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2007年3月25日 (日)

曽根俊虎と興亜会

   明治12年、日本は沖縄県を設置して琉球を日本の版図に編入したことにより、日中間が緊張し、それを緩和する意図もあってアジア主義的な言論が登場し、明治13年には最初のアジア主義組織「興亜会」が成立した。

   しかし興亜会の前身ともいえるのが振亜会である。振亜会の生みの親は大久保利通である。明治7年、台湾問題で大久保が北京に赴く時、海軍中尉の曽根俊虎は大久保に随行している。北京において大久保は明治7年11月3日に天津で李鴻章と会見した折に、日清共存共栄の道を模索した。日清両国が相互理解をきわめるには、まず、互いの国の言語を多くの人に急ぎ修得させることからはじめるべきであると話あった。明治10年、清国初代駐日公使張斯桂の着任をまって、東京に日支両国の語学校を開き、両国の提携をはかろうとしたが、明治11年に大久保が暗殺された。曽根は大久保の遺志をついで、明治13年、東京に中国語学校を開いた。

   曽根俊虎(1847-1910)は、弘化4年、米沢藩士曽根敬一郎の子として生まれた。藩校興護館で雲井龍雄(1844-1870)の影響を受け、江戸に出て洋学を学んだ。雲井は薩摩藩の罪を訴え斬首されたことで知られるが、曽根はその後、西郷隆盛、大久保利通と深く交わるようになった。明治4年に海軍に入り、副島種臣外務卿と共に清国に赴く。その後も征台の役など、海軍本省と中国との間を往来、諜報勤務、大陸情勢の調査にあたった。曽根の努力によって明治13年2月13日、興亜会が設立された。会長は旧熊本藩主細川護久の実弟の長岡護美である。会員には渡辺洪基、曽根俊虎、金子弥兵衛、草間時福、佐藤暢、宮崎駿児、前田献吉、小巻昌業、吉田正春、広部精、小森沢長政、宮島誠一郎、鄭永寧、中上川彦次郎、花房義質、山吉盛義、鍋島直大、細川瀏、恒屋盛服、鈴木慧淳、北沢正誠、林正明、大久保利昭、柳原前光、大倉喜八郎、横山孫一郎、都築経二郎、朽木綱一、伊藤祐麿、吉田晩稼、有馬純行、海賀直常、末広熊五郎、赤松則良、重野安繹、近藤真鋤、中村正直、武藤平学、末弘直哉、小松原英太郎、張滋昉、松平忠礼、松平正信、塚本明毅、矢野義徹、本多晋、田代離三、星野重次郎、丸山孝一郎、成島柳北

    朝野の名士が一同に会したものであった。興亜に生涯を捧げたが、明治24、25年ころ在清中に「法越交兵記」を編纂し、ベトナム問題に関わる伊藤内閣の忌諱にふれる筆禍事件により退職する。この事件は無罪となったが、以来海軍を去り、在野の中国通としておもに清国蘇州に居住し、李鴻章その他の名士と交わり、支那服を着用して暮らした。晩年は不遇であったが、動脈瘤のため東京大森に帰国。明治43年5月30日病没する。曽根俊虎には「北清紀行」「清国近世乱誌」「清国漫遊誌」「法越交兵記」「俄国暴状誌」などの著書がある。

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コメント

はじめまして。
2年ほど前、こちらの記事を拝見し、曽根俊虎さんのことを知ることができました。
私にとっては本当に大切な出会いでした。
ありがとうございます☆

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