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2007年3月31日 (土)

アレキサンダー大王と女性

    「英雄豪傑色を好む」というが、世界帝国を一代で築いた英雄アレキサンダー大王の女性関係はどのようなものだったのだろうか。プルタークによれば、大王は「女性に関して誰もおよばないほど節制を守った」といっている。当時の一般の性道徳からいえば、たしかに彼は節制を守ったほうだったろう。結婚以前に彼の知った唯一の女性はバルシネだった。

   アレキサンダー大王は前333年、イッソスの戦いでペルシアのダレイオス3世を破った。ペルシア王はからくも逃げたが、その母、妻、娘は捕虜となった。大王はその後、部下のパルメニオンにすすめられ、イッソスの戦いで捕虜にしたバクトリア太守のアルタバゾスの娘バルシネを愛人としている。彼女はのちに庶子ヘラクレス(前327-前309)をもうけている。

   アレキサンダーの結婚はかなり遅く、前327年、29歳の時にバクトリア豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚する。プルタークは彼女のことをアレキサンダーが「愛情に負けた唯一の女」といっている。ロクサネはたいへん美しい女性だったらしい。スサでは大王以下マケドニア人1万人とペルシア婦人の婚礼をした。大王自身はペルシア王の娘スタテラーとバリュサティスと結婚している。そのあと大王は熱病のため33歳で急逝した。この時、王妃ロクサネは妊娠中であり、愛人バルシネには庶子ヘラクレスがいた。間もなくロクサネに男の子が生まれた。これがアレキサンダー4世である。大王の死後、その大帝国は部下の将軍たちの奪いあうところとなった。彼らはそれぞれ大王の後継者(デイアドコイ)と称した。ロクサネ、バルシネは子供とともに殺され、アレキサンダー大王の血を引く者は前310年までに完全に絶えた。

2007年3月30日 (金)

クレオパトラの鼻

   「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わったであろう」という言葉は17世紀フランスの数学者・物理学者・哲学者であるブレーズ・パスカル(1623-1651)の「パンセ」(随想録あるいは瞑想集として邦訳される)の中にある有名な警句である。

  人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるがいい。原因は、「私にはわからない何か」(コルネイユ)であり、その結果は恐るべきものである。この「私にはわからない何か」、人が認めることができないほどわずかなものが、全地を、王侯たちを、もろもろの軍隊を、全世界を揺り動かすのだ。クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていただろう」(「世界の名著24」前田陽一、由木康訳)

  芥川龍之介は「侏儒の言葉」の中で、

   クレオパトラの鼻が曲がっていたとすれば、世界の歴史はそのために一変していたかもしれないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人というものはめったに実相を見るものではない。いや、我々の自己欺瞞はひとたび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行なわれるのである。アントニイもそういう例にもれず、クレオパトラの鼻が曲がっていたとすれば、つとめてそれを見まいとしたであろう。また見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所をさがしたであろう。

   芥川はそこから、「人間の自己欺瞞」ということを引き出して、「二千余年の歴史は眇たる一クレオパトラの鼻のいかんによったのではない。むしろ地上に遍満した我々の愚昧によったのである」と結論づけている。

2007年3月29日 (木)

串刺し公ヴラド・ツェぺシュ

   ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュ(1387頃-1456)は、オスマントルコの大軍をベオグラードの戦い(1456)で破り、侵入を阻止したが、疫病で死亡した。

   そのころワラキア公国(現ルーマニア南部)の君主になったヴラド・ツェぺシュ・ドゥラクル(1431-1476)は、首都に貴族たちを招集して、自分の父親と兄の暗殺に加担した貴族たちを串刺しの刑に処した。そして、杭に刺されて悶絶する貴族たちの姿を眺めながら祝宴を開いたという。

   彼は吸血鬼ドラキュラのモデルとして知られているが、本当はオスマントルコの侵略からルーマニアを守り、独立のために戦った英雄だった。

ゴルディオンの結び目

    前4世紀、古代フリュギア(フリジア)の首都ゴルディオン(ゴルディウム)の神殿に一台の車があった。それは賢者の聞こえが高かったゴルディウス王(貪欲の罰で娘を黄金に変えられた伝説で名高いミダス王の父という)がむすんだもので、その車は神殿の柱に固く縛りつけられていた。そして「車を縛りつけてある綱の結び目を解く者は、全世界の支配者になる」といういい伝えがあったが、誰一人として解くことができなかった。

   そこへアレキサンダー大王(前356-前323)が東征の途中に立ち寄った。大王はこの予言をきき、結び目を見たが、容易に解きがたいと知ると、剣を抜いて結び目を一刀のもとに両断した。のちに予言は実現し、大王は剣で世界の支配者になった。この故事から、英語のゴーディアン・ノットという言葉は、「常識外の手段で難事を解決する」という意味がある。

2007年3月28日 (水)

三国志の美女、貂蝉

   貂蝉(ちょうせん)は、後漢の司徒・王允のかかえていた歌姫の美少女で、歳は16歳であった。董卓の暴政に悩む大臣の王允の苦しむ姿を見て、娘同様に可愛いがられていた貂蝉は王允に訴えた。「殿様のお役に立てるならどんなことでもいたします」その姿を見てひらめいた王允は貂蝉の前にひれ伏して言った。「天下の逆賊の董卓と養子の呂布はどちらも好色のやからゆえ、連環の計を用いようと思う」と言ってふたりは打ち合わせた。呂布は貂蝉をひと目見るなり気に入り、貂蝉も意味ありげな視線を呂布におくった。そこで王允が側室として貂蝉を輿入れさせたいと申しでたので話はとんとん拍子に進んだ。しかし、呂布はいくら待っても貂蝉は嫁に来ない。それもそのはずで、貂蝉はとうに董卓の側女になっていたのである。呂布は王允に怒鳴り込んだが、王允は董卓が貂蝉をむりやり連れていったという。呂布はこっそり、董卓の寝所に行って貂蝉に確かめると、「わたしの身は汚されてしまいました。死んでわたくしの心をお見せいたします」とけなげなことを言ったので呂布は董卓を恨むようになり、王允もけしかけたのでついに董卓を殺害したのである。呂布は、その後、李催(りかく)・郭汜(かくし)に洛陽を追われるが、貂蝉は呂布が死ぬまでついていった。

    貂蝉は羅貫中の創作上の人物であるが、その美貌は中国四大美女(西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃)の一人に数えられている。

マラトンの戦いの伝令は誰か

   前490年、第2回ペルシア戦争の際、上陸するペルシア帝国の軍をアテネの名将ミルティアデスはマラトンの戦いで撃退した。このときアテネの伝令フェイディピデス(Pheidippides)がアテネまで走り「喜びあれ(カイレイン、喜べ我が軍勝てり)」と戦勝を告げて、絶命した。この伝説がマラソン競技の起源であることは通俗的によく知られている。しかしこのマラソン伝説は、ほんとうに歴史的事実であろうか。

   まずマラソンの戦いの伝令は誰であろうか?長距離伝令のフェイディピデスの名は発音表記により、フィリッピデス、フェイディッピデス、ピリッピデスなど諸書により多少の違いはあるものの帝政ローマ時代の作家ルキアノス(120-180)に書かれている。そしてルキアノスはプルタルコス(50-120)の「プルターク英雄伝」をもとにしている。その中にはつぎのようにある。

ポントスのヘラクレイデスが物語るところによると、マラトンの戦いの知らせをもたらしたのは、エロイアダイ区のテルシッポスだという。しかし他方、大多数の人々が述べるところによれば、エウクレスという者が、完全武装のまま、身体を火照らせ戦場から急いで走って来て、国家の指導者たちの(建物の)玄関先に倒れ込み、「喜んで下さい。我が軍が勝ちました」とだけ言って、ただちに息が絶えたという。

ルキアノスの話は、このプルタルコスが引用する話をもとにして、伝令の名前だけがすり変わって成立したようである。もっとも古い歴史書であるヘロドトスの「歴史」には次のようにある。

アテナイの将軍たちはまだ市内にいる間に、まずアテナイ人のピリッピデスなる者を伝令としてスパルタへ送った。なおこの男は飛脚を業とする健脚家であった。(松平千秋訳、中央公論「世界の名著5」6-105)

その注釈によれば

写本の伝承は「ピリッピディス」と「ペイディッピデス」の二つに分かれている。後者は「馬を節約する者、馬蹄いらず」と解せられるところから、健脚の者の名として恰好だというのでいつの間にか本来のピリッピデスにとってかわったのであろうとする説がある。

    ヘロドトスによれば、ペルシア軍が攻めてくることを知らせる伝令はピリッピデスであるが、アテネに戦勝をもたらした伝令は誰だったのか、全くふれられていない。マラソン伝説はルキアノスやプルタルコスなどのローマの文筆家による物語であり、戦勝の伝令者の名前を歴史的資料からは、現段階で確定することは、できないのである。

2007年3月26日 (月)

ミコと2人のミッチー

   「日本のポップス史1960年前後」でJiroさんから素敵なコメントをいただきました。でもミッチー・サハラの「愛の願い」(昭和41年)は聞いた記憶がない。朱里エイコの「クレイジー・ラブ」(昭和42年)と同曲だそうですがそれも知らない。実は「秘蔵シングル盤天国」(シンコーミュージック)からリライトしたので、あまり熱心なリスナーではありません。同じミッチーでも青山ミチなら、よくテレビにでていたので印象は強烈である。そこでミコ(弘田三枝子)と2人(ミッチー・サハラと青山ミチ)の3人の歌姫を考察してみる。

   弘田三枝子は昭和22年生まれで、昭和36年に「子供じゃないの」でデビューした。(14歳)ミッチー・サハラは昭和23年生まれで、同年、13歳で歌手デビューしている。青山ミチは昭和24年生まれで、ジャズ喫茶が主催する素人ジャズコンクールに入賞しポリドールと契約する。昭和37年、弘田三枝子は「ヴァケイション」(東芝)が大ヒツトしたが、青山ミチもポリドールから「ヴァケイション」を出しヒツトする。このころ二人はテレビによくでていた。あの時、青山ミチはなんと13歳だったのだ。その後、弘田三枝子は「すてきな16歳」「渚のデイト」「砂に消えた涙」とカバー曲のヒツトを連発し、田辺製薬の「アスパラ」や「リキホルモ」やレナウンの「ワンサカ娘」で黄金時代を築く。ミッチー・サハラ(酒井道枝)は美少女系歌手で、なんと16歳で自分で作詞・作曲したLP「聞いてお願い」を発表している。彼女は女性シンガーソングライターの草分けだったのだ。一般にはミッチー・サハラはフランス・ギャル等のカバー・ポップスを歌うキュートなティーン・シンガーのイメージのようにみられるが、実力派のシンガーだったようだ。いま調べただけでも「聞いてお願い」「マッハで行こう」「グリーン・グリーン」「天使のハンマー」「春のときめき」「ヒューヒュー行こう超特急」「雨に消えた想い」「夢みるシャンソン人形」「ラヴ・イン・トーキョー」「風に吹かれて」などCDで聞けるようだ。昭和40年、17歳のときに「ドレミの歌」「エーデルワイス」を日本語で朝日ソノラマから発売している。(当然、ソノシートだろう)あの時「ドレミの歌」はペギー葉山じゃなくて、ミッチー・サハラを聞きたかったなあ。ミッチー・サハラは文化放送のラジオの深夜番組のパーソナリティを5年間務めたのち、21歳のとき渡米、カナダやアメリカ各地でツアーしたほかジャズ・クラブで活躍した。彼女は本場でジャズ歌手として成功したらしい。しかし、2000年9月27日、心臓発作のためロサンゼルスの自宅で亡くなっている。享年53歳。

   もう一人のミッチー、こと青山ミチは昭和37年「ひとりぼっちで思うこと」でデビューし、昭和38年には弘田三枝子との競作の「ヴァケイション」、昭和40年にはエミー・ジャクソンとの競作「涙の太陽」といずれも競作で次点であった。青山ミチのパンチのあるパワフルな歌い方は当時を知る人なら誰でも覚えている。昭和38年3月に失踪事件、昭和44年に電撃結婚、全日本歌謡選手権に出場、しかし再デビュー果たせず。昭和49年結婚、出産、その後のスキャンダルについては省くが、彼女のステージを見る機会はなくなった。実は倍賞千恵子の「下町の太陽」(山田洋次監督、和38年)にジャズ喫茶の歌手という役で青山ミチが出演している。歌うシーンはかなり長くて全盛時代の歌唱を聞くことができるのでファンには一見の価値あり。それにしても、ティーン・エイジのミッチー・サハラを見逃したことは一生の不覚である。

