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2007年4月13日 (金)

中村孝也と楠木正成

    武者小路実篤(1885-1976)は、昭和17年に発表した「楠木正成」を書く前に、歴史学者の中村孝也(1885-1970)に会って教えを乞うている。中村孝也は戦後もポプラ社から「新日本歴史文庫」「新世界歴史文庫」を刊行しているが、それらの本は少年時代のケペルの愛読書だった。戦前の修身の教科書(昭和2年版)を実際に執筆した者の名前は記載されていないので本当のところよく分からないが、次の「忠孝」の執筆は中村孝也だといわれている。(執筆当時42歳)それは戦後の「新日本歴史文庫7」にもよく似た記述の箇所が見られるので、かなり信用できる話であると思う。「尋常小学修身書 巻6」の「第6課 忠孝」は、次のような内容である。

  北條氏が滅びて、後醍醐天皇は京都におかへりになりましたが、間もなく足利尊氏が反きました。楠木正成は諸将と共に尊氏を討って九州に追払ひましたが、その後、尊氏が九州から大軍を引きつれて京都に攻上って来るとの知らせがあったので、勅を奉じて、尊氏を防ぐために兵庫に赴きました。正成はこれを最後の戦と覚悟して、途中桜井の駅でその子正行に向ひ、「父が討死した後は、お前は父の志をついで、きっと君に忠義を尽く奉れ。それが第一の孝行である」とねんごろに言聞かせて、河内へ返しました。この時正行は十一歳でした。正成はそれから兵庫に行って遂に湊川で討死しました。家に帰っていた正行は、父が討死したと聞いて、悲しさの余り、そっと一間に入って自殺しようとしました。我が子の様子に気をつけていた母は、この有様を見て走りより、正行の腕をしっかとおさへて、「父上がお前をお返しになったのは、父上に代って朝敵を滅し、大御心を安め奉らせる為ではありませんか。その御遺言を母にも話して聞かせたのに、お前はもうそれを忘れましたか。そのやうなことで、どうして父上の志をついで、忠義を尽すことが出来ますか。」と涙を流して戒めました。正行は大そう母の言葉に感じ、それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守って、一日も忠義の心を失わず、遊戯にも賊を討つまねをしていました。正行は失はず、遊戯にも賊を討つまねをしていました。正行は大きくなって、後村上天皇にお仕え申し、たびたび賊軍を破りました。そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかわして正行を攻めさせました。正行は勝負を一戦で決しようと思ひ、弟正時をはじめ一族をひきつれて、吉野の皇居に赴き、天皇に拝謁して最後のお暇乞を申し上げました。天皇は正行を近く召され、親子二代の忠義をおほめになり、汝を深く頼みに思ふぞとの御言葉さへ賜はりました。正行はそれから四條畷に向ひ、僅かの兵で賊の大軍を引受けて花々しく戦ひましたが、此の日朝からのはげしい戦に、味方は大方討死し、正行兄弟も矢きずを多く受けたので、とうとう兄弟さしちがへて死にました。

  格言 忠臣ハ孝子ノ門ニ出ヅ。

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