武田典厩信繁
風林火山「信虎追放」。武田信玄(市川亀治郎)は家臣団が居並ぶ前で「信繁、頼む。このわしに従うてはくれまいか」と頭を下げる。「兄上、頭をお上げください。それがしも侮られたものよ」武田信繁(嘉島典俊)は、父が兄を憎む理由が、その器量を恐れてのことだとわかっていた。「兄上、よくぞ、ご決意なされた。信繁は、これより晴れて堂々と、兄上の命に従いとうございまする」「信繁、わしは、今日ほど己を恥じたことはない。すまない、信繁」その場にいる家臣の誰もが、ひとつの思いを胸に感じた。
武田典厩信繁(1524-1561)は、信虎の二男。終生、兄信玄を敬慕してやまなかった実直な人柄で、容姿が信玄にそっくりだったので、兄に危険がせまるたび、信玄になりすまして敵前に立つという影武者を幾度となくつとめた。天文10年の信虎追放事件が起きた時、真相を知る信繁は冷静に兄の非常手段を暗黙のうちに理解し、信玄の指揮に従った。信繁は信玄のよき補佐役として軍略、識見ともに優れ、武田の副大将として活躍した。兵法書「虎略品」の中でも、「北条氏康、上杉謙信、織田信長ら諸将も異口同音にほめ称えること限りなし」と記し、江戸の室鳩巣も「典厩公は天文、永禄の間の賢と称すべき武将で、兄信玄公に仕えて人臣の節を失うことなく、その忠信、誠実は人の心に通じ、加えて武威武略に長じ知剛知柔、まことの武将」と最高の賛辞を寄せている。永禄4年9月、川中島合戦で「信玄本陣危うし」と見た信繁の死力を尽くしての奮戦で、辛くも信玄は虎口を脱するが、兄の身代わりとなって敵陣へ斬り込んで果てたのである。
信繁は嫡男信豊に九十九か条の教訓を遺しているが、これが「信玄家法」と呼ばれ、武道、兵法、礼儀作法などを倫理、道徳、宗教を基底として述べているもので、江戸時代の武士教育に大きな役割を果たしている。
典厩というのは、唐の官職名の馬寮(めりょう)のことで、職務は、軍馬の調達、調教、管理だったからその長たる信繁は、無敵を誇る武田騎馬軍団の枢機をにぎっていたともいえる。
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