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2007年4月29日 (日)

楊守敬と岡千仭

    明治13年、駐日大使・何如璋の招きで来日した楊守敬(1839-1915)は、日本に多くの貴重書が残っていることに驚いた。森立之(1807-1885)らの協力によってそれらをことごとく購入した。4年間にわたる日本滞在の成果は、のちに「日本訪書志」「留真譜」「古逸叢書」として公刊された。楊守敬の来日は日本の書道界にも、巌谷一六(1834-1905)、日下部鳴鶴(1838-1922)らの書家に大きな影響を与えた。しかしながら、漢籍の収集については、主に東京府書籍館(東京図書館)の職員がなんらかの関与をしていたと思われるが、詳しい実態は不明である。

    この明治13年という年は、東京府書籍館が再び文部省所管となり、明治13年7月に「東京図書館」と改称されている。岡千仭は明治12年ころは東京府書籍館幹事として漢籍に詳しい館長であった。楊守敬と岡千仭とが筆談をまじえて日中の漢籍の収集方法を話し合っていたと推測している。そして楊守敬は筆談で「図書館」の三文字を見た最初の中国人であり、岡の口から「ずしょかん」あるいは「トショグァン」という耳慣れない言葉を聴いた最初の中国人ではないだろうか。いまだ江戸の名残りのある明治初期の日本人には「図書・館」(ずしょ・かん)と読むのが一般的なのだが、おそらく中国人はこれを「トショグァン」と読むにちがいないだろう。やがて日本人にも図書館(としょかん)と言うほうがハイカラに感じるようになって学生の間で流行した。それでも図書館(ずしょかん)という呼び方は明治中期(明治30年)頃までは残った。

    岡千仭(おかせんじん、1833-1913)。天保4年(1833年)11月2日、仙台藩士・岡蔵治の五男として生まれる。幕末、明治の漢学者。初名は修、本名は岡啓輔。のち岡千仭と改名。字は振衣、子文、天爵。鹿門(ろくもん)と号した。天保4年、仙台で生まれ、7歳で藩校養賢堂で学び、舎長となる。20歳で江戸に出て、昌平黌に入門、佐藤一斎、安積艮斎に師事する。文久元年、双松岡塾を松林飯山(廉太郎)、松本奎堂らと開塾し、清河八郎、本間精一郎らと交際するも、討幕運動の嫌疑をかけられ、わずか半年で閉鎖する。慶応3年には郷里にもどり、奥羽列藩同盟に反対し、養賢堂の指南役となる。翌年、奥羽列藩同盟に反対し、戦争中も伊知地正治官軍参謀とも会い、終戦を画策、藩執行官の怒りに遭い、投獄される。終戦を獄中で迎え、福沢諭吉著「英国議事院談」を読み、仙台藩議事院局を開くよう建言して、明治3年、大学中助教を拝命して上京。太政官修史局協修、東京府書籍館幹事など漢籍の収集に当たる。これら官吏生活を経て、病気のため明治14年には退官し、私塾経営にあたる。そのころ「岡鹿門」の名前は天下に知られ、漢学塾である「綏猷堂」(すいゆうどう)は芝愛宕下の旧仙台藩邸にあり、全国から若き俊英が集まり、一時は三千人の子弟をかかえたといわれる。尾崎徳太郎(のちの尾崎紅葉、1867-1903)、北村門太郎(のちの北村透谷、1868-1894)、加藤拓川(1859-1923)、石井民司(のちの石井研堂、1865-1943)、片山潜(1859-1933)、福本日南(1857-1921)などその門を叩いている。大正3年2月18日、死去。

   考証学者の楊守敬と漢学者の岡がどのような談義をかわしたかは不明であるが、楊守敬は帰国の明治17年には膨大な書籍を携えていたといわれる。その蔵書の多くは北京図書館に収蔵されている。清末・明治初期の図書館交流史の一端を示すだけで、その全貌があきらかでない。今後の図書館史の大きなテーマとなりうる。「図書館」という和製漢語も、そのころ日本で一般化しだしたが、これまでの中国図書館史の定説では20世紀初頭で、中国で「図書館」の呼称が最初につけられた公共図書館は、湖南省立中山図書館であるといわれている。(近刊書に工藤一郎「中国の図書情報文化史」つげ書房新社)このことを公立図書館の開館年で調べてみる。(「中国歴代蔵書史」徐凌志主編、江西人民出版社より)

1904.8 湖北省図書館

1904   福建図書館

1905   湖南省図書館

1906   黒龍江図書館

1908   奉天図書館

1908   直隷図書館

1908   山西図書館

    湖南省立図書館1905年説は、ふるく矢島玄亮「概説支那図書館史」(大東文化6)、大佐三四五「図書館学の展開」、佐野捨一「世界図書館年表」など多くは、「光緒31年(1905年)湖南省立図書館設置」説で、中国の「図書館」の呼称のはじまりは、湖南に始まるとされている。ところが、近年の公刊された「中国歴代蔵書史」をみても、1904年湖北省立図書館説も依然として考えられてよい。ずいぶん昔のはなしではあるが、実際、書面で直接に湖北省立に問い合わせてみたところ、丁寧な返事をいただき「わが湖北省立図書館は中国第一の図書館です」という返書をいただいた。湖北が先か、湖南が先かはそれほど関心はなくなったが、いま重要に思うのは、40代前半の若き楊守敬が日本の図書館員と交流し、図書館事業や図書館思想を中国にもたらしたであろう一事である。おそらく4年の在日期間に和製漢語の「トショグァン」という発音にも馴染んで本国で伝えたことは想像に難くない。(中国では「ずしょかん」は普及していない)そうすると1904年(明治37)という公式な「図書館」よりも1884年(明治17年)に中国に知られたことになり、従来より、「図書館」という語そのものの伝来は20年ほど早まることになるのではないか。

近年、岡千仭の研究は明治期の日中交流史として注目されている。

宇野量介「鹿門岡千仭の生涯」

王暁秋「中日文化交流史話」日本エディタースクール出版部

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コメント

いくつか調べものをしていましたらここ2、3日の間にケペルさんのブログに2度もたどり着き、本来の課題も忘れて読みふけってしまいました。というわけで、私の日記に紹介させていただきました。(中途半端なかたちですみません。)
お知らせまで。

コメントありがとうございます。ケペルが東大のケーベル先生と並べられているなんて、恐縮デス。

岡 鹿門を知った時、すぐ思った事は、岡 鹿之助との関係でした。
もしかして鹿之助のご先祖でしょうか?

一般には漢詩人として知られる岡鹿門(おかろくもん)は仙台の人ですが、近代図書館史上ではほとんど語られることはありません。ところで洋画家の岡鹿之助の父は劇評論家の岡鬼太郎(1872-1943)ですが、祖父は佐賀藩士の岡喜智です。血縁関係はありませんが、もしかしたら鹿門と喜智の二人は面識はあるかも知れません。喜智は文久2年の遣欧使節で渡欧していますが、その仲間に福沢諭吉、市川清流がいます。市川は明治5年に書籍院建設の儀を建白しています。つまり、福沢の「ビブリオテーク」(西洋事情)、市川の「書籍院」、岡鹿門の「図書館」など近代図書館設立者の友達の輪に岡鹿之助の祖父である岡喜智がいます。明治31年に生まれた長男の命名に当時高名だった岡鹿門から「鹿」という一字を借用したのではないか、という推測もできます。

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