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2007年4月29日 (日)

楊守敬と岡千仭

    明治13年、駐日大使・何如璋の招きで来日した楊守敬(1839-1915)は、日本に多くの貴重書が残っていることに驚いた。森立之(1807-1885)らの協力によってそれらをことごとく購入した。4年間にわたる日本滞在の成果は、のちに「日本訪書志」「留真譜」「古逸叢書」として公刊された。楊守敬の来日は日本の書道界にも、巌谷一六(1834-1905)、日下部鳴鶴(1838-1922)らの書家に大きな影響を与えた。しかしながら、漢籍の収集については、主に東京府書籍館(東京図書館)の職員がなんらかの関与をしていたと思われるが、詳しい実態は不明である。

    この明治13年という年は、東京府書籍館が再び文部省所管となり、明治13年7月に「東京図書館」と改称されている。岡千仭は明治12年ころは東京府書籍館幹事として漢籍に詳しい館長であった。楊守敬と岡千仭とが筆談をまじえて日中の漢籍の収集方法を話し合っていたと推測している。そして楊守敬は筆談で「図書館」の三文字を見た最初の中国人であり、岡の口から「ずしょかん」あるいは「トショグァン」という耳慣れない言葉を聴いた最初の中国人ではないだろうか。いまだ江戸の名残りのある明治初期の日本人には「図書・館」(ずしょ・かん)と読むのが一般的なのだが、おそらく中国人はこれを「トショグァン」と読むにちがいないだろう。やがて日本人にも図書館(としょかん)と言うほうがハイカラに感じるようになって学生の間で流行した。それでも図書館(ずしょかん)という呼び方は明治中期(明治30年)頃までは残った。

    岡千仭(おかせんじん、1833-1913)。天保4年(1833年)11月2日、仙台藩士・岡蔵治の五男として生まれる。幕末、明治の漢学者。初名は修、本名は岡啓輔。のち岡千仭と改名。字は振衣、子文、天爵。鹿門(ろくもん)と号した。天保4年、仙台で生まれ、7歳で藩校養賢堂で学び、舎長となる。20歳で江戸に出て、昌平黌に入門、佐藤一斎、安積艮斎に師事する。文久元年、双松岡塾を松林飯山(廉太郎)、松本奎堂らと開塾し、清河八郎、本間精一郎らと交際するも、討幕運動の嫌疑をかけられ、わずか半年で閉鎖する。慶応3年には郷里にもどり、奥羽列藩同盟に反対し、養賢堂の指南役となる。翌年、奥羽列藩同盟に反対し、戦争中も伊知地正治官軍参謀とも会い、終戦を画策、藩執行官の怒りに遭い、投獄される。終戦を獄中で迎え、福沢諭吉著「英国議事院談」を読み、仙台藩議事院局を開くよう建言して、明治3年、大学中助教を拝命して上京。太政官修史局協修、東京府書籍館幹事など漢籍の収集に当たる。これら官吏生活を経て、病気のため明治14年には退官し、私塾経営にあたる。そのころ「岡鹿門」の名前は天下に知られ、漢学塾である「綏猷堂」(すいゆうどう)は芝愛宕下の旧仙台藩邸にあり、全国から若き俊英が集まり、一時は三千人の子弟をかかえたといわれる。尾崎徳太郎(のちの尾崎紅葉、1867-1903)、北村門太郎(のちの北村透谷、1868-1894)、加藤拓川(1859-1923)、石井民司(のちの石井研堂、1865-1943)、片山潜(1859-1933)、福本日南(1857-1921)などその門を叩いている。大正3年2月18日、死去。

   考証学者の楊守敬と漢学者の岡がどのような談義をかわしたかは不明であるが、楊守敬は帰国の明治17年には膨大な書籍を携えていたといわれる。その蔵書の多くは北京図書館に収蔵されている。清末・明治初期の図書館交流史の一端を示すだけで、その全貌があきらかでない。今後の図書館史の大きなテーマとなりうる。「図書館」という和製漢語も、そのころ日本で一般化しだしたが、これまでの中国図書館史の定説では20世紀初頭で、中国で「図書館」の呼称が最初につけられた公共図書館は、湖南省立中山図書館であるといわれている。(近刊書に工藤一郎「中国の図書情報文化史」つげ書房新社)このことを公立図書館の開館年で調べてみる。(「中国歴代蔵書史」徐凌志主編、江西人民出版社より)

1904.8 湖北省図書館

1904   福建図書館

1905   湖南省図書館

1906   黒龍江図書館

1908   奉天図書館

1908   直隷図書館

1908   山西図書館

    湖南省立図書館1905年説は、ふるく矢島玄亮「概説支那図書館史」(大東文化6)、大佐三四五「図書館学の展開」、佐野捨一「世界図書館年表」など多くは、「光緒31年(1905年)湖南省立図書館設置」説で、中国の「図書館」の呼称のはじまりは、湖南に始まるとされている。ところが、近年の公刊された「中国歴代蔵書史」をみても、1904年湖北省立図書館説も依然として考えられてよい。ずいぶん昔のはなしではあるが、実際、書面で直接に湖北省立に問い合わせてみたところ、丁寧な返事をいただき「わが湖北省立図書館は中国第一の図書館です」という返書をいただいた。湖北が先か、湖南が先かはそれほど関心はなくなったが、いま重要に思うのは、40代前半の若き楊守敬が日本の図書館員と交流し、図書館事業や図書館思想を中国にもたらしたであろう一事である。おそらく4年の在日期間に和製漢語の「トショグァン」という発音にも馴染んで本国で伝えたことは想像に難くない。(中国では「ずしょかん」は普及していない)そうすると1904年(明治37)という公式な「図書館」よりも1884年(明治17年)に中国に知られたことになり、従来より、「図書館」という語そのものの伝来は20年ほど早まることになるのではないか。

近年、岡千仭の研究は明治期の日中交流史として注目されている。

宇野量介「鹿門岡千仭の生涯」

王暁秋「中日文化交流史話」日本エディタースクール出版部

2007年4月28日 (土)

幸田露伴とその家族

    幸田露伴(1867-1947)は、慶応3年、江戸下谷三枚橋横町俗称新屋敷に幸田成延、猷(ゆう)の第四子として生まれる。名は成行(しげゆき)、通称鉄四郎。幸田成延は幕臣の奥お坊主衆今西家の出で、家付き娘である猷のところに入籍したのだが、ふたりとも詩歌管弦に明るく、学問にも造詣が深かった。両親の影響で幸田家男五人女二人の兄弟、このうち、三男は幼い頃に亡くなり、五男修造も東京音楽校在学中に夭折しているが、ほかは皆、英才ぞろいであった。

   長男の幸田成常は実業家、二男の郡司成忠は千島探検家、四男の幸田成行(しげゆき)は小説家、五男の幸田成友(こうだしげとも、1873-1954)は歴史家、長女の幸田延(ピアニスト、1870-1946)、二女の幸田幸(こうだこう、ヴァイオリニスト、1878-1963)は結婚して安藤幸。また幸田露伴の娘の幸田文(1904-1990)、孫は青木玉(作家)、ひ孫は青木奈緒(作家)である。

   幸田露伴は電気技師として北海道余市に赴任後、文学を志して帰京。尾崎紅葉と並び称されたが、その深い教養はいつどのように修得したのであろうか。府立中学、東京英語学校は中退している。父の幸田成延は明治になって一時大蔵省に勤務したといわれるが、明治20年ごろには神田末広町に「愛々堂(あいあいどう)」という紙屋を開いた。この屋号はキリスト教に凝ったためという。(成延は明治17年に下谷教会牧師・植村正久から受洗したことで、幸田家は露伴を除いて全員が受洗している)しかし事業は成功せず、家族は貧困状態にあった。少年時代の幸田露伴が最も熱心に通ったのは、そのころできた図書館であろう。明治5年8月に文部省の書籍館(湯島聖堂)として開館した、わが国唯一の国立図書館は、明治8年4月に東京書籍館と改称し、5月に開館した。明治13年7月1日より、東京図書館と改称し、7月8日より閲覧を開始している。このとき露伴14歳で東京中学を退学し、湯島の東京図書館に通い独学で勉強していたことが知られている。図書館では夜間開館と無料であった。明治17年8月に図書館は上野に移転し有料となる。19歳の露伴は明治18年には北海道余市に赴任することになる。つまり露伴の東京図書館利用は14歳から18歳までの湯島聖堂での東京図書館時代である。享年81歳。

