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2007年4月29日 (日)

楊守敬と岡千仭

    明治13年、駐日大使・何如璋の招きで来日した楊守敬(1839-1915)は、日本に多くの貴重書が残っていることに驚いた。森立之(1807-1885)らの協力によってそれらをことごとく購入した。4年間にわたる日本滞在の成果は、のちに「日本訪書志」「留真譜」「古逸叢書」として公刊された。楊守敬の来日は日本の書道界にも、巌谷一六(1834-1905)、日下部鳴鶴(1838-1922)らの書家に大きな影響を与えた。しかしながら、漢籍の収集については、主に東京府書籍館(東京図書館)の職員がなんらかの関与をしていたと思われるが、詳しい実態は不明である。

    この明治13年という年は、東京府書籍館が再び文部省所管となり、明治13年7月に「東京図書館」と改称されている。岡千仭は明治12年ころは東京府書籍館幹事として漢籍に詳しい館長であった。楊守敬と岡千仭とが筆談をまじえて日中の漢籍の収集方法を話し合っていたと推測している。そして楊守敬は筆談で「図書館」の三文字を見た最初の中国人であり、岡の口から「ずしょかん」あるいは「トショグァン」という耳慣れない言葉を聴いた最初の中国人ではないだろうか。いまだ江戸の名残りのある明治初期の日本人には「図書・館」(ずしょ・かん)と読むのが一般的なのだが、おそらく中国人はこれを「トショグァン」と読むにちがいないだろう。やがて日本人にも図書館(としょかん)と言うほうがハイカラに感じるようになって学生の間で流行した。それでも図書館(ずしょかん)という呼び方は明治中期(明治30年)頃までは残った。

    岡千仭(おかせんじん、1833-1913)。天保4年(1833年)11月2日、仙台藩士・岡蔵治の五男として生まれる。幕末、明治の漢学者。初名は修、本名は岡啓輔。のち岡千仭と改名。字は振衣、子文、天爵。鹿門(ろくもん)と号した。天保4年、仙台で生まれ、7歳で藩校養賢堂で学び、舎長となる。20歳で江戸に出て、昌平黌に入門、佐藤一斎、安積艮斎に師事する。文久元年、双松岡塾を松林飯山(廉太郎)、松本奎堂らと開塾し、清河八郎、本間精一郎らと交際するも、討幕運動の嫌疑をかけられ、わずか半年で閉鎖する。慶応3年には郷里にもどり、奥羽列藩同盟に反対し、養賢堂の指南役となる。翌年、奥羽列藩同盟に反対し、戦争中も伊知地正治官軍参謀とも会い、終戦を画策、藩執行官の怒りに遭い、投獄される。終戦を獄中で迎え、福沢諭吉著「英国議事院談」を読み、仙台藩議事院局を開くよう建言して、明治3年、大学中助教を拝命して上京。太政官修史局協修、東京府書籍館幹事など漢籍の収集に当たる。これら官吏生活を経て、病気のため明治14年には退官し、私塾経営にあたる。そのころ「岡鹿門」の名前は天下に知られ、漢学塾である「綏猷堂」(すいゆうどう)は芝愛宕下の旧仙台藩邸にあり、全国から若き俊英が集まり、一時は三千人の子弟をかかえたといわれる。尾崎徳太郎(のちの尾崎紅葉、1867-1903)、北村門太郎(のちの北村透谷、1868-1894)、加藤拓川(1859-1923)、石井民司(のちの石井研堂、1865-1943)、片山潜(1859-1933)、福本日南(1857-1921)などその門を叩いている。大正3年2月18日、死去。

   考証学者の楊守敬と漢学者の岡がどのような談義をかわしたかは不明であるが、楊守敬は帰国の明治17年には膨大な書籍を携えていたといわれる。その蔵書の多くは北京図書館に収蔵されている。清末・明治初期の図書館交流史の一端を示すだけで、その全貌があきらかでない。今後の図書館史の大きなテーマとなりうる。「図書館」という和製漢語も、そのころ日本で一般化しだしたが、これまでの中国図書館史の定説では20世紀初頭で、中国で「図書館」の呼称が最初につけられた公共図書館は、湖南省立中山図書館であるといわれている。(近刊書に工藤一郎「中国の図書情報文化史」つげ書房新社)このことを公立図書館の開館年で調べてみる。(「中国歴代蔵書史」徐凌志主編、江西人民出版社より)

1904.8 湖北省図書館

1904   福建図書館

1905   湖南省図書館

1906   黒龍江図書館

1908   奉天図書館

1908   直隷図書館

1908   山西図書館

    湖南省立図書館1905年説は、ふるく矢島玄亮「概説支那図書館史」(大東文化6)、大佐三四五「図書館学の展開」、佐野捨一「世界図書館年表」など多くは、「光緒31年(1905年)湖南省立図書館設置」説で、中国の「図書館」の呼称のはじまりは、湖南に始まるとされている。ところが、近年の公刊された「中国歴代蔵書史」をみても、1904年湖北省立図書館説も依然として考えられてよい。ずいぶん昔のはなしではあるが、実際、書面で直接に湖北省立に問い合わせてみたところ、丁寧な返事をいただき「わが湖北省立図書館は中国第一の図書館です」という返書をいただいた。湖北が先か、湖南が先かはそれほど関心はなくなったが、いま重要に思うのは、40代前半の若き楊守敬が日本の図書館員と交流し、図書館事業や図書館思想を中国にもたらしたであろう一事である。おそらく4年の在日期間に和製漢語の「トショグァン」という発音にも馴染んで本国で伝えたことは想像に難くない。(中国では「ずしょかん」は普及していない)そうすると1904年(明治37)という公式な「図書館」よりも1884年(明治17年)に中国に知られたことになり、従来より、「図書館」という語そのものの伝来は20年ほど早まることになるのではないか。

近年、岡千仭の研究は明治期の日中交流史として注目されている。

宇野量介「鹿門岡千仭の生涯」

王暁秋「中日文化交流史話」日本エディタースクール出版部

伊藤一隆と日本野球のはじまり

    事物の始まりに諸説はあるものの、日本での野球のはじまりは、一説によると、札幌農学校の一期生たちによるベースボール・ゲームであり、その開始時期は、東京にあった開拓使仮学校の時代、すでに野球が行なわれていたという。

    開拓使仮学校は明治5年4月15日開校された。場所は東京芝増上寺境内。英語教師アルバート・G・ベーツが、アメリカから持参してきた1本のバットと3個のボールで生徒たちに野球を教えた。生徒は伊藤徳松(のち伊藤一隆)、荒川重秀、安田長秋、小野琢魔、佐藤勇たち。とくに伊藤は長身で何事にも器用なので上手だったという。明治8年3月に開拓使仮学校は東京から札幌へ移転し、ベーツは札幌でも野球を生徒たちに教えていた。しかしベーツの急死により、野球はしなくなったようだ。

    中川翔子さんのブログで伊藤一隆の子孫であると知った。つまり、しょこたんのご先祖は日本人で始めて野球をした人なのである。それはさておき、伊藤一隆の実父の平野弥十郎も偉い人であることをご存知だろうか。(参考:大島正健「クラーク先生とその弟子たち」)

2007年4月28日 (土)

千島報效義会と郡司成忠

   郡司成忠(1860-1924)は明治26年、白瀬矗(1861-1946)らと報效義会を設立し、占守島・捨子古丹島及び幌筵島にそれぞれ隊員を上陸させ、越冬を試みたが、占守島以外は全員病死していた。7人全員は占守島での越冬に成功、開拓をはじめた。しかし日清戦争を目前にして海軍が成忠の水雷術の腕前を必要としたため、占守島を去らねばならなくなる。成忠は身を引き裂かれる思いで白瀬に後を託し、島を去った。白瀬らはさらに1年間の孤島生活は悲惨をきわめたが、明治28年8月、函館区長の命令で島を去る(第1次千島開拓)。

    明治29年9月6日、再度千島に向かう。占守島に上陸し、農業開拓、漁業開発に成功。日露戦争では義勇隊24人でカムチャッカへ進撃。成忠はヤヴィノ村に「この地を日本の領土と認める」という標柱を建立。その後、コサック兵に襲われ、14人の死者を出す。成忠は官警に捕われ、会員は命からがら遁走。別所佐吉ら14人は残留を主張し、56人は占守島を去る。

   中川倉吉という船員は若いときアメリカ捕鯨帆船に乗り込み鯨採りをしていた経験がある。帰朝後、報效義会の小帆船「竜睡丸」の船長となった。竜睡丸は、占守島と内地との連絡線として島人に食糧その他日用品を送っていた。明治32年龍睡丸が遭難し、ハワイの北の無人島に漂着したという。漂流者は中川倉吉、榊原作太郎、鈴木孝吉郎ら全員で16名。漂流の記録は、明治36年、大道寺兼吉「竜睡丸漂流記」(共昌社)が刊行されている。また昭和23年に中川倉吉船長からの話をもとにして須川邦彦が「無人島に生きる十六人」を刊行している。

   島の残った14人であるが、そのうちの一人別所佐吉(1863-1935)は別飛(べっとぶ)河畔の漁舎に住んでいた。最後の一人となった別所佐吉(73歳)は家族とともに住み続けた。昭和10年10月24日に佐吉は死んだが、別所二郎蔵(1907-1976)と妻の和子、夫二ら幼い子供4人で暮らしていた。昭和20年8月18日、ソ連軍が攻めてきたため占守島から脱出した。

   しかしこの千島開拓の先覚者たちの前に忘れてはならない偉人がいる。徳島の岡本監輔(おかもとかんすけ、1839-1904)である。明治の初め樺太全島を前後4回探検し、北門社を組織する。明治25年、千島を視察し、千島義会を設立して開拓を志して不成功であったが、彼の熱意は報效義会の結成へと結実した。

幸田露伴とその家族

    幸田露伴(1867-1947)は、慶応3年、江戸下谷三枚橋横町俗称新屋敷に幸田成延、猷(ゆう)の第四子として生まれる。名は成行(しげゆき)、通称鉄四郎。幸田成延は幕臣の奥お坊主衆今西家の出で、家付き娘である猷のところに入籍したのだが、ふたりとも詩歌管弦に明るく、学問にも造詣が深かった。両親の影響で幸田家男五人女二人の兄弟、このうち、三男は幼い頃に亡くなり、五男修造も東京音楽校在学中に夭折しているが、ほかは皆、英才ぞろいであった。

   長男の幸田成常は実業家、二男の郡司成忠は千島探検家、四男の幸田成行(しげゆき)は小説家、五男の幸田成友(こうだしげとも、1873-1954)は歴史家、長女の幸田延(ピアニスト、1870-1946)、二女の幸田幸(こうだこう、ヴァイオリニスト、1878-1963)は結婚して安藤幸。また幸田露伴の娘の幸田文(1904-1990)、孫は青木玉(作家)、ひ孫は青木奈緒(作家)である。

   幸田露伴は電気技師として北海道余市に赴任後、文学を志して帰京。尾崎紅葉と並び称されたが、その深い教養はいつどのように修得したのであろうか。府立中学、東京英語学校は中退している。父の幸田成延は明治になって一時大蔵省に勤務したといわれるが、明治20年ごろには神田末広町に「愛々堂(あいあいどう)」という紙屋を開いた。この屋号はキリスト教に凝ったためという。(成延は明治17年に下谷教会牧師・植村正久から受洗したことで、幸田家は露伴を除いて全員が受洗している)しかし事業は成功せず、家族は貧困状態にあった。少年時代の幸田露伴が最も熱心に通ったのは、そのころできた図書館であろう。明治5年8月に文部省の書籍館(湯島聖堂)として開館した、わが国唯一の国立図書館は、明治8年4月に東京書籍館と改称し、5月に開館した。明治13年7月1日より、東京図書館と改称し、7月8日より閲覧を開始している。このとき露伴14歳で東京中学を退学し、湯島の東京図書館に通い独学で勉強していたことが知られている。図書館では夜間開館と無料であった。明治17年8月に図書館は上野に移転し有料となる。19歳の露伴は明治18年には北海道余市に赴任することになる。つまり露伴の東京図書館利用は14歳から18歳までの湯島聖堂での東京図書館時代である。享年81歳。

    高木卓(1907-1974、小説家、東京大学卒業。ドイツ文学者)は、昭和15年に、歴史小説「歌と門の盾」で芥川賞に決定したが辞退している。芥川賞の長い歴史の中でも受賞辞退はめずらしい。実は高木卓は幸田露伴の甥にあたる。高木の本名は安藤熙(あんどうひろし)といい、二女の幸田幸子の子である。高木の幼い記憶と母の話では、露伴の父母の仲はよくなかったらしい。五男の幸田成友が書いた「幸田家は微禄ではあるが、瓦解前は世禄を食み、門構の屋敷に住していた」とあるが、まるで幸田家は武士の家柄のように見えるが「お坊主衆」であったが、幸田の兄弟は士族を誇る傾向があったといっている。母の猷のきびしい躾がすぐれた兄弟を育てたことは間違いなく、賢母の典型ではあるが、婿の成延にはやりきれない妻だったともある。そして成延と猷の別居は明治34年より前に始まったことは確実であり、夫婦としては不幸だったという意外な真実を語っている。(参考:高木卓「露伴の父母」現代文学大系3,筑摩書房)

    郡司成忠(ぐんじしげただ)は、海軍大尉を経て報效義会を結成、千島開拓に尽力したことで知られる。有志を募って千島列島の最北端にある占守島に上陸した。その一部を占領して、領有宣言をしたが、ロシアの捕虜となった。明治36年、郡司大尉の消息不明の知らせで、露伴は心配のあまり執筆に手がつけられず、読売新聞の連載小説「天うつ浪」を中断したほどである。なお甥の高木卓は「郡司成忠大尉」(昭和20年)を書いている。

    幸田成常(こうだしげつね)は、相模紡績会社社長となる。

    幸田成友は明治6年、神田末広町に生まれ、帝国大学史学科を卒業。慶応義塾大学、東京商科大学に奉職、同教授を歴任し、日本経済史、文化交渉史、日本キリスト教史、書誌学など内外の広汎な資料収集を行なった。成友は学生時代、寄宿舎で夏目漱石と同室だったという。昭和3年より約2年間のオランダ留学で精力的に収集した洋書には、キリシタン版に先立つ1590年、マカオで印刷されたサンデ「日本少年使節記」(:現天理図書館蔵)をはじめ、クラッセ「日本基督教史」、ツンベルグ「旅行記」などの多くの洋書貴重書をもたらしている。享年81歳。

