マリー・ド・メディシスの栄誉なき生涯
マリー・ド・メディシス(1573-1642)はアンリ4世の死後数時間で自ら摂政の位に就き、以降7年間、彼女はフランスを支配した。マリーは素早くイタリア人を主とした派閥でまわりを固めた。1617年、青年王ルイ13世(1601-1641)がマリーに反旗をひるがえした。マリーはブロアに追放された。1620年、リシュリーのはからいでマリーは再びパリに戻った。しかし、マリーの政治への影響力はもうなかった。ルイ13世が1630年に病で倒れると、信仰をなおざりにした天罰だと、マリーは言い張った。そしてマリーは1631年にフランスを去り、二度とフランスに戻ることはなかった。1642年7月にケルンで世を去った。遺体はフランスに運ばれ、サン・ドニ大聖堂のアンリ4世のかたわらに葬られた。
フランス王妃となったイタリアの姫君の波瀾の生涯は、今日リュクサンブール宮殿にあるルーべンス(1577-1640)が描いた「マリー・ド・メディシスの生涯」(1622-25)の21枚の絵画によってうかがい知ることができる。これは、ルーベンスの最大業績の一つに数えられるが、歴史と寓意と肖像の要素を混ぜ合わせ、マリーのまったく栄誉なき生涯に対する栄誉に満ちた賛辞となっている。
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