    高木卓(1907-1974、小説家、東京大学卒業。ドイツ文学者)は、昭和15年に、歴史小説「歌と門の盾」で芥川賞に決定したが辞退している。芥川賞の長い歴史の中でも受賞辞退はめずらしい。実は高木卓は幸田露伴の甥にあたる。高木の本名は安藤熙(あんどうひろし)といい、二女の幸田幸子の子である。高木の幼い記憶と母の話では、露伴の父母の仲はよくなかったらしい。五男の幸田成友が書いた「幸田家は微禄ではあるが、瓦解前は世禄を食み、門構の屋敷に住していた」とあるが、まるで幸田家は武士の家柄のように見えるが「お坊主衆」であったが、幸田の兄弟は士族を誇る傾向があったといっている。母の猷のきびしい躾がすぐれた兄弟を育てたことは間違いなく、賢母の典型ではあるが、婿の成延にはやりきれない妻だったともある。そして成延と猷の別居は明治34年より前に始まったことは確実であり、夫婦としては不幸だったという意外な真実を語っている。(参考:高木卓「露伴の父母」現代文学大系3,筑摩書房)

    郡司成忠(ぐんじしげただ)は、海軍大尉を経て報效義会を結成、千島開拓に尽力したことで知られる。有志を募って千島列島の最北端にある占守島に上陸した。その一部を占領して、領有宣言をしたが、ロシアの捕虜となった。明治36年、郡司大尉の消息不明の知らせで、露伴は心配のあまり執筆に手がつけられず、読売新聞の連載小説「天うつ浪」を中断したほどである。なお甥の高木卓は「郡司成忠大尉」(昭和20年)を書いている。

    幸田成常(こうだしげつね)は、相模紡績会社社長となる。

    幸田成友は明治6年、神田末広町に生まれ、帝国大学史学科を卒業。慶応義塾大学、東京商科大学に奉職、同教授を歴任し、日本経済史、文化交渉史、日本キリスト教史、書誌学など内外の広汎な資料収集を行なった。成友は学生時代、寄宿舎で夏目漱石と同室だったという。昭和3年より約2年間のオランダ留学で精力的に収集した洋書には、キリシタン版に先立つ1590年、マカオで印刷されたサンデ「日本少年使節記」(:現天理図書館蔵)をはじめ、クラッセ「日本基督教史」、ツンベルグ「旅行記」などの多くの洋書貴重書をもたらしている。享年81歳。

   幸田延(こうだのぶ)は音楽取調所に学び、ピアニストとして名を馳せた。安藤幸(あんどうこう)は東京音楽学校卒業後、ヴァイオリニストとして活躍した。ともども「上野の西太后」とよばれた。ベートーベンの交響曲第九番は東京音楽学校での初演は大正13年11月29日のことであったが、安藤幸が早く弾きだし演奏はガタガタだったと作家の埴谷雄高は証言している。

   これら幸田家兄弟姉妹は皆それぞれに優秀であったが、やはり幸田家の誇りとするは、次兄の郡司成忠の千島拓殖への偉業であろう。これについては別項で述べる。

2007年4月27日 (金)

札幌バンドの末裔たち

    クラーク博士が帰国する前に「イエスを信ずる者の契約」をつくり、決心者に署名を求めた。大島正健(1859-1938)、伊藤一隆(1859-1929)、佐藤昌介(1856-1939)ら一期生全員がこれに応じた。大島、伊藤らは二期生の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らに猛烈な伝道攻撃をかけ、入信に導く。彼らは「札幌バンド」と呼ばれ、北海道開拓のみならず、その後の日本の発展に大きな影響を与えた。

   とくに大島正健と伊藤一隆の友情は深い。因みに伊藤をジョンK、大島をミッショナリーモンク(耶蘇坊主)、内村をヨナタンと呼ぶ仲である。大島の夫人は伊藤の妹、千代である。また大島正健の次女の麗子は天文研究家の野尻抱影(1885-1977)の妻である。野尻抱影の弟は「鞍馬天狗」の作者である大佛次郎(1897-1973)。

    伊藤一隆の次女、伊藤恵子は大正5年青山女学院英文専門科を卒業後、英国へ留学。同地で松本泰と結婚。帰国後、大正10年に東京の東中野に文化住宅を10軒以上建てたが、松本恵子が大佛次郎の縁戚であることもあり、文士が集まるサロンのようになった。住人に長谷川海太郎(牧逸馬、谷譲次、林不忘)や小林秀雄、田河水泡らがいる。そこは、「谷戸の文化村」と呼ばれた。

   また松本泰は大正12年に奎運社を興し、「秘密探偵雑誌」を創刊、つづいて「探偵文芸」を発行した。松本恵子の父、伊藤一隆も長篇の翻訳で参加し、資金的援助もしている。

   小林秀雄は昭和3年、中原中也の恋人の長谷川泰子との同棲生活が行き詰まり、家を出奔して、奈良の志賀直哉に会いにいった。昭和4年、奈良から帰ると、東京にいる妹の小林富士子のところに住み込む。ここで「改造」の懸賞論文に「様々なる意匠」を応募し、宮本顕治の「敗北の文学」と争い、二席になる。妹の小林富士子(1904-2004)は、松本泰・恵子の媒酌により、田河水泡(1899-1989)夫人となる。小林富士子は筆名を高見沢潤子として作家となる。

   また、大島正健の山梨県立甲府中学校長在職時代に、石橋湛山(1884-1973)が入学している。石橋は後年大島の著書「クラーク先生とその弟子たち」という本の序に「個人主義の精髄 クラーク先生と大島正健先生」を寄稿している。

2007年4月25日 (水)

クラーク精神の実践者、黒岩四方之進

   札幌農学校一期生、黒岩四方之進(くろいわよものしん)は高知県安芸市出身。黒岩涙香の兄。

    明治10年1月30日、クラーク博士と生徒、総勢14人は、雪の手稲山登山をした。目的は地衣類の珍種の採集と身体鍛錬であった。珍種の地衣を見つけたが、手の届かぬところにあった。そこでクラーク博士は級中で一番背の高い黒岩四方之進をさし、自ら雪の上に四つんばいになって背の上に乗ってあの地衣を取れと命ぜられた。「三尺去って師の影を踏まず」と教えられていた黒岩は困り果てたが、先生は早く乗れとせき立てる。余儀なく彼は土足のまま先生の背の上に上がり、地衣を手に入れた。この珍種は和名で「クラークごけ」と名づけられた。

  土足で恩師の背に乗った黒岩四方之進は、クラーク先生の寛容な心に胸打たれ、「イエスを信ずる者の誓約」には一番に進み出て署名したといわれている。札幌農学校卒業後、新冠御料牧場長として畜産界に貢献したが、退官後は日高国直別に一大農場を経営して村人から直別の聖人とあがめられた。クラークの弟子からは高位高官になる者も多いが、黒岩四方之進のような生き方こそクラーク精神の真の実践者であろう。

   また彼の逸話の一つに、内村鑑三が「万朝報」に入社したのは黒岩四方之進の懇願によるものといわれている。

2007年4月24日 (火)

水産界の先駆者、伊藤一隆と内村鑑三

    ウィリアム・スミス・クラーク(1826-1886)は、明治9年8月札幌農学校初代教頭として赴任した。博士は、教育方針をアメリカのマサチューセッツ農科大学を規範とし、学問はもちろんキリスト教を基礎とする人格教育に重きをおいた。しかし、クラーク博士は8ヵ月あまりの滞在で、明治10年4月、札幌郡寒村島松で馬上一鞭あてて学生一同に向かって「ボーイズ・ビー・アムビシアス」(少年よ、大志を抱け)という有名な言葉を残して帰国した。