   幸田延(こうだのぶ)は音楽取調所に学び、ピアニストとして名を馳せた。安藤幸(あんどうこう)は東京音楽学校卒業後、ヴァイオリニストとして活躍した。ともども「上野の西太后」とよばれた。ベートーベンの交響曲第九番は東京音楽学校での初演は大正13年11月29日のことであったが、安藤幸が早く弾きだし演奏はガタガタだったと作家の埴谷雄高は証言している。

   これら幸田家兄弟姉妹は皆それぞれに優秀であったが、やはり幸田家の誇りとするは、次兄の郡司成忠の千島拓殖への偉業であろう。これについては別項で述べる。

乃木少佐、連隊旗喪失事件

    乃木希典(1849-1912)は、明治9年、前原一誠の乱を鎮定、10年西南戦争には小倉駐屯の熊本鎮台歩兵第14連隊連隊長として熊本に進軍する。2月22日、南関・高瀬を経て向坂(熊本県植木町)で薩軍の村田三介が率いる五番大隊と遭遇する。近代的で優秀な火器を持つ乃木隊が一時優勢だったが、追いついた薩軍の伊東直ニの部隊と合流し、抜刀突撃を受けて敗れ木葉(玉名郡玉東町)に撤退した。向坂の戦いで、旗手の河原林雄太(かはらばやしゆうた)少尉の戦死により、連隊旗は薩軍に奪われた。一説によると、軍隊旗を奪ったのは伊東隊配下の下級指揮官・岩切正九郎が河原林少尉を斬り軍旗を奪い、五番隊の村田三介に渡したという。村田三介は3月12日、山鹿鍋田の戦闘で戦死している。分捕った軍旗はその後、薩軍の桂久武(1830-1878)が谷干城の立て籠もる熊本城に見せたのち、弓で降伏を勧める矢文を射たという。これが日本の戦争で弓が使用された最後だといわれる。

   この旗は桂の判断で、村田三介の夫人の村田佐和子に遺品とともに形見として贈られた。夫人は肌に巻きつけたり、ふとんの中に縫い込んだりして隠して所持していたが、それでも不安なので実家の庭の小さな屋敷神の壷の中に隠していた。

    この軍旗は、薩軍によって熊本城北面の花崗岩に翻され、城兵を嘲弄する種にされた。軍旗を失った乃木はひたすら奪還しようとするが、部下の諌められて取り戻すことができなかった。連隊旗喪失の待罪書を提出し処断を乞うたが許されず、その後、乃木は「死」を願ったという。明治10年9月24日には城山は陥落した。

   歩兵第14連隊に天皇の特旨をもって軍旗が再下賜されたのは、明治11年正月のことであった。その後、鹿児島警察の赤木良彦のもとに奪われた軍旗が村田三介の未亡人が所持しているという折田三之助からの有力情報を入手した。尋問したところ、はじめ佐和子は抵抗したが「子供を殺す」と脅かすと白状した。明治11年1月24日のことであった。村田佐和子のその後の詳しいことは福岡で暮らしたということ以外は判らない。密告者の折田三之助、警察の赤木良彦についてもその後の詳しいことは判らない。

2007年4月27日 (金)

蔵書家、林若樹

  書誌学の森銑三(1895-1985)は、林若樹(1875-1938)のことを三田村鳶魚(1870-1952)、三村清三郎(三村竹清、みむらちくせい1876-1950)と並ぶ江戸通と賞賛している。

   林若樹は、本名を若吉といい、明治8年1月16日、東京麹町四番町に生まれる。父の林研海は、明治15年パリで病没し、さらに母もまもなく死亡。病弱であった林若吉は、叔父の林董(はやしただす、1850-1913)に養育されたらしい。しかし学業は中学中退で、以後趣味人としての人生を歩む。

   彼が今日その名を知られるのは「若樹文庫」という蔵書印のある貴重な古典籍のためである。その収集は、鳶魚によれば「天下の愚書をもってゐなければ、蔵書家とは云へない」といったもので広範にわたったという。また、その大半を一通りは読了していたといわれ、三村竹清は「所謂の蔵書家と伍すべき人ではない、寧ろ、読書家といふ可きである」と記している。類稀な学識の持ち主であったようだが、残念ながら林若樹自らが書き残した文章は極めて少ない。死後、若樹文庫は古書で売買され散逸した。現在「若樹文庫収得書目」(青裳堂)が刊行されている。

乃木希典と玉木正誼

   明治の陸軍大臣・乃木希典(1849-1912)の父は乃木希次(1805-1877)という。希次は、はじめ、萩藩分家長府藩の江戸詰藩医だった乃木本家の娘秀子に婿入りした。長男源太郎が生まれた。その後秀子と離別して、同藩馬廻りに取り立てられた。弘化4年、土浦藩士長谷川金太夫の娘寿子と再婚する。寿子の最初の男子は半年で早世した。嘉永2年、源太郎が23歳で死去。その年、11月11日三男、希典(幼名、無人)が生まれる。ついで長女キネ、四男真人(のち正誼)、二女イネ、五男集作。

    希典より6歳下の実弟、乃木正誼(のぎまさよし、1855-1876)はのち玉木文之進(1810-1876)の養子となり、名も玉木正誼と改め、のち萩の前原一誠の参謀格となる。

    乃木希典は若い時代、吉田松陰の叔父にして師である玉木文之進の元に寄寓して薫陶をうけ、山鹿素行と吉田松陰に私淑している。乃木希典、26歳の明治7年、陸軍卿伝令使となる。明治8年には、熊本鎮台歩兵第14連隊心得となる。

   乃木希典のもとに実弟玉木正誼が前原一誠の密命を帯びて、訪ねてきたのは明治9年2月の下旬のことであった。弟は兄を涙ながらに説得しようしたが、乃木はこれを拒否した。

    去年よりも今年の秋はものうけれ

    またくる年はいやきさるらむ

 この頃の乃木の歌である。こうして9月中旬に乃木は正誼に義絶を申し渡している。

   明治9年10月28日、前原一誠(1834-1876)を指導者とする殉国軍が萩の明倫館を拠点として挙兵した。玉木正誼は10月31日に戦死した。正誼の養父で乃木の恩師である玉木文之進は11月6日、祖父の墓前において自刃した。12月3日、前原一誠、奥平謙輔は斬首された。

札幌バンドの末裔たち

    クラーク博士が帰国する前に「イエスを信ずる者の契約」をつくり、決心者に署名を求めた。大島正健(1859-1938)、伊藤一隆(1859-1929)、佐藤昌介(1856-1939)ら一期生全員がこれに応じた。大島、伊藤らは二期生の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らに猛烈な伝道攻撃をかけ、入信に導く。彼らは「札幌バンド」と呼ばれ、北海道開拓のみならず、その後の日本の発展に大きな影響を与えた。

   とくに大島正健と伊藤一隆の友情は深い。因みに伊藤をジョンK、大島をミッショナリーモンク(耶蘇坊主)、内村をヨナタンと呼ぶ仲である。大島の夫人は伊藤の妹、千代である。また大島正健の次女の麗子は天文研究家の野尻抱影(1885-1977)の妻である。野尻抱影の弟は「鞍馬天狗」の作者である大佛次郎(1897-1973)。

    伊藤一隆の次女、伊藤恵子は大正5年青山女学院英文専門科を卒業後、英国へ留学。同地で松本泰と結婚。帰国後、大正10年に東京の東中野に文化住宅を10軒以上建てたが、松本恵子が大佛次郎の縁戚であることもあり、文士が集まるサロンのようになった。住人に長谷川海太郎(牧逸馬、谷譲次、林不忘)や小林秀雄、田河水泡らがいる。そこは、「谷戸の文化村」と呼ばれた。

   また松本泰は大正12年に奎運社を興し、「秘密探偵雑誌」を創刊、つづいて「探偵文芸」を発行した。松本恵子の父、伊藤一隆も長篇の翻訳で参加し、資金的援助もしている。

   小林秀雄は昭和3年、中原中也の恋人の長谷川泰子との同棲生活が行き詰まり、家を出奔して、奈良の志賀直哉に会いにいった。昭和4年、奈良から帰ると、東京にいる妹の小林富士子のところに住み込む。ここで「改造」の懸賞論文に「様々なる意匠」を応募し、宮本顕治の「敗北の文学」と争い、二席になる。妹の小林富士子(1904-2004)は、松本泰・恵子の媒酌により、田河水泡(1899-1989)夫人となる。小林富士子は筆名を高見沢潤子として作家となる。

   また、大島正健の山梨県立甲府中学校長在職時代に、石橋湛山(1884-1973)が入学している。石橋は後年大島の著書「クラーク先生とその弟子たち」という本の序に「個人主義の精髄 クラーク先生と大島正健先生」を寄稿している。

2007年4月25日 (水)

クラーク精神の実践者、黒岩四方之進

   札幌農学校一期生、黒岩四方之進(くろいわよものしん)は高知県安芸市出身。黒岩涙香の兄。

    明治10年1月30日、クラーク博士と生徒、総勢14人は、雪の手稲山登山をした。目的は地衣類の珍種の採集と身体鍛錬であった。珍種の地衣を見つけたが、手の届かぬところにあった。そこでクラーク博士は級中で一番背の高い黒岩四方之進をさし、自ら雪の上に四つんばいになって背の上に乗ってあの地衣を取れと命ぜられた。「三尺去って師の影を踏まず」と教えられていた黒岩は困り果てたが、先生は早く乗れとせき立てる。余儀なく彼は土足のまま先生の背の上に上がり、地衣を手に入れた。この珍種は和名で「クラークごけ」と名づけられた。

  土足で恩師の背に乗った黒岩四方之進は、クラーク先生の寛容な心に胸打たれ、「イエスを信ずる者の誓約」には一番に進み出て署名したといわれている。札幌農学校卒業後、新冠御料牧場長として畜産界に貢献したが、退官後は日高国直別に一大農場を経営して村人から直別の聖人とあがめられた。クラークの弟子からは高位高官になる者も多いが、黒岩四方之進のような生き方こそクラーク精神の真の実践者であろう。

   また彼の逸話の一つに、内村鑑三が「万朝報」に入社したのは黒岩四方之進の懇願によるものといわれている。

2007年4月24日 (火)

水産界の先駆者、伊藤一隆と内村鑑三

    ウィリアム・スミス・クラーク(1826-1886)は、明治9年8月札幌農学校初代教頭として赴任した。博士は、教育方針をアメリカのマサチューセッツ農科大学を規範とし、学問はもちろんキリスト教を基礎とする人格教育に重きをおいた。しかし、クラーク博士は8ヵ月あまりの滞在で、明治10年4月、札幌郡寒村島松で馬上一鞭あてて学生一同に向かって「ボーイズ・ビー・アムビシアス」(少年よ、大志を抱け)という有名な言葉を残して帰国した。

   クラーク博士から直接教えを受けた1期生には伊藤一隆(いとうかずたか、1859-1929、水産学)、佐藤昌介(さとうしょうすけ、1856-1939、農政、北大初代学長)、荒川重秀(あらかわしげひで、社会学、演劇家)、大島正健(おおしままさたけ、1859-1937、英文学、音韻学、農学校教師)、渡瀬寅次郎(わたせとらじろう、1859-1916、実業家)、黒岩四方之進(くろいわよものしん、黒岩涙香の兄)、2期生には内村鑑三(1861-1930)、新渡戸稲造(1862-1933)、宮部金吾(1860-1951)、広井勇(ひろいいさむ、1862-1928)、町村金弥(まちむらきんや、1859-1944、畜産家)などがいる。その後も高岡熊雄(たかおかくまお、1871-1961、農学)、松村松年(まつむらしょうねん、1872-1960、昆虫学)、有島武郎(1878-1923)、森本厚吉(もりもとこうきち、1877-1950、評論家)、半澤洵(はんざわじゅん、1879-1972、農学)など近代日本を代表する思想家、研究者、技術者、教育者を輩出させた。

   とくに内村鑑三は明治・大正・昭和の日本に大きな足跡を印し、消すことのできない影響を与えた。内村は群馬県高崎の出身で、少年時代より魚に興味を持ち、最初の職業も水産を調査報告することであった。論文「北海道鱈漁業の実況」「石狩川鮭魚減少の原因」や北海道祝津村の鮑の繁殖に関する調査を実施氏して「鮑魚蕃殖取調復命書」や「日本産魚類目録」などを残している。

   内村鑑三の先輩である伊藤一隆(いとうかずたか)も水産界で大きな功績を残した人物である。伊藤は旧姓を平野徳松といい、明治5年開拓使仮学校に入学した。明治13年札幌農学校の第1期生となり、卒業後は開拓使物産局に勤務する。以来ほぼ一貫して水産行政に携わる。魚の缶詰を作る技術指導のために来日したU.S.トリートから「鮭は人工孵化が可能で、アメリカでは実用化された技術だ」と教えられた。そして明治19年渡米し、メイン州バックスボードの孵化場で人工孵化技術を実地に学習した。そして明治21年、千歳川上流の烏柵舞(うさくまい)に日本最初の鮭鱒の人工孵化場「千歳鮭鱒孵化場」を設置した。インディアンが魚を捕獲する水車からヒントをえてインディアン水車と呼ばれている。

    伊藤一隆は、キリスト者としても明治15年に無教会主義の札幌独立教会を設立し、明治20年からは全国初の禁酒運動を指導して北海道禁酒会会長を務め、さらにイギリス宣教師バチェラーとともにアイヌ人保護にも尽力、明治27年の退官後は帝国水産会社や北大協会初代会頭としての活躍のなか新潟での石油開発も行なっている。また娘の松本恵子(1891-1976)はアガサ・クリスティーなどの推理小説や「あしながおじさん」「若草物語」などの翻訳家としてよく知られている。(参考:「20世紀日本人名事典」日外アソシエーツ)

2007年4月23日 (月)

パラダイン夫人の恋

    映画「パラダイン夫人の恋」(1947年、日本公開1953年)はヒッチコック作品のうちでは失敗作といわれている。「レベッカ」「白い恐怖」に続くデビット・O・セルズニック制作映画であり、制作にあたってはセルズニックの干渉が強かったと思われる。キャスティングもヒッチコックの思いのままにはならなかったのだろう。それほどセルズニックは個性の強い製作者であった。

   ハリウッドのプロデューサーのデビッド・O・セルズニック(1902-1965)は、無名女優を発掘して、大女優にする名人である。ヴィヴィアン・リー、ジョン・フォンティーン、イングリッド・バーグマン、ジェニファー・ジョーンズ、アリダ・ヴァリなど。バーグマンのスウェーデン映画「間奏曲」を見て、バーグマンと専属契約を結んだ。「間奏曲」のリメイク作「別離」(1939年)でレスリー・ハワードの相手役に抜擢し華々しいハリウッド・デビューをした。ヒッチコック監督「白い恐怖」(1945年)ではグレゴリー・ぺックと共演した。しかしハリウッドにあきたらないものを感じていたバーグマンは再契約を希望するセルズニックを断わり、1947年米国を去った。