2007年3月25日 (日)

曽根俊虎と興亜会

   明治12年、日本は沖縄県を設置して琉球を日本の版図に編入したことにより、日中間が緊張し、それを緩和する意図もあってアジア主義的な言論が登場し、明治13年には最初のアジア主義組織「興亜会」が成立した。

   しかし興亜会の前身ともいえるのが振亜会である。振亜会の生みの親は大久保利通である。明治7年、台湾問題で大久保が北京に赴く時、海軍中尉の曽根俊虎は大久保に随行している。北京において大久保は明治7年11月3日に天津で李鴻章と会見した折に、日清共存共栄の道を模索した。日清両国が相互理解をきわめるには、まず、互いの国の言語を多くの人に急ぎ修得させることからはじめるべきであると話あった。明治10年、清国初代駐日公使張斯桂の着任をまって、東京に日支両国の語学校を開き、両国の提携をはかろうとしたが、明治11年に大久保が暗殺された。曽根は大久保の遺志をついで、明治13年、東京に中国語学校を開いた。

   曽根俊虎(1847-1910)は、弘化4年、米沢藩士曽根敬一郎の子として生まれた。藩校興護館で雲井龍雄(1844-1870)の影響を受け、江戸に出て洋学を学んだ。雲井は薩摩藩の罪を訴え斬首されたことで知られるが、曽根はその後、西郷隆盛、大久保利通と深く交わるようになった。明治4年に海軍に入り、副島種臣外務卿と共に清国に赴く。その後も征台の役など、海軍本省と中国との間を往来、諜報勤務、大陸情勢の調査にあたった。曽根の努力によって明治13年2月13日、興亜会が設立された。会長は旧熊本藩主細川護久の実弟の長岡護美である。会員には渡辺洪基、曽根俊虎、金子弥兵衛、草間時福、佐藤暢、宮崎駿児、前田献吉、小巻昌業、吉田正春、広部精、小森沢長政、宮島誠一郎、鄭永寧、中上川彦次郎、花房義質、山吉盛義、鍋島直大、細川瀏、恒屋盛服、鈴木慧淳、北沢正誠、林正明、大久保利昭、柳原前光、大倉喜八郎、横山孫一郎、都築経二郎、朽木綱一、伊藤祐麿、吉田晩稼、有馬純行、海賀直常、末広熊五郎、赤松則良、重野安繹、近藤真鋤、中村正直、武藤平学、末弘直哉、小松原英太郎、張滋昉、松平忠礼、松平正信、塚本明毅、矢野義徹、本多晋、田代離三、星野重次郎、丸山孝一郎、成島柳北

    朝野の名士が一同に会したものであった。興亜に生涯を捧げたが、明治24、25年ころ在清中に「法越交兵記」を編纂し、ベトナム問題に関わる伊藤内閣の忌諱にふれる筆禍事件により退職する。この事件は無罪となったが、以来海軍を去り、在野の中国通としておもに清国蘇州に居住し、李鴻章その他の名士と交わり、支那服を着用して暮らした。晩年は不遇であったが、動脈瘤のため東京大森に帰国。明治43年5月30日病没する。曽根俊虎には「北清紀行」「清国近世乱誌」「清国漫遊誌」「法越交兵記」「俄国暴状誌」などの著書がある。

すべての道はローマに通ず

    ローマ帝国は、五賢帝の時代(ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス)末期にいたるまで平和を享受し、「ローマの平和」(パクス・ロマーナ)と呼ばれた。その繁栄の絶頂はトラヤヌス帝のときで、領土はドナウ川の向こう岸のダキアを属領として、帝国の領土は最大となった。北はブリタニアから南はサハラ砂漠北端、東はメソポタミアから西は大西洋岸までの、アジア・アフリカ・ヨーロッパの3大陸にまたがり、地中海を内海、「我らの海」とする大帝国で、総人口は5000万人から6000万人であったと推定される。

    陸海の交通の安全が確保され、ローマ道は帝国中に張りめぐらされ、ギリシア・ローマの融合した都市的文化がゆきわたった。東方ではギリシア語が広く使われていたが、帝国政府はラテン語の普及に努めた。当時、帝国の東のはしから西のはしへ行く旅人はこの2つの言語を使えれば不自由せずに、またいたるところで同じような都市の生活を味わいながら旅行できただろうといわれる。

   17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌの寓話に「すべての道はローマに通ず」という格言は、このようなローマ帝国の全盛期に世界各地からの道がローマに通じていたことから、転じて、どんな方法をとっても同じ目的のところに達すること、真理は一つであることのたとえとして使用されたものである。

   ちなみにローマ帝国の属州と辺境の地名を調べると、ゲルマニア、ブリタンニア、ルシタニア、アクイタニア、ヒスパニア、ガリア、ダルマチア、ダキア、マウレタニア、ルティア、ラエティア、マッサリア(マッシリア)、ルテティア、トラキア、アシア、アンティオキア、アレクサンドリア、アルメニア、モエシア、バレンシア、ニコメディア、カッパドキア、カエサレア、ガラティアなどすべて語尾が「ア」である。これは、ギリシア語、ラテン語、ロマンス語では女性名詞の語尾は「ア(-a)」であり、地名は女性名詞によるものである。(参考:「詳説世界史研究」山川出版社)

2007年3月24日 (土)

千の風になって

   今日、テレビの「ミュージック・フェア」と「家族で選ぶにっぽんの歌」で秋川雅史の「千の風になって」を聞いた。「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」死者の側から、嘆き悲しむ遺族に慰めの言葉が語りかけられる。ケペルも亡くなった父、母を思い出した。「秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬にはダイヤのように きらめく星になる 朝は鳥になってあなたを目覚めさせる 夜は星になってあなたを見守る」言葉の一つ一つがじわじわと胸に伝わってくる。そして秋川雅史の張りのある歌声が、多くの人たちに共感をよんでいる。クラシック歌手でチャート1位というのはオリコン史上初の快挙だそうだ。

    もっとも戦前までは歌謡界もクラシック系の歌手が主流であった。東海林太郎(1898-1972)は昭和8年音楽コンクールでオペラのアリアをうたい入賞している。藤山一郎(1911-1993 )は増永丈夫という本名でクラシックを歌っていた時期もあった。藤原義江(1898-1976)、田谷力三(1899-1988)、徳山璉、柴田睦陸(1913-1988)たちは日本歌曲の普及に大いに貢献した。これまで紅白歌合戦といえば演歌歌手が中心という印象がある。テノール出場歌手といえば、藤原義江、柴田睦陸、立川澄人、 錦織健くらいであまり印象はなかった。昨年の第57回NHK紅白歌合戦で初めて聞いたが、秋川雅史の「千の風になって」は心に残ったいい歌唱だった。クラシックが日本の歌謡に興隆した昭和という時期と戦時体制とが重なったため、多くのクラシック系の歌手たちは国民歌謡や戦時軍歌を歌わされた不幸な時代だったと思う。いまこそクラシック界はその純粋なる音楽性と芸術性で新しい日本歌曲の普及に貢献してもらいたい。

桃 夭

桃は若いよ 燃え立つ花よ

この娘 嫁(ゆ)きゃれば ゆく先よかろ

桃は若いよ 大きい実だよ

この娘 嫁きゃれば ゆく先よかろ

桃は若いよ 茂った葉だよ

この娘 嫁きゃれば ゆく先よかろ

                      目加田誠訳 「新釈詩経」

(通釈)わかわかしく美しい桃の木に、燃えたつような赤い花が咲いた。このうるわしい花にも似たこの娘はこれからお嫁に行くが、さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

わかわかしく美しい桃の木に、はちきれそうな実がなった。さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

わかわかしく美しい桃の木に、緑の葉が茂りに茂った。さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

輝く巨人の星となれ

   昭和32年、長嶋茂雄の巨人軍入団が決まった日、その話題を憎らしそうに聞いている少年がいた。少年の名は、星飛雄馬。飛雄馬は父・一徹からしごかれる日々に、野球を憎んでさえいた。そこは長嶋選手入団発表パーティ会場である。

「ではここで偉大なる先輩である千葉さんから栄光の背番号3が励ましを込めて長嶋くんに譲られます」

「長嶋くんを迎え史上最大の三塁手も巨人軍から生まれるだろう」

   その時、飛雄馬は長嶋に魔送球を投げつけた。それを見た川上監督は、かつて星一徹が投げていた魔送球を投げる少年に驚き、逃げる少年を追いかける。

   飛雄馬が家に帰ると、一徹は酔っ払って暴れている。理由は飛雄馬が禁じている魔送球を投げたからだけではない。長嶋が恐れもしないでみこど見破ったからでもあった。この様子をみていた川上は、明日の巨人軍のために一徹が史上最大の投手を育てていることを知る。

    一徹は夜空を指しながら飛雄馬に言う。「飛雄馬よ、見るがいい。あの星座がプロ野球最高の名門巨人軍だ。おれもかってはあの輝かしい星座の一員だった。だがそれが今ではもう手の届かない彼方に遠ざかってしまった。飛雄馬!お前はなにがなんでもあの星座まで駈け登るのだ。巨人軍という星座のど真ん中でひときわでっかい明星となって光れ!輝け!」「野球は憎いけどこと野球となると、しゃんとするとうちゃんはやっぱり好きだぜ」そして厳しい秘密の訓練が続けられた。(巨人の星1)

「浜辺の歌」と金賢姫

   3月22日放送の日本テレビ番組「あの人は今、金賢姫悲しき結婚生活追求」を見た。金賢姫(キム・ヒョンヒ)は1997年、ボディガードであった元国家安全企画部員の男性と結婚した。その後、名前を変え、男児を出産し、ソウル市内で普通の主婦として暮らしているという。結婚後は表舞台にでてこない。今回の市川森一の取材も何ら新しい情報はなかった。前回1997年の取材の映像が流れていた。市川森一にコロッケをあげながら、台所で「浜辺の歌」を歌っている。かつて金賢姫は日本人になりすますため、日本語教育だけでなく、日本の文化も教えられ、山口百恵の歌も数多く歌えると聞いたことがある。この戦前の古い唱歌「浜辺の歌」は日本を代表する歌として韓国人には知られていたのであろう。

   「浜辺の歌」は本当に名曲である。「赤とんぼ」と同じように親しまれている。その芸術性が高く評価されている。淋しいとき、悲しいとき、つい口づさみたくなる歌であろう。ところが音楽の先生のブログを見ていると「最近の生徒は、浜辺の歌をあまり好きではない」ということが書かれていた。のんびりしたリズム、微妙な盛り上がりを持つ旋律に魅力を感じないらしい。たしかに唱歌といよりも、大人のセンチメンタルな曲という感じがする。

   あした浜辺を さまよえば

   昔のことぞ 忍ばるる

   風の音よ 雲のさまよ

   寄する波も 貝の色も

 「浜辺の歌」は大正7年10月にセノオ音楽出版社から出された「セノオ楽譜98番」に掲載されて世に出た。作詞は林古渓(1875-1947)が大正2年につくり、これに成田為三(1893-1945)が曲をつけた。成田は鈴木三重吉の提唱した童謡運動に参加した音楽家で「赤い鳥小鳥」なども作曲している。成田は「浜辺の歌」を作曲すると、東京音楽学校の同窓の倉辻正子(1900-1989)に「いとしの正子にさざぐ」と記して、この楽譜を郵送した。そのとき、すでに婚約者がいた倉辻は楽譜を送り返したという。大正5年ごろの話である。「浜辺の歌」の豊かな叙情性は、成田為三の切ない恋歌からでていたものであろう。曲の生まれた背景は知らなかったが、大正、昭和、平成と時世は変わっても、人が人である限りもち続ける純粋な気持ちが見事に表現された美しいメロディーであると改めて思う。

2007年3月23日 (金)