   クラーク博士から直接教えを受けた1期生には伊藤一隆(いとうかずたか、1859-1929、水産学)、佐藤昌介(さとうしょうすけ、1856-1939、農政、北大初代学長)、荒川重秀(あらかわしげひで、社会学、演劇家)、大島正健(おおしままさたけ、1859-1937、英文学、音韻学、農学校教師)、渡瀬寅次郎(わたせとらじろう、1859-1916、実業家)、黒岩四方之進(くろいわよものしん、黒岩涙香の兄)、2期生には内村鑑三(1861-1930)、新渡戸稲造(1862-1933)、宮部金吾(1860-1951)、広井勇(ひろいいさむ、1862-1928)、町村金弥(まちむらきんや、1859-1944、畜産家)などがいる。その後も高岡熊雄(たかおかくまお、1871-1961、農学)、松村松年(まつむらしょうねん、1872-1960、昆虫学)、有島武郎(1878-1923)、森本厚吉(もりもとこうきち、1877-1950、評論家)、半澤洵(はんざわじゅん、1879-1972、農学)など近代日本を代表する思想家、研究者、技術者、教育者を輩出させた。

   とくに内村鑑三は明治・大正・昭和の日本に大きな足跡を印し、消すことのできない影響を与えた。内村は群馬県高崎の出身で、少年時代より魚に興味を持ち、最初の職業も水産を調査報告することであった。論文「北海道鱈漁業の実況」「石狩川鮭魚減少の原因」や北海道祝津村の鮑の繁殖に関する調査を実施氏して「鮑魚蕃殖取調復命書」や「日本産魚類目録」などを残している。

   内村鑑三の先輩である伊藤一隆(いとうかずたか)も水産界で大きな功績を残した人物である。伊藤は旧姓を平野徳松といい、明治5年開拓使仮学校に入学した。明治13年札幌農学校の第1期生となり、卒業後は開拓使物産局に勤務する。以来ほぼ一貫して水産行政に携わる。魚の缶詰を作る技術指導のために来日したU.S.トリートから「鮭は人工孵化が可能で、アメリカでは実用化された技術だ」と教えられた。そして明治19年渡米し、メイン州バックスボードの孵化場で人工孵化技術を実地に学習した。そして明治21年、千歳川上流の烏柵舞(うさくまい)に日本最初の鮭鱒の人工孵化場「千歳鮭鱒孵化場」を設置した。インディアンが魚を捕獲する水車からヒントをえてインディアン水車と呼ばれている。

    伊藤一隆は、キリスト者としても明治15年に無教会主義の札幌独立教会を設立し、明治20年からは全国初の禁酒運動を指導して北海道禁酒会会長を務め、さらにイギリス宣教師バチェラーとともにアイヌ人保護にも尽力、明治27年の退官後は帝国水産会社や北大協会初代会頭としての活躍のなか新潟での石油開発も行なっている。また娘の松本恵子(1891-1976)はアガサ・クリスティーなどの推理小説や「あしながおじさん」「若草物語」などの翻訳家としてよく知られている。(参考:「20世紀日本人名事典」日外アソシエーツ)

2007年4月23日 (月)

パラダイン夫人の恋

    映画「パラダイン夫人の恋」(1947年、日本公開1953年)はヒッチコック作品のうちでは失敗作といわれている。「レベッカ」「白い恐怖」に続くデビット・O・セルズニック制作映画であり、制作にあたってはセルズニックの干渉が強かったと思われる。キャスティングもヒッチコックの思いのままにはならなかったのだろう。それほどセルズニックは個性の強い製作者であった。

   ハリウッドのプロデューサーのデビッド・O・セルズニック(1902-1965)は、無名女優を発掘して、大女優にする名人である。ヴィヴィアン・リー、ジョン・フォンティーン、イングリッド・バーグマン、ジェニファー・ジョーンズ、アリダ・ヴァリなど。バーグマンのスウェーデン映画「間奏曲」を見て、バーグマンと専属契約を結んだ。「間奏曲」のリメイク作「別離」(1939年)でレスリー・ハワードの相手役に抜擢し華々しいハリウッド・デビューをした。ヒッチコック監督「白い恐怖」(1945年)ではグレゴリー・ぺックと共演した。しかしハリウッドにあきたらないものを感じていたバーグマンは再契約を希望するセルズニックを断わり、1947年米国を去った。

   セルズニックは第2のバーグマンを探した。アリダ・ヴァリ(1921-2006)だった。14歳でイタリアで20本もの作品に出演したが、プロパガンダ映画への抵抗から本国での映画出演が困難だった。アリダは1943年、「Ma L’amore no」という歌で大ヒットしている。(映画マレーナの挿入歌)戦後、セルズニックと専属契約し、ヒッチコックの「パラダイン夫人の恋」(1947年)で売り出そうと画策した。セルズニック自らが脚本を担当した。相手役はグレゴリー・ぺック。ところがこの作品は興行的にも成功とは言えなかった。ヴァリはイタリア訛りが強いことも原因の一つといわれる。むしろこの映画で魅力的だったのは弁護士の妻のゲイ・キーン役のアン・トッド(1909-1993)だった。戦後のイギリス映画が最初に送り出したスター女優で、ハリウッド女優にはない知性と美貌が輝いていた。アリダ・ヴァリも翌年、キャロル・リード監督「第三の男」ではヒロインのアンナ役を演じ、国際的女優となった。セルズニックの作品にはダフネ・デュ・モーリアの「レベッカ」やグレアム・グリーンの「第三の男」と原作探しにも定評があるが、「パラダイン夫人の恋」もロバート・ヒッチェンズという小説家の原作である。ヒッチェンズの小説の映画化は、マレーネ・デートリッヒ主演の「砂漠の花園」(1936年)でセルズニックは一度成功している。今回、パラダイン夫人役には、引退していたグレタ・ガルボの起用を計画したが失敗した。パラダイン夫人の美しさに心を奪われる弁護士キーンには、グレゴリー・ぺックではなく、ローレンス・オリビエかロナルド・コールマンを起用したいところだった。若いぺックがパイプを加えて実年齢よりふけを演じているが、イギリスの弁護士の雰囲気をだすには無理があった。召使のアンドレ役のルイ・ジュールダンは美男すぎて野卑な感じが出せなかった。判事のチャールズ・ロートンがアン・トッドに欲望を感じており、アンが夫をパラダイン夫人に奪われるとの不安が法廷劇とは別に存在していた。盲目の夫の殺人事件という謎解きよりもスターの心理描写を味わう作品であろう。

風林火山、虚構と史実

   NHK大河ドラマ「風林火山」は、歴史ドラマの醍醐味を存分に見せてくれる。原作は井上靖(1907-1991)が「小説新潮」に昭和28年10月から29年12月まで15回にわたり連載した中編小説である。同じ年には井上靖の代表作ともいえる「あすなろ物語」を「オール読物」(昭和28年1月から6月)に連載している。

  井上靖(1907-1991)は北海道上川郡旭川町で生まれ、伊豆湯ヶ島で幼年時代を、沼津で中学時代を、金沢で四高時代を、大阪で新聞記者として過ごしてきた。「あすなろ物語」「しろばんば」などの自伝的物語と「風林火山」「信松尼記」(昭和29年群像3月号)などの歴史小説と異なるジャンルを並行して書き上げる多作の作家だった。なぜ井上靖は実在性を疑問視される山本勘助を小説にしたのだろうか。単行本の帯には次のように書かれている。

   戦国時代には合戦に当って、作戦を指導し、秘策を練るというものがあった。彼自身は一軍の大将でもなければ、英雄でも豪傑でもない。併し合戦の勝敗は、この匿れた孤独の作戦者に負うところが極めて多かったようである。「風林火山」の主人公は、武田信玄の軍師山本勘助である。山本勘助が史上実在の人物であったかどうかは甚だ疑わしいが、それをふと一人の軍師の自己韜晦として想像した時、筆者は堪らなく勘助を、そのような人物を書いてみたいと思った。

   同じ新聞記者出身の作家である司馬遼太郎と比較すると、司馬は歴史の史観を重要視するのに対して、井上は歴史スペクタルとしての歴史読物的な要素に関心があるように思える。

   NHK大河ドラマ「風林火山」は、これまで大森寿美男のオリジナルストーリーの部分であったが、ようやく井上靖の原作の部分が放送されるようになった。

    天文11年6月、武田晴信は、諏訪に侵攻、桑原城を急襲した。諏訪頼重は桑原城を開城、降伏した。晴信は頼重を甲府に連行すると、切腹を命じた。頼重の息女で15歳の諏訪姫(小説・ドラマでは由布姫)は美貌の少女だった。晴信は姫を側室にした。武田の重臣たちは、いかに女人といえ、敵の片割れをお側に召すことはよろしからずと反対したが、山本勘助だけが、もし諏訪姫に男児ができれば、諏訪の遺臣や一族も、滅びた家名がつながるとして、賛成し、勘助の助言により姫を側室に迎えることができたという。