   セルズニックは第2のバーグマンを探した。アリダ・ヴァリ(1921-2006)だった。14歳でイタリアで20本もの作品に出演したが、プロパガンダ映画への抵抗から本国での映画出演が困難だった。戦後、セルズニックと専属契約し、ヒッチコックの「パラダイン夫人の恋」(1947年)で売り出そうと画策した。セルズニック自らが脚本を担当した。相手役はグレゴリー・ぺック。ところがこの作品は興行的にも成功とは言えなかった。ヴァリはイタリア訛りが強いことも原因の一つといわれる。むしろこの映画で魅力的だったのは弁護士の妻のゲイ・キーン役のアン・トッド(1909-1993)だった。戦後のイギリス映画が最初に送り出したスター女優で、ハリウッド女優にはない知性と美貌が輝いていた。アリダ・ヴァリも翌年、キャロル・リード監督「第三の男」ではヒロインのアンナ役を演じ、国際的女優となった。セルズニックの作品にはダフネ・デュ・モーリアの「レベッカ」やグレアム・グリーンの「第三の男」と原作探しにも定評があるが、「パラダイン夫人の恋」もロバート・ヒッチェンズという小説家の原作である。ヒッチェンズの小説の映画化は、マレーネ・デートリッヒ主演の「砂漠の花園」(1936年)でセルズニックは一度成功している。今回、パラダイン夫人役には、引退していたグレタ・ガルボの起用を計画したが失敗した。パラダイン夫人の美しさに心を奪われる弁護士キーンには、グレゴリー・ぺックではなく、ローレンス・オリビエかロナルド・コールマンを起用したいところだった。若いぺックがパイプを加えて実年齢よりふけを演じているが、イギリスの弁護士の雰囲気をだすには無理があった。召使のアンドレ役のルイ・ジュールダンは美男すぎて野卑な感じが出せなかった。判事のチャールズ・ロートンがアン・トッドに欲望を感じており、アンが夫をパラダイン夫人に奪われるとの不安が法廷劇とは別に存在していた。盲目の夫の殺人事件という謎解きよりもスターの心理描写を味わう作品であろう。

風林火山、虚構と史実

   NHK大河ドラマ「風林火山」は、歴史ドラマの醍醐味を存分に見せてくれる。原作は井上靖(1907-1991)が「小説新潮」に昭和28年10月から29年12月まで15回にわたり連載した中編小説である。同じ年には井上靖の代表作ともいえる「あすなろ物語」を「オール読物」(昭和28年1月から6月)に連載している。

  井上靖(1907-1991)は北海道上川郡旭川町で生まれ、伊豆湯ヶ島で幼年時代を、沼津で中学時代を、金沢で四高時代を、大阪で新聞記者として過ごしてきた。「あすなろ物語」「しろばんば」などの自伝的物語と「風林火山」「信松尼記」(昭和29年群像3月号)などの歴史小説と異なるジャンルを並行して書き上げる多作の作家だった。なぜ井上靖は実在性を疑問視される山本勘助を小説にしたのだろうか。単行本の帯には次のように書かれている。

   戦国時代には合戦に当って、作戦を指導し、秘策を練るというものがあった。彼自身は一軍の大将でもなければ、英雄でも豪傑でもない。併し合戦の勝敗は、この匿れた孤独の作戦者に負うところが極めて多かったようである。「風林火山」の主人公は、武田信玄の軍師山本勘助である。山本勘助が史上実在の人物であったかどうかは甚だ疑わしいが、それをふと一人の軍師の自己韜晦として想像した時、筆者は堪らなく勘助を、そのような人物を書いてみたいと思った。

   同じ新聞記者出身の作家である司馬遼太郎と比較すると、司馬は歴史の史観を重要視するのに対して、井上は歴史スペクタルとしての歴史読物的な要素に関心があるように思える。

   NHK大河ドラマ「風林火山」は、これまで大森寿美男のオリジナルストーリーの部分であったが、ようやく井上靖の原作の部分が放送されるようになった。

    天文11年6月、武田晴信は、諏訪に侵攻、桑原城を急襲した。諏訪頼重は桑原城を開城、降伏した。晴信は頼重を甲府に連行すると、切腹を命じた。頼重の息女で15歳の諏訪姫(小説・ドラマでは由布姫)は美貌の少女だった。晴信は姫を側室にした。武田の重臣たちは、いかに女人といえ、敵の片割れをお側に召すことはよろしからずと反対したが、山本勘助だけが、もし諏訪姫に男児ができれば、諏訪の遺臣や一族も、滅びた家名がつながるとして、賛成し、勘助の助言により姫を側室に迎えることができたという。

   第16回「運命の出会い」の場面の原作小説の一節。姫は辱めをうける前に自害を、という周囲の説得を拒否した。

   勘助はそれまで呆然と姫の方に見惚れていたが、いきなり立ち上がると、姫の腕を掴み、「なぜ、自刃するのがお厭です」と言った。勘助の手を振り解こうとしながら、頼重の女は下から勘助の顔を見上げた。その時は、いつか見たあの敵意ある眼眸だった。「みんな死んで行く。せめてわたし一人は生きていたい」姫は言った。その言葉は勘助が今までに耳にしたことのないきらきらした異様な美しさを持ったものであった。武家の女なら誰も口に出すのを憚る言葉だったが、心を直接打って来る何かがあった。「わたしまでが死んでどうなるの。わたしは生きて、この城や諏訪の湖がどうなって行くか、自分の眼で見たい。死ぬのは厭。どんなに辛くても生きているの。自分で死ぬなんて厭!」憑かれているように、言葉が姫の口から飛び出した。

   山本勘助。三河国牛窪の生まれといわれ、川中島合戦に討死した(1561年)と「甲陽軍鑑」に伝えられるが、その実在性には疑問があった。小幡景憲の「甲陽軍鑑」が江戸時代に編集された偽書・虚構としてみられてきたからである。ところが1969年に、勘助の名が書かれた史料「市河(市川)文書」が発見された。1557年(弘治3年)6月23日市河藤若宛武田晴信書状に、市河藤若への使者の山本菅助がみえる。実在の人物を小幡景憲が甲州流軍学の始祖に仮託したものかも知れない。また「甲陽軍鑑」は、戦国時代特有の表現が使われ、正確に写し留めている部分も認められ、偽書説を否定する意見もでてきている。このように「風林火山」をめぐる問題は、ドラマと小説との虚構性だけではなく、史料と史実との食い違いがあるからといって、すべてを否定するのではなく、再検証して、史料としての可能性を探る動きが歴史界にもでてきた。山本勘助とはそのような象徴的な人物であり、その人物に焦点をあてた井上靖の先見性を評価すべきであろう。

   「風林火山の旗」は、「孫子の旗」「四如の旗」ともいい、武田晴信が孫子の兵法書に通じていたことから、「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」から抜粋したもの(孫子四如の略語)であることは広く知られている。「甲陽軍鑑」には「黒地に金をもってこの四つの語を書きたり、旗は四方なり」とある。現在、恵林寺や雲峰寺に所蔵している「四如の旗」は江戸時代のもので、「甲陽軍鑑」に記載されたデザインとは大きく異なる。ともかく16文字(四字四連句)「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」と14文字(七字二連句)「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と二種のデザインが見られる。16文字と14文字の2文字の違いは、一行目と二行目に「其」の字を入れ、全体を整えたものである。ところで「風林火山」の句の孫子の真意であるが、軍争篇(陣取り合戦)にあることから、軍事行動のカムフラージュ作戦をのべたものであるらしい。ドラマで山本勘助は「戦わずして勝つ」という軍略を述べていたが、「戦いに勝つには相手の裏をかき、自分の有利な条件になるよう臨機応変に物事を良く見計らった上で行動する」という意味にとらえ、調略の重要性を唱えており、屈強な武田の騎馬軍団の軍事行動と大きくことなる点も興味深い。

2007年4月22日 (日)

無礼講のはじまり

    無礼講とは、貴賎や身分の上下の差別をせず、礼儀を捨てて行なう酒宴のことをいう。この語は古く、「その心をうかがい見むために、無礼講という事を始められける」と「太平記」に書かれている。

   後醍醐天皇(1288-1339)は、無礼講と呼ばれる大宴会を連日開き、宴会にかこつけて日野俊基、日野資基、花山院師賢、四条隆資、武士の土岐頼貞、多治見国長らと語らい、討幕の計画を練った。「献杯のしだい、上下をとわず、男は烏帽子を脱いで、もとどりを放ち、法師は衣を着ずして白衣となり、年十七、八歳ばかりの、みめ形すこぶる美しく、肌のきれいな女たちが二十余人、絹のひとえを素肌につけ、雪白の肌はすけて、さながら蓮華が水中から出てきたよう、遊び、たわむれ、舞い、歌う」という盛大な無礼講であった。この乱痴気さわぎのかげで、幕府を滅ぼす計画で持ちきりだあった。ところが、直前になって土岐頼員(ときよりかず)が寝物語に抱き寄せた愛妻の口から六波羅探題に事情が密告されてしまう。日野俊基、日野資基は捕縛、土岐頼貞、多治見国長は斬罪に処せられる。これを「正中の変」(1324年)という。

君よ知るや南の国

   「君よ知るや南の国、樹々は実り花は咲ける」という堀内啓三(1897-1983)による名訳で知られる「ミニヨンの歌」は、もともとゲーテの小説「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」(1791-1796)の中の詩である。「ミニヨンの歌」は4編あるが、よく知られるのはヴィルへルムへの密かな恋心を抱くサーカス一座の少女ミニヨンが、故郷イタリアへの想いをうたう歌で、フランス人のアンブロワーズ・トーマの歌劇「ミニヨン」の中のアリアである。歌曲「ミニヨンの歌」はこれまで90曲ほどの作品が残されている。おもな作曲家としては、ライヒヤルト(1752-1814)、ツェルター(1758-1832)、ベートーベン(1770-1827)、シューベルト(1797-1828)、メンデルスゾーン(1805-1847)、シューマン(1810-1856)、リスト(1811-1886)、グノー(1818-1893)、ルービンシュタイン(1829-1894)、チャイコフスキー(1840-1893)、デュバルク(1848-1933)、ヴォルフ(1860-1903)などがいる。

  またゲーテの詩「ミニヨンの歌」の邦訳も森鴎外はじめ数多く残されている。

君知るや南の国

レモンの木は花咲き くらき林の中に

こがね色したる柑子は枝もたわわに実り

青き晴れたる空より しづやかに風吹き

ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く

雲にそびえて立てる国や 彼方へ

君とともに ゆかまし

            (森鴎外の訳)

              *

君や知る、レモン花咲く国

暗き葉かげに黄金(こがね)のオレンジの輝き

なごやかなる風、青空より吹き

テンニン花は静かに、月桂樹は高くそびゆ

君や知る、かしこ。

かなたへ、かなたへ

君と共に行かまし、あわれ、わがいとしき人よ。

君や知る、かの家。柱ならびに屋根高く、

広間は輝き、居間はほの明かるく、

大理石像はわが面を見つむ、

かなしき子よ、いかなるつらきことのあるや、と。

君や知る、かしこ。

  かなたへ、かなたへ

君と共に行かまし、あわれ、わが頼りの君よ。

君や知る、かの山と雲のかけ橋を。

ラバは霧の中に道を求め、

洞穴に住むや古籠の群。

岩は崩れ、滝水に洗わる。

君や知る、かしこ。

  かなたへ!かなたへ

わが道は行く。あはれ、父上よ、共に行かまし!

               (高橋健二の訳)

                       *

君よ知るや南の国

レモンの花咲き オレンジのみのる国

空は青く 風はさわやか

桂(かつら)はそびえ ミルテかおる

君よ知るや かの国

はるかに はるかに

恋人よ 君といこうよ

君よ知るや 南の国

そこにある わがすみか

広間あかるく 花の香みちる

「おまえは しあわせ?」

やさしく といかける ふるい胸像

はるかに はるかに

恋人よ 君といこうよ

       (三木澄子の訳)

           *

       ミニヨン

あこがれを知るひとだけが、

私の悩みを知っている。

すべての喜びから

ひとり離れて、かなたの

大空を私は眺める。

ああ、私を愛し、知っているひとは、

遠い所にいる。

目はくらみ

私の心は燃える。

あこがれを知るひとだけが、

私の悩みを知っている。

ゲーテとベートーベン

    ゲーテ(1749-1832)はベートーベン(1770-1827)やシューベルト(1797-1828)が作曲した歌曲を聴いて「まるで自分の子供が他人の衣装を着せられたのを見るようだ」と言っている。ベートーベンはゲーテの詩に「五月の歌」をはじめ数曲の作品を残している。ベートーベンはなかなかの読書家であり、死後、彼の部屋には約300冊の本があり、文学、哲学、宗教が中心であった。その中には、シェークスピア、カント、そしてゲーテの本もあった。

    ゲーテはベートーベンのことを「その才能には驚くほかないが、残念なことに傍若無人な人柄だ」と話している。ゲーテとベートーベンとは1812年に出会っている。63歳のゲーテが41歳のベートーベンを訪ねてきた。場所は保養地テブリチェの森。二人は散歩しながら、会話していたが、この頃すでに耳疾のきざしをみせていたベートーベンは大声で話していたようだ。そのとき、向こうからハプスブルグ家のルドルフ大公の一行と遭遇した。ゲーテは、脱帽して、恭しく一行の通り過ぎるのを待ったが、ベートーベンは貴族たちを無視した。ケーテはベートーベンの非礼を咎めると、彼は肩をすくめて「皇太子は世界に何人もいるが、ベートーベンはただ一人だ」といった。ゲーテはこの言葉にあきれて、以来、絶交したといわれる。

    ベートーベンが亡くなると、その演奏の困難性などの理由からベートーベンは早くも忘れられた存在になりつつあった。ところが12歳のフェーリクス・メンデルスゾーン(1809-1847)が師匠のカール・フリードリヒ・ツェルター(1758-1832)の紹介でワイマールのゲーテ邸に2週間ほど滞在することがあった。72歳のゲーテは12歳の少年メンデルスゾーンの才能を気に入り二人の交流がはじまった。メンデルスゾーンもゲーテを尊敬し、ゲーテの詩から序曲「最初のワルプルギスの夜」を作曲している。またメンデルスゾーンはベートーベンの作品もこよなく愛してしたので、老ゲーテにベートーベンの曲をきくことを奨めた。メンデルスゾーンはゲーテがベートーベンを誤解したまま、この世を去るとしたら、とても不幸なことだとおもったのだろうか。彼はピアノでベートーベンの「運命」をひき始めた。この世ではついに理解しあうことの無かったゲーテとベートーベン、偉大な芸術家のためにメンデルスゾーンは心をこめて弾いた。ゲーテは耳を傾けていたが、そのうち彼の目は、じーっと部屋の一点をみつめたままになった。「ゲーテにも、とうとうベートーベンの良さがわかったのかな」とメンデルスゾーンは思ったが、彼が弾き終わって立ちあがったとき、開口一番はこうだった。

