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2007年3月21日 (水)

林芙美子「放浪記」刊行前後

   林芙美子(1903-1951)は尾道から上京して、本郷蓬莱町の大和館で洋画を勉強中だった長野県下高井郡平岡村出身の手塚緑敏(1902生)と知り合い、結婚(内縁関係)したのは改元した年の12月であった。二人は昭和2年1月、高円寺の西武電車車庫裏にあたる山本方の二階に間借し、5月には和田堀の内妙法寺境内浅加園にある借家に住み、この家において芙美子の文業が開けてくる。

   当時大衆作家として盛名をあげていた三上於菟吉は、芙美子の詩に注目して、彼の妻である長谷川時雨に推薦した。そして長谷川が主宰する「女人芸術」第2号(昭和3年8月号)に詩「黍畑」が載った。ついで第4号(昭和3年10月号)から「秋が来たんだ」(副題「放浪記」)の連載が始まった。「放浪記」という副題名をつけたのは三上於菟吉である。プロレタリア文学興隆のおりから、当初は好意的に迎えられたが、共産党の活動に距離をおいていたため、プチブルと批判を受け、「秋は来たんだ」の連載は20回で打ち切られた。

   昭和4年、「秋が来たんだ」を読んだ「改造」の記者・鈴木一意の計らいで、随筆原稿の依頼がきた。「改造」は当時の一流の綜合雑誌である。鈴木が彼女の西武線中井の家を訪れたとき、彼女は着る物を全部入質してしまって、海水着一つで応対したという。芙美子は「改造」10月号に「九州炭鉱放浪記」を発表した。昭和5年1月、林芙美子、望月百合子、北村兼子、生田花世、堀江かど江らと台湾旅行をする。7月に改造社から「新鋭文学叢書」の1冊として「放浪記」が出版され、ベストセラーとなる。11月には「続放浪記」が出版される。これから林芙美子の流行作家としての活躍が始まるのである。

   台湾旅行では、大阪朝日新聞で活躍したジャーナリストの北村兼子(1903-1931)が同行しているのも注目される。才気と行動力ある同年代の女性たちは旅先でどのような話をしていたのだろうか。北村兼子は自らを「女浪人」と呼び世界各地を歩き回って日本の植民地政策を批判したので、林との意見の違いはあったであろう。北村は旅行の後まもなく27歳で急逝している。

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