   第16回「運命の出会い」の場面の原作小説の一節。姫は辱めをうける前に自害を、という周囲の説得を拒否した。

   勘助はそれまで呆然と姫の方に見惚れていたが、いきなり立ち上がると、姫の腕を掴み、「なぜ、自刃するのがお厭です」と言った。勘助の手を振り解こうとしながら、頼重の女は下から勘助の顔を見上げた。その時は、いつか見たあの敵意ある眼眸だった。「みんな死んで行く。せめてわたし一人は生きていたい」姫は言った。その言葉は勘助が今までに耳にしたことのないきらきらした異様な美しさを持ったものであった。武家の女なら誰も口に出すのを憚る言葉だったが、心を直接打って来る何かがあった。「わたしまでが死んでどうなるの。わたしは生きて、この城や諏訪の湖がどうなって行くか、自分の眼で見たい。死ぬのは厭。どんなに辛くても生きているの。自分で死ぬなんて厭!」憑かれているように、言葉が姫の口から飛び出した。

   山本勘助。三河国牛窪の生まれといわれ、川中島合戦に討死した(1561年)と「甲陽軍鑑」に伝えられるが、その実在性には疑問があった。小幡景憲の「甲陽軍鑑」が江戸時代に編集された偽書・虚構としてみられてきたからである。ところが1969年に、勘助の名が書かれた史料「市河(市川)文書」が発見された。1557年(弘治3年)6月23日市河藤若宛武田晴信書状に、市河藤若への使者の山本菅助がみえる。実在の人物を小幡景憲が甲州流軍学の始祖に仮託したものかも知れない。また「甲陽軍鑑」は、戦国時代特有の表現が使われ、正確に写し留めている部分も認められ、偽書説を否定する意見もでてきている。このように「風林火山」をめぐる問題は、ドラマと小説との虚構性だけではなく、史料と史実との食い違いがあるからといって、すべてを否定するのではなく、再検証して、史料としての可能性を探る動きが歴史界にもでてきた。山本勘助とはそのような象徴的な人物であり、その人物に焦点をあてた井上靖の先見性を評価すべきであろう。

   「風林火山の旗」は、「孫子の旗」「四如の旗」ともいい、武田晴信が孫子の兵法書に通じていたことから、「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」から抜粋したもの(孫子四如の略語)であることは広く知られている。「甲陽軍鑑」には「黒地に金をもってこの四つの語を書きたり、旗は四方なり」とある。現在、恵林寺や雲峰寺に所蔵している「四如の旗」は江戸時代のもので、「甲陽軍鑑」に記載されたデザインとは大きく異なる。ともかく16文字(四字四連句)「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」と14文字(七字二連句)「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と二種のデザインが見られる。16文字と14文字の2文字の違いは、一行目と二行目に「其」の字を入れ、全体を整えたものである。ところで「風林火山」の句の孫子の真意であるが、軍争篇(陣取り合戦)にあることから、軍事行動のカムフラージュ作戦をのべたものであるらしい。ドラマで山本勘助は「戦わずして勝つ」という軍略を述べていたが、「戦いに勝つには相手の裏をかき、自分の有利な条件になるよう臨機応変に物事を良く見計らった上で行動する」という意味にとらえ、調略の重要性を唱えており、屈強な武田の騎馬軍団の軍事行動と大きくことなる点も興味深い。

Bushou08   かつて「山本勘助の家紋は何か」など話題になったことがある。最近は山本家が「三つ巴」であることから「左三巴」といわれるようになった。観光地の土産品のグッズとして堂々と売られている。

2007年4月22日 (日)

無礼講のはじまり

    無礼講とは、貴賎や身分の上下の差別をせず、礼儀を捨てて行なう酒宴のことをいう。この語は古く、「その心をうかがい見むために、無礼講という事を始められける」と「太平記」に書かれている。

   後醍醐天皇(1288-1339)は、無礼講と呼ばれる大宴会を連日開き、宴会にかこつけて日野俊基、日野資基、花山院師賢、四条隆資、武士の土岐頼貞、多治見国長らと語らい、討幕の計画を練った。「献杯のしだい、上下をとわず、男は烏帽子を脱いで、もとどりを放ち、法師は衣を着ずして白衣となり、年十七、八歳ばかりの、みめ形すこぶる美しく、肌のきれいな女たちが二十余人、絹のひとえを素肌につけ、雪白の肌はすけて、さながら蓮華が水中から出てきたよう、遊び、たわむれ、舞い、歌う」という盛大な無礼講であった。この乱痴気さわぎのかげで、幕府を滅ぼす計画で持ちきりだあった。ところが、直前になって土岐頼員(ときよりかず)が寝物語に抱き寄せた愛妻の口から六波羅探題に事情が密告されてしまう。日野俊基、日野資基は捕縛、土岐頼貞、多治見国長は斬罪に処せられる。これを「正中の変」(1324年)という。

君よ知るや南の国

   「君よ知るや南の国、樹々は実り花は咲ける」という堀内啓三(1897-1983)による名訳で知られる「ミニヨンの歌」は、もともとゲーテの小説「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」(1791-1796)の中の詩である。「ミニヨンの歌」は4編あるが、よく知られるのはヴィルへルムへの密かな恋心を抱くサーカス一座の少女ミニヨンが、故郷イタリアへの想いをうたう歌で、フランス人のアンブロワーズ・トーマの歌劇「ミニヨン」の中のアリアである。歌曲「ミニヨンの歌」はこれまで90曲ほどの作品が残されている。おもな作曲家としては、ライヒヤルト(1752-1814)、ツェルター(1758-1832)、ベートーベン(1770-1827)、シューベルト(1797-1828)、メンデルスゾーン(1805-1847)、シューマン(1810-1856)、リスト(1811-1886)、グノー(1818-1893)、ルービンシュタイン(1829-1894)、チャイコフスキー(1840-1893)、デュバルク(1848-1933)、ヴォルフ(1860-1903)などがいる。

  またゲーテの詩「ミニヨンの歌」の邦訳も森鴎外はじめ数多く残されている。

君知るや南の国

レモンの木は花咲き くらき林の中に

こがね色したる柑子は枝もたわわに実り

青き晴れたる空より しづやかに風吹き

ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く

雲にそびえて立てる国や 彼方へ

君とともに ゆかまし

            (森鴎外の訳)

              *

君や知る、レモン花咲く国

暗き葉かげに黄金(こがね)のオレンジの輝き

なごやかなる風、青空より吹き

テンニン花は静かに、月桂樹は高くそびゆ

君や知る、かしこ。

かなたへ、かなたへ

君と共に行かまし、あわれ、わがいとしき人よ。

君や知る、かの家。柱ならびに屋根高く、

広間は輝き、居間はほの明かるく、

大理石像はわが面を見つむ、

かなしき子よ、いかなるつらきことのあるや、と。

君や知る、かしこ。

  かなたへ、かなたへ

君と共に行かまし、あわれ、わが頼りの君よ。

君や知る、かの山と雲のかけ橋を。

ラバは霧の中に道を求め、

洞穴に住むや古籠の群。

岩は崩れ、滝水に洗わる。

君や知る、かしこ。

  かなたへ!かなたへ

わが道は行く。あはれ、父上よ、共に行かまし!