日本のポップス史1960年前後

    SP盤から17cm45回転シングル盤に移行した頃に登場した音楽がロカビリーである。石原裕次郎主演の映画「陽のあたる坂道」(昭和33年)で腹違いの弟のジミー小池(川地民雄)が新人歌手としてジャズ喫茶で歌う場面があるが、当時の雰囲気がよくでている。ちなみにこの石坂洋次郎の原作小説だが、なんとなく田代信次(石原裕次郎)が「エデンの東」のキャルに似ているように感じるのはケペルだけだろうか。

    ともあれ日本のポップス史の劈頭を飾るのは、まず小坂一也とワゴンマスターズであろう。ウエスタンから派生してロッカビリーが登場し、十代の女性を中心に絶大な人気を博した。昭和31年にプレスリーの日本語カヴァー「ハートブレイクホテル」、「アイウォントユー・アイニードユー・アイラブユー」、昭和32年にプレスリーとジェームズ・ディーンの映画主題曲をカップリングしたA面「優しく愛して」B面「ジャイアンツ」が、SP盤と併行して発売された。昭和32年の秋には都内のジャズ喫茶でロカビリー人気が沸騰。これに目をつけた渡辺プロダクションが昭和33年2月、日劇ウエスタン・カーニバルを開催したところ大成功だった。平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎がロカビリー三人男と呼ばれた。さらに清野太郎、飯田久彦、藤木孝、佐々木功、フランツ・フリーデル、鹿内タカシ(鹿内孝)、スリー・ファンキーズ、克美しげる、ほりまさゆき、清原タケシ、ジミー時田、竹田公彦、坂本九、田辺靖雄、ジェリー藤尾、鈴木やすし、紀本ヨシオ、瀬高明、沢雄一、倉光薫、目方誠などの歌手がでた。また歌謡曲とポップスとは未分化であるが松島アキラ、守屋浩、井上ひろし、佐川ミツオ(佐川満男)、石橋イサオ、北原謙二、菊池正夫(城卓矢)などがいる。北原謙二は「若いふたり」で歌謡曲のイメージがあるが、「北風」というウエスタンの古典をヒットさせている。

    このようにロカビリーははじめ男だけの世界であったが、アメリカでコニー・フランシスやブレンダ・リーといったガール・シンガーが人気を集めると日本でも女性ポップスが続々でてくる。これまでもジャズ歌手としての江利チエミ、雪村いずみは依然として人気者だったが、テレビ時代になって昭和34年「可愛い花」でザ・ピーナッツがデビューすると、テレビの「ザ・ヒットパレード」「シャボン玉ホリデー」のレギュラーとして活躍しはじめ、森山加代子、田代みどり、渡辺トモ子、斎藤チャ子、弘田三枝子、中尾ミエ、青山ミチ、木の実ナナ、伊藤アイコ、園まり、後藤久美子、ベニ・シスターズ、梅木マリ、安村昌子、麻生京子、伊東ゆかり、スリー・グレイセス、伊藤照子、梶原マチ子、小野ヒロ子、槇みちる、沢リリ子、甲山紀代、梓みちよ、富永ユキ、九重祐三子などのアイドルが活躍した。カヴァー・ポップス全盛期であるので、コニー・フランシス、ジョニー・ソマーズ、シルビー・バルタン、ミーナ、ウィルマ・ゴイク、スキーター・ディヴィス、ペギー・マチー、フランス・ギャルといった世界のヒット曲を子供でも歌えることができた。昭和40年になってベンチャーズ、アストロノウツなどの来日によりエレキ・ブームが起こった。東京ビートルズやスパイダースがデビューしたが、昭和41年6月のビートルズ来日は日本ポップス史の画期的出来事であった。その直後の昭和41年7月のブルー・コメッツの「青い瞳」がでて、日本でもヴォーカル&インストゥルメンタル・グループが可能であることが実証された。昭和42年になると、マスコミはこれら歌中心のエレキ・バンドを「グループサウンド」と命名した。とくに昭和42年2月「僕のマリー」でデビューした沢田研二をはじめとする京都出身のタイガースが、十代の少女達を中心に爆発的な人気を得た。ジャッキー吉川とブルーコメッツ、田辺昭知とザ・スパイダース、寺内タケシとブルージーンズ、加山雄三とランチャーズ、ザ・サベージ、ワイルド・ワンズ、テンプターズ、ゴールデン・カップス、フィンガーズ、ジャイアンツ、ジャガーズ、カーナビーツ、オックス、レイジャーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、シャープ・ホークス、シャープ・ファイブ、ズー・ニー・ブー、ザ・リガニーズなど団塊の世代らしく昭和42年から44年までに100有余のグループがレコード・デビューし、500種近くのシングルが発売された。

   昭和40年、エイミー・ジャクソンの「涙の太陽」がヒットし、女性がビートに乗ったパンチのある曲を歌った。昭和42年2月、黛ジュンがミニスカートで「恋のハレルヤ」を歌って、ビート・ガールの時代が始まる。歌謡曲の女王の美空ひばりがブルー・コメッツをバックにして「真っ赤な太陽」(昭和42年6月)を歌ったのには正直、驚いた。黛ジュンは「霧のかなたに」(昭和42年7月)、「乙女の祈り」(昭和43年1月)とヒットを連発し、「ひとりGS」の女王的存在だった。とくに「乙女の祈り」の「恋にもえる胸の願いはひとつ、好きな人とかたく結ばれたい」と歌い出しにサビの部分をもってきた「ひとりGS」の特徴を現した名曲といえるだろう。昭和42年10月には中村晃子の「虹色の湖」がヒットした。中村晃子は数年前からテレビにででいたキュートな娘だったが、オールスターワゴンというバックに支えられてヒットに結びついた。翌年には渡辺プロがバックアップした梢みわ「恋のバイカル」がヒツトしている。「シャボン玉ホリディー」など人気歌番組に出演したこととパンチのきいた歌唱法、キュートなルックスで黛ジュンの路線を継承したものである。そのほかに小畑ミキ、葉山エツコ、響かおる、木の実ナナ、鍵山珠理、金井克子、奈美悦子、久美かおり、恵とも子、泉アキ、ジュディ・オング、朱里エイコ、万里れい子、山本リンダ、小山ルミ、由美かおる、ミッチー・サハラ、はつみかんな、麻里圭子、堀内美紀、江美早苗、徳永芽里、川奈ミキ、木下節子、水沢有美、浅尾千亜紀などがいる。いしだあゆみ「ブールライト・ヨコハマ」以前は人気はあったものの、ヒット曲に恵まれなかったが、「太陽は泣いている」(昭和43年3月)が「ひとりGS」の特徴がよくでている。

   このほか60年代活躍した歌手でポップ&歌謡曲の区別のつかないシャンソン、ラテン、ハワイアン、ジャズ、フォーク各種ジャンルの大物歌手としては、フランク永井、笈田敏夫、ジェームズ繁田、旗照夫、ペギー葉山、高英男、芦野宏、ウイリー沖山、アイ・ジョージ、水原弘、越路吹雪、藤沢嵐子、石井好子、朝丘雪路、岸洋子、坂本スミ子、西田佐知子、日野てる子、布施明、ジャニーズ、マイク真木、荒木一郎、ちあきなおみ、奥村チヨ、高田恭子など多数いる。

芥川龍之介の初恋

   芥川龍之介(1892-1927)は明治25年3月1日、東京市京橋区入船町8丁目1番地(現在の聖路加病院の辺)に、牛乳販売業耕牧舎を営む新原敏三(しんばらとしぞう)・フクの長男として生まれた。母が発狂したため、龍之介はフクの長兄芥川道草にあずけられた。生来病弱で感受性が強く、早くから書物を通じて人生への懐疑を深めた。大正3年5月、龍之介23歳、青山女子学院英文科に通う吉田弥生という同じ年の女性と知り合う。文学を好み、英語が堪能な弥生は才色兼備の女性であった。

    7月20日から約1か月間、大学で1年上級の堀内利器の郷里千葉県一宮に滞在した。龍之介は毎日のように海水浴に行った。しかし、想うのは弥生のことばかりだった。滞在中、吉田弥生に手紙を出している。翌年には弥生は大学を卒業するが、すでに陸軍中尉との婚約話が進んでいた。龍之介は弥生のことを養家に打ち明けたが、反対された。実は弥生は新原と親しい家の娘であること、士族でないこと、私生児であることなどが反対の理由だった。大正4年2月、龍之介はついに吉田弥生との恋を諦めた。大正4年5月、弥生は結婚する。この失恋の痛手は、後の人生に大きな影響を及ぼした。友人への手紙にこう書いている。「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」。そして、現実とかけ離れた世界に眼を向けようとして筆をとったのが、「羅生門」と「鼻」であった。

ジミーとピアとの悲恋物語

   ジェームズ・ディーン(1931-1955)は1950年、父のすすめでカリフォルニア大学の法律科に入ったが、俳優への執着は強く、演劇科へ移った。この時代にエキストラとして「底抜け艦隊」などに出演したが、芽が出ないと知ってニューヨークへ行きアクターズ・スタジオで演技を磨いた。ニューヨークで同棲したリズ・シェリダンと破局後、ポール・ニューマンの紹介で、イタリア女優ピア・アンジェリと出会った。瞬く間に二人は恋に堕ちる。しかし、宗教上の問題や、ジミーの自由奔放な生活スタイルなどに反対したピアの母親は恋する二人を引き離した。1954年にピアは歌手のヴィック・ダモーンと半ば強制的に結婚させられる。ピアの結婚式の当日、教会の向かいの道には、オートバイをとめて沈痛な表情をしたジミーがいたという噂もある。1955年9月30日、ジェームズ・ディーンは愛車ポルシェ・スパイダーを運転中に交通事故で亡くなる。この事故の直後の昭和30年10月、日本ではジミーの「エデン東」とピアの「銀の盃」とのワーナーシネマスコープがほぼ同時期に公開された。去りし恋人の死の知らせをピアはどんな気持ちで聞いたことだろう。

   ジミーの恋人ピア・アンジェリ(1932-1971)とはどのような女優であったのか。イタリアのサルジニア島生まれの清純派女優。双生児のもう1人マリサ・パヴァンは演技派女優で名作「バラの刺青」がある。ピアは美術学校卒業後、イタリア映画でデビュー。思春期映画「明日では遅すぎる」(1949)で、一躍世界中の若者たちのアイドルとなった。ハリウッドへ渡り、フレッド・ジンネマン監督の「テレサ」(1951)、「赤い唇」(1952)、「三つの恋の物語」(1953)、「君知るや南の国」(1953)、「銀の盃」(1954)、「傷だらけの栄光」(1956)と清楚な美しさで一時は人気があったが、マリリン・モンローなどのようなグラマラスな女優がもてはやされるようになり作品に恵まれず次第に存在感が薄れていく。ダニー・ケイ主演の「僕はついてる」(1958)を最後に、1961年にはヴック・ダモーンと離婚し、欧州へ戻る。イタリアでは映画音楽の大御所アルマンド・トロバヨーリと再婚するが、うまくいかなかった。「ソドムとゴモラ」(1963)、「バンコ・バンコ作戦」(1964)、「バジル大作戦」(1965)、「殺し屋専科」(1965)、「キング・オブ・アフリカ」(1968)、「吸盤男オクトマン」(1971)の撮影後の1971年9月10日、バビルツールの過剰服用で亡くなった。友人に充てた手紙には「愛はもう過去のもの。愛はポルシェの中で死にました」と伝えたという。ピアの選んだ相手のヴィック・ダモーン、アルマンド・トロバヨーリもそれぞれ才能ある人たちだが、ピアが親の反対を押してもジミーの愛を受け入れていれば、ジミーの不慮の死もなかっただろう。そうすると永遠の青春スターのジェームズ・ディーンではなくて、マーロン・ブランドーやポール・ニューマン以上の演技派の老優ジェームズ・ディーンの姿が見れたかもしれない。

昭和29年映画女優論

   昭和29年頃といえば、エリザベス・テーラーやマリリン・モンローなどのスターがトップクラスの人気があった。ところが映画「ローマの休日」(1953年アメリカ制作)が、昭和29年4月19日、公開されるや女優の魅力に大きな変化がおきた。はっとするような美しさ、あどけなさ、初々しさ、その全てが印象的である。

    オードリー・ヘプバーンはこの一作でアカデミー主演女優賞を獲得し、押しも押されぬ大スターになった。日本でも、街中でオードリーをまねたショートカットの若い女性が現れた。「映画の友」昭和29年10月号では津村秀夫、南部圭之助、筈見恒夫による「涼風映画鼎談」において女優論を語っているが、歴史的観点でかつての男性の女優観の一端をこの記事から読みとることができる。

津村 ルース・ローマンは駄目だね。この間「遠い国」を見たが実にまずいと思った。もう一人の女優、うん、コリンヌ・カルヴェか、あれに完全にやられている。ローマンは見放したよ。

筈見 この頃のスターの没落は早いからね。

津村 本当にアメリカ女優というのはいないよ。

筈見 オードリー・ヘプバーンはどう?

