実説・累(かさね)
江戸時代には女の子の名前に「かさね」という名が流行ったことが あった。「累(かさね)」というのは、まことに可愛らしく感じられられると言って、数多く名付けられた。だが、明治時代より平成の今日まで、私の知っている限りでは、「かさね」という名の女子を知らない。それは三遊亭円朝の「眞景累ヶ淵」や鶴谷南北の歌舞伎などに「かさね」という名が使われたことによる影響であろう。
もともと累の話は、江戸時代初期に60年にわたって繰り広げられた、陰惨な出来事である。下総国岡田郡羽生村の百姓、与右衛門とその後妻お杉の間には助(すけ)という男子があった。しかし連れ子であった助は顔が醜かったため、お杉は助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名付ける。累は助に生き写しであり、村人たちの間ではいつしか「累(るい)」という名が「かさね」と呼ばれるようになった。
やがて、与右衛門もお杉も亡くなり、成人し独り暮らしの「かさね」はある時病気で苦しむ旅人を助けたことから、この男を2代目与右衛門として婿に迎える。しかし与右衛門は容貌の醜い「かさね」を疎ましく思うようになり、「かさね」を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。与右衛門は鬼怒川堤から河中へ「かさね」を突き落として殺してしまう。
その後、与右衛門は何食わぬ顔で幾人もの後妻を娶ったが尽く死んでしまうという怪現象が続いた。ようやく6人目の妻きよとの間に菊という娘が生まれた。ところが菊が14歳になった時に、「かさね」と助の死霊が菊にとり憑き、菊の口を借りて与右衛門の非道を語りはじめる。この話を知った祐天上人は助、かさねの死霊に戒名を与えて成仏させた。
「累(かさね)」の話が怪談物として世に広く知られるようになったのは、それから150年も後の鶴谷南北の「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」が上演される文政4年(1821)のことである。
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