               (高橋健二の訳)

                       *

君よ知るや南の国

レモンの花咲き オレンジのみのる国

空は青く 風はさわやか

桂(かつら)はそびえ ミルテかおる

君よ知るや かの国

はるかに はるかに

恋人よ 君といこうよ

君よ知るや 南の国

そこにある わがすみか

広間あかるく 花の香みちる

「おまえは しあわせ?」

やさしく といかける ふるい胸像

はるかに はるかに

恋人よ 君といこうよ

       (三木澄子の訳)

           *

       ミニヨン

あこがれを知るひとだけが、

私の悩みを知っている。

すべての喜びから

ひとり離れて、かなたの

大空を私は眺める。

ああ、私を愛し、知っているひとは、

遠い所にいる。

目はくらみ

私の心は燃える。

あこがれを知るひとだけが、

私の悩みを知っている。

2007年4月16日 (月)

能海寛と河口慧海

   明治から大正にかけて秘境チベットに潜入した人は、河口慧海(1866-1945)、能海寛(1869-1901)、寺本婉雅(1872-1940)、成田安輝、矢島保次郎、青木文教、多田等観などで仏教経典取得や政府任務などが主な目的であった。

   能海寛(のうみゆたか)は、すでに明治26年に「世界に於ける仏教徒」を自費出版し、チベット大蔵経の原典入手の重要性、チベット探検の必要性を説いている。明治29年5月7日、能海寛は、東本願寺の執事・渥美契縁あてにチベット探検嘆願書を提出した。そして明治32年と明治33年の二度チベット入りを試みるが失敗している。能海は明治34年4月、消息不明となる。彼の歌が残っている。

    のぞめども 深山の奥の 金沙江

         つばさがなければ 渡りえもせず

  能海と共に哲学館で学んだ河口慧海は、明治31年、31歳の時、和泉丸で神戸を出帆した。インドでサラット・チャンドラ・ダスからチベット語を教わり、明治32年、ネパールからチベットに潜入することに成功した。明治34年、慧海は法王ダライ・ラマに謁した。しかし明治35年5月、日本人であることが露見し、危険を感じた慧海は多くの仏典を荷につくり、チベットを脱出した。明治36年、神戸に着いた。新聞記者たちは「西蔵旅行記」を聞き書きで連載し、博文館から出版された。

武者小路実篤「友情」の成立背景

    武者小路実篤(1885-1975)の中篇小説「友情」は、現在でも最もよく読まれている氏の代表作であるが、あまりにやさしいので物足らないと言う人がいる。しかし亀井勝一郎によると「決してやさしくはないのだ。実に多様な糸がはりめぐらされ、きめのこまかい神経のよくゆきとどいた作品であることがわかる。そして相当にしつこい。しかも全体として清楚で明るい。これが武者小路氏の独自の風格である。作柄は大きい。」と新潮文庫の解説(昭和22年)に書かれている。また宇野浩二が「本当の言文一致を見せてくれたのは武者小路実篤だ」と評しているように、80年以上前の作品でありながら、ほとんど現代文として読みやすい。また「友情」や「愛と死」がいつまでも新鮮で古さを感じさせないのは、青春の恋愛であることが大きな理由であろうが、三角関係、海外留学、難病という韓国ドラマ顔負けの設定と都会的モダニズムが見られることである。「新しき村」という原始回帰にかかわらず作品は都会的であるのは、本質的に実篤という人は農村に向かず、都会人、貴族的趣味の人なのであろう。

   「友情」は大正8年10月16日より12月10日まで48回にわたり「大阪毎日新聞」に連載したものである。実篤は、前年の大正7年宮崎県児湯郡木城町石河内に「新しき村」を創設した。妻の武者小路房子(1892-1990)とともに日向新しき村に入村している。大阪毎日新聞は新しき村の精神を紹介していたので、実篤は苦手な新聞連載小説を引き受けたのであろうか。動機して考えられることとしては、尊敬する夏目漱石が新聞連載小説を執筆したことや、「それから」の影響があったのかも知れない。つまり実篤は日向の寒村で執筆し、大阪堂島の毎日新聞社へ郵送したのであろう。ところが、この大正7、8年から昭和の初期にかけての実篤の私生活は平穏なものではなかった。「友情」という作品そのものは、実篤の青年期から壮年期へ入る頃の、最も溌剌とした、力のあふれた時代の作品で、実篤の青春が一つの結晶をみたのであるが、大正10年頃に入村した飯河安子と恋愛関係となり、子どもまででき大正12年、結婚する。大正13年に実篤は村を去り、武者小路房子は村にそのまま残り、昭和7年、杉山正雄と正式に結婚し、生涯新しき村で暮らす。一方、実篤は東京で文筆活動に専念し、新子、妙子、辰子と三人の子供にもめぐまれたが、大阪毎日新聞の女性記者の真杉静江(1901-1955)との愛人関係も生まれる。「友情」の作品に見られる健全な理想主義と私生活での不貞と愛人問題の両面を抱えていた。しかしながら実篤の人生は有島武郎のように悲劇性はなく、あくまで向日性、楽天的であった。昭和期になって「トルストイ」「二宮尊徳」「井原西鶴」「楠木正成」と伝記を執筆する。昭和14年「愛と死」を「日本評論」に発表する。

    「愛と死」のヒロイン夏子は逆立ちの得意なお嬢さんである。夏子の素直さ、快活さ、聡明さ、かわいさ、明るさ、すべて「友情」のヒロイン仲田杉子とによく似ている。杉子は16歳の女学生。鎌倉の別荘で大宮が杉子とピンポンをして、杉子を滅多打ちに負かす場面が印象的である。杉子の手紙に大正期の女権拡張者、平塚らいてう、伊藤野枝らを意識した新しき女性の思想に対抗する「男は仕事、女は産むこと」という考えを提示している。またタイトルの「友情」であるが、実篤は「主人公は恋である。しかし恋と云ふ言葉を使いたくないのとこの小説の色彩は友情によって染められているので友情とした」と書いている。メインテーマはもちろん恋である。実篤の「友情」という小説には「友情」という言葉はででこないが「恋」という言葉が何十回となくでてくる。とくに有名なセリフは次のものであろう。

ともかく恋は馬鹿にしないがいい。人間に恋と云ふ精神のものが与えられている以上、それを馬鹿にする権利は我々にない

この大宮の言葉は、のちに大宮と杉子との関係を暗示する伏線にもなるわけだが、実篤の数年後の私生活をも暗示しているようである。

2007年4月14日 (土)

明智左馬之助の湖水渡り

    明智光秀が本能寺に織田信長を襲った時、弟の明智左馬之助光春(1537-1582)は光秀に呼応して安土城を手に入れた。ところが、中国から兵を返した羽柴秀吉は山崎合戦で光秀を討った。秀吉は堀秀政に一隊を授けて安土城を急襲させた。左馬之助は防戦これ努めたが、多勢に無勢、如何とも詮術なく、明智の居城坂本に走ろうとしたが道はすでに防がれていた。ままよと左馬之助は愛馬鹿毛もろともザンブと湖水に乗り入れた。左馬之助その日のいでたちは、雲龍を描いた陣羽織に二の谷の兜をかむり、緋縅の鎧に太刀打ち佩き、大鹿毛の駿馬に跨っていた。水馬は武士の嗜みとはいえ大海のようなこの琵琶湖をどう乗り切るかと敵も味方も懸念したが、左馬之助はみごと対岸に乗り上げ、唐崎の松に駒の手綱をつなぎ、「でかしたぞ鹿毛」と馬を労わり、愛馬を殺すに忍びず、懐紙を出し「左馬之助を乗せて湖水を渡りたる馬」と書いて鬣につけ、首をたたいて別れ去った。この馬は後に賤ヶ岳の戦には20里の悪路を走駆し活躍したという。

   明智光春は「明智軍記」において光秀の従弟として伝えられているが、光春の存在は史料的には確認されておらず、光秀の甥の明智秀満(1536-1582)と混交していると考えられる。また左馬之助、左馬助、左馬介、左馬之介など別表記もある。

2007年4月13日 (金)

中村孝也と楠木正成

    武者小路実篤(1885-1976)は、昭和17年に発表した「楠木正成」を書く前に、歴史学者の中村孝也(1885-1970)に会って教えを乞うている。中村孝也は戦後もポプラ社から「新日本歴史文庫」「新世界歴史文庫」を刊行しているが、それらの本は少年時代のケペルの愛読書だった。戦前の修身の教科書(昭和2年版)を実際に執筆した者の名前は記載されていないので本当のところよく分からないが、次の「忠孝」の執筆は中村孝也だといわれている。(執筆当時42歳)それは戦後の「新日本歴史文庫7」にもよく似た記述の箇所が見られるので、かなり信用できる話であると思う。「尋常小学修身書 巻6」の「第6課 忠孝」は、次のような内容である。