津村 ヘプバーンがでてきたね。あれは子供みたいなものでこれからどう成長するかわからないが、大したものだ。だけど戦前、ずらりと顔をならべていたような…

筈見 いや、僕のいうのはね、「ローマの休日」の人気で、あと引き継いてうけるかということだよ。

津村 一本だけじゃわからない。

筈見 一本でああ人気が出たのだから、それだけに早い。去年のいま頃はエリザベス・テーラーで騒いでいた。いまじゃテイラーの地盤がヘプバーンに行ったわけだろう。

津村 エリザベス・テイラーなんて吹けば飛ぶようなものだ。女の子が騒ぐだけで、あんなものは問題じゃない。

筈見 かりに、「ローマの休日」をエリザベス・テーラーやジーン・シモンズがやったらつまらんだろう。

南部 そりゃそうだ。ジーン・シモンズじゃつまらない。

津村 実際、アメリカ女優の凋落はひどいものだよ。誰がいるかということを考えさせられるね。

筈見 僕たちの考えが戦前的なのかもしれないが、戦後にこれは大丈夫というのはいないんだ。

記者 南部さん、オードリー・ヘプバーンはどうです?

南部 まあいいと思いますね。飯島君は、評価を引き下げる役にまわる方だと言っていたが、先生自身、彼女を買ってないんだね。大いに議論しようと思ったが、やめたよ。

筈見 女の子のことでは好みがそれぞれあるわけだから、やめよう。僕はね、「ローマの休日」はよかったが、みんながあまり言いやがんで、こつちは言わないよ。若い子なんか、オードリー・ヘプバーンがどうのこうのと言うが、こっちはキャサリン・ヘプバーンがいいと言いいたくなるんだ。同じヘプバーンでも、ちょっとヘプバーンがちがう、といいたいよ。

津村 それはね、批評家の評価の仕方もちがうよ。昔のヘプバーンは芸もうまかった。いまの芸はこれからで、素質がいい、というところで。何か別のものだな、あの魅力は。

筈見 キャサリン・ヘプバーンを初めて知ったときは、新鮮な個性があった。

津村 いまのヘプバーンはそれとちがうのだよ。

筈見 議論をしてもしようがない。よそうよ。

津村 両極端なのだよ、あの二人は。しかし、オードリーが欧州育ちというのは面白いな。アメリカにああいうのは育たない。昔からそうだよ。欧州で育ったやつがアメリカに行って売り出すんだね。純粋のアメリカ女優では誰だろう。ジョーン・クロフォードぐらいだ。

筈見 昔はいろいろいたよ。

津村 昔はいたさ。けれどもトーキーになってからでは?

筈見 まあグロリア・スワンスンは古いから別としても、トーキー以後になってからだって相当あるだろう。戦後にはワリにいないのだよ。

津村 マーナ・ロイなんかどうしちゃつたのかね。

筈見 ジューン・アリスンなんかはいい方だろう。

津村 あれは糠味噌くさい。糠味噌くさい女優は大物にはならん。

津村 イングリッド・バーグマンもグリア・ガースンも凋落が早かったな。ジェーン・ワイマンとか、「ブルックリン横町」のドロシー・マクガイアー、あれなんかでも非常に有望と思ったが、カスンじゃつたね。

筈見 ジェーン・ワイマンはつまらんよ。

津村 「偽りの花園」に出ていたテレサ・ライトなんか、伸びるかと思ったら案外だった。ああいうヒラメの刺身みたいなのはアメリカでは伸びないんだな。何か非常に弱々しいのだよ。

南部 黒鯛の刺身とはいえないかな。

津村 黒鯛はこまる。

南部 サヨリの刺身か…

筈見 テレサ・ライトってのは相手役女優としては物足りないよ。

津村 昔はいろいろいい女優がいたぞ。シルヴィア・シドニーとか、なんとか。写真を支えるようなのが。

南部 それに、昔は製作がしつかりしていた。

津村 スーザン・ヘイワードやリタ・ヘイワースが花形になるようじゃ心細いよ。

筈見 雰囲気を持っていないのだ。

津村 戦後のジョーン・クロフォードはごひいきなんだけども、今度は西部劇に出ているね。

津村 西部劇に出るということは、ちょつと凋落だな。それはそうと、ディートリッヒはまだ欧州で遊んでいるの?

記者 ええ。今度映画に出るという話もありますが。

津村 なんだかんだといっても、彼女は大立者だ。いまはそういうのがいない。

記者 このないだイギリスの舞台にノエル・カワードの紹介で出て、大変な人気だったそうです。

南部 彼女の記事はいまでもアメリカの雑誌に出ているよ。みんなに評判がよい。

南部 そう。あんなになると思わなかったなあ。スタンバーグ監督のおかげで出世したのかと思ってたら、そうじゃないんだね。

              *

   津村、南部、筈見の三氏はやはり戦前のスターがご贔屓らしく、新星オードリー・ヘプバーンの魅力については、認めるものの、うまくその魅力を表現できずになにかしらとまどいを感じているようみえるのが面白い。へプバーンの新鮮な魅力を発見したのは若い女性たちだったようだ。この鼎談からまもなくして、秋に「麗しのサブリナ」が公開された。監督のビリー・ワイルダーは「この子はふくらんだ胸を過去のものにしてしまうかもしれない」と言った予言は的中した。彼女のファション・センスは現在でも雑誌などで頻繁に取り上げられ、人々を魅了し続けている。

2007年3月22日 (木)

尾崎放哉、放浪孤独の人生

   「咳をしても一人」などの自由律俳句で知られる尾崎放哉(1885-1926)は、大学生時代、従妹の沢芳衛と恋仲であった。彼の俳号は「芳哉」といい、彼女が日本女子大学を卒業するとき結婚を申し込んでいる。だが、周囲から結婚を反対され、芳衛との結婚を放擲する意から俳号を「放哉」に変えたといわれる。以後の放哉は酒を飲むようになり、酔えば言動も粗暴になった。東大卒業後は東洋生命保険会社、朝鮮火災保険と出世したものの、人生に疑問をいだき、托鉢生活を始め、放浪孤独の生涯を送った。小豆島西光寺の奥の院南郷庵にはいって、門外不出の生活を半年余り続け、大正15年4月7日夕刻、近所の漁師夫婦にみとられながら死去した。享年42歳。

2007年3月21日 (水)

映画「青燕」の親日批判問題

   韓国初の民間人の女性飛行士、パク・キョンウォン(朴敬元、1901-1933)の生涯を描いた映画「青燕」(あおつばめ、2005)がようやく日本でも公開されたが、国内ではあまり話題にならなかった。パク・キョンウォン役はチャン・ジニョン。映画は大作であったが、韓国では親日派の実在人物ということで、若者の間で「見る、見ない」という物議を醸したそうだ。また韓国初の女性飛行士はクォン・ギォクだという説もでた。クォン・ギォクは1925年に中国空軍で服務しており、パク・キョンウォンより3年早い。ただし、ギォクは軍人であるということなので、パク・キョンウォンは民間人としては初の女性飛行士ということになる。映画「青燕」の公開には親日批判問題が背景にあって話はなかなか難しくなってしまった。

    パク・キョンウォンは、1901年6月24日、慶尚北道大邱府に生まれる。1917年にシンミョン女学校を中退し、1920年に日本の横浜技芸学校を卒業した。看護婦として働いたあと、1925年に立川飛行学校に入学。当時の女性としては長身で168cmあったという。1928年に韓国の民間人女性では初めて高等飛行士の資格を得て、彼女は飛行レースに参加し、優れた飛行の実力をしめした。海峡を越えて祖国の空を飛びたいという夢は、日満親善・皇軍慰問飛行という形で実現するかにみえた。1933年8月7日は悪天候であった。離陸後50分に静岡県玄嶽山において濃い霧が発生し、飛行機は墜落し、死去した。飛行機は単発小型機で「青燕号」と命名されていた。多賀村では一周年に「鳥人霊誌」という慰霊碑を建立した。

彼女は失敗したとはいえ、多くの偏見や障害を乗り越え、単独で海峡を越えるという夢にチャレンジした。飛行学校の学費なども東亜日報が後援した朝鮮全土からの寄付金と彼女が看護婦として働いた資金を充てたという。

宋学と四書五経

    一般に儒教の経典は「十三経」として知られており、「周易」「尚書」「毛詩」「周礼」「儀礼」「礼記」「左氏伝」「公羊伝」「穀梁伝」「論語」「孝経」「爾雅」「孟子」を収めている。漢から唐まで儒学は訓詁学として発達した。十三経は経書の本文であるが、それには古い注釈の「伝」というものがついたのもある。この経書の本文と伝とに対してさらに注釈をつけ加えたのが「疏」で、全部あわせるとたいへんな分量になる。注疏は大体は唐代までにできあがり、ニ、三の足りない部分を補足して、「十三経注疏」全部が成立したのは北宋時代のころである。

   唐代では仏教が栄えた。仏教の経典は三部に分けて、経、律、論である。宋代の儒者たちは仏教と儒教との経典を比べると、儒教は仏教の論部にあたる分野が欠けていることに気づいた。そこで、独自の発想と思索を重ねて、性・命・道・理・気などについて形而上的な解明を試み、論部の補強を思い立ったのが宋学の起こりであるといえる。

   宋学は周敦頤(周濂渓、1017-1073)に起こり、張載(張横渠、1020-1077)、程顥(程明道、1032-1085)、程頤(程伊川、1033-1107)に受け継がれ、南宋の朱熹(1130-1200)によって集大成された。また漢代以来、儒学の経典として尊重されてきた五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)よりも、四書(大学、中庸、論語、孟子)が高く評価された。

仏教伝承芸能「仏舞」

   仏舞(ほとけのまい)の正確な由来は不詳であるが、奈良時代に唐から伝えられた宮廷舞楽が各地に伝播したものといわれる。現在全国各地に数箇所残されている。

「松尾の仏舞」京都府舞鶴市松尾、松尾寺(まつのおでら)、毎年5月8日)、

「糸崎の仏舞」福井県福井市糸崎、糸崎寺、隔年4月18日

「小國の仏舞」静岡県岡智郡森町一宮、小國神社の十二段舞楽、4月18日に近い日曜

「花園の仏舞」和歌山県伊都郡かつらぎ町

「隠岐国分寺の仏舞」

    「松尾寺の仏舞」は江戸時代から伝わる民俗芸能で、大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三像の面をつけた優雅な舞が奉納される。「糸崎の仏舞」は、鷹巣海岸にある真言宗智山派・育王山龍華院糸崎寺の糸崎観音堂の正面に設けられた石組の舞台で披露される。金色の菩薩面に黒染めの法衣をまとい、鐘や太鼓にあわせて幻想的な舞を奉納する。舞手は糸崎に住みここで産湯を浸かった長男に限られる。唐の高僧禅海が糸崎寺を訪れたとき、その景観が明州育王山に酷似していることに喜び、菩薩や天女が喜びの舞を踊ったことが仏舞の由来とされる。全国に仏舞は伝わるが、昔ながらの舞を伝承しているところは少なく、重要無形民俗文化財に指定された。大陸から渡来した奈良時代の舞楽を今に伝える伝統芸能である。

