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2007年3月17日 (土)

渡辺水巴と渡辺省亭

   渡辺水巴(わたなべすいは、1882-1946)。本名は渡辺義。明治15年6月16日、東京浅草小鳥町に生まれる。父は日本画家の渡辺省亭(わたなべせいてい、1851-1918)、母きく。水巴の江戸趣味、気質、性行はこの父に負うところが大きい。明治32年、日本中学校3年修業後退学、翌33年初春、19歳にて俳句に志し、翌34年初夏、内藤鳴雪に入門、のち高浜虚子にも選評を受け、終生職を持たなかった。明治39年5月、「俳諧草紙」創刊主宰、明治42年1月同誌廃刊、12月内外出版協会発行「文庫」に合流、明治43年8月「文庫」廃刊後は「智仁勇」俳壇を担当した。大正2年10月、情調本位の俳句を標榜して曲水吟社を設立。大正5年10月、曲水吟社より「曲水」を創刊、以後没するまで主宰した。この間、水巴編「鳴雪句集」を俳書堂より刊行(明治42年1月)、曲水文庫第1編「水巴句集」(大正4年2月)水巴編「虚子句集」が植竹書院より刊行され、また雑詠復活後のホトトギスにおいても活躍、蛇笏、鬼城、石鼎、普羅などとともに大正前期の同誌のにない手となった。大正7年4月、父省亭死去、経済的に父の庇護を受け、またみずから父を敬愛するところ深かったので、その死は大きな転機となり、従来の江戸趣味的な唯美調に人間的重みを加えている。大正11年1月、片桐花子と結婚したが、これは失敗で、昭和2年8月離婚。昭和4年、長谷川きく子(長谷川桂子)と結婚。昭和20年4月、強制疎開のため藤沢市鵠沼7327へ仮寓、翌21年8月1日夜、発病臥床、13日朝没した。病名腸閉塞症。法名夏岳院正心義道居士。享年65歳。浅草今戸潮江院に埋葬。

ほんの少し家賃下がりぬ蜆汁

    「水巴句集」所収。「蜆」(春)の句。下町情緒纏綿たる句である。庶民感情のさながらに伝わる。ほんの少しばかりでも家賃のさがったことは食膳の語らいにやすらぎを与える。蜆は安価であるし、味噌汁にして美味。一般の食膳を賑わし、親しまれている。

    渡辺省亭(1851-1918)は嘉永4年、江戸神田佐久間町に生まれる。本名は吉川義復。父吉川長兵衛は蔵前の札差で、歌人でもある。22歳で父の歌友渡辺光枝の養嗣子となる。酒井抱一、柴田是真に傾倒し、菊池容斎(1787-1878)の門下となる。起立工商会社で図案を描いていたが、明治10年第1回内国勧業博覧会で花紋賞を受ける。翌11年、パリ万国博覧会を機に日本画家として初めてヨーロッパに遊学する。印象派が旗上げされつつある西欧の近代絵画の息吹きに触れて帰国し、明治時代の挿絵界の興隆期に活躍した。山田美妙の小説「蝴蝶」(明治22年)では主人公の女性が裸体で武者と対面する場面を描いた挿絵が当時話題となり、明治22年11月、内務省は裸体画取締令を出した。省亭はパリ留学経験から裸体画を試みたらしいが、明治期の黒田清輝の「朝妝事件」(明治28)よりも6年も前の裸体画論争であった。明治20年代中葉から「美術世界」の主筆として健筆をふるうが、晩年は画壇との交渉を悠々自適の生活を送り、67歳で没した。

    渡辺水巴が大正5年に創刊した俳誌「曲水」は没後も、主宰は妻の渡辺桂子、次女の渡辺恭子(昭和8年生)へと受け継がれている。

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