「ぶったまげた曲だ。じつにぶったまげた曲だ。なんてひどいんだ。いまにも家が崩れ、屋根が落ちてきそうな曲だ。もし、これをオーケストラで演奏していたら、いったいどんなことになったろう」

   食事のときも、ゲーテは盛んにそのことを思い出してため息をついたが、最後まで彼の口からは、ベートーベンへのほめ言葉は聞かれなかった。

   これまでゲーテとベートーベンの二人の関係は、このようなエピソードで示されるように不仲説が伝えられていたが、近年の研究では、二人はその芸術性を理解していたとする新見解もでているようである。

(参考:桐生操「あぶない世界史3」福武文庫)

2007年4月20日 (金)

水虫に悩んだ?、英雄ナポレオン

    「肖像画のナポレオンが胸に手を入れているのは、実は水虫(体部白癬)のため」というのは笑話であるが、新感覚派の小説家・横光利一(1898-1947)に「ナポレオンと田虫」という作品がある。

    1809年、ナポレオンは、世継ぎをえるためと、政略のためジョゼフィーヌ(1763-1814)と離別し、翌年、ハプスブルク家のマリールイーズ(1791-1847)と結婚した。ナポレオンはこの腹にできた醜い田虫のことを美しい新妻に知られたくなかった。にもかかわらず、ある暑い晩に、いつもの田虫のかゆさが絶頂に達した時に起こる発作が起きたことから、それを知られてしまった。そこでナポレオンはその名誉回復のため、1812年夏、無謀なロシア遠征を企てた。容易に征服し得ない田虫に対する怒りにかきたてられていたナポレオンの征服意欲が、皇女への見栄や恥とからんで、筋ちがいの、しかも強引すぎた征服的行動となった。ナポレオンほどの英雄でも、腹の上にはびこる田虫を征服しきれず、かえってこれにあやつられてしまったみじめな傀儡に過ぎないというのが、小説のテーマであった。(大正15年1月「文芸時代」に発表した「ナポレオンと田虫」)

2007年4月19日 (木)

逃亡者O・ヘンリー

   O・ヘンリーの筆名によって知られているウィリアム・シドニー・ポーター(1862-1910)は、1862年9月11日、ノース・カロライナ州グリーンスボロに生まれた。父親のアルジャナン・シドニー・ポーターは地方の名医だった。きわめで親切な人がらで、貧しい患者のめんどうなどをよくみていたが、1888年に死んだ。母親のメリー・ジェーン・ヴァージニアは裕福な家庭の娘で、グリーンスボロ女子大学を優等の成績で卒業し、25歳でポーター医師と結婚、30歳で肺病のため死去した。この母親の病気は、オー・ヘンリーにとって生涯の不安のたねだったといわれている。

    オー・ヘンリーは非常な読書好きで、少年期にすでにヨーロッパの大作家や古典を多読していたという。しかし、小学校を出るとすぐ伯父の経営する薬局ではたらき、数年後には薬剤師の資格をとって家計をたすけた。18歳のとき、知人を頼ってテキサス州へ行き、そこの牧場で3年ほどはたらいた。それからテキサス州の首都オースティン市へ行って、薬局、土地会社などに勤め、1887年には州の土地局の役人になり、同年アソル・エステス(1868-1897)と結婚した。このころから、短いエッセーや感想を綴っては、さかんに新聞に投稿しはじめた。1891年、土地局をやめてオースティン第一銀行に就職し、1894年に辞職したが、辞職後まもなく公金費消のかどで銀行から告訴された。当時彼は「ローリング・ストーン」という小新聞を経営していたが、裁判所から出頭命令をうけると、そのまま妻をおき去りにしてニュー・オーリンズに逃げ、そこからさらに中央アメリカに渡り、約2年間、中南米の各地を放浪してあるいた。1898年、妻が危篤との知らせをうけて大急ぎでオースティン市にもどり、妻の死とともに自首して刑に服した。刑期を終えて出獄したのは1901年であるが、獄中での彼は、獄内の薬局ではたらきながら、短編小説を書いていたという。出獄後の1年あまりは、娘のマーガレット(1889-1927)とともにピッツバーグに住んで、ようやく売れはじめた短編小説の執筆に専念した。翌年、ニューヨークに出た。ワールド紙日曜版の編集長ボブ・デーヴィスに認められ、やがてデーヴィスがマンシー誌に転じると、マンシー誌とのあいだに5年間の執筆契約を結んだ。ヘンリーは1907年、幼なじみのサラ・コールマン(1868-1959)と再婚する。その頃には酒浸りがたたって肝臓をやられていた。翌年に別居。こうして、400余編の作品をのこして、1910年6月5日、死去した。

2007年4月18日 (水)

藤村の失恋と漂白の旅

   明治29年9月、25歳の島崎藤村は長く住みなれた東京を離れ、仙台の東北学院の英語教師になった。それは失恋、生家の没落、北村透谷の自殺など次々におとずれた不幸による孤独の道に徹するための旅であった。とくに初恋の人、佐藤輔子の死(明治28年8月)の知らせに絶望した。そして藤村は宮城野の宿において、苛酷な人生体験は深く内に潜んで詩人の真の生命となり、まことの自我の声としての詩作が次々とうまれた。これらの諸作が明治30年、まとめられて「若菜集」として世に送られた。

       初恋

 まだあげ初めし前髪の

 林檎のもとに見えしとき

 前にさしたる花櫛の

 花ある君と思いけり

 数ある恋の詩の中でも、最も有名な、そしてすぐれた作品である。「まだあげ初めし前髪」というので、それまでお下げにしていた少女が、ようやく成熟期に達したばかりの年ごろとわかる。この少女は誰であろうか。藤村は22歳の時、明治女学校の教師となり、1歳年上の女生徒の佐藤輔子(さとうすけこ、1871-1895)にひそかな恋心を抱いた。もちろん、この「初恋」の詩のモデルはもっと幼い日の少女かもしれない。あるいは特定の女性ではなく、それまでの純情な悲恋が芸術として結晶したのかもしれない。しかし、輔子の郷里に近い仙台に移ったのは、輔子への慕情が藤村の胸中にあったのではないだろうか。

    佐藤輔子は、岩手県選出の代議士・佐藤昌蔵の五女。異母兄の佐藤昌介(1856-1939)はのちの北海道大学の総長となり、北大育ての親といわれる。佐藤輔子は明治27年に明治女学校高等科を卒業し、父母のいる花巻に帰り、翌年5月、許婚の札幌農学校講師・鹿討豊太郎(ししうちとよたろう)と結婚し、札幌へ移る。輔子はその僅か3か月後の8月に、24歳で病死している。

   島崎藤村は、明治26年1月30日、雪の中を鎌倉の星野天知を宅を訪ね、創刊された「文学界」を手にして語りあかした後、植村正久の一番町教会からも離脱し、わずか4ヵ月の教職も辞し、関西へのあてどのない旅に出た。

2007年4月17日 (火)

横瀬夜雨と閨秀文学

   近代詩は、島崎藤村によって感傷と主情とを以てはじめられ、与謝野鉄幹に於いて艶麗に、土井晩翠によって雄壮に、そして薄田泣菫には主知的な古典詩風となり、伊良子清白には端正な高踏詩風を産み、河井酔名はおだやかに、横瀬夜雨は野趣のある詩風を建立し、以て現実的ロマンチズムの流れをなした。

   横瀬夜雨(1875-1934)は、明治11年1月1日、茨城県真壁郡横根村(現・下妻市)に生まれる。3歳の時、佝僂病に冒され、歩行の自由を奪われて生涯をこの病に悩まされる。「文庫」に作品を発表し、詩人としての評価を得る。河井酔茗が主筆をしていた「女子文壇」を手伝い、作品を発表するかたわら、詩や日記文の選者も担当、多くの文学少女との恋の懊悩を繰り返しながら、女性思慕を底流に独自の詩、短歌を発表した。生田花世(西崎花世 1888-1970)、水野仙子(服部てい子 1888-1919)、今井邦子(山田邦枝子 1890-1948)、菊池柳子(1892-1922)、若杉鳥子(板倉とり 1892-1937)たちである。

    西崎花世は筆名を長曽我部菊子といい、徳島県上板野村の出身で、「女子文壇」の投稿を続け、詩を夜雨に、文を酔茗に学んだ。のち青鞜の同人となり、詩人の生田春月と結婚する。

    水野仙子は福島県出身で、雑誌「文章世界」に投稿する。上京し、田山花袋に師事し、自然主義の女流作家として知られたが肺患で早逝した。

    今井邦子は徳島県出身。アララギ派の閨秀歌人として知られた。

    菊池柳子は京都下京の寺の生まれで、3歳まで白河大原女の家に里子に出される。「女子文壇」「ハガキ文学」などに盛んに投稿。夜雨に憧れ、毎月のように手紙を書き、やがて夜雨と暮らすが、18歳のとき親の奨めで陸軍少尉と結婚する。

    若杉鳥子は生後まもなく、茨城県古河町の芸者置屋の養女となるが、12歳のころから「女子文壇」「文章世界」などに投稿を始め、夜雨に師事するようになる。16歳の時上京。小間使いなどの自活の道を探り、女子文壇の投稿仲間の水野仙子、生田花世、今井邦子らと交友を結ぶ。のち「烈日」で認められ、女性プロレタリア作家の草分けとなった。若杉鳥子と横瀬夜雨は終生変わらぬ師弟関係で結ばれた。44歳で早逝。

    投稿雑誌「女子文壇」「文章世界」は、明治末期の地方で暮らす貧しい少女たちにとって、都会への扉であり、閨秀文学とは夢を実現できる少女たちの立身出世の道だった。少女たちは夜雨のもとに集まり、同棲へと進むが、どれもすぐに破局する。大正6年、最後に出会った小森多喜(1898-没年不詳)と結婚し、生涯をともに過ごした。横瀬多喜は明治31年、茨城県那珂郡山方村に生まれた。3女を生む。それまでの閨秀詩人と比べると、多喜だけが一切の打算のない愛だったようにみえる。

2007年4月16日 (月)

江口章子と北原白秋

    江口章子(1888-1946)は歌人であり、北原白秋の二番目の妻として知られている。明治21年、大分県西国東郡香々地町(当時は岬村といったが現在は豊後高田市香々地)で江口家の三女として生まれた。江口家は大阪通いの鉄の貨物船まで持った米屋と酒造業だった。章子は弁護士の安藤茂九郎と結婚し、福岡県柳川町へ移ったが、夫の放蕩に嫌気がさして離婚。大正4年、青鞜社に入り、生田花世の夫・生田春月の紹介で北原白秋(1885-1942)に出会う。

   北原白秋はその頃「邪宗門」「思ひ出」で詩人として輝かしい地位を占めていた。ところが明治45年に隣家の人妻・松下俊子(福島俊子)と恋に落ち、その夫の新聞カメラマン・松下長平から姦通罪で告訴され、拘置される事件が起きた。白秋は福島俊子と後に結婚するが、二人の仲は長く続かなかった。

    江口章子は白秋の離婚を待って、大正5年から同棲しはじめ、大正7年に入籍した。章子と白秋の結婚生活は僅か5年に満たないものだが、何度も転居を繰り返しながら、白秋の文学活動は充実した時期であった。とくに大正7年に鈴木三重吉が児童文芸誌「赤い鳥」を創刊するが、白秋は童謡において新境地を開くが、妻の江口章子の影響が大きいといわれている。

    大正5年5月、二人の最初の新居は、千葉県東葛飾郡真間の亀井院の庫裏であった。7月には隣の南葛飾郡小岩村三谷(現・江戸川区)に移り、ここで1年2ヵ月を暮らす。ここを「紫煙草舎」と呼んだ。大正7年、小田原十字お花畑に転居。秋には小田原天神山の浄土宗伝肇寺に寄寓。大正8年夏には、伝肇寺の東側に「木兎(みみずく)の家」と方丈風の書斎を建てる。大正9年、木兎の家の隣接地に赤瓦の三階建洋館の建築を巡って二人にいさかいが起こり、離婚する。

    白秋との離婚後の章子の人生はじつに波瀾に富んだものであった。章子は大正11年8月、京都府下綾部の郡是製糸に入社する。もともと青鞜社にいたこともあり、京都の水谷長三郎(1897-1960)、山本宣治(1889-1929)ら社会運動家とも関係し、女工解放を叫んで、すぐに郡是を退社している。昭和になると江口章子は歌人・詩人として少しは世間に知られるようになり、「女人山居」(昭和3年)、「追分の心」(昭和9年)などを刊行している。ところが昭和6年に、京都帝大病院精神科に入院。1ヵ月後で退院するものの、その後、病気で苦しむ。昭和21年10月29日、死去。59歳。

能海寛と河口慧海

   明治から大正にかけて秘境チベットに潜入した人は、河口慧海(1866-1945)、能海寛(1869-1901)、寺本婉雅(1872-1940)、成田安輝、矢島保次郎、青木文教、多田等観などで仏教経典取得や政府任務などが主な目的であった。

   能海寛(のうみゆたか)は、すでに明治26年に「世界に於ける仏教徒」を自費出版し、チベット大蔵経の原典入手の重要性、チベット探検の必要性を説いている。明治29年5月7日、能海寛は、東本願寺の執事・渥美契縁あてにチベット探検嘆願書を提出した。そして明治32年と明治33年の二度チベット入りを試みるが失敗している。能海は明治34年4月、消息不明となる。彼の歌が残っている。

    のぞめども 深山の奥の 金沙江

         つばさがなければ 渡りえもせず

  能海と共に哲学館で学んだ河口慧海は、明治31年、31歳の時、和泉丸で神戸を出帆した。インドでサラット・チャンドラ・ダスからチベット語を教わり、明治32年、ネパールからチベットに潜入することに成功した。明治34年、慧海は法王ダライ・ラマに謁した。しかし明治35年5月、日本人であることが露見し、危険を感じた慧海は多くの仏典を荷につくり、チベットを脱出した。明治36年、神戸に着いた。新聞記者たちは「西蔵旅行記」を聞き書きで連載し、博文館から出版された。

