大尉を経て報效義会を結成、千島開拓に尽力したことで知られる。有志を募って千島列島の最北端にある占守島に上陸した。その一部を占領して、領有宣言をしたが、ロシアの捕虜となった。明治36年、郡司大尉の消息不明の知らせで、露伴は心配のあまり執筆に手がつけられず、読売新聞の連載小説「天うつ浪」を中断したほどである。なお甥の高木卓は「郡司成忠大尉」(昭和20年)を書いている。

    幸田成常(こうだしげつね)は、相模紡績会社社長となる。

    幸田成友は明治6年、神田末広町に生まれ、帝国大学史学科を卒業。慶応義塾大学、東京商科大学に奉職、同教授を歴任し、日本経済史、文化交渉史、日本キリスト教史、書誌学など内外の広汎な資料収集を行なった。成友は学生時代、寄宿舎で夏目漱石と同室だったという。昭和3年より約2年間のオランダ留学で精力的に収集した洋書には、キリシタン版に先立つ1590年、マカオで印刷されたサンデ「日本少年使節記」(:現天理図書館蔵)をはじめ、クラッセ「日本基督教史」、ツンベルグ「旅行記」などの多くの洋書貴重書をもたらしている。享年81歳。

   幸田延(こうだのぶ)は音楽取調所に学び、ピアニストとして名を馳せた。安藤幸(あんどうこう)は東京音楽学校卒業後、ヴァイオリニストとして活躍した。ともども「上野の西太后」とよばれた。ベートーベンの交響曲第九番は東京音楽学校での初演は大正13年11月29日のことであったが、安藤幸が早く弾きだし演奏はガタガタだったと作家の埴谷雄高は証言している。

   これら幸田家兄弟姉妹は皆それぞれに優秀であったが、やはり幸田家の誇りとするは、次兄の郡司成忠の千島拓殖への偉業であろう。これについては別項で述べる。

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コメント

はじめまして、舟川と申します。
私の曾祖父、郡司成忠に言及していただきありがたいのですが、成忠は「なりただ」ではなく、「しげただ」です。
ご面倒ですが、ご訂正いただければ幸いです。

高木卓はワーグナーの殆ど全ての作品(オペラ・楽劇・著作)を翻訳しており、ワーグナーの伝記も著している。LPレコードの解説まで含めると日本で最もワーグナーについて書いている人物。

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