室生犀星、逆境との闘い
芥川龍之介の「朱儒の言葉」の中でも「人生」はとくによく知られた名文であろう。
もし遊泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もしまたランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我々は生まれた時から、こういうばかげた命令を負わされているのも同じことである。我々は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか?しかも胎内を離れるが早いか、とにかく大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。もちろん遊泳を学ばないものは満足に泳げる理屈はない。同様にランニングを学ばないものはたいてい人後に落ちそうである。すると我々も創痍を負わず人生の競技場を出られるはずはない。なるほど世人は言うかもしれない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の遊泳者や千のランナーを眺めたにしろ、たちまち遊泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその遊泳者はことごとく水を飲んでおり、そのまたランナーは一人残らず競技場の土にまみれている。見たまえ、世界の名選手さえたいていは得意のかげに渋面を隠しているのではないか?人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我々は人生と闘いながら、人生を学ばねばならぬ。こういうゲームのばかばかしさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るがよい。自殺もまた確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。
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薄幸の歌人江口きちもまたその哀しき運命に敗れて自殺した。しかしなかにはその苛酷な生い立ちに負けず人生と闘った詩人もいる。室生犀星(1889-1962)はその典型であろう。犀星は明治22年8月1日、石川県金沢市裏千日町に生まれた。父の小畠弥左衛門吉種は、加賀藩の武士で百五十石扶持、足軽組頭を勤め、維新後は剣術道場をひらいたこともあったが、妻に死なれた後、裏千日町の広い屋敷に隠棲し、果樹や茶の栽培をしながら暮らしていた。犀星の母ハルは、この小畠家の女中であった。当時64歳になっていた小畠吉種は、女中のハルをみもごらせたことを、長男一家の手前、世間の手前困惑した。そしてうまれてから7日たらずで犀星は、近くの表千日町、犀川のほとり、雨宝院という寺の権妻である赤井ハツの手にわたされた。そしてハツの私生児赤井照道として出生届が出され、ハツの子として育てられることになった。赤井ハツは、既に真道、テエの2人のもらい子を養育していて、その2人は犀星の兄と姉になり、後に同じくもらい子のきくという妹も出来た。つまりハツは養育費めあてに、不義の子供たちをもらい受け、大きくなれば女なら娼婦として売り、男ならば勤めさせてもうけようとしていた。この養母の赤井ハツは、馬力ハツのあだ名があり、貰い子たちをあごで使い、煙管で折檻し、女だてら昼間から肌ぬぎして大酒を飲む、近所で評判な莫連女であった。しかもこの四十女は、雨宝寺の優男の住職である室生真乗を尻に敷き、ののしり、おくめんもなく戯れ、首をひもでしめて殺そうとしたり、実の父をあんまに呼んで足腰をもませて悪態をつき、近所の仲間たちと芝居見物しては深夜まで役者を家に引き入れ、狂態を演じ、もらい子の姉を娼婦に売りとばし、朝から振舞い酒に上機嫌でいるなど、犀星の育った環境は、およそまともなことがひとつとしてない、地獄絵さながらであった。犀星は7歳の時、戸籍面では雨宝院の住職室生真乗の養子となり室生姓を名乗るようになるが、小学校に入った彼は手のつけられないガキ大将として教師に憎まれ、劣等生であった。つい近所にある実の父母のところにも、行くことを禁じられ、養母からは「女中の子」としてさげすまれる。その頃実の父は死に、女中であった実の母のハルは罪人のように小畠家を追い出され、そのまま行方知らずとなり、その後犀星は生母と再び会うことはなかった。犀星はすべての人々を憎み、いつの日にかの復讐を誓う。高等小学校を落第し、中退し、義兄の勤務する金沢地方裁判所に給仕となった。月給一円五十銭、もっとも下役であった。そのような逆境にすさんだ犀星を救ったのは俳句であり詩だった。「少年文芸」「文章世界」などに投稿した。18歳の時の詩「さくら石班魚(うぐひ)に添へて」が児玉花外の撰で雑誌「新声」明治40年7月号に掲載されたことで、犀星は詩によって人生に闘うことを決意したのだった。(参考:奥野健男「人と文学」現代文学全集30 筑摩書房)
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