武者小路実篤「友情」の成立背景

    武者小路実篤(1885-1975)の中篇小説「友情」は、現在でも最もよく読まれている氏の代表作であるが、あまりにやさしいので物足らないと言う人がいる。しかし亀井勝一郎によると「決してやさしくはないのだ。実に多様な糸がはりめぐらされ、きめのこまかい神経のよくゆきとどいた作品であることがわかる。そして相当にしつこい。しかも全体として清楚で明るい。これが武者小路氏の独自の風格である。作柄は大きい。」と新潮文庫の解説(昭和22年)に書かれている。また宇野浩二が「本当の言文一致を見せてくれたのは武者小路実篤だ」と評しているように、80年以上前の作品でありながら、ほとんど現代文として読みやすい。また「友情」や「愛と死」がいつまでも新鮮で古さを感じさせないのは、青春の恋愛であることが大きな理由であろうが、三角関係、海外留学、難病という韓国ドラマ顔負けの設定と都会的モダニズムが見られることである。「新しき村」という原始回帰にかかわらず作品は都会的であるのは、本質的に実篤という人は農村に向かず、都会人、貴族的趣味の人なのであろう。

   「友情」は大正8年10月16日より12月10日まで48回にわたり「大阪毎日新聞」に連載したものである。実篤は、前年の大正7年宮崎県児湯郡木城町石河内に「新しき村」を創設した。妻の武者小路房子(1892-1990)とともに日向新しき村に入村している。大阪毎日新聞は新しき村の精神を紹介していたので、実篤は苦手な新聞連載小説を引き受けたのであろうか。動機して考えられることとしては、尊敬する夏目漱石が新聞連載小説を執筆したことや、「それから」の影響があったのかも知れない。つまり実篤は日向の寒村で執筆し、大阪堂島の毎日新聞社へ郵送したのであろう。ところが、この大正7、8年から昭和の初期にかけての実篤の私生活は平穏なものではなかった。「友情」という作品そのものは、実篤の青年期から壮年期へ入る頃の、最も溌剌とした、力のあふれた時代の作品で、実篤の青春が一つの結晶をみたのであるが、大正10年頃に入村した飯河安子と恋愛関係となり、子どもまででき大正12年、結婚する。大正13年に実篤は村を去り、武者小路房子は村にそのまま残り、昭和7年、杉山正雄と正式に結婚し、生涯新しき村で暮らす。一方、実篤は東京で文筆活動に専念し、新子、妙子、辰子と三人の子供にもめぐまれたが、大阪毎日新聞の女性記者の真杉静江(1901-1955)との愛人関係も生まれる。「友情」の作品に見られる健全な理想主義と私生活での不貞と愛人問題の両面を抱えていた。しかしながら実篤の人生は有島武郎のように悲劇性はなく、あくまで向日性、楽天的であった。昭和期になって「トルストイ」「二宮尊徳」「井原西鶴」「楠木正成」と伝記を執筆する。昭和14年「愛と死」を「日本評論」に発表する。

    「愛と死」のヒロイン夏子は逆立ちの得意なお嬢さんである。夏子の素直さ、快活さ、聡明さ、かわいさ、明るさ、すべて「友情」のヒロイン仲田杉子とによく似ている。杉子は16歳の女学生。鎌倉の別荘で大宮が杉子とピンポンをして、杉子を滅多打ちに負かす場面が印象的である。杉子の手紙に大正期の女権拡張者、平塚らいてう、伊藤野枝らを意識した新しき女性の思想に対抗する「男は仕事、女は産むこと」という考えを提示している。またタイトルの「友情」であるが、実篤は「主人公は恋である。しかし恋と云ふ言葉を使いたくないのとこの小説の色彩は友情によって染められているので友情とした」と書いている。メインテーマはもちろん恋である。実篤の「友情」という小説には「友情」という言葉はででこないが「恋」という言葉が何十回となくでてくる。とくに有名なセリフは次のものであろう。

ともかく恋は馬鹿にしないがいい。人間に恋と云ふ精神のものが与えられている以上、それを馬鹿にする権利は我々にない

この大宮の言葉は、のちに大宮と杉子との関係を暗示する伏線にもなるわけだが、実篤の数年後の私生活をも暗示しているようである。

2007年4月15日 (日)

佐藤春夫と六人の女性

    佐藤春夫(1892-1964)は酒を飲まなかったようだが、女性遍歴に関しては華やかな話題が豊富である。「わが恋愛生活を問われて」(大正15年10月)の中に「僕の霊の上に影を宿している女は五人ある」と言っている。その五人が誰なのか、明言はしていないが、おそらく彼の作品に現われたる女性であろう。

    「海辺の恋」「少年の日」の女性は、和歌山県立新宮中学校の先輩の妹である大前俊子である。おとぎ話のような「ありやなしやとただほのか」なはかなくも可憐な恋であった。

    二番目の恋は、21歳の時。相手は青鞜社の同人である尾竹紅吉の妹・尾竹ふくみ。この女性については小説「観潮楼附近」にくわしく出ているが、「僕は足かけ三年思っていて、その人と口をきいたことは十ぺんとはない。(略)この人は、私に、常に人生になければならない憧れの要素を私の心のなかへ沁み込むませて消えていった、ちょうど暮春の夕ぐれのように美しく」とのべている。プラトニックラブで、このとき春夫は不眠症になった。

    三番目の恋人は芸術座の女優であった川路歌子(本名は遠藤幸子、当時18歳)。彼女とは大正3年に本郷区追分町9番地に新居をかまえた。

    四番目は女優の米谷香代子(まいやかよこ)。大正6年から大正9年まで同棲した。

    五番目は小田中タミ。大正13年に結婚し、昭和5年に離婚している。

   六番目は谷崎潤一郎の前夫人の石川千代。大正10年8月の所謂「小田原事件」を経過して、昭和5年8月、千代と結婚。佐藤春夫は大恋愛の末に苦労して手に入れた結婚であったため、千代夫人には生涯頭があがらず、尻に敷かればなしだったそうである。大正10年11月、「人間」に発表した「秋刀魚の歌」は千代に寄せる心情を歌っている。

スタインべックとコールドウェル

    アメリカの1920年代は繁栄と享楽の時代であり、この時代を代表する戦後派の「失われた世代」の作家たちは、戦争による幻滅感に立ち、だいたい社会的関心が薄い。これに反して、1930年代は1929年の経済大恐慌の後を受けて、不況不安の時代であり、社会的関心が強い。このような時代は「マルクス的30年代」とか「アメリカの赤の時代」といわれて、アメリカの思想傾向が個人主義から社会主義への方向をとりはじめたころである。文学の世界でいえば、スタインベック、コールドウェル、ウルフ、ファレル、サロイヤンたちが、アメリカ30年代作家として登場してきた。しかしながらスタインベック、コールドウェル、ジェイムズ・ファレルたちは、決して本当の意味でのマルキストではなかった。また、「失われた世代」のドス・パソスの「USA」(1930-1936)、シンクレア・ルイスの「独裁迫る」(1935)、へミングウェイの「持てる者と持たざる者」(1937)において階級の対立を描いたりしたのは、やはり時代の影響であった。

   ジョン・アーンスト・スタインベック(1902-1968)は、カリフォルニア州サリナスに生まれた。父はドイツ系で郡の出納吏、母はアイルランド系で小学校の教師をしていた。夫婦共稼ぎの家庭は裕福ではなく、彼はハイスクール時代から農場の手伝いなどをしていた。1920年から26年にかけてスタンフォード大学に在籍したが、学費に不自由しがちで、ついに退学した。「黄金の杯」「天の牧場」「知られざる神に」など初期の作品は世にしられなかったが、「トーティーヤ平」によって、作家として認められるようになった。「勝算なき戦い」(別表記に「勝敗のわからなぬ戦い」)は、いまなお英語で書かれたストライキ小説では最優秀作の一つである。「二十日鼠と人間」「長い谷間」を発表した頃から注目を集めはじめ、「怒りの葡萄」でピュリッツァー賞、全米図書賞を受賞した。1962年、ノーベル文学賞を受けたが、国内の批評家からの評価は必ずしも高くなく、晩年の生活は決して恵まれたものではなかった。

    アースキン・プレストン・コールドウェル(1903-1987)は、ジョージア州モアランド郊外で生まれた。父は改革長老派教会アソシエーションの聖職者。労働者に共感し、普通の労働者達と過ごした経験をもとに、資本主義の重圧のもとにあえぐ南部の貧農を描いた。彼の代表作「タバコ・ロード」「神の小さな土地」などは、いずれもどん底生活の農民に同情しているが、彼らの無知貪欲、そしてむき出しな肉欲を戯画的に写実している。短編「上る太陽にひざまずけ」のように、強い調子で社会批判を打ち出した作品もあるが、「神の小さな土地」「よごれた土地」などの代表作を生かしているのは、むしろゆたかなユーモアである。

2007年4月14日 (土)

明智左馬之助の湖水渡り

    明智光秀が本能寺に織田信長を襲った時、弟の明智左馬之助光春(1537-1582)は光秀に呼応して安土城を手に入れた。ところが、中国から兵を返した羽柴秀吉は山崎合戦で光秀を討った。秀吉は堀秀政に一隊を授けて安土城を急襲させた。左馬之助は防戦これ努めたが、多勢に無勢、如何とも詮術なく、明智の居城坂本に走ろうとしたが道はすでに防がれていた。ままよと左馬之助は愛馬鹿毛もろともザンブと湖水に乗り入れた。左馬之助その日のいでたちは、雲龍を描いた陣羽織に二の谷の兜をかむり、緋縅の鎧に太刀打ち佩き、大鹿毛の駿馬に跨っていた。水馬は武士の嗜みとはいえ大海のようなこの琵琶湖をどう乗り切るかと敵も味方も懸念したが、左馬之助はみごと対岸に乗り上げ、唐崎の松に駒の手綱をつなぎ、「でかしたぞ鹿毛」と馬を労わり、愛馬を殺すに忍びず、懐紙を出し「左馬之助を乗せて湖水を渡りたる馬」と書いて鬣につけ、首をたたいて別れ去った。この馬は後に賤ヶ岳の戦には20里の悪路を走駆し活躍したという。

   明智光春は「明智軍記」において光秀の従弟として伝えられているが、光春の存在は史料的には確認されておらず、光秀の甥の明智秀満(1536-1582)と混交していると考えられる。また左馬之助、左馬助、左馬介、左馬之介など別表記もある。

2007年4月13日 (金)

中村孝也と楠木正成

    武者小路実篤(1885-1976)は、昭和17年に発表した「楠木正成」を書く前に、歴史学者の中村孝也(1885-1970)に会って教えを乞うている。中村孝也は戦後もポプラ社から「新日本歴史文庫」「新世界歴史文庫」を刊行しているが、それらの本は少年時代のケペルの愛読書だった。戦前の修身の教科書(昭和2年版)を実際に執筆した者の名前は記載されていないので本当のところよく分からないが、次の「忠孝」の執筆は中村孝也だといわれている。(執筆当時42歳)それは戦後の「新日本歴史文庫7」にもよく似た記述の箇所が見られるので、かなり信用できる話であると思う。「尋常小学修身書 巻6」の「第6課 忠孝」は、次のような内容である。

  北條氏が滅びて、後醍醐天皇は京都におかへりになりましたが、間もなく足利尊氏が反きました。楠木正成は諸将と共に尊氏を討って九州に追払ひましたが、その後、尊氏が九州から大軍を引きつれて京都に攻上って来るとの知らせがあったので、勅を奉じて、尊氏を防ぐために兵庫に赴きました。正成はこれを最後の戦と覚悟して、途中桜井の駅でその子正行に向ひ、「父が討死した後は、お前は父の志をついで、きっと君に忠義を尽く奉れ。それが第一の孝行である」とねんごろに言聞かせて、河内へ返しました。この時正行は十一歳でした。正成はそれから兵庫に行って遂に湊川で討死しました。家に帰っていた正行は、父が討死したと聞いて、悲しさの余り、そっと一間に入って自殺しようとしました。我が子の様子に気をつけていた母は、この有様を見て走りより、正行の腕をしっかとおさへて、「父上がお前をお返しになったのは、父上に代って朝敵を滅し、大御心を安め奉らせる為ではありませんか。その御遺言を母にも話して聞かせたのに、お前はもうそれを忘れましたか。そのやうなことで、どうして父上の志をついで、忠義を尽すことが出来ますか。」と涙を流して戒めました。正行は大そう母の言葉に感じ、それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守って、一日も忠義の心を失わず、遊戯にも賊を討つまねをしていました。正行は失はず、遊戯にも賊を討つまねをしていました。正行は大きくなって、後村上天皇にお仕え申し、たびたび賊軍を破りました。そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかわして正行を攻めさせました。正行は勝負を一戦で決しようと思ひ、弟正時をはじめ一族をひきつれて、吉野の皇居に赴き、天皇に拝謁して最後のお暇乞を申し上げました。天皇は正行を近く召され、親子二代の忠義をおほめになり、汝を深く頼みに思ふぞとの御言葉さへ賜はりました。正行はそれから四條畷に向ひ、僅かの兵で賊の大軍を引受けて花々しく戦ひましたが、此の日朝からのはげしい戦に、味方は大方討死し、正行兄弟も矢きずを多く受けたので、とうとう兄弟さしちがへて死にました。

  格言 忠臣ハ孝子ノ門ニ出ヅ。

2007年4月12日 (木)

真杉静江

    真杉静江(1901-1955)は美貌の女流作家。福井県丹羽郡殿下村に生まれる。3歳で台湾に渡り、神官の娘として少女時代を父のいる台湾で過ごした。台中高等女学校を中退、看護婦をした。親の意向で17歳で結婚したが出奔、大阪で文学修行のかたわら大阪毎日新聞学芸部記者をしていた。大正末期、奈良に転居してきた武者小路実篤(1885-1976)とは昭和2年に知り合い庇護をうけた。そのころ実篤は竹尾房子と別れ、妊娠した飯河安子と結婚していた。昭和2年、東京へ移った静江と実篤の関係は昭和7年頃まで続いたが、彼女の言葉をかりれば「夕方になれば、白い蚊帳の中へ自分を残して、妻子の待つ家へ戻っていく男」だった。実篤と別れた静江は、昭和8年創刊の同人雑誌「桜」に参加、若い小説家中村地平(1908-1963)と同棲する。のち中村は宮崎へ帰り、戦後、宮崎県立図書館長(在職1947-1957)として活躍する。昭和17年、中山義秀(1900-1969)と結婚したが、昭和22年に離婚した。戦後は鏡書房を設立したり、昭和24年日本ペンクラブ有志と広島、長崎を視察、被爆少女に手術をうけさせるために尽くして社会的名士になったが、創作活動から遠ざかり不遇のうちに肺がんで没した。真杉静江の人生は、いろいろな男性遍歴で華やかであるが、女流作家としては優れた作品を残せなかった。しかし彼女と関係をもった男たちは皆それぞれに成功している。最初の創作集「小魚の心」(昭和2年)に収められた「松山氏の下駄」は武者小路実篤がモデルで佳作である。