周敦頤「愛蓮説」

    北宋の儒学者・周敦頤(1017-1073)47歳の作「愛蓮の説」は古文眞宝後集にあり、古来より名文として知られる。

水陸草木の花、愛すべき者甚だ蕃(おお)し。晋の陶淵明、独り菊を愛す。李唐自(よ)りこのかた、世人甚だ牡丹を愛す。予独り蓮の汚泥より出でて染まらず、清漣に濯(あら)はれて妖ならず、中通じ外直く、蔓あらず枝あらず、香遠くして益々清く、亭亭として浄く植(た)ち、遠観すべくして褻翫(せつがん)すべからざるを愛す。予謂へらく、菊は華の隠逸なる者なり。牡丹は華の富貴なる者なり。蓮は華の君子なる者なりと。噫、菊を之れ愛するは、陶の後、聞く有ること鮮し。蓮を之れ愛するは、予に同じき者何人ぞ。牡丹を之れ愛するは、宣(むべ)なるかな衆(おお)きこと。

    「愛蓮説」は、菊を隠逸の士に、牡丹を富貴の人にたとえ、自分の理想とする君子像を蓮の花にたとえながら、社会の風潮を批判しているのである。俗人は世間的な名位や豊かな生活にあこがれ、豪華な牡丹に人気がある。唐の則天武后は牡丹を好んで宮中に植えたため、唐代では世をあげて牡丹が愛好された。蓮の花はこれらに対して、脱俗でもなく世俗でもなく、俗界にありながらひとり清らかに高潔な態度を保ちつづけ、君子にふさわしいとしたのである。

   周敦頤は、字は茂叔(もしゅく)、濂渓先生と呼ばれ、道州営道(湖南)を原籍とする。慶暦の治と呼ばれる北宋の最盛期、中央では革新的な政論・学風が開花していたが、彼は禅僧と交わり清貧に安んじる地方官の生活を送っていた。南宋に入り、朱熹が道学を大成していらい、道学の開祖といわれる。彼の著述は「太極図説」と「通書」がある。「太極図説」は太極を万物の本体とする宇宙論を説く。つまり、「宇宙生成の過程は無極にして太極なる本体より発して五行を生じ、さらに一切の現象として現われ、人間は陰陽二気によって化成され、形体・精神ともに有するものであり、その道徳は聖人の定めた中正仁義の四字である」とする。

林芙美子「放浪記」刊行前後

   林芙美子(1903-1951)は尾道から上京して、本郷蓬莱町の大和館で洋画を勉強中だった長野県下高井郡平岡村出身の手塚緑敏(1902生)と知り合い、結婚(内縁関係)したのは改元した年の12月であった。二人は昭和2年1月、高円寺の西武電車車庫裏にあたる山本方の二階に間借し、5月には和田堀の内妙法寺境内浅加園にある借家に住み、この家において芙美子の文業が開けてくる。

   当時大衆作家として盛名をあげていた三上於菟吉は、芙美子の詩に注目して、彼の妻である長谷川時雨に推薦した。そして長谷川が主宰する「女人芸術」第2号(昭和3年8月号)に詩「黍畑」が載った。ついで第4号(昭和3年10月号)から「秋が来たんだ」(副題「放浪記」)の連載が始まった。「放浪記」という副題名をつけたのは三上於菟吉である。プロレタリア文学興隆のおりから、当初は好意的に迎えられたが、共産党の活動に距離をおいていたため、プチブルと批判を受け、「秋は来たんだ」の連載は20回で打ち切られた。

   昭和4年、「秋が来たんだ」を読んだ「改造」の記者・鈴木一意の計らいで、随筆原稿の依頼がきた。「改造」は当時の一流の綜合雑誌である。鈴木が彼女の西武線中井の家を訪れたとき、彼女は着る物を全部入質してしまって、海水着一つで応対したという。芙美子は「改造」10月号に「九州炭鉱放浪記」を発表した。昭和5年1月、林芙美子、望月百合子、北村兼子、生田花世、堀江かど江らと台湾旅行をする。7月に改造社から「新鋭文学叢書」の1冊として「放浪記」が出版され、ベストセラーとなる。11月には「続放浪記」が出版される。これから林芙美子の流行作家としての活躍が始まるのである。

   台湾旅行では、大阪朝日新聞で活躍したジャーナリストの北村兼子(1903-1931)が同行しているのも注目される。才気と行動力ある同年代の女性たちは旅先でどのような話をしていたのだろうか。北村兼子は自らを「女浪人」と呼び世界各地を歩き回って日本の植民地政策を批判したので、林との意見の違いはあったであろう。北村は旅行の後まもなく27歳で急逝している。

酒仙若山牧水と若山喜志子

白玉の歯にしみとほる秋の夜の

酒はしづかに飲むべかりけり

(白珠のような美しい歯にしみとおる酒、秋の夜の灯の下でくむ酒は、しずかにひとりしみじみと味わいながら飲むのがよいものだ)

    若山牧水(1885-1928)、26歳の作である。前田夕暮はこの歌に対して、「彼の行くところ山河あり、山河あるところ彼と酒とがあった。酒によって彼は彼の悲しみを深め、彼の純情一路の心境を研いた。秋の夜の孤独感が酒によって如何に慰められているか、冷たい響きと匂とを持っているこの歌によく流露されている」(「現代短歌全集」月報「若山牧水の歌」)といっている。

   牧水は大正5、6年ごろになると、人生的な詠風から、旅を中心とした自然詠や、日常生活の淡い感情を歌った歌などが多くなり、自然歌人としての道に徹してゆくことになる。酒と旅のうちに44歳の生涯をつねに支えたのは妻の若山喜志子(1888-1968)であった。

    明治44年7月、若山牧水は、歌人の太田水穂(1876-1955)方で、のちに妻となる太田喜志子と出会う。喜志子は明治21年5月28日、長野県東筑摩郡広丘村吉田に太田清人の四女として生まれた。喜志子も歌人で、「信濃毎日新聞」の選者だった太田水穂を頼って上京し、水穂の家に住み込んでいるところへ、牧水の訪問を受けた。

   このあと牧水は、旅先でもどこでも喜志子に近づき、手紙を送り、過去の恋愛や秘すべき病のことまで、洗いざらい打ち明けた。長男の旅人が「それでよく結婚したね」と言うと、母は「あの澄んだ瞳の持ち主に悪い人のいるはずはないと思ったから」と答えたという。

2007年3月20日 (火)

マリー・ド・メディシスの栄誉なき生涯

    マリー・ド・メディシス(1573-1642)はアンリ4世の死後数時間で自ら摂政の位に就き、以降7年間、彼女はフランスを支配した。マリーは素早くイタリア人を主とした派閥でまわりを固めた。1617年、青年王ルイ13世(1601-1641)がマリーに反旗をひるがえした。マリーはブロアに追放された。1620年、リシュリーのはからいでマリーは再びパリに戻った。しかし、マリーの政治への影響力はもうなかった。ルイ13世が1630年に病で倒れると、信仰をなおざりにした天罰だと、マリーは言い張った。そしてマリーは1631年にフランスを去り、二度とフランスに戻ることはなかった。1642年7月にケルンで世を去った。遺体はフランスに運ばれ、サン・ドニ大聖堂のアンリ4世のかたわらに葬られた。

   フランス王妃となったイタリアの姫君の波瀾の生涯は、今日リュクサンブール宮殿にあるルーべンス(1577-1640)が描いた「マリー・ド・メディシスの生涯」(1622-25)の21枚の絵画によってうかがい知ることができる。これは、ルーベンスの最大業績の一つに数えられるが、歴史と寓意と肖像の要素を混ぜ合わせ、マリーのまったく栄誉なき生涯に対する栄誉に満ちた賛辞となっている。

2007年3月19日 (月)

武田典厩信繁

    風林火山「信虎追放」。武田信玄(市川亀治郎)は家臣団が居並ぶ前で「信繁、頼む。このわしに従うてはくれまいか」と頭を下げる。「兄上、頭をお上げください。それがしも侮られたものよ」武田信繁(嘉島典俊)は、父が兄を憎む理由が、その器量を恐れてのことだとわかっていた。「兄上、よくぞ、ご決意なされた。信繁は、これより晴れて堂々と、兄上の命に従いとうございまする」「信繁、わしは、今日ほど己を恥じたことはない。すまない、信繁」その場にいる家臣の誰もが、ひとつの思いを胸に感じた。

    武田典厩信繁(1524-1561)は、信虎の二男。終生、兄信玄を敬慕してやまなかった実直な人柄で、容姿が信玄にそっくりだったので、兄に危険がせまるたび、信玄になりすまして敵前に立つという影武者を幾度となくつとめた。天文10年の信虎追放事件が起きた時、真相を知る信繁は冷静に兄の非常手段を暗黙のうちに理解し、信玄の指揮に従った。信繁は信玄のよき補佐役として軍略、識見ともに優れ、武田の副大将として活躍した。兵法書「虎略品」の中でも、「北条氏康、上杉謙信、織田信長ら諸将も異口同音にほめ称えること限りなし」と記し、江戸の室鳩巣も「典厩公は天文、永禄の間の賢と称すべき武将で、兄信玄公に仕えて人臣の節を失うことなく、その忠信、誠実は人の心に通じ、加えて武威武略に長じ知剛知柔、まことの武将」と最高の賛辞を寄せている。永禄4年9月、川中島合戦で「信玄本陣危うし」と見た信繁の死力を尽くしての奮戦で、辛くも信玄は虎口を脱するが、兄の身代わりとなって敵陣へ斬り込んで果てたのである。

   信繁は嫡男信豊に九十九か条の教訓を遺しているが、これが「信玄家法」と呼ばれ、武道、兵法、礼儀作法などを倫理、道徳、宗教を基底として述べているもので、江戸時代の武士教育に大きな役割を果たしている。

   典厩というのは、唐の官職名の馬寮(めりょう)のことで、職務は、軍馬の調達、調教、管理だったからその長たる信繁は、無敵を誇る武田騎馬軍団の枢機をにぎっていたともいえる。

俳句の魔術師・西東三鬼

水枕ガバリと寒い海がある

(高熱に耐えるため水まくらをして安静にしていた。ふと頭を動かすと、ガバリと水まくらが鳴った。その陰鬱な音は、病人の記憶の底から、広く寒々とした海を思い起こさせ、同時に窓外に冬の大森の海が見えて、なんともいえない不安感が襲ってきたのであった。)

算術の少年しのび泣けり夏

(算数の問題に長い間取り組んでいた少年は、どうしてもそれを解くすべがわからず、ついにシクシクと泣き出してしまった。長い夏の日も傾き、はや夕闇が迫ってきた。)

暗く暑く大群集と花火待つ

(花火大会に集まった大群集。やみの中で花火を待っていると、人いきれとおりからの暑さでむんむんするほどである。自分も今その中のひとりとして、花火の上がるのをじっと待っているのである。)

   西東三鬼(さいとうさんき、1900-1962)。本名は斎藤敬直(けいちょく)。明治33年5月15日、岡山県津山市南新座に生まれる。父は斎藤敬止は郡視学、母登勢。6歳で父を失い、その後は長兄の扶養を受けた。大正8年9月、二人ぐらしをつづけた母の死に遭い、東京の長兄に引き取られ、大正14年、日本歯科専卒業、長兄在勤の関係で12月渡航、シンガポールで開業。しかし、昭和3年済南事変が起こり、日貨排斥による不況とチフスの大患のため休院をつづけ、失意のうちに帰国した。昭和8年、東京神田共立病院歯科部長に就任。昭和9年、32歳の時、患者に俳句会にすすめられて作句に志す。このころ新興俳句の勃興期であった。日野草城、吉岡禅寺洞、山口誓子に師事するが、平畑静塔に誘われて京大俳句に参加する。新興俳句陣の花形となり、「俳句の魔術師」といわれた。昭和15年8月末日、京大俳句事件に絡み治安維持法違反で検挙された。11月起訴猶予となったが、爾来たのしまず、俳句も放棄する。昭和17年、神戸に移る。戦後俳誌「天狼」創刊に加わったが、昭和27年から「断崖」を主宰。昭和37年1月、発病、胃がんで4月1日葉山の寓居で没した(西東忌、三鬼忌)。享年62歳。主な句集は「夜の桃」(昭和25年)「今日」(昭和26年)「変身」(昭和37年)など。

