芥川龍之介の心中未遂
芥川龍之介は昭和2年の4月と5月、2度にわたって帝国ホテルで心中を企てている。相手の女性は、平松麻素子といい、妻である文(ふみ)の女学校時代からの友人である。2度とも麻素子の心変わりで事なきを得ている。「或阿呆の一生」には次のように書かれている。
彼女はかがやかしい顔をしていた。それは丁度朝日の光の薄氷にさしているようだった。彼は彼女に好意を持っていた。しかし恋愛は感じていなかった。のみならず彼女の体には指一つ触らずにいたのだった。
「死にたがっていらっしゃるのですってね」
「ええ。いえ、死にたがっているというよりも生きることに飽きているのです」
彼等はかう云う問答から一しょに死ぬことを約束した。
「プラトニック・スゥイサイドですね」
「ダブル・プラトニック・スゥイサイド」
彼は彼自身の落ち着いているのを不思議に思はずにはいられなかった。
彼は彼女とは死ななかった。唯未だに彼女の体に指一つ触っていないことは彼には何か満足だった。彼女は何ごともなかったように時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持っていた青酸加里を一瓶渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言ったりした。
それは実際彼の心を丈夫にしたのに違いなかった。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に与える平和を考えずにはいられなかった。
この平松麻素子という女性は、その後どうなったのか何もわからない。戦後まもなく死んだということだけである。
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