天田愚庵と清水次郎長

    天田愚庵(1854-1904)は安政元年7月20日、陸奥磐城平藩士甘田平太夫と妻ナミの五男として生まれた。幼名は久五郎、のち五郎。別に鉄眉、鉄眼(てつげん)とも称す。戊辰戦争で父母姉が行方不明となり、以後その所在を尋ねて放浪生活を始める。天田五郎と名のり、山岡鉄舟門下に入った。反政府的な政治運動に暴れ回り、五郎の前途を案じた鉄舟は、明治11年、彼の身柄を侠客清水次郎長に託した。次郎長の膝下にあること1年、五郎は持ち前の放浪癖から清水をとび出し、旅写真師となって各地を遍歴する。清水に舞い戻ったのが明治14年。清水次郎長の養子となり、その名も山本五郎と改める。清水次郎長が逮捕されたときは、次郎長の釈放に奔走した。そして文才のあった五郎は、明治17年に「東海遊侠伝」を出版し、清水次郎長の名を全国に広めた。明治20年に得度して仏門に入ってからの五郎は、禅僧となり天田愚庵と号した。国学を落合直亮(なおあき)に学び丸山作楽(さくら)らと交流、万葉調の歌風を成し、正岡子規に影響を与えた。そして晩年、父母姉との再会を求めて西国巡礼に旅立つ。明治37年1月17日、伏見桃山の庵で51歳にして没した。「巡礼日記」(明治27年)「愚庵遺稿」(明治37年)

2007年4月11日 (水)

白蛇姫、野溝七生子

   大正5年、19歳の野溝七生子は同志社大学英文科専門部予科に入学した。夏ごろ、体調を崩し、比叡山で兄弟三人で療養生活を過ごしていた。そのころ、辻潤は伊藤野枝と別れて、「唯一者とその所有」を翻訳するために、友人の武林無想庵の紹介で訪れた比叡山で野溝七生子と出会った。辻は、わが心の永遠の女性として、彼女にオマージュを捧げている。

ふみにじられた雑草の

 最初の花束を

わが観自在白痴菩薩

 白蛇姫の御前にささぐ

 わがままにして従順なる汝の奴隷 風流外道跪拝

ただしこれは辻の片思いであった。辻潤の永遠の人、野溝七生子(のみぞなおこ)とはどういう女性なのだろうか。

    野溝七生子(1897-1987)。明治20年1月20日、父野溝甚四郎、母正尾の二女として、兵庫県姫路市で生まれる。野溝家は代々豊後竹田の在で、中川家に仕えた士族であった。大正12年、震災のために東洋大学が休校となり、実家に帰省。上京後の10月末頃、福岡日日新聞の懸賞小説募集広告を知り、「山梔(くちなし)」を応募し入選する。歌人の鎌田敬と同棲、戦後は東洋大学で文学を講じながら、ホテルに一人暮らす。昭和53年、瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」でのトラブルが話題となった。野溝は辻潤との交際に関する記載が事実でないことに激怒し、瀬戸内は謝罪した。それと前後して病気が進行しホテル滞在ができなくなり、老人専門病院に移った。昭和62年、2月12日、急逝心不全のために仁友病院で死去。90歳。

    野溝七生子にとっては辻潤との関係を取り沙汰されることは、迷惑なことであったであろう。しかし、辻にとっても七生子の影響は大きかったようだ。後年の辻の放浪生活はここから始まる。

2007年4月 9日 (月)

赤瀾会

   赤瀾会は、大正10年4月24日結成された日本で初の女性による社会主義団体である。新婦人協会(大正8年11月24日発足、中心メンバー、平塚らいてう、市川房枝、奥むめお)に強い対抗意識があった。伊藤野枝は「改造」大正10年2月に「中産階級婦人の利己的運動:婦人の政治運動と新婦人協会の運動について」を発表している。赤瀾会は、新婦人協会はブルジョワ的、中産階級的で生ぬるいと考えていた。もはや現行社会制度の枠の中だけで女性解放を唱えて運動するのは無意味だというのである。山川菊枝などが中心として書いたと思われるメーデーのビラから要約抜粋する。

   赤瀾会は資本主義社会を倒壊し、社会主義社会建設の事業に参加せんとする婦人の団体であります。解放を求むる婦人よ、赤瀾会に加入せよ。社会主義は人類を資本主義の圧制と悲惨とから救う唯一の力であります。正義と人道とを愛する姉妹よ、社会主義運動に参加せよ。

    赤瀾会は一部のインテリ女性による運動ではなく、労働者階級の女性に呼びかけたものであり、堺利彦や伊藤野枝の思想が強く入っている。赤瀾会の中心メンバーは次のような女性たちである。伊藤野枝(大杉栄の妻)、青山菊枝(後に山川均と結婚、山川菊枝)、堀保子(堺利彦の先妻の妹、大杉栄の前妻)、堺為子(堺利彦の妻)、堺真柄(堺利彦の妹、近藤真柄)、秋月静枝、岩佐しげ、北川千代、九津見房子、高津多代子、仲宗根貞代、中村志げ、中村みき、橋浦はる子、橋浦りく、望月ふく子、吉川和子。

愛の勝利者、伊藤野枝

    新らしき女の道      伊藤野枝

 新らしい女は今までの女の歩み古した足跡を何時までもさがして歩いては行かない。新らしい女には新らしい女の道がある。新らしい女は多くの人々の行止まった處より更に進んで新らしい道を先導者として行く。新らしい道は古き道を辿る人々若しくは古き道を行き詰めた人々に未だ知られざる道である。又辿らうとする先導者にも初めての道である。新らしき道は何處から何處に到る道なのか分からない。従って未知に伴ふ危険と恐怖がある。(「青鞜」大正2年1月号)

  伊藤野枝(1895-1923)は、明治28年1月21日、福岡県糸島郡今宿村で、瓦職人の父伊藤亀吉、母ウメとの長女として生まれた。明治43年4月、上野女学校に入学する。上野女学校は、私立の5年生で、当時としては自由主義的な気風に満ちた学校だった。教頭の佐藤正次郎は、女性の地位向上を教育方針に掲げ、バーナード・リーチや英語教師の辻潤がいた。野枝は親からしいられた結婚に反発して、辻潤と結ばれた。野枝は青鞜の平塚らいてうに宛てて身の上相談の手紙を出している。数日後らいてうを訪ね、強制されている結婚を破棄する決意を述べ、助言を求めている。らいてうは野枝を励まし、援助を約束した。大正元年、野枝は青鞜社の編集員として働くようになる。野枝は、「新しき女の道」「この頃の感想」「染井より、あるいは中篇「動揺」などをつぎつぎに発表している。この年、野枝は18歳である。大正2年、木村荘太(1889-1950)は青鞜に発表した野枝の詩が気に入り、ラブレターを出した。野枝は木村の求愛をことわった。このころ社会主義者の大杉栄が「近代思想」に平塚らいてうと伊藤野枝とを比較した時評を書いている。

    こういっては甚だ失礼であるかも知れないが、(野枝が)あの暮らしでしかも女という永い間無知に育てられたものの間に生まれて、あれ程の明晰な文章と思想とを持ちえたことは、実に敬服に堪えない。

    辻潤は野枝にとってはシュティルナーなどの思想で近代的自我をめざめさせてくれた師ではあるが、しょせんは書斎と放浪のニヒリストにすぎなかった。そうした点で野枝は大杉栄の革命的理論と行動力につよくひかれるようになっていく。

   大杉栄には妻の安子(旧姓・堀安子)と「東京日日新聞」記者だった愛人の神近市子がいた。ここに伊藤野枝が現れたわけであるが、自由恋愛論者であった大杉は、三人に、経済的におたがいに自立すること、同棲せずに別居生活を送ること、たがいの自由を完全に尊重すること、三条を示して同意をとりつけ、大杉は保子と別れて麹町の福四万館に移り住んだ。

    大正5年4月、長男の一(まこと)を残し、二男の流二を背負って辻家を出た野枝は、千葉県御宿の上野屋旅館に移り、小説を書きはじめる。そこに腰を据えたのは、大阪毎日新聞の菊池幽芳から、野枝の作品を採用するという言質を得ていたからであった。しかし、執筆生活への野枝の期待は裏切られた。幽芳に送った原稿が、称賛の辞とともに送り返されてきたのである。大杉も原稿依頼がとだえるようになった。金がなくなったため二人は、本郷の菊富士ホテルに同棲するようになる。その年11月9日の夜、いわゆる日陰茶屋事件が起こった。神奈川県葉山の旅館「日陰茶屋」で神近市子(1888-1981)は伊藤野枝の出現による嫉妬から大杉栄の喉部を刺したという事件である。この刺傷事件が、主義者の堕落と乱脈を象徴する大スキャンダルとして、ジャーナリズムの好餌となったことはいうまでもない。

    しかし、この無残な結末は、大杉と三人の女たちの四角関係に決着をつけた。翌年、市子は4年の刑に服して下獄し、保子は大杉と正式に離婚した。結果、伊藤は愛の勝利者となったが、そのために、彼女はいっそう社会からも友人からも孤立しなければならなかった。しかし、彼女に後悔はなかった。大杉とともに歩く将来をかたく信じていたからである。その死が訪れるまでの6年間に、大杉との間に、野枝は一男四女をもうけている。野枝は「愛の夫婦生活」という記事で「私共を結びつけるもの」として大杉を「寛大な愛人であり、思いやり深い友人であり、信頼すべき先輩であり、同志」であると評している。

個の勝利者、辻潤

    伊藤野枝と別れた辻潤は上野の寛永寺にひきこもった。そうした絶望的な精神状況のなかで、19世紀ドイツの特異な思想家マックス・シュティルナー(1806-1856)の著書「唯一者とその所有」(原書のドイツ語ではなく英語)を読む。大正8年、36歳の時、比叡山に上ってシュティルナーの訳業を始める。(辻はスティルネルと表記している)

    マックス・シュティルナーは当時の知識人たちに大きな影響を与え、シュティルネリアンという言葉もあるほどである。主な日本での翻訳書を紹介する。

大正9年 「唯一者とその所有者 人間篇」辻潤訳 日本評論社

大正10年 「自我経」(「唯一者とその所有者」の全訳)  辻潤訳 改造社

昭和3年 「世界大思想全集29」(スティルネルの「唯一者とその所有」「芸術と宗教」、ジョルジュ・プレカアノフの「無政府主義と社会主義」百瀬二郎訳を収録)

昭和4年 「唯一者とその所有」辻潤訳 改造文庫

昭和4年 「唯一者とその所有」草間平作訳 岩波文庫

昭和4年 「社会思想全集25」 (「唯一者とその所有」収録)生田長江、高橋清訳 平凡社)

   シュティルナーの思想を一言でいうと「汝は汝の汝に生きよ」であり、「汝の汝」以外には何者にも仕えるなという徹底した唯一者個人の世界である。あらゆる外的な権威を排除して、もっぱら自我の権威のみを説くところの徹底的な個人主義を主張し、哲学的無政府主義に到達している。シュティルナーの思想はバクーニン、クロポトキン、ニーチェなどに影響を与えた。

   明治末期から大正時代にかけての近代日本は、日露戦争前後からとくに原敬内閣の経済政策によって、都市化と工業化(機械文明)が急速な進展を見せた。田園と都市の相貌は急速に変わった。1920年代、一種の反近代主義的・ロマンティシズム的潮流がみられる。アナーキスト(無政府主義)として知られる大杉栄にもスチルネリアン的個人主義的偏向から出発している。大杉栄は「生の拡大」(大正2年)において「原始においてすべての人は生き生きと活動し、自我の拡張、生の充実という感情をたっぷり味わっていた。おそらく人類はその当時、周囲世界と闘うためそしてまたこれを利用するため、相互扶助の協同社会をつくっていたのであろう」と論じた。「けれども人類はついに原始に帰ることを知らなかった。(中略)自己意識のなかった原始の自由時代に、さらに十分なる自己意識を掲げて帰ることを知らなかった」このような原始回帰達成のために自由連合主義、アナルコ・サンジカリズムなどがあった。

   大正末期、辻潤はアナルコ・サンジカリズム運動の拠点であった書店「南天堂」に出入りし、アナ派詩人と交流している。しかし辻は自身をアナキストではなく、日本で最初のダダイストの名乗りをあげている。「唯一者とその所有」の出版によって有名人となった辻の家にはいろいろな人が集まってきた。詩人の高橋新吉も訪れた。高橋は当時21歳である。この高橋によって辻は初めてダダイズムなるものを知ったのである。辻は「何となく本来の面目を云々する禅門の悟道の境地と似通っている」といい、「シュティルナーを読んだ後で禅宗の経典などを読むと、自分だけには容易に理解できるような気がする」と語っている。そして大正12年に辻は高橋に無断で「ダダイスト新吉の詩」を刊行する。しかし、辻は社会運動、労働運動への活動は少なく、デカダンな世界に入っていく。辻の本質は、刹那、享楽、趣味、道楽という色彩が濃い。江戸趣味、悪魔主義、唯美主義といわれる谷崎潤一郎との両者の共通性は見られる。事実ふたりは大正5年ころから知り合い、谷崎は辻をモデルとして小説「鮫人」(大正9年、中央公論に連載)を書いている。

   辻潤は昭和3年、45歳にして初めてパリに留学する。辻はパリ滞在一年の間、ほとんどホテルの一室で暮らしたていた。宿命的日本人であることを知った辻は、反近代的、反都会的、反資本主義的傾向をますます強くする。昭和7年3月、天狗となって二階から飛び降りるという事件が新聞で大きく報道された。以後、晩年は精神異常となり、放浪生活の後、昭和19年11月24日、東京上落合の寮で他界する。61歳。桑原国治の妻がアパートに入ると、全身シラミに食われて息をひきとっている辻潤の死体があった。死因は餓死である。表面上からみるとシュティルナーの人生と相似するところもあるが、近代合理主義に限界が見られる現在、辻の生き方を「個の勝利者」とみなすかどうか、それは個人の判断に委ねることとする。

辻潤と伊藤野枝

    辻潤(1884-1944)は、明治36年、20歳のとき日本橋千代田尋常高等小学校の助教員となった。以来、ずっと教員生活を続けた。明治41年、浅草精華高等小学校に教鞭をとる。そして、辻潤が上野高等女学校へ転職したのは、明治42年4月、26歳の時であった。女子高生だった伊藤野枝(1895-1923)との恋愛事件で、辻潤はわずか4年にして上野高女を退職する。辻潤の人生は伊藤野枝との出会いが大きな転機であった。

    当時、野枝は学園新聞「敬愛タイムス」の編集をしていた。辻はその野枝の編集と文筆の才に感心させられた。そして辻は、野枝を育てるために、西欧の近代文学や思想を教えた。教師と生徒の親しい関係はしだいに恋愛へと育っていった。

