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2007年4月24日 (火)

水産界の先駆者、伊藤一隆と内村鑑三

    ウィリアム・スミス・クラーク(1826-1886)は、明治9年8月札幌農学校初代教頭として赴任した。博士は、教育方針をアメリカのマサチューセッツ農科大学を規範とし、学問はもちろんキリスト教を基礎とする人格教育に重きをおいた。しかし、クラーク博士は8ヵ月あまりの滞在で、明治10年4月、札幌郡寒村島松で馬上一鞭あてて学生一同に向かって「ボーイズ・ビー・アムビシアス」(少年よ、大志を抱け)という有名な言葉を残して帰国した。

   クラーク博士から直接教えを受けた1期生には伊藤一隆(いとうかずたか、1859-1929、水産学)、佐藤昌介(さとうしょうすけ、1856-1939、農政、北大初代学長)、荒川重秀(あらかわしげひで、社会学、演劇家)、大島正健(おおしままさたけ、1859-1937、英文学、音韻学、農学校教師)、渡瀬寅次郎(わたせとらじろう、1859-1916、実業家)、黒岩四方之進(くろいわよものしん、黒岩涙香の兄)、2期生には内村鑑三(1861-1930)、新渡戸稲造(1862-1933)、宮部金吾(1860-1951)、広井勇(ひろいいさむ、1862-1928)、町村金弥(まちむらきんや、1859-1944、畜産家)などがいる。その後も高岡熊雄(たかおかくまお、1871-1961、農学)、松村松年(まつむらしょうねん、1872-1960、昆虫学)、有島武郎(1878-1923)、森本厚吉(もりもとこうきち、1877-1950、評論家)、半澤洵(はんざわじゅん、1879-1972、農学)など近代日本を代表する思想家、研究者、技術者、教育者を輩出させた。

   とくに内村鑑三は明治・大正・昭和の日本に大きな足跡を印し、消すことのできない影響を与えた。内村は群馬県高崎の出身で、少年時代より魚に興味を持ち、最初の職業も水産を調査報告することであった。論文「北海道鱈漁業の実況」「石狩川鮭魚減少の原因」や北海道祝津村の鮑の繁殖に関する調査を実施氏して「鮑魚蕃殖取調復命書」や「日本産魚類目録」などを残している。

   内村鑑三の先輩である伊藤一隆(いとうかずたか)も水産界で大きな功績を残した人物である。伊藤は旧姓を平野徳松といい、明治5年開拓使仮学校に入学した。明治13年札幌農学校の第1期生となり、卒業後は開拓使物産局に勤務する。以来ほぼ一貫して水産行政に携わる。魚の缶詰を作る技術指導のために来日したU.S.トリートから「鮭は人工孵化が可能で、アメリカでは実用化された技術だ」と教えられた。そして明治19年渡米し、メイン州バックスボードの孵化場で人工孵化技術を実地に学習した。そして明治21年、千歳川上流の烏柵舞(うさくまい)に日本最初の鮭鱒の人工孵化場「千歳鮭鱒孵化場」を設置した。インディアンが魚を捕獲する水車からヒントをえてインディアン水車と呼ばれている。

    伊藤一隆は、キリスト者としても明治15年に無教会主義の札幌独立教会を設立し、明治20年からは全国初の禁酒運動を指導して北海道禁酒会会長を務め、さらにイギリス宣教師バチェラーとともにアイヌ人保護にも尽力、明治27年の退官後は帝国水産会社や北大協会初代会頭としての活躍のなか新潟での石油開発も行なっている。また娘の松本恵子(1891-1976)はアガサ・クリスティーなどの推理小説や「あしながおじさん」「若草物語」などの翻訳家としてよく知られている。(参考:「20世紀日本人名事典」日外アソシエーツ)

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記述の下から5行目に「北大協会」となっておりますが、「北水協会」の間違いですので念のためお知らせします。

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