愛された国王・アンリ4世

    アンリ3世(在位1574-1589)が熱狂的なドミニコ会士の凶刃によって暗殺されヴァロア朝が絶えると、1589年、ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世(1553-1610、在位1589-1610)がフランス国王に登った。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、その一方、1598年にはナントの勅令を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。ブルボン家のアンリ4世は35歳、均斉がとれた身体、活気にあふれ、威厳に満ちた歴戦のつわもの、柔軟な知性と明敏な政治力を持っていた。プロテスタントとカトリック双方の信頼を勝ち得て、フランスの王権は急速に強化された。シュリー公(マクシミリアン・ド・べテューヌ、1559-1641)を財務官に起用して、財政改革と農業保護にあたらせた。王とほとんど同年輩で、その同志にして友人、宗教内乱歴戦の勇将、王に改革をすすめこそすれ、自分はつねにルターとカルヴァンの肖像を壁にかけていた気難しく頑固な人物は、勤勉そのもの、吝嗇なまでに節約家であった。「耕作と牧畜とはフランスの二つの乳房」とは、彼の有名な言葉である。シュリー公にとって国土の復興とは、フランス農村の立て直しをはかることであった。農業とそれに従事する人間だけが、フランスに国富と平和をもたらす、というのが、彼の信念であった。もちろんシュリー公の仕事にも限界はあった。農業中心で商業、工業にはあまり関心がなかった。だが、明敏なアンリ4世は養蚕、絹織物、ゴブラン織などの工業をおこし、海外貿易に力をいれた。サミュエル・ド・シャンプラン(1567-1635)がカナダを探検してケベック植民地などの建設がはじめられ、東インド会社がつくられたのも、アンリ4世の治世のことである。

    アンリ4世は色事でも勇名をはせたが、一説に恋人の数は56人以上に及ぶという。最初の妻であるマルグリッド・ド・ヴァロアとはサン・バルテルミの虐殺という忌まわしい事件のため別居状態が続き、子供もなかった。アンリ4世はガブリエル・デストレとの結婚を望んでいたが、1599年4月にガブリエルは24歳の若さで急死した。身分の低さからガブリエルを嫌ったマルグリッドも、メディチ家の娘マリー・ド・メディシス(1573-1642)との縁組には応じた。国王47歳、新しい王妃は26歳であった。二人の結婚式は、1600年10月5日にフィレンツェ大聖堂で挙行された。アンリ4世は政務多忙のためフランスを離れられなかったので、トスカーナ大公が新郎の代理となった。荘厳な結婚式と1週間に及ぶ祝祭のあと、マリーは金襴緞子で飾られた豪華なガレー船でマルセイユに向けて船出した。そしてリヨンで初めてアンリ4世にまみえ、1600年11月にその地で結婚の儀は完了をみた。イタリア人のマリーはフランス語が喋れなかったため宮廷での暮らしは孤独だった。それを紛らすためか、マリーの浪費癖は尋常ではなく、毎日のように宝石を購入したりする生活だった。だが翌年の9月には世継ぎであるルイ13世を出産した。アンリ4世も放蕩を自重し、自分が不在の場合に王政の全権をマリーに与える布告を出した。夫妻の生活を取戻しやっとこれから王宮での穏やかな生活を送ることができると思われたが、1610年5月14日、狂信的なカトリック教徒ラヴァイヤックによってアンリ4世は暗殺された。国民の驚き、悲しみは、祖父により、父によって、子々孫々にまで語りつがれた。フランスの王のなかで、これほど死をいたまれた王はあるまいといわれる。勇敢で良識があり、陽気で豪放で庶民的なこの王はまことに国民から敬愛されていた。

長谷川時雨と三上於菟吉

   長谷川時雨(1879-1941)。本名、長谷川ヤス。明治12年10月1日、東京日本橋区通油町(現・大伝馬町)一番地に免許伝言人の長女として生まれる。最初の結婚に失敗して実家に戻った。このころ気の向くままに書いた戯曲「海潮音」が読売新聞に入選した。明治43年8月、「操」が好評を得、翌年「桜吹雪」と改題、尾上菊五郎によって歌舞伎で上演された。これによって劇作家としての地位を確立することができた。大正になると、時雨は菊五郎・猿之助らとともに「新舞踊劇運動」を起こし、歌舞伎に新風を吹き込んだ。同時に、演劇雑誌「シバキ」を発行したり、菊五郎らと「狂言座」を組織したりした。また大正12年、岡田八千代とともに女性文芸誌「女人芸術」を刊行したりしたが、これは経済的理由で2号で廃刊となった。この間、時雨は戯曲のほかに「名婦伝」「美人伝」「旧聞日本橋」などの伝記小説や随筆も書き、脚光を浴びるようになった。

   三上於菟吉(1891-1944)は、埼玉県北葛飾郡桜井村字木崎の生まれ。早稲田大学に進み、宇野浩二、広津和郎、谷崎精二、直木三十五、国枝史郎、近松秋江などを知り、三富朽葉、北原白秋と親しくなる。処女作「春光のもとに」が朝鮮独立運動を題材にしていたため発禁となる。不遇をかこつ於菟吉を深く理解したのが、長谷川時雨だった。

   昭和のはじめに、時雨と於菟吉との結婚は、劇界や文壇をおどろかせた。時雨は昭和3年、「女人芸術」を再度発行して主宰した。(昭和3年7月から昭和7年6月まで全5巻、48冊)神近市子、山川菊枝、平林たい子、中条百合子(宮本百合子)などの論客に、林芙美子、矢田津世子、上田文子(円地文子)、ささきふさ、窪川いね子(佐多稲子)、中本たか子、岡本かの子、森三千代などの女流作家を育てた。昭和3年10月から連載された林芙美子の「放浪記」で一躍注目を浴び、多くの女流文学者が輩出し、当時の女流文芸雑誌の頂点に立った。於菟吉も「敵討日月双紙」「鴛鴦呪文」「淀君」「雪之丞変化」などで大衆作家としての人気を博した。於菟吉の稼ぎは赤字経営の「女人芸術」に惜しげもなく注ぎ込まれた。だが於菟吉の実生活は乱脈を極めた。昭和10年、長谷川一夫主演映画「雪之丞変化」が大当たりし、全盛期を迎えるが、翌年に自動車事故で右腕を骨折、さらに血栓症で病に伏せて文壇から遠ざかった。時雨は昭和16年8月22日、慶応病院で死去、63歳だった。於菟吉は昭和19年2月18日、埼玉県幸松村(:現・春日部市八丁目)で53年の生涯を閉じた。

2007年3月18日 (日)

安倍清明と蘆屋道満

    安倍清明と蘆屋道満が天皇の立会いで内裏の白州で対決することになった。「長持ちの中身を占いで当てよ」という課題であった。中には大柑子(夏みかん)があった。道満は「大柑子が16個あります」と占うと、清明は「鼠が16匹います」と告げた。清明サイドの大臣や公家らは清明が占断を誤ったと思い、長持ちの蓋を開けるのをためらっていた。そこへ自信満々の道満が早く開けるように促した。清明までもがすぐに開けるようにいったので、やむなくそうすると、長持ちの中から鼠が16匹飛び出してきた。清明は道満がずばり占ったので、あえて加持を修して、大柑子を鼠に変えるという術を使ったというわけである。

バートランド・ラッセルの平和運動

   バートランド・ラッセル(1872-1970)は、イギリスのウェールズのトレレックに生まれた。父アンバーレー子爵および母ケイト夫人がともに早く亡くなったため、3歳9ヵ月の頃から、父方の祖父ラッセル伯爵(1792-1878)夫妻のもとで養育された。祖父はホイッグ党の領袖として、二度まで宰相の印綬を帯びた政治家であったが、この祖父の没後、幼いバートランドは、厳格な清教徒であった祖母レディ・ラッセルの膝元で訓育された。バートランドはすでに少年時代に、徹底的な懐疑と思索の結果、独力で無神論に達したが、彼の生涯を貫く道義的な信念の形成には、祖母の影響がはっきり現れている。祖母が12歳のバートランドに贈った戒めの言葉は、「群衆のなす悪事に追随するなかれ」という聖書の句であった。

   二度にわたる世界大戦、広島・長崎への原爆投下、とくにビキニ環礁の水爆実験(1954年3月)は、ラッセルに大きなショックを与えた。彼は、原爆のときから水爆の可能性を予見していたそうであるが、実験の成功のショックは、それまでの西欧中心的平和思想をゆるがすものであった。1954年12月23日、BBC放送で核兵器の廃絶が地上のいかなる政治的・思想的対立をも越えた人類共通の課題であることをアピールした。ラッセルはその草稿を書き、アインシュタインが死の直前に署名した(ラッセル・アインシュタイン宣言)。彼は、核兵器の廃棄をアメリカ・イギリス・フランスに、さらにソヴィエトや中国にアピールし、1955年には、世界の代表的科学者を集めた会議を提唱した。1957年7月7日、第1回の会議がカナダのノバスコシア州のパグウォッシュという所でサイラス・イートンの援助で開催された(パグウォッシュ会議)。湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄、マックス・ボルソ、フレデリック・ジョリオ=キュリーら10ヵ国22人の科学者が集まった。1961年には、みずから結成した百人委員会の委員長として国防省玄関前に座りこんで逮捕され、さらにトラファルガー広場で市民不服従運動の大集会を指導し、イギリス全土の核兵器基地にデモをかける。1962年には、ケネディとフルシチョフに長文の電報を送って、キューバ危機の回避に努力し、1965年には、ベトナム危機についていくたびかのアメリカ非難の声明を発し、1967年には、サルトルなどと協力、戦犯裁判をパリに開催してアメリカの有罪を宣告するなど生涯にわたり平和運動を貫いた。

    最後に、1966年12月に中国の核兵実験が成功して意見を求められた時、バートランド・ラッセルは次のように語っている。

   他の国が核兵器を保有するからといって、自分も持とうと考えることは愚かなことである。それは問題の解決に少しも寄与することにならないばかりでなく、核兵力を拡散させる機運を促進する。そしてこの軍備拡張と核兵力の拡散が予期しない大規模戦争を誘発する危険をはらむものである。核兵力が役立つような戦争の勃発は、もはや問題の解決や勝敗の決定どころの程度ではなく、相手もろともに自分も滅亡することである。いや、戦争当事国だけでなく、人類のほとんどが破滅する、いわば全人類の自殺行為である。

2007年3月17日 (土)

未知の女の手紙 続

   私はレストランで会った陽気な友達にさそわれダンス・ホールにまいりました。いつもの私でしたらすぐにも断ったにちがいないのですが、なにか拒みがたい魔力にひかれたと申しましょうか。そこになにかが私を待っているような期待を感じました。シャンパンをぬき、さわぎがひとしきりたかまったとき、私は不意に心臓がしめつけられるような気持で思わず立ちあがりました。隣りの卓子にお友達のかたとあなたが坐って、ほれぼれとした眼差で私を見つめていられたのです。あなたは眼で私に合図をして店をお出になりました。私はもちろん後を追いました。

   あなたは瞳を輝かし、微笑みながら私を待っていらした。そのとき、私はすぐに感じました。やはりあなたは私を御存知なかったのです。そして、あなたはまた新しく知らない女の私をお誘いになったのです。その様子で、あなたは、私をただの夜の女としか見られなかったことがよくわかりました。私は御一緒に車であなたのお宅にまいりました。そのときの気持ち、私にはすべてが過去と現在がぴたりと重なりあったような格好でした。

   あなたは私を抱いて下さった。私はもう一度、楽しい夜をあなたのお側ですごしました。朝ごはんをあなたの居間で一緒にいただいたのもこれがはじめてのことでした。でも、あなたは私の名前も住所もお訊きになろうとはなさらなかった。あなたにとって私はやはり一夜の火遊びの相手でしかなかったのです。あなたは近いうちにアメリカに旅行なさると仰いました。私はどんなにか「一緒に連れていって」と叫びたかったことでしょう。

   私は、「私の好きなひとも、いつも旅行がちなのです」と申しました。私を思いだしてくれるにちがいないと、あなたの瞳をじっと見つめておりました。けれども、あなたは「きっと帰ってきますよ」と慰めてくださっただけです。私は「帰っていらしても、もうすっかり忘れていますわ」と答えました。あなたは優しい瞳で私を御覧になって、「楽しい思い出は忘れ難い。あなたのことはいつまでもおぼえていますよ」と仰いました。でも、とうとう私のことは思い出してくださいませんでした。