   そのとき伊藤野枝には、親が決めた末松福太郎という婚約者がすでにいた。卒業すると、野枝は郷里の福岡で挙式するが、9日目にはもう末松家を出て、東京へ戻り、辻と同棲するようになる。福太郎は、再三「ノエヲカエサネバウツタエル」と電報を打ってよこした。校長も「あくまで野枝を愛するなら、学校を辞めてからのことにしてもらいたい」と退職を促すような言い方をするので、辻は「それでは今日かぎり辞めさせていただきます」と啖呵を切って退職した。

    伊藤野枝は、辻潤によって新しい教養に導かれ、平塚らいてうの青鞜社に参加し、婦人解放運動にかかわっていく。辻潤との間には、二児をもうけながらも、夫に離婚を申し出てアナーキスト大杉栄に走った。そして大正12年、大杉栄とともに官憲によって扼殺される。

2007年4月 7日 (土)

私の初恋が、また私を呼び止めたらどうしょう

    全20話の「冬のソナタ」、第14話「二度目の事故」で交通事故で記憶を失ったチュンサン(ぺ・ヨンジュン)が再び交通事故で記憶を取り戻す。現実にはありえない設定ではあるが、ドラマ全体の中では第12、13、14話はとても重要な場面が続く。第12話「10年前の真実」で、自分がチュンサンであることを知ったミニョンがユジン(チェ・ジウ)に事実を告白する。

  ……僕は……チュンサン、です

   第13話「追憶」では、ユジンは春川の高校の放送部を訪ねて、「初恋」の詩を聞き思い出に涙する。「そよ風が燕を包み、天空を運ぶように、陽が照りつけても、雨風が吹きつけても彼方遠くまで二人が飛んでいけるようにしてください。でも、私の初恋が、また私を呼び止めたら、どうしょう?」

    ちょうどその頃、ミニョンも講堂のピアノの前にいた。そして記憶の戻らない自分に決別するかのように、ついにアメリカ行きを決意する。

   第14話で、深く激しい傷心を抱えたミニョンは空港へ行く。何も知らずにポラリスに出社したユジンは、ミニョンが置いていった封筒を渡される。そこには「初めて」のCDとメッセージが書いてある。

ユジンさん。僕はいまごろ飛行機の中にいるはずです。このプレゼントはユジンさんにとって負担になるかも知れないけれど、でもどうしても黙って行くわけにはいかなかったんですよ。チュンサンのようにテープに録音してあげることはできなかったけれど、それでもプレゼントしたかった。お幸せに。

   チュンサンがテープをくれた話は誰にもしたことがなかった。チュンサンしか知りえない事実が書いてあったのだ。ついにミニョンがチュンサンであることを知ったユジンは慌てて空港へと向かう。もはやミニョンではなく、チュンサン!とその名を呼んで。

名セリフが多数あるが、なかでも第12話で、ユジンが友人のチンスクに心のうちを話す場面での会話。

ユジン「サンヒョクがね…」

チンスク「うん」

ユジン「サンヒョクが訊いてきたっけ…。イ・ミニョンさんのどこがよかったのかって…」

チンスク「そう、それでなんて言ったの?」

ユジン「答えられなかった。それは言葉ではとても説明できない…」

チンスク「ユジン…」

ユジン「チュンサンを見ていると、すとんと落ちていくような感じがしたの。そんな感じがしたのよ。わたしの心が…どきどきする胸がすべてチュンサンに向かっていく感じ…ああ、これが愛なんだなあ…これが運命だなあって…思ったの。チュンサンが死んでからそんなふうに感じることはもうないと思ってたけど…イ・ミニョンさんに出会って、ある瞬間、すとんって…そうだったの。顔が似ているからじゃなく…そうじゃなくて…理性とは関係なく…胸がときめく感じ…チュンサンといるときみたいにすごく胸がどきどきする感じ…ミニョンさんが感じさせてくれたの…どうしてそんなことができたのかしら?…ミニョンさんとチュンサンはまったく別人なのに…わたしの心が二人を一つに結びつけちゃったの…おかしな話かも知れないけど、わたしの心の中ではチュンサンはミニョンさんと同じ人のようだった…」

    韓国では、詩集がベストセラーのランキングに何冊も入るほどよく売れる。日本では現代詩を読む人を探すほうが難しくなったが、韓国の若者たちは現代的な恋愛詩をよく読んでいる。それだけ言葉に敏感であり、自分の恋愛観や人生観を美しい言葉で語ることには慣れている。この場面でも、婚約者のいるユジンが親友に、他の男性への思いを打ち明けるなど日本ではなかなか無いように思える。「冬のソナタ」の主人公はユジンであり、初恋の心の痛みをずっと持ち続けた女性であり、多くの女性がユジンの心の変化に感情移入できたのも、この場面のセリフに集約されているような気がしている。

土岐善麿と石川啄木

   朝日新聞社の石川啄木と読売新聞社の土岐善麿とは新進歌人として併称されながら未知の関係であった。明治44年1月13日、二人は初めて会い雑誌を出そうという話が成立した。誌名も啄木の案によって「樹木と果実」と決定した。創刊号は3月1日とし、二人はその後、毎日のように会って準備を進めたが、2月1日、啄木は慢性腹膜炎と診断され、帝大青山内科に入院し、退院は3月15日であった。

   土岐善麿(1885-1980)は、明治18年6月8日、東京市浅草市松清町の真宗大谷派等光寺に生まれた。父善静、母観世(藤原家の出身)。土岐善静は学僧として知られた。

   土岐善麿。本名は善麿、筆名は詩作時代は湖友のち哀果。明治37年に早稲田高等予科に入学。同期に若山牧水、北原白秋、服部嘉香がいる。卒業後、読売新聞社の記者として活躍する。処女出版「ローマ字三行詩」の「Nakiwarai」は、啄木に影響を与えた。啄木は善麿を「歌人らしくない歌人」として、その作品が日常生活がモチーフとなっていることを評価していた。明治45年4月13日、石川啄木は一禎、節子、京子、若山牧水に看とられながら死去。土岐善麿の生家の浅草等光寺で葬儀が行なわれた。

   わが友の、寝台の下の

     鞄より

   国禁の書を借りてゆくかな。

    土岐善麿は歌人、国文学者、ジャーナリスト、新作能の作者、杜甫の研究家、田安宗武の研究、日本式ローマ字論者、国語審議会の会長などを歴任したり、多方面に活躍している。かわったところでは、日本最初の駅伝競走の企画実行者は土岐善麿である。京都から東京までのマラソン・リレーを企画・実行し、それを「東京奠都記念東海道駅伝徒歩競走」と命名したとされる。

   土岐は戦時中も批判的良識を守った。戦争に非協力的な歌人として、歌壇の内部から攻撃にさらされた。戦後の民主主義の時代になり、土岐のリベラルな芸術家、文化人を図書館界は望んだ。昭和26年3月、東京都立日比谷図書館長となる。昭和27年5月、日本図書館協会理事長の中井正一が急死すると、8月に新理事長に土岐善麿に白羽の矢が当たった。善麿はこの時すでに67歳であったが、新生の図書館の問題が山積するなか、本人自ら難局にあたられたようだ。土岐は柔軟な思考力で、知識人らしい生き方を貫いた人である。

ダダと禅

   高橋新吉(1901-1987)は、明治34年1月28日、教師・高橋春次郎、マサの二男として、愛媛県西宇和郡伊方村小中浦(現伊方町)に生まれる。新吉6歳のとき、父が鉱山会社に勤務し、八幡浜へ移転する。新吉11歳のとき、母マサが亡くなる。新吉13歳のとき、八幡浜商業学校(現・八幡浜高等学校)に入学する。その後、父が後妻を迎えたため、新吉は卒業間際の大正7年2月、無断で上京するが、数ヵ月後郷里に帰る。その年の春、二度目の上京のときは、チフスにかかり行路病者として養育院に収容され、2ヵ月後に帰郷。大正9年、「万朝報」の懸賞短編小説に「焔をかかぐ」が入選した。そして8月15日、同紙掲載のダダイズムの紹介記事を読み、強い衝撃をうけた。ルーマニアの詩人トリスタン・ツァラの「ダダ第一宣言」である。翌大正10年2月、郷里の真言宗出石寺に入り、8ヵ月の修業の後三度目の上京をする。大正10年12月ガリ版で「まくはうり詩集」を60部作って、知人に配った。それを持って辻潤を訪ねた。そして大正12年には「ダダイスト新吉の詩」が刊行され、その強烈な破壊的精神で注目されるようになった。しかしこの詩集は辻潤が新吉に無断で出版したものであった。そのとき八幡浜の警察の留置所にいた新吉は、この詩集を受け取って破り捨てたという。書名も辻が勝手に決め、杜撰な編集でノートの書きさしや未定稿の詩が混じっていて誤植が多かった。

   このように高橋新吉は、ダダイスト詩人として紹介されるが、その後の彼はダダとは訣別し、心の病を禅修業により克服し、悟りを得た。「私はダダは初歩的な禅の亜流に過ぎないと思っている」(日本のダダ)と言っている。

    昭和62年6月5日、高橋新吉は86歳で亡くなったが、詩集のほかに小説集、仏典研究、美術評論集も多い。

2007年4月 5日 (木)

琴はしずかに・八木登美子

    八木重吉(1898-1927)は明治31年2月9日、東京府南多摩郡堺村のかなり富裕な農家、八木籐三郎、八木つたの次男として生まれた。向学心のある重吉は鎌倉師範に進み、次いで東京高等師範(現在の東京教育大学)に進んだ。内村鑑三の著作に感化されてキリスト教に入信したのは、大正8、9年ごろである。卒業して兵庫県御影師範の英語教員となり、大正14年3月、千葉県東葛飾中学校に転任した。翌年3月に結核を発病し、昭和2年10月に転地先の神奈川県茅ヶ崎で没した。享年29歳。生前に刊行された詩集は「秋の瞳」(大正14年)のただ1冊だけである。第2詩集「貧しき信徒」は没後4ヵ月目の昭和3年2月に刊行されている。

        素朴な琴

 この明るさのなかへ

 ひとつの素朴な琴をおけば

 秋の美しさに耐えかね

 琴はしずかに鳴りだすだろう

        「貧しき信徒」(昭和3年)所収

 八木重吉は大正11年7月、東京高等師範の学生時代に家庭教師として教えた17歳の女学生の島田とみ子(1905-1999)と結婚し、桃子と陽ニをもうけた。残されたとみ子夫人はミシンの内職、デパートの店員等をしながら二人の子供を育てたが、昭和12年に桃子(15歳)、昭和15年に陽ニ(16歳)の2人の子供が相次いで失うという不幸があった。4年間、茅ヶ崎の南湖院で働くうちに、昭和19年の末、歌人の吉野秀雄(1902-1967)の家に住み込みの手伝いとして働くようになった。とみ子が肌身放さず持ち歩いていたのは、八木の書いていた詩のノートであった。

 ある日、とみ子が一所懸命たらいの中の洗濯物をごしごしやっている姿をみた吉野は、その姿を見て急に好きになりプロポーズした。昭和21年10月、二人は再婚した。吉野秀雄には4人の子供がいた。子供たちはすぐに新しい母になつき、暗く悲しい家庭に明るい光が射した。吉野秀雄に次の歌がある。

重吉の妻なりし今の我が妻よ

ためらわず彼の墓に手を置け

2007年4月 4日 (水)

「暗夜行路」成立の経過

    志賀直哉の「暗夜行路」の原形は、夏目漱石の「心」にあとを受けて朝日新聞に連載されるはずであった。「心」は大正3年4月から8月まで続いた。漱石は「武者小路君を通して御依頼した事につき後承諾のよしを御洩し被下まして有難存じます」と述べている。これは「心」につぐ、朝日新聞の連載小説のことである。それが「暗夜行路」の原形「時任謙作」であった。

   しかし志賀直哉は、後年「続創作余談」のなかで次の如く述べている。

   夏目さんはその年、春頃から、「心」という小説を朝日新聞に出していた。私のものはそれが終わったところで直ぐ連載されるはずで、私は松江に行ってそれを書いていた。(中略)「心」の方は一日々々進んでいるのに、私の長篇はどうしても思うように捗らない。私は段々不安になってきた。若し断るなら切羽詰まらぬ内と考え、到頭、その為め上京して、牛込の夏目さんを訪ね、お断りした。

   当時の流行作家漱石から寄せられた期待は、志賀の心に重い負担となった。この頃は、志賀にとってはまったくのシュトルム・ウント・ドランクの時代であった。好転の見込みのない父との不和、山手線の電車にはねられての重傷、脊椎カリエスの不安、父のいれない結婚につづく除籍、妻の神経衰弱、創作活動の中絶、長女の死と続く苦悩の跡をそこ見ることができる。

   苦悩にあえぐ志賀を解放したものは、大正6年の父との和解であったが、いま一つ大きな因子は前年の12月における漱石の死であった。志賀は漱石へのひけめという精神的負担から解放された。大正8年4月、中央公論に「憐れな男」、大正9年1月、新潮に「謙作の追憶」が発表された。長篇の構想はおもむろに醸された。そして「時任謙作」は、新聞向きの題に改められ「暗夜行路」として「大阪毎日新聞」に連載されることになった。「ところが、或るところまで書いた時、大阪毎日から、関西の読者は遅れているから、なるべく調子を下げ、読者を喜ばすように書いて欲しいといふ註文が来た」(「暗夜行路」覚え書)のである。この申し入れによって、約束は破棄された。そして「暗夜行路」は大阪毎日の手を離れ、「改造」に連載されることになった。大正10年から昭和12年まで17年かかって完成する。

    「暗夜行路」は志賀直哉の唯一の長篇小説であり、彼の創作力は「暗夜行路」を頂点とする。そして現在も「暗夜行路」を超える小説は生み出されていない。近代日本文学の最高峰を形成する。これは現在の定説であろうしケペルも妥当と考えている。しかしどの分野でもそうであろうが、異論は多数あるであろう。例えば、ウィキペディアの「志賀直哉」の項目を読んで驚いた。おそらくこの記事は若い人が書いたものであろうが、志賀の非人間性についてかなり言及している。非常に好悪の情の激しい人であることは、志賀の小説を読めばだいたい分かる。「大阪毎日新聞」から「改造」に発表の場を変えたのも、気分を害されたからであろう。ただむかしの学生時代の暴力行為や斜視の人への思いやりのなさ、「シンガポール陥落」という一文など、ということで、志賀直哉の全仕事の文学的価値を否定できるものとは到底考えられない。

  昭和30年頃、文芸評論家の長谷川泉は「芥川龍之介も織田作之助も太宰治も志賀直哉との対決に敗れて死んだ」という見方をしている。長谷川の論文から時代が経ているが、現代、志賀直哉がどのような位置にあるのか正確なことは知らないが、「小説の神様」としての位置は不動のものと理解している。