  北條氏が滅びて、後醍醐天皇は京都におかへりになりましたが、間もなく足利尊氏が反きました。楠木正成は諸将と共に尊氏を討って九州に追払ひましたが、その後、尊氏が九州から大軍を引きつれて京都に攻上って来るとの知らせがあったので、勅を奉じて、尊氏を防ぐために兵庫に赴きました。正成はこれを最後の戦と覚悟して、途中桜井の駅でその子正行に向ひ、「父が討死した後は、お前は父の志をついで、きっと君に忠義を尽く奉れ。それが第一の孝行である」とねんごろに言聞かせて、河内へ返しました。この時正行は十一歳でした。正成はそれから兵庫に行って遂に湊川で討死しました。家に帰っていた正行は、父が討死したと聞いて、悲しさの余り、そっと一間に入って自殺しようとしました。我が子の様子に気をつけていた母は、この有様を見て走りより、正行の腕をしっかとおさへて、「父上がお前をお返しになったのは、父上に代って朝敵を滅し、大御心を安め奉らせる為ではありませんか。その御遺言を母にも話して聞かせたのに、お前はもうそれを忘れましたか。そのやうなことで、どうして父上の志をついで、忠義を尽すことが出来ますか。」と涙を流して戒めました。正行は大そう母の言葉に感じ、それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守って、一日も忠義の心を失わず、遊戯にも賊を討つまねをしていました。正行は失はず、遊戯にも賊を討つまねをしていました。正行は大きくなって、後村上天皇にお仕え申し、たびたび賊軍を破りました。そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかわして正行を攻めさせました。正行は勝負を一戦で決しようと思ひ、弟正時をはじめ一族をひきつれて、吉野の皇居に赴き、天皇に拝謁して最後のお暇乞を申し上げました。天皇は正行を近く召され、親子二代の忠義をおほめになり、汝を深く頼みに思ふぞとの御言葉さへ賜はりました。正行はそれから四條畷に向ひ、僅かの兵で賊の大軍を引受けて花々しく戦ひましたが、此の日朝からのはげしい戦に、味方は大方討死し、正行兄弟も矢きずを多く受けたので、とうとう兄弟さしちがへて死にました。

  格言 忠臣ハ孝子ノ門ニ出ヅ。

2007年4月12日 (木)

天田愚庵と清水次郎長

    天田愚庵(1854-1904)は安政元年7月20日、陸奥磐城平藩士甘田平太夫と妻ナミの五男として生まれた。幼名は久五郎、のち五郎。別に鉄眉、鉄眼(てつげん)とも称す。戊辰戦争で父母姉が行方不明となり、以後その所在を尋ねて放浪生活を始める。天田五郎と名のり、山岡鉄舟門下に入った。反政府的な政治運動に暴れ回り、五郎の前途を案じた鉄舟は、明治11年、彼の身柄を侠客清水次郎長に託した。次郎長の膝下にあること1年、五郎は持ち前の放浪癖から清水をとび出し、旅写真師となって各地を遍歴する。清水に舞い戻ったのが明治14年。清水次郎長の養子となり、その名も山本五郎と改める。清水次郎長が逮捕されたときは、次郎長の釈放に奔走した。そして文才のあった五郎は、明治17年に「東海遊侠伝」を出版し、清水次郎長の名を全国に広めた。明治20年に得度して仏門に入ってからの五郎は、禅僧となり天田愚庵と号した。国学を落合直亮(なおあき)に学び丸山作楽(さくら)らと交流、万葉調の歌風を成し、正岡子規に影響を与えた。そして晩年、父母姉との再会を求めて西国巡礼に旅立つ。明治37年1月17日、伏見桃山の庵で51歳にして没した。「巡礼日記」(明治27年)「愚庵遺稿」(明治37年)

2007年4月 9日 (月)

赤瀾会

   赤瀾会は、大正10年4月24日結成された日本で初の女性による社会主義団体である。新婦人協会(大正8年11月24日発足、中心メンバー、平塚らいてう、市川房枝、奥むめお)に強い対抗意識があった。伊藤野枝は「改造」大正10年2月に「中産階級婦人の利己的運動:婦人の政治運動と新婦人協会の運動について」を発表している。赤瀾会は、新婦人協会はブルジョワ的、中産階級的で生ぬるいと考えていた。もはや現行社会制度の枠の中だけで女性解放を唱えて運動するのは無意味だというのである。山川菊枝などが中心として書いたと思われるメーデーのビラから要約抜粋する。

   赤瀾会は資本主義社会を倒壊し、社会主義社会建設の事業に参加せんとする婦人の団体であります。解放を求むる婦人よ、赤瀾会に加入せよ。社会主義は人類を資本主義の圧制と悲惨とから救う唯一の力であります。正義と人道とを愛する姉妹よ、社会主義運動に参加せよ。

    赤瀾会は一部のインテリ女性による運動ではなく、労働者階級の女性に呼びかけたものであり、堺利彦や伊藤野枝の思想が強く入っている。赤瀾会の中心メンバーは次のような女性たちである。伊藤野枝(大杉栄の妻)、青山菊枝(後に山川均と結婚、山川菊枝)、堀保子(堺利彦の先妻の妹、大杉栄の前妻)、堺為子(堺利彦の妻)、堺真柄(堺利彦の妹、近藤真柄)、秋月静枝、岩佐しげ、北川千代、九津見房子、高津多代子、仲宗根貞代、中村志げ、中村みき、橋浦はる子、橋浦りく、望月ふく子、吉川和子。

個の勝利者、辻潤

    伊藤野枝と別れた辻潤は上野の寛永寺にひきこもった。そうした絶望的な精神状況のなかで、19世紀ドイツの特異な思想家マックス・シュティルナー(1806-1856)の著書「唯一者とその所有」(原書のドイツ語ではなく英語)を読む。大正8年、36歳の時、比叡山に上ってシュティルナーの訳業を始める。(辻はスティルネルと表記している)

    マックス・シュティルナーは当時の知識人たちに大きな影響を与え、シュティルネリアンという言葉もあるほどである。主な日本での翻訳書を紹介する。

大正9年 「唯一者とその所有者 人間篇」辻潤訳 日本評論社

大正10年 「自我経」(「唯一者とその所有者」の全訳)  辻潤訳 改造社

昭和3年 「世界大思想全集29」(スティルネルの「唯一者とその所有」「芸術と宗教」、ジョルジュ・プレカアノフの「無政府主義と社会主義」百瀬二郎訳を収録)

昭和4年 「唯一者とその所有」辻潤訳 改造文庫

昭和4年 「唯一者とその所有」草間平作訳 岩波文庫

昭和4年 「社会思想全集25」 (「唯一者とその所有」収録)生田長江、高橋清訳 平凡社)

   シュティルナーの思想を一言でいうと「汝は汝の汝に生きよ」であり、「汝の汝」以外には何者にも仕えるなという徹底した唯一者個人の世界である。あらゆる外的な権威を排除して、もっぱら自我の権威のみを説くところの徹底的な個人主義を主張し、哲学的無政府主義に到達している。シュティルナーの思想はバクーニン、クロポトキン、ニーチェなどに影響を与えた。

   明治末期から大正時代にかけての近代日本は、日露戦争前後からとくに原敬内閣の経済政策によって、都市化と工業化(機械文明)が急速な進展を見せた。田園と都市の相貌は急速に変わった。1920年代、一種の反近代主義的・ロマンティシズム的潮流がみられる。アナーキスト(無政府主義)として知られる大杉栄にもスチルネリアン的個人主義的偏向から出発している。大杉栄は「生の拡大」(大正2年)において「原始においてすべての人は生き生きと活動し、自我の拡張、生の充実という感情をたっぷり味わっていた。おそらく人類はその当時、周囲世界と闘うためそしてまたこれを利用するため、相互扶助の協同社会をつくっていたのであろう」と論じた。「けれども人類はついに原始に帰ることを知らなかった。(中略)自己意識のなかった原始の自由時代に、さらに十分なる自己意識を掲げて帰ることを知らなかった」このような原始回帰達成のために自由連合主義、アナルコ・サンジカリズムなどがあった。