   私は鏡の前で乱れた髪をなおしているとき、あなたがこっそりと私のマフの中に紙幣を押しこむ様子をみたとき、どうしてあなたをぶたなかったのでしょう。忘れるだけでなく、卑しい商売女にまで私をひきおとさなければならなかったあなただったのでしょうか。私は居たまれませんでした。私は机の上にあなたの誕生日のために贈った白薔薇が花瓶に生けられているのを見て、ねだりました。あなたは「どうぞ」といい、「贈主はまるで見当つかないんです。誰だかわからないだけに、ぼくはなお好きですよ」とお答えでした。私は、もう一度じっとあなたを見つめ、思い出して!とねがいましたが、あなたは接吻してくださっただけでした。

   私はあふれそうになった涙を見せまいと大急ぎで扉の方にまいりました。そのとき、あぶなくヨハン爺やにぶつかりそうになりました。ヨハンはこの瞬間に私を見てあっと驚いたようでした。子供のときから会ったことのないこの老人が私を思いだしてくれたことを知りました。私はあなたがマフの中に押し込んだ紙幣をヨハンの手に押し込んでやるのがやっとでした。ヨハンはこの一秒の間にあなたが一生かかってなさったことよりも、もっとたくさんのことをしてくれたのでした。あなただけが私を忘れ、思い出してくださいませんでした。

   坊やが亡くなりました。もはやこの世のなかでは私の愛する人はあなただけです。でも私のことを思い出してもいただけなかったあなたは私にとっては死んだも同然の私が、どうしてこれから生きている必要がありましょうか。ほかのどなたよりもあにたを愛しあなたを待ちながら、一度も呼んでくださらなかったその女の遺書をあなたが御覧になるのは、私がもうこの世にいないときでございましょう。

   これから、あなたのお誕生日に誰が白薔薇をお贈りましょうか?あのカット・グラスの花瓶も空になりましょう。せめて私のささやかなそして最後のお願いをきいていただけましょうか。これからのお誕生日ごとに白薔薇を、その花瓶に生けてくださいませ。私は神も、ミサも信じません。ただ、あなただけを信じ、あなただけを愛します。あなたを愛し、死ぬ女より、ではさようなら…。

    (シュテファン・ツヴァイク「見知らぬ女よりの手紙」)

渡辺水巴と渡辺省亭

   渡辺水巴(わたなべすいは、1882-1946)。本名は渡辺義。明治15年6月16日、東京浅草小鳥町に生まれる。父は日本画家の渡辺省亭(わたなべせいてい、1851-1918)、母きく。水巴の江戸趣味、気質、性行はこの父に負うところが大きい。明治32年、日本中学校3年修業後退学、翌33年初春、19歳にて俳句に志し、翌34年初夏、内藤鳴雪に入門、のち高浜虚子にも選評を受け、終生職を持たなかった。明治39年5月、「俳諧草紙」創刊主宰、明治42年1月同誌廃刊、12月内外出版協会発行「文庫」に合流、明治43年8月「文庫」廃刊後は「智仁勇」俳壇を担当した。大正2年10月、情調本位の俳句を標榜して曲水吟社を設立。大正5年10月、曲水吟社より「曲水」を創刊、以後没するまで主宰した。この間、水巴編「鳴雪句集」を俳書堂より刊行(明治42年1月)、曲水文庫第1編「水巴句集」(大正4年2月)水巴編「虚子句集」が植竹書院より刊行され、また雑詠復活後のホトトギスにおいても活躍、蛇笏、鬼城、石鼎、普羅などとともに大正前期の同誌のにない手となった。大正7年4月、父省亭死去、経済的に父の庇護を受け、またみずから父を敬愛するところ深かったので、その死は大きな転機となり、従来の江戸趣味的な唯美調に人間的重みを加えている。大正11年1月、片桐花子と結婚したが、これは失敗で、昭和2年8月離婚。昭和4年、長谷川きく子(長谷川桂子)と結婚。昭和20年4月、強制疎開のため藤沢市鵠沼7327へ仮寓、翌21年8月1日夜、発病臥床、13日朝没した。病名腸閉塞症。法名夏岳院正心義道居士。享年65歳。浅草今戸潮江院に埋葬。

ほんの少し家賃下がりぬ蜆汁

    「水巴句集」所収。「蜆」(春)の句。下町情緒纏綿たる句である。庶民感情のさながらに伝わる。ほんの少しばかりでも家賃のさがったことは食膳の語らいにやすらぎを与える。蜆は安価であるし、味噌汁にして美味。一般の食膳を賑わし、親しまれている。

    渡辺省亭(1851-1918)は嘉永4年、江戸神田佐久間町に生まれる。本名は吉川義復。父吉川長兵衛は蔵前の札差で、歌人でもある。22歳で父の歌友渡辺光枝の養嗣子となる。酒井抱一、柴田是真に傾倒し、菊池容斎(1787-1878)の門下となる。起立工商会社で図案を描いていたが、明治10年第1回内国勧業博覧会で花紋賞を受ける。翌11年、パリ万国博覧会を機に日本画家として初めてヨーロッパに遊学する。印象派が旗上げされつつある西欧の近代絵画の息吹きに触れて帰国し、明治時代の挿絵界の興隆期に活躍した。山田美妙の小説「蝴蝶」(明治22年)では主人公の女性が裸体で武者と対面する場面を描いた挿絵が当時話題となり、明治22年11月、内務省は裸体画取締令を出した。省亭はパリ留学経験から裸体画を試みたらしいが、明治期の黒田清輝の「朝妝事件」(明治28)よりも6年も前の裸体画論争であった。明治20年代中葉から「美術世界」の主筆として健筆をふるうが、晩年は画壇との交渉を悠々自適の生活を送り、67歳で没した。

    渡辺水巴が大正5年に創刊した俳誌「曲水」は没後も、主宰は妻の渡辺桂子、次女の渡辺恭子(昭和8年生)へと受け継がれている。

2007年3月16日 (金)

「暢気眼鏡」の芳兵衛

   「暢気眼鏡で知られる作家尾崎一雄(1899-1983)の妻・尾崎松枝が3月13日、小田原市の病院で死去、93歳」という訃報記事を読む。「暢気眼鏡」に、新妻の芳枝が貧乏所帯のやりくりで自分の金歯を売って米を買ったので主人は「なぜそんな莫迦なことをするんだ」と怒ったという話がある。主人公の多木太一は「かつて聞いた、貧乏しきって何もかもなくなり、金歯を入質して米を買ったが、それを喰う段になり弱ったという笑い話が苦々しく憶い出された」とある。「暢気眼鏡」は昭和15年に杉狂児、轟夕起子で映画化され、芳枝の天真爛漫な明るさで人気があった。尾崎一雄は三島由紀夫との対談で「あれは映画がいろいろお手伝いしたんですよ。たいへんなお手伝いしたんですよ。映画は映画で面白いのでしょうけれど、私はあれはいちばんいやな、きらいなものですね」と語っている。

   尾崎一雄の出世作となった「暢気眼鏡」「猫」「擬態」「芳兵衛」などの、いわゆる芳兵衛物の一連の作品が書かれたのは、昭和8、9年である。尾崎が第五回芥川賞を受賞された、芳兵衛物が主に収録されている第一創作集『暢気眼鏡』(砂子屋書房、昭和12年4月1日)の「あとがき」で、こういっている。「昭和3年から丸5年間何も書かなかったが、或る機会からまた書けるようになった」これは私生活の変化があったからであろう。尾崎松枝は金沢の人で、大正2年5月生まれ、父は山原成太郎という。尾崎一雄と新婚所帯を東京牛込馬場下町東光館にもったのは昭和6年のことで、一雄31歳、松枝18歳の時である。翌年には長女一枝も生まれ、仕事への意欲が昂揚まってきた。作家尾崎一雄の誕生には妻の存在は大きいものがある。一時大病をしたが、昭和28年に長篇『芳兵衛物語』を刊行している。作者の分身である主人公多木太一は次のように言っている。「松や銀杏のような木もある。それぞれの木が、それぞれの延び方生き方をしている。彼らは、皆、自分らしい生き方をしている。それぞれの木として、せいいっぱいの生き方をすれば、それでいいのだ。多賀直義は、きっと松なのだろう。そして俺は、やつでぐらいか」とある。尾崎一雄の戦後の再出発宣言である。(多賀直義とは志賀直哉のことである)

   尾崎が処女作「二月の蜜蜂」を発表したのは大正14年のことであり、昭和58年に亡くなるまで、ほぼ激動の昭和期を戦前戦後にわたり文壇の中心的な位置にいた作家の支えに、芳兵衛という妻の内助の功があったことを記憶しておきたい。

2007年3月15日 (木)

陸軍内務班の制裁

    最近の映画やドラマではほとんど見ることはなくなったが、かつては軍隊映画といえば初年兵のシゴキの場面がとても印象的だった。亡くなった親父などもそういうシーンを見ると軍隊生活を思い出すようだった。とくに南道郎(昭和元年生まれ)は軍人をやらせたら右に出る俳優はいない。「陸軍残酷物語」「二等兵物語」「潜水艦イー57降伏せず」「人間の条件」「兵隊やくざ」「独立愚連隊」など意地悪な古参兵が戦争映画には欠かせないキャラクターだった。

    陸軍内務班ではどのような制裁があるのだろうか。初年兵にとって、もっとも猛烈なシゴキ屋さんは、初年兵係上等兵以下の古兵(2年目以上の一等兵)である。フンドシ洗いから靴みがきまで全部やらされ、少しでも気にいらないことがあれば痛烈な罵言や私的制裁を加えられる。古兵たちにとっては自分たちのみじめな初年兵時代への報復を兼ねて、大きな刺激と楽しみであっにちがいない。

チャンチュ  比較的軽い処罰法で、鼻の頭を人さし指ではねあげる。これをやられると目に涙がたまり、視界がさえぎられジーンとくる。

対向ビンタ  二列に向き合って並んで、交互に相手の頬を手のひらでなぐり合う。最初はお互い手加減をしているが、次第に本気になり、力がこもってくる。

空中戦  基本体操の腕立て伏せをして、「右旋回、左旋回」などという号令に合わせ、片手を上げる。罰が重いときは、逆立ちして同じことをする。

自転車  二つ並べた机の間に身体を両腕で支え、ペダルを踏むポーズをする。古兵から「平道、上がり坂、下り坂」あるいは「前方から中隊長殿」といわれれば、その状況に応じて足を回転させ、表情・動作をかえなければならない。

整頓くずし(拉縄を引く・妙高おろし) 拉縄は野砲の引き鉄を引く綱のこと。衣類の整頓の悪い兵隊の巻脚袢のはしを拉縄にみたてて一気に引くと、その上に積み重ねられた衣袴などが整理棚から一度にくずれおちてしまう。連隊によっては「妙高くずし」といって、竹刀で衣類を舞い上げるなど、種々の趣向がこらされている。

拾い兵  錬兵場で銃口蓋などを紛失すると、班の連帯責任となり、一列横隊にはいつくばって、見つかるまで探さなければならない。

魚の絵  枕おおいの洗濯を怠った兵に与えられる罰則で、枕おおいにチョークで魚やカッパの絵をかかれ(水がほしいの意)それを持って各班回りをさせられる。

歩兵銃へのおわび  銃の手入れを怠った兵に対する罰則。「三八式歩兵銃殿。手入れを怠って申しわけございません。今後は気をつけますからご勘弁ねがいます」と大声でとなる。

せみと犬  柱の高いところに昇り「ミーン、ミーン」と鳴く。力が尽きて下へ落ちれば「ワン、ワン」と犬の真似をする。肉体的苦痛は小さいが、次の「うぐいす」同様、自尊心を最も強く傷つけられる罰。