2007年4月 2日 (月)

忠臣はニ君に仕えず

    建安5年(200年)、劉備一行は徐州付近で曹操に大敗し、劉備は家族をおきざりにして袁紹のもとに逃亡した。そのとき下邳城で劉備の甘夫人、糜夫人を守っていた関羽は、曹操軍に包囲された。劉備の家族を守っていたこともあり、関羽は張遼の説得を受け、曹操に降伏した。

   かねてより、関羽のように剛勇でしかも忠誠心のあつい武将をほしがっていた曹操は、都に帰ると関羽を捕虜あつかいにせず、賓客として優遇した。劉備のニ夫人の生活にはいっさい干渉しないでほしい、という関羽の申し込みを喜んでうけいれ、一行にぜいたくな暮らしをさせた。そして、関羽には、かつて呂布の愛馬だった千里の名馬赤兎を贈って、しきりに仕官をすすめた。だが、関羽は曹操の好意には感謝したが、あくまで節操をまげなかった。そして、曹操に義理を果たすため、袁紹配下の猛将顔良、文醜のふたりを討って恩返しをしたのち、関羽は贈られた金銀財宝に封印をほどこすと、曹操に別れの手紙を残して、劉備の二人の夫人とともに、袁紹側にいる劉備のもとに逃げた。

    関羽が脱出するや、部将たちは色めきたってあとを追おうとする。それを制して、曹操はこういった。

「主のためにするなり、追うことなかれ」と。

呉下の阿蒙にあらず

   呉の呂蒙(178-219)は、字は子明、汝南郡富陂(ふは)の人。15、16歳のころから戦場で活躍してきたが、自分の勇気と膂力をたのんで学問をばかにしてきた。

   あるとき、孫権は武骨一点張りの呂蒙と蒋欽のふたりに「そちたちも、いまではひとかどの武将であるが、さらに伸びようとおもうなら、武芸だけでなく、きちんと学問を学んで、自己啓発につとめることだな」とさとした。

   主君の言で奮起した呂蒙は、それから勉学にいそしんだ。兵法や教養書を懸命に勉強し、数年後には、呉国でも有数の戦略家に成長していた。

   周瑜没後、その後任となった魯粛が任地の陸口へ赴く途中、魯粛は後輩の呂蒙を訪ねた。ひさしぶりにあれやこれや話してみると、どうしてどうして、呂蒙は見識も高く、兵法にもつうじており、その教養に驚かされた。

   「これは見直したよ。貴方は武辺一点張りの人と思っていたが、そんなに勉強しているとは知らなかったよ」

   そこで魯粛は感心したようにこうつぶやいた。

   「復(ま)た、呉下の阿蒙に非ず」(「呉志・呂蒙伝注」)

   いつまでも、昔の呉の城下にたむろする蒙ちゃんではない、という意味である。阿というのは人名につける接頭語で、日本語の○○ちゃんに相当する。

   この故事から、無学の徒を「呉下の阿蒙」というようになった。このとき、呂蒙はこう答えている。

   「士、別れて三日、すなわち更に刮目して相い待(たい)すべし」

   士たるもの、別れて三日もすれば、よくよく目をこすって見直さなければいけないという意味で、これも名言としてよく知られている。

2007年4月 1日 (日)

沖雅也と仲雅美

   昭和47年のマルベル堂のブロマイド・ランキング男性俳優部門は、

  第1位 森田健作

  第2位 沖 雅也

  第3位 石橋正次

  第4位 仲 雅美

  第5位 志垣太郎

   沖雅也(1952-1983)と仲雅美(1950生)は、名前と顔立ちが少し似ていることから、ある雑誌で二人が並んだ特集記事を読んだ記憶がある。チャンネルNECOで「さぼてんとマシュマロ」(1971)を放送していた。週刊セブンティーンに連載された武田京子の漫画が原作で、吉沢京子主演の少女向け30分ドラマだ。家内が子供のとき見て、よかったというのでお付き合いでみたが、なかなか完成度の高いドラマだった。一見コミカルなようで、途中からシリアスになる展開は、ハマルとみどころが多い作品。男性から見ると、吉沢京子の可愛さが魅力であるのはもちろんだが、沖雅也と仲雅美の兄弟役というのが、昭和46年という時代を知っている者にとっては切ないほどに美しく哀しい。

    沖雅也は大分県別府市出身で、15歳の時、両親の離婚を契機に家出同然で上京した。ラーメン屋のアルバイトやスナックのバーテンなどしながら大都会の貧乏暮らしをしていたが、東大卒の道楽者の日景忠男に出会う。日景の売り込みで日活映画に出演する。丘みつ子の「ある少女の告白 純潔」で昭和43年には幸運にも映画デビューする。だが日活はポルノ映画を制作するようになり、映画への出演がなくなる。そこでテレビに出演し、「花と竜」(渡哲也主演)「犬と麻ちゃん」(和泉雅子主演)「クラスメート」(武原英子主演)「金メダルへのターン」(梅田智子主演)、そして「さぼてんとマシュマロ」で沖雅也は初めて大きな役をつかんだ。

    仲雅美は歌手でデビューし、その後、木下恵介に見出されドラマ「冬の雲」に出演、主題歌の「ポーリシュカポーレ」が大ヒットした。「さぼてんとマシュマロ」は沖雅也より2歳上の仲が弟役で共演している。その後も、由美かおると共演した「同棲時代」「しなの川」や西城秀樹の「愛と誠」に出演し青春スターとしての一時代を築いた。

   ところで「さぼてんとマシュマロ」のあらすじは、マシュマロみたいなフワフワした女子高生・伊藤真理子(吉沢京子)は4人姉弟の長女。家計のために雑誌社に就職する。真理子は洗練された女性誌の編集部を希望するが、間違ってエッチな男性誌「TOMTOM」の面接試験を受けてしまい採用される。そこに待っていたのはサボテンのように尖った影をもつ青年カメラマン伊藤仁(沖雅也)だった。仁は「俺は危険な無数のトゲを持っているサボテンなんだ」という(第6話)。真理子と仁とは事あるこどに衝突するが次第に惹かれていく。仁は良家の子息で弟の明(仲雅美)がいる。そして仁には隠されたある秘密があった。出演は他に、三谷昇、加藤治子、山東明子、水沢有美など。

    「さぼてんとマシュマロ」の主題歌「恋をするとき」(作曲・宮川泰、作詞・岩谷時子)は吉沢京子のほんわかした歌い方がなかなか快感である。劇中の伊藤真理子=吉沢京子のイメージと楽曲がピッタリ合っている。古き良き青春ドラマの名曲である。歌詞が残念ながら正確ではないがあげておく。

          恋をするとき

1  私も恋を するときが あるかしら

  その日がいつか わかればいいな

  恋人ならば 誰よりも 優しくて

     翼の中で 愛してくれる

  ああ 甘い夜霧に濡れる

  夜 私の愛も開く時

  その日が来たら 幸せが遠くても

  ひとつの夢を 二人でみつめて行こう

2   誰にも胸の なかまでは のぞけない

    私にだけは 見えたらいいな

    愛した人に 誰よりも 愛されて

    小鳥のように 暮らしてみたい

    ああ 甘い夜霧に濡れる

    夜 私の愛も開く時

    その日が来たら 幸せが遠くても

    ひとつの夢を 二人でみつめて行こう

   この作品のあと、沖雅也は岡崎友紀と共演で「小さな恋の物語」(みつはしちかこ原作)で女学生のアイドルスターとなる。今からおもえばあの頃は30分ドラマ全盛期だった。

芥川龍之介の心中未遂

   芥川龍之介は昭和2年の4月と5月、2度にわたって帝国ホテルで心中を企てている。相手の女性は、平松麻素子といい、妻である文(ふみ)の女学校時代からの友人である。2度とも麻素子の心変わりで事なきを得ている。「或阿呆の一生」には次のように書かれている。

   彼女はかがやかしい顔をしていた。それは丁度朝日の光の薄氷にさしているようだった。彼は彼女に好意を持っていた。しかし恋愛は感じていなかった。のみならず彼女の体には指一つ触らずにいたのだった。

「死にたがっていらっしゃるのですってね」

「ええ。いえ、死にたがっているというよりも生きることに飽きているのです」

   彼等はかう云う問答から一しょに死ぬことを約束した。

「プラトニック・スゥイサイドですね」

「ダブル・プラトニック・スゥイサイド」

   彼は彼自身の落ち着いているのを不思議に思はずにはいられなかった。

   彼は彼女とは死ななかった。唯未だに彼女の体に指一つ触っていないことは彼には何か満足だった。彼女は何ごともなかったように時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持っていた青酸加里を一瓶渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言ったりした。

   それは実際彼の心を丈夫にしたのに違いなかった。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に与える平和を考えずにはいられなかった。

    この平松麻素子という女性は、その後どうなったのか何もわからない。戦後まもなく死んだということだけである。

夜郎と李白

    李白(701-762)は、安禄山の乱の時、揚子江方面で旗揚げした永王璘(りん)の叛軍に加わった罪で夜郎へ流罪されることになった。夜郎への旅の途中、妻の宗氏にあてた李白の詩「南のかた夜郎に流されて内に寄す」がある。

    南流夜郎寄内

 夜郎 天外 離居を怨む

 明月 楼中 音信疎なり

 北雁 春帰って 看み尽きんと欲し

 南来 得ず 予章の書

(通釈)私は夜郎というさいはての地に向かいつつ、きみと離ればなれの暮らしを嘆いている。月あかりのもとの高楼にいるきみからは、たよりもなかなか届けられない。北へ飛ぶ雁は春となって帰ってゆき、私が見送るうちにすっかりいなくなりそうだが、私は雁たちと反対に南へ来てしまい、予章にいるきみからの手紙を受け取ることができないのだ。

    従来、李白は夜郎に向かう途中で恩赦により引き返したという説が有力であった。「NHK古典講読,漢詩李白、2007年4月ー9月」の年譜を見ても「乾元2年(759年)3月、夜郎に至たらぬうちに恩赦に遇う」とある。しかし、近年の研究によると、李白は夜郎に到着し、逗留したのち、恩赦により引き帰したと考えたほうが妥当であろう。(胡大宇「李白と夜郎」、『夜郎研究』貴州民族出版社、2000年)

    ところで夜郎といえば、「夜郎自大」という漢代故事が想起されるが、この李白の時代の夜郎とは、中心的な所在地が大きくことなる。漢代の夜郎国は貴州省の西部、西南部にあり、唐代の郡県の夜郎は貴州省北部の桐梓(とうし)県夜郎壩に治所が置かれた夜郎郡夜郎県である。唐代夜郎県は五代、北宋と642年から1120年まで設置された。

作家と自殺願望

   芥川龍之介(1892-1927)は、生前、自殺について「自殺しないものはしないのではない、自殺することのできないのである」(「侏儒の言葉」)と語り、昭和2年7月24日未明、自殺している。夫人の芥川文子(1900-1968)は「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという。妻の文子は龍之介の芸術への真摯な生き方へのよき理解者だったのだ。遺された三人の子供、芥川比呂志(1920-1981)、芥川多加志、芥川也寸志(1925-1989)を抱えての夫人の生活はたいへんだったであろう。

   太宰治(1909-1948)は39年の生涯で5回の自殺未遂を繰り返し、昭和23年6月13日に玉川上水で愛人山崎富栄(1917-1948)とともに入水自殺した。そして「生まれてすみません」という太宰の自殺願望は芥川の自殺の影響が大きいことはよく知られている。昭和19年7月に発表した「津軽」には次のようなことが書かれている。

「ね、なぜ旅に出るの?」

「苦しいからさ」

「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」

「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七」

「それは、何の事なの?」

「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」

「そうして、苦しい時なの?」

「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっているはずだがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障になる。おい、おれは旅に出るよ」

    芥川龍之介や太宰治らの作家の自殺願望はいったい何時から始まったのだろう。森鴎外が明治44年に発表した「妄想」という小説の中にはドイツの哲学者マインレンダー(1841-1876)の事が書かれている。

   自分はこのまま人生の下り坂を下って行く。そしてその下り果てた所が死だということを知っている。しかしその死はこわくない。人の説に、老年になるにしたがって増長するという「死の恐怖」が、自分にはない。若い時には、この死という目的地に達するまでに、自分の眼前に横たわっている謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じがしだいに痛切でなくなった。しだいに薄らいだ。解けずに横たわっていても謎が見えないのではない。見えている謎を解くべきものだと思わないのでもない。それを解こうとしてあせらなくなったのである。そのころ自分はフィリップ・マインレンダーのことを聞いて、その男の書いた「救済の哲学」を読んでみた。この男はハルトマン(1842-1906)の迷いの三冊を承認している。ところであらゆる錯迷を打ち破っておいて、生を肯定しろというのは無理だと言うのである。これは皆迷いだが、死んだって駄目だから、迷いを追っかけて行けとは言われないはずだと言うのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面をそむける。ついで死の回りに大きい圏を描いて、震慄しながら歩いている。その圏がようやく小さくなって、とうとう疲れた腕を死の項(うなじ)に投げかけて、死と目と目を見合す。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンダーは言っている。そう言っておいて、マインレンダーは三十五歳で自殺したのである。自分には死の恐怖がないと同時にマインレンダーの「死の憧憬」もない。死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く。

   マインレンダーとはどのような哲学者なのであろうか。ショーペンハウアー(1788-1860)の厭世哲学(ペシミズム)を信奉し、自殺を賛美して自ら生命を絶ったらしい。日本で早くにショーペンハウアーの名前を知った鴎外が、このマインレンダーを「妄想」でとり上げた。しかし、鴎外は直接にマインレンダーの著書を読んだわけでも、詳しいわけでもないのだが、鴎外の著書に現れたということで、日本ではなんとなく、憂愁の大哲人のような印象をもたれたようである。そのため、芥川龍之介などは、自らの遺書とした「或旧友へ送る手記」の中に、自分の最後の心境を代弁してくれる人としてマインレンダーの名前をあげている。さてご本尊のショーペンハウアーといえば、すぐペシミズムと連想されるが本人の著書には、「ペシミズム」という言葉は一度もないという。自殺願望、厭世主義というレッテルは誤解によるものである。現在の研究によれば、ショーペンハウアーの哲学は、生と世界に対する根本的な懐疑と怖れであると同時に、救済希求の闘いであり、「生の哲学」というべきものであろう。ショーペンハウアーは、1860年9月21日、72歳でフランクフルトでなくなっている。森鴎外のかなり杜撰な西洋哲学の紹介が、日本の文壇の青年作家に誤解を与え、自殺願望を植えつけたという一面もあるのではないだろうか。

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