武者小路実篤「友情」の成立背景
武者小路実篤(1885-1975)の中篇小説「友情」は、現在でも最もよく読まれている氏の代表作であるが、あまりにやさしいので物足らないと言う人がいる。しかし亀井勝一郎によると「決してやさしくはないのだ。実に多様な糸がはりめぐらされ、きめのこまかい神経のよくゆきとどいた作品であることがわかる。そして相当にしつこい。しかも全体として清楚で明るい。これが武者小路氏の独自の風格である。作柄は大きい。」と新潮文庫の解説(昭和22年)に書かれている。また宇野浩二が「本当の言文一致を見せてくれたのは武者小路実篤だ」と評しているように、80年以上前の作品でありながら、ほとんど現代文として読みやすい。また「友情」や「愛と死」がいつまでも新鮮で古さを感じさせないのは、青春の恋愛であることが大きな理由であろうが、三角関係、海外留学、難病という韓国ドラマ顔負けの設定と都会的モダニズムが見られることである。「新しき村」という原始回帰にかかわらず作品は都会的であるのは、本質的に実篤という人は農村に向かず、都会人、貴族的趣味の人なのであろう。
「友情」は大正8年10月16日より12月10日まで48回にわたり「大阪毎日新聞」に連載したものである。実篤は、前年の大正7年宮崎県児湯郡木城町石河内に「新しき村」を創設した。妻の武者小路房子(1892-1990)とともに日向新しき村に入村している。大阪毎日新聞は新しき村の精神を紹介していたので、実篤は苦手な新聞連載小説を引き受けたのであろうか。動機して考えられることとしては、尊敬する夏目漱石が新聞連載小説を執筆したことや、「それから」の影響があったのかも知れない。つまり実篤は日向の寒村で執筆し、大阪堂島の毎日新聞社へ郵送したのであろう。ところが、この大正7、8年から昭和の初期にかけての実篤の私生活は平穏なものではなかった。「友情」という作品そのものは、実篤の青年期から壮年期へ入る頃の、最も溌剌とした、力のあふれた時代の作品で、実篤の青春が一つの結晶をみたのであるが、大正10年頃に入村した飯河安子と恋愛関係となり、子どもまででき大正12年、結婚する。大正13年に実篤は村を去り、武者小路房子は村にそのまま残り、昭和7年、杉山正雄と正式に結婚し、生涯新しき村で暮らす。一方、実篤は東京で文筆活動に専念し、新子、妙子、辰子と三人の子供にもめぐまれたが、大阪毎日新聞の女性記者の真杉静江(1901-1955)との愛人関係も生まれる。「友情」の作品に見られる健全な理想主義と私生活での不貞と愛人問題の両面を抱えていた。しかしながら実篤の人生は有島武郎のように悲劇性はなく、あくまで向日性、楽天的であった。昭和期になって「トルストイ」「二宮尊徳」「井原西鶴」「楠木正成」と伝記を執筆する。昭和14年「愛と死」を「日本評論」に発表する。
「愛と死」のヒロイン夏子は逆立ちの得意なお嬢さんである。夏子の素直さ、快活さ、聡明さ、かわいさ、明るさ、すべて「友情」のヒロイン仲田杉子とによく似ている。杉子は16歳の女学生。鎌倉の別荘で大宮が杉子とピンポンをして、杉子を滅多打ちに負かす場面が印象的である。杉子の手紙に大正期の女権拡張者、平塚らいてう、伊藤野枝らを意識した新しき女性の思想に対抗する「男は仕事、女は産むこと」という考えを提示している。またタイトルの「友情」であるが、実篤は「主人公は恋である。しかし恋と云ふ言葉を使いたくないのとこの小説の色彩は友情によって染められているので友情とした」と書いている。メインテーマはもちろん恋である。実篤の「友情」という小説には「友情」という言葉はででこないが「恋」という言葉が何十回となくでてくる。とくに有名なセリフは次のものであろう。
ともかく恋は馬鹿にしないがいい。人間に恋と云ふ精神のものが与えられている以上、それを馬鹿にする権利は我々にない
この大宮の言葉は、のちに大宮と杉子との関係を暗示する伏線にもなるわけだが、実篤の数年後の私生活をも暗示しているようである。
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