うぐいすの谷渡り  並んだ寝台の上を飛び越え、下をくぐり、そのつど寝台の下から顔を出して「ホーホケキョ」と鳴く。

おいらん  銃架から銃を一挺はずして、そこから罰を受ける初年兵が頭を出し、廊下を歩く者を、声色を使いだれかれとなく呼びとめる。

  ここに集めた制裁は主に陸軍のものであるが、呼び方や細部にわたっては時代や各連隊によって異なっている。ともあれ1日の日課が終わり、やがて寝床につく。初年兵の耳に消灯ラッパがひびく。

「新兵サンハ 可哀ソウダネー マタ寝テ 泣クノカヨー」

田山花袋「蒲団」のモデル・岡田美知代

  芳子が常に用いていた蒲団、萌黄唐草の敷蒲団と、綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引き出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押し付けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。性欲と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣いた。

    田山花袋(1871-1930)が明治40年9月、「新小説」に短編小説「蒲団」を発表したが、この作品は自然主義文学の代表作といわれたのみならず、私小説のさきがけとして日本近代文学史上の記念碑的作品となった。花袋(当時36歳)の大胆な告白と「蒲団」のモデルとなった「私のアンナ・マアル」こと岡田美知代(当時23歳)との恋愛関係の事実性が当時から世間の注目を浴びた。文学上で言い換えれば「蒲団」の虚実論争であろう。

   神戸の女学院の生徒で、生まれは備中の新見町で、渠の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情をもって充てられた一通の手紙を受け取ったのはそのころのことであった。竹中古城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えておったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手紙はこれまでにも随分多かった。

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   芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者、母はことにすぐれた信者で、かつては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。

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    最初の一月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、靴下を編む、襟巻を編む、子供を遊ばせるという生き生きした態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供とともに細君がいぎたなく眠ってしまって、六畳の室に徒に明らかな洋燈も、かえって侘しさを増す種であったが、今はいかに夜更けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧みに編物の針を動かして、膝の上に色ある毛糸の丸い玉!賑やかな笑い声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。

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   けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置くことの不可能なのを覚った。従順なる家妻はあえてそのことに不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。時雄はいろいろに煩悶した後、細君の姉の家、軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮らしている姉の家に奇遇させて、そこから麹町の某女塾に通学させることにした。

  後年、花袋の弟子・水守亀之助は「わが文壇紀行」(昭和28年11月)で次のような面白いエピソードを残している。

   会の席で、「先生、ああいふ小説を書かれると奥さんに対して具合がわるくないですか」と、中村武羅夫君が質問して大笑いになったことがあった。「そりゃあ わるいよ」といって先生は苦笑された

    横山芳子こと岡田美知代(1885-1968)は広島県府中市上下町出身で、兄の岡田実麿(1878-1943)は明治期、神戸高商の英語教授だった。明治40年には夏目漱石の後任として旧制第一高等学校の教授となった。まもなく、明治大学に移り、同僚の山崎寿春に誘われて東京高等受験講習会(現在の駿台予備校)で昭和14年まで英語を教えた。妹の岡田美知代は兄を頼って神戸女学院に学んだ。その後上京して田山花袋の弟子となった。美知代は「蒲団」の学生田中のモデルの永代静雄(ながよしずお 1886-1944)とは結婚を反対されたが一男一女をもうけ、大正6年には入籍する。その後離婚し、両者は異なる相手と結婚しそれぞれの道を歩む。永代との間にできた子を花袋はみるにみかねて親友の太田玉茗(1871-1927、「田舎教師」の山形古城のモデル、建福寺住職)に養育をたのんだが、子供は3歳くらいで死んだ。田山花袋と岡田美知代との関係は花袋の書簡などからもあくまで作品は虚構であり、実際上二人の間に恋愛関係があったわけではなく、花袋の胸中にのみあった片思いなのだ。美知代自身も「蒲団」のモデルが自分であることを知らなかったという。(この話には少し無理がある)。美知代は「蒲団」のモデルとされたことに対して花袋に抗議する手紙を書いている。その後の永代(岡田)美知代の文学者としての活動は詳しく知らない。作品には「女学生の恋物語」「森の黄昏」(明治39年10月文芸倶楽部)「縁談」「岡沢の家」「里子」等が残されている。(「岡田美知代作品集」全3巻、上下町教育委員会)のち婦人記者として大正15年、長男を連れて渡米し、17年間を過ごす。晩年はアメリカで再婚した花田氏と庄原市に住み、昭和43年、83歳で他界する。(永代美知子「「蒲団」、「縁」及び私」新潮大正4年9月)

未知の女の手紙

   オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイク(1881-1942)は一般に伝記作家として知られているが、短編小説「未知の女の手紙」(1921年頃執筆されたらしい。翌年「アモク」という単行本に収録)は不思議な魅力のある恋愛小説として現在まで読み継がれている。「未知の女からの手紙」「見知らぬ女よりの手紙」などと和訳されることもある。これまでに内垣啓一、前田敬作などの邦訳がある。また「忘れじの面影」(1948)「見知らぬ女からの手紙」(2004)という題名で二度映画化されている。

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  坊やが昨日亡くなりました。もう、この世で頼りになる方はあなただけです。私のことは何ひとつご存じないあなた、私のことは一向に知って下さろうとしなかったあなたを、ただひたすらに愛しつづけてきたわたしでした。亡くなった子供とたった二人で過ごすこの夜、心のありつたけを書きつづらずにはいられません。そのひとはあなた以外にはありません。あなたはわたしのすべてなのですから。もし、この手紙があなたのお手もとに渡ります日がありましたら、ひとりの女が、一生の出来事を話していったとお思い下さい。もう何も望みはいたしません。どうか、すべてを信じて下さるようにお願いだけします。たったひとりの子供に死なれたときに、どうして嘘や偽りがいえるものでしょうか。

   私の生涯はあなたを知ったその日からはじまりました。あなたが同じアパートに越して来られたとき、私はまだ十三歳の少女でした。あなたがこの手紙をあ受けとりになった、そのアパートです。私どもは、あなたの御部屋と向きあった部屋でした。母は貧しい会計士の未亡人で、私はまだやせこけた子供でした。それはもう十五、六年も前の遠い昔話になってしまいました。あなたはすっかりお忘れになったことと存じますが、私はどんな小さなことでも、まるで今日のお話のようにひとつひとつおぼえております。私の世界が本当にひらけてきたのは、それからのことでした。あなたへの好奇心は、ある日の午後、家の前に止まった荷車を見たときに萌やしはじめたのです。運ばれる荷物のどれもが私のまだ見たことのないような珍しいものばかりでした。

   その翌日、あなたが引越していらっしゃいました。でも、私の苦心にもかかわらずあなたにはお目もじすることはできませんでした。やっと三日目、薄い茶色のとてもすてきな運動着で階段を二段ずつかけあがっていらっしゃる姿を拝見したのでした。何という若々しさ、そして優しさ。私はあなたに魔法にかけられたようにひきつけられたのです。説明しようもないような力に私は押されて、あなたのために車の扉をあけようとしました。あなたは優しい眼差しで私を御覧になり、にっこりと笑って、「ありがとう、お嬢さんと仰言ったのでした。

   このとき以来、あなたは私の憧れのおかたでした。あなたが、たとえ、私のことをどうお考えになろうと、私にとってはすべてでした。全生活でした。私はこの世であなたに関係のあることにだけ意味があるように思われました。急に本を読みだし、学校で一番になりましたのもあなたが読書家だったからです。ピアノの練習をしたいと母にせがんだのも、あなたが音楽がお好きなことを知ったからです。服の手入れをし縫物をしたのも、つぎのあたった古い通学服をあなたが御覧になって蔑すまれはしないかと、そればかりが気になったからでした。でも、あなたはほとんど目にかけて下さったことはありませんでした。私にとって、あなたのことで何ひとつわからないというものはありませんでした。あなたのお友達のことさえよく存じております。こうして私の十三から十六のときまでが過ぎてゆきました。

   それは日曜日のことだったと憶えております。あなたは旅に出てお留守でした。人のよいあのヨハン爺さんが、あなたの部屋の絨緞を重そうに入口のところに運んでおりました。私は憑かれたようにヨハンのところにいって、お手伝いしましょうかと訊きました。そして、私はあなたの居間のなかにはじめてはいり、あなたのお坐りになる机や本を見ました。ほんの一瞥にすぎませんでしたが、私の夢の大きな糧となりました。この儚ない瞬間は、少女時代の私の一番幸福なときだったと申してもよいでしょう。そして、このときとほとんど同じ頃、私にとって一番情けない出来事が起こったのです。

   私はあなたのことばかり考えていましたので、母の日常に何の関心も払っておりませんでした。ですから、母の遠縁にあたるインスブルックで商人をしている中年の紳士が時折たずねてきてはしばらく滞在しているようになりましたことも、一向気にとめもしなかったのでした。そして間もなく、私は母と共にインスブルックに移らねばならなくなったのです。私は頑なまでに引越しには反対しましたが、毎日、学校から帰る度に荷物がつくられており、部屋のなかは次第にがらん洞になってまいりました。明日はインスブルックに発つという最後の日です。母は折りよく留守でした。私は、あなた以外に私を救って下さる人はいないと決心いたしました。私はあの夜、氷のように冷たい廊下に立って、心配で凍りつきそうになりながら、とうとうあなたのお部屋の呼鈴の釦をおろしました。あなたのお姿はもちろん誰もみえませんでした。ヨハンも留守だったのです。私は玄関の間にこっそりぬけ出て、一晩中あなたをお待ちしておりました。私は疲れ、隙間風邪の吹き込む冷たい床に横になったまま、あなたの足音を聞きのがすまいと懸命になっておりました。それは一時か二時だったと思います。門が開き、階段をのぼる足音が聞えてまいりました。私は思わず扉をあけてあなたの方に走りよろうと思いました。でも、あなたはおひとりではなかった。くすくすと忍び笑いの声、衣ずれの音に、あなたの低い声が聞えてまいりました。あなたはどこかの御婦人と御一緒に帰られたのです。その夜を死なずに過ごせたのはどういうわけなのか、私にはおぼえが御座いません。翌朝の八時に、私はインスブルックに連れられてゆきました。もう逆らう力とてありませんでした。

2007年3月14日 (水)

貧乏人は肉を食え

   晋の武帝のあとをついだ恵帝は、世界史上にもまれな暗愚な君主であった。あるとき大臣が「ちかごろ世の中は飢饉で、貧乏人は米が食えなくて困っております」と伝えると、恵帝は不思議そうな顔をして、「それなら肉を代用食にしたらどうだ」と答えたという。このような天子を表に立てて、悪がしこい賈皇后が勝手なことをおこない、人望ある大臣を殺したりした。そのため、一族の八人の王たちが、かわるがわる兵をつれて都にはいっては政権をにぎろうとし、親類どうしが殺し合いを始めた。これがいわゆる八王の乱(300-306)である。国内は混乱し、五胡の中原侵入を招き、西晋の滅亡は早められた。

アメリカの進歩と貧困

    南北戦争以後の30年間に、アメリカはあらゆる面で、ことに工業、農業、政治、社会の分野で信じられないほどの発展を遂げた。鉄道網が張りめぐらされ、世界第一を誇る工業が確立し、広大なフロンティア(辺境)のほとんどに人が住むようになり、また12の新しい州が成立し、数百万の移民が受け入れられた。この膨大な移民は、この国の経済発展の一因になったのであるが、それはまた貧困層を増大させることにもなった。こうした発展ぶりは、同時に全体に異常な現象をひく起こした。すなわち、最高の価値となった富のあくなき追求、他方に貧しい人々がいるなかで富を得たもののばかばかしいぜいたく、政界のいちじるしい腐敗などである。この時代を、マーク・トウェーンが黄金でなくて「鍍金の時代」とよび、ホイットマンが「巨大でまったく完全な肉体を与えられていながら、魂を与えられていない」と激しく非難したのも当然だった。またヘンリー・ジョージの「進歩と貧困」(1879年刊)は、物質的進歩が貧困を絶滅せず、反対に貧困をいちじるしくしていた当時の状態を、正確に指摘していた。アメリカの貧困対策は著しく立ち遅れていた。それは「社会進化論」が広がっていないためで、これは「生存競争が生活の法則であり、貧困に対する救済策は自助努力以外にはない」、「貧乏人に対する救済は無駄だし、またすべきではない」というものである。こういう考えが強まるにつれ、