   大正末期、辻潤はアナルコ・サンジカリズム運動の拠点であった書店「南天堂」に出入りし、アナ派詩人と交流している。しかし辻は自身をアナキストではなく、日本で最初のダダイストの名乗りをあげている。「唯一者とその所有」の出版によって有名人となった辻の家にはいろいろな人が集まってきた。詩人の高橋新吉も訪れた。高橋は当時21歳である。この高橋によって辻は初めてダダイズムなるものを知ったのである。辻は「何となく本来の面目を云々する禅門の悟道の境地と似通っている」といい、「シュティルナーを読んだ後で禅宗の経典などを読むと、自分だけには容易に理解できるような気がする」と語っている。そして大正12年に辻は高橋に無断で「ダダイスト新吉の詩」を刊行する。しかし、辻は社会運動、労働運動への活動は少なく、デカダンな世界に入っていく。辻の本質は、刹那、享楽、趣味、道楽という色彩が濃い。江戸趣味、悪魔主義、唯美主義といわれる谷崎潤一郎との両者の共通性は見られる。事実ふたりは大正5年ころから知り合い、谷崎は辻をモデルとして小説「鮫人」(大正9年、中央公論に連載)を書いている。

   辻潤は昭和3年、45歳にして初めてパリに留学する。辻はパリ滞在一年の間、ほとんどホテルの一室で暮らしたていた。宿命的日本人であることを知った辻は、反近代的、反都会的、反資本主義的傾向をますます強くする。昭和7年3月、天狗となって二階から飛び降りるという事件が新聞で大きく報道された。以後、晩年は精神異常となり、放浪生活の後、昭和19年11月24日、東京上落合の寮で他界する。61歳。桑原国治の妻がアパートに入ると、全身シラミに食われて息をひきとっている辻潤の死体があった。死因は餓死である。表面上からみるとシュティルナーの人生と相似するところもあるが、近代合理主義に限界が見られる現在、辻の生き方を「個の勝利者」とみなすかどうか、それは個人の判断に委ねることとする。

辻潤と伊藤野枝

    辻潤(1884-1944)は、明治36年、20歳のとき日本橋千代田尋常高等小学校の助教員となった。以来、ずっと教員生活を続けた。明治41年、浅草精華高等小学校に教鞭をとる。そして、辻潤が上野高等女学校へ転職したのは、明治42年4月、26歳の時であった。女子高生だった伊藤野枝(1895-1923)との恋愛事件で、辻潤はわずか4年にして上野高女を退職する。辻潤の人生は伊藤野枝との出会いが大きな転機であった。

    当時、野枝は学園新聞「敬愛タイムス」の編集をしていた。辻はその野枝の編集と文筆の才に感心させられた。そして辻は、野枝を育てるために、西欧の近代文学や思想を教えた。教師と生徒の親しい関係はしだいに恋愛へと育っていった。

   そのとき伊藤野枝には、親が決めた末松福太郎という婚約者がすでにいた。卒業すると、野枝は郷里の福岡で挙式するが、9日目にはもう末松家を出て、東京へ戻り、辻と同棲するようになる。福太郎は、再三「ノエヲカエサネバウツタエル」と電報を打ってよこした。校長も「あくまで野枝を愛するなら、学校を辞めてからのことにしてもらいたい」と退職を促すような言い方をするので、辻は「それでは今日かぎり辞めさせていただきます」と啖呵を切って退職した。

    伊藤野枝は、辻潤によって新しい教養に導かれ、平塚らいてうの青鞜社に参加し、婦人解放運動にかかわっていく。辻潤との間には、二児をもうけながらも、夫に離婚を申し出てアナーキスト大杉栄に走った。そして大正12年、大杉栄とともに官憲によって扼殺される。

2007年4月 7日 (土)

私の初恋が、また私を呼び止めたらどうしょう

    全20話の「冬のソナタ」、第14話「二度目の事故」で交通事故で記憶を失ったチュンサン(ぺ・ヨンジュン)が再び交通事故で記憶を取り戻す。現実にはありえない設定ではあるが、ドラマ全体の中では第12、13、14話はとても重要な場面が続く。第12話「10年前の真実」で、自分がチュンサンであることを知ったミニョンがユジン(チェ・ジウ)に事実を告白する。

  ……僕は……チュンサン、です

   第13話「追憶」では、ユジンは春川の高校の放送部を訪ねて、「初恋」の詩を聞き思い出に涙する。「そよ風が燕を包み、天空を運ぶように、陽が照りつけても、雨風が吹きつけても彼方遠くまで二人が飛んでいけるようにしてください。でも、私の初恋が、また私を呼び止めたら、どうしょう?」

    ちょうどその頃、ミニョンも講堂のピアノの前にいた。そして記憶の戻らない自分に決別するかのように、ついにアメリカ行きを決意する。

   第14話で、深く激しい傷心を抱えたミニョンは空港へ行く。何も知らずにポラリスに出社したユジンは、ミニョンが置いていった封筒を渡される。そこには「初めて」のCDとメッセージが書いてある。

ユジンさん。僕はいまごろ飛行機の中にいるはずです。このプレゼントはユジンさんにとって負担になるかも知れないけれど、でもどうしても黙って行くわけにはいかなかったんですよ。チュンサンのようにテープに録音してあげることはできなかったけれど、それでもプレゼントしたかった。お幸せに。

   チュンサンがテープをくれた話は誰にもしたことがなかった。チュンサンしか知りえない事実が書いてあったのだ。ついにミニョンがチュンサンであることを知ったユジンは慌てて空港へと向かう。もはやミニョンではなく、チュンサン!とその名を呼んで。

名セリフが多数あるが、なかでも第12話で、ユジンが友人のチンスクに心のうちを話す場面での会話。

ユジン「サンヒョクがね…」

チンスク「うん」

ユジン「サンヒョクが訊いてきたっけ…。イ・ミニョンさんのどこがよかったのかって…」

チンスク「そう、それでなんて言ったの?」

ユジン「答えられなかった。それは言葉ではとても説明できない…」

チンスク「ユジン…」

ユジン「チュンサンを見ていると、すとんと落ちていくような感じがしたの。そんな感じがしたのよ。わたしの心が…どきどきする胸がすべてチュンサンに向かっていく感じ…ああ、これが愛なんだなあ…これが運命だなあって…思ったの。チュンサンが死んでからそんなふうに感じることはもうないと思ってたけど…イ・ミニョンさんに出会って、ある瞬間、すとんって…そうだったの。顔が似ているからじゃなく…そうじゃなくて…理性とは関係なく…胸がときめく感じ…チュンサンといるときみたいにすごく胸がどきどきする感じ…ミニョンさんが感じさせてくれたの…どうしてそんなことができたのかしら?…ミニョンさんとチュンサンはまったく別人なのに…わたしの心が二人を一つに結びつけちゃったの…おかしな話かも知れないけど、わたしの心の中ではチュンサンはミニョンさんと同じ人のようだった…」

    韓国では、詩集がベストセラーのランキングに何冊も入るほどよく売れる。日本では現代詩を読む人を探すほうが難しくなったが、韓国の若者たちは現代的な恋愛詩をよく読んでいる。それだけ言葉に敏感であり、自分の恋愛観や人生観を美しい言葉で語ることには慣れている。この場面でも、婚約者のいるユジンが親友に、他の男性への思いを打ち明けるなど日本ではなかなか無いように思える。「冬のソナタ」の主人公はユジンであり、初恋の心の痛みをずっと持ち続けた女性であり、多くの女性がユジンの心の変化に感情移入できたのも、この場面のセリフに集約されているような気がしている。

2007年4月 2日 (月)

忠臣はニ君に仕えず

    建安5年(200年)、劉備一行は徐州付近で曹操に大敗し、劉備は家族をおきざりにして袁紹のもとに逃亡した。そのとき下邳城で劉備の甘夫人、糜夫人を守っていた関羽は、曹操軍に包囲された。劉備の家族を守っていたこともあり、関羽は張遼の説得を受け、曹操に降伏した。

   かねてより、関羽のように剛勇でしかも忠誠心のあつい武将をほしがっていた曹操は、都に帰ると関羽を捕虜あつかいにせず、賓客として優遇した。劉備のニ夫人の生活にはいっさい干渉しないでほしい、という関羽の申し込みを喜んでうけいれ、一行にぜいたくな暮らしをさせた。そして、関羽には、かつて呂布の愛馬だった千里の名馬赤兎を贈って、しきりに仕官をすすめた。だが、関羽は曹操の好意には感謝したが、あくまで節操をまげなかった。そして、曹操に義理を果たすため、袁紹配下の猛将顔良、文醜のふたりを討って恩返しをしたのち、関羽は贈られた金銀財宝に封印をほどこすと、曹操に別れの手紙を残して、劉備の二人の夫人とともに、袁紹側にいる劉備のもとに逃げた。

    関羽が脱出するや、部将たちは色めきたってあとを追おうとする。それを制して、曹操はこういった。

「主のためにするなり、追うことなかれ」と。

呉下の阿蒙にあらず

   呉の呂蒙(178-219)は、字は子明、汝南郡富陂(ふは)の人。15、16歳のころから戦場で活躍してきたが、自分の勇気と膂力をたのんで学問をばかにしてきた。

   あるとき、孫権は武骨一点張りの呂蒙と蒋欽のふたりに「そちたちも、いまではひとかどの武将であるが、さらに伸びようとおもうなら、武芸だけでなく、きちんと学問を学んで、自己啓発につとめることだな」とさとした。

   主君の言で奮起した呂蒙は、それから勉学にいそしんだ。兵法や教養書を懸命に勉強し、数年後には、呉国でも有数の戦略家に成長していた。

   周瑜没後、その後任となった魯粛が任地の陸口へ赴く途中、魯粛は後輩の呂蒙を訪ねた。ひさしぶりにあれやこれや話してみると、どうしてどうして、呂蒙は見識も高く、兵法にもつうじており、その教養に驚かされた。

   「これは見直したよ。貴方は武辺一点張りの人と思っていたが、そんなに勉強しているとは知らなかったよ」

   そこで魯粛は感心したようにこうつぶやいた。

   「復(ま)た、呉下の阿蒙に非ず」(「呉志・呂蒙伝注」)

   いつまでも、昔の呉の城下にたむろする蒙ちゃんではない、という意味である。阿というのは人名につける接頭語で、日本語の○○ちゃんに相当する。

   この故事から、無学の徒を「呉下の阿蒙」というようになった。このとき、呂蒙はこう答えている。

   「士、別れて三日、すなわち更に刮目して相い待(たい)すべし」

   士たるもの、別れて三日もすれば、よくよく目をこすって見直さなければいけないという意味で、これも名言としてよく知られている。

2007年4月 1日 (日)

沖雅也と仲雅美

   昭和47年のマルベル堂のブロマイド・ランキング男性俳優部門は、

  第1位 森田健作

  第2位 沖 雅也

  第3位 石橋正次

  第4位 仲 雅美

  第5位 志垣太郎

   沖雅也(1952-1983)と仲雅美(1950生)は、名前と顔立ちが少し似ていることから、ある雑誌で二人が並んだ特集記事を読んだ記憶がある。チャンネルNECOで「さぼてんとマシュマロ」(1971)を放送していた。週刊セブンティーンに連載された武田京子の漫画が原作で、吉沢京子主演の少女向け30分ドラマだ。家内が子供のとき見て、よかったというのでお付き合いでみたが、なかなか完成度の高いドラマだった。一見コミカルなようで、途中からシリアスになる展開は、ハマルとみどころが多い作品。男性から見ると、吉沢京子の可愛さが魅力であるのはもちろんだが、沖雅也と仲雅美の兄弟役というのが、昭和46年という時代を知っている者にとっては切ないほどに美しく哀しい。

    沖雅也は大分県別府市出身で、15歳の時、両親の離婚を契機に家出同然で上京した。ラーメン屋のアルバイトやスナックのバーテンなどしながら大都会の貧乏暮らしをしていたが、東大卒の道楽者の日景忠男に出会う。日景の売り込みで日活映画に出演する。丘みつ子の「ある少女の告白 純潔」で昭和43年には幸運にも映画デビューする。だが日活はポルノ映画を制作するようになり、映画への出演がなくなる。そこでテレビに出演し、「花と竜」(渡哲也主演)「犬と麻ちゃん」(和泉雅子主演)「クラスメート」(武原英子主演)「金メダルへのターン」(梅田智子主演)、そして「さぼてんとマシュマロ」で沖雅也は初めて大きな役をつかんだ。

    仲雅美は歌手でデビューし、その後、木下恵介に見出されドラマ「冬の雲」に出演、主題歌の「ポーリシュカポーレ」が大ヒットした。「さぼてんとマシュマロ」は沖雅也より2歳上の仲が弟役で共演している。その後も、由美かおると共演した「同棲時代」「しなの川」や西城秀樹の「愛と誠」に出演し青春スターとしての一時代を築いた。

   ところで「さぼてんとマシュマロ」のあらすじは、マシュマロみたいなフワフワした女子高生・伊藤真理子(吉沢京子)は4人姉弟の長女。家計のために雑誌社に就職する。真理子は洗練された女性誌の編集部を希望するが、間違ってエッチな男性誌「TOMTOM」の面接試験を受けてしまい採用される。そこに待っていたのはサボテンのように尖った影をもつ青年カメラマン伊藤仁(沖雅也)だった。仁は「俺は危険な無数のトゲを持っているサボテンなんだ」という(第6話)。真理子と仁とは事あるこどに衝突するが次第に惹かれていく。仁は良家の子息で弟の明(仲雅美)がいる。そして仁には隠されたある秘密があった。出演は他に、三谷昇、加藤治子、山東明子、水沢有美など。

    「さぼてんとマシュマロ」の主題歌「恋をするとき」(作曲・宮川泰、作詞・岩谷時子)は吉沢京子のほんわかした歌い方がなかなか快感である。劇中の伊藤真理子=吉沢京子のイメージと楽曲がピッタリ合っている。古き良き青春ドラマの名曲である。歌詞が残念ながら正確ではないがあげておく。

          恋をするとき

1  私も恋を するときが あるかしら

  その日がいつか わかればいいな

  恋人ならば 誰よりも 優しくて

     翼の中で 愛してくれる

  ああ 甘い夜霧に濡れる

  夜 私の愛も開く時

  その日が来たら 幸せが遠くても

  ひとつの夢を 二人でみつめて行こう

2   誰にも胸の なかまでは のぞけない

    私にだけは 見えたらいいな

    愛した人に 誰よりも 愛されて

    小鳥のように 暮らしてみたい

    ああ 甘い夜霧に濡れる

    夜 私の愛も開く時

    その日が来たら 幸せが遠くても

    ひとつの夢を 二人でみつめて行こう

   この作品のあと、沖雅也は岡崎友紀と共演で「小さな恋の物語」(みつはしちかこ原作)で女学生のアイドルスターとなる。今からおもえばあの頃は30分ドラマ全盛期だった。

ドラマ主題歌で秀逸なのは桜田淳子の「玉ねぎむいたら」

玉ねぎむいてるだけなの 泣いてないわ
涙がこぼれて 困るの 止まらないわ
だけど涙がほほをぬらしい いると
変ね 私は センチになってきた
幼い日 夕焼け もう遠い人 など
玉ねぎむいてるだけなの 泣いてないわ
いまは泣きたいことはなにもないのに
てんでなみだが泣きたくなってきた
ともたぢやこいびと あの人のことなど
玉ねぎむいてるだけなの 泣いてないわ

芥川龍之介の心中未遂

   芥川龍之介は昭和2年の4月と5月、2度にわたって帝国ホテルで心中を企てている。相手の女性は、平松麻素子といい、妻である文(ふみ)の女学校時代からの友人である。2度とも麻素子の心変わりで事なきを得ている。「或阿呆の一生」には次のように書かれている。

   彼女はかがやかしい顔をしていた。それは丁度朝日の光の薄氷にさしているようだった。彼は彼女に好意を持っていた。しかし恋愛は感じていなかった。のみならず彼女の体には指一つ触らずにいたのだった。

「死にたがっていらっしゃるのですってね」

「ええ。いえ、死にたがっているというよりも生きることに飽きているのです」

   彼等はかう云う問答から一しょに死ぬことを約束した。

「プラトニック・スゥイサイドですね」

「ダブル・プラトニック・スゥイサイド」

   彼は彼自身の落ち着いているのを不思議に思はずにはいられなかった。

   彼は彼女とは死ななかった。唯未だに彼女の体に指一つ触っていないことは彼には何か満足だった。彼女は何ごともなかったように時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持っていた青酸加里を一瓶渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言ったりした。

   それは実際彼の心を丈夫にしたのに違いなかった。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に与える平和を考えずにはいられなかった。

    この平松麻素子という女性は、その後どうなったのか何もわからない。戦後まもなく死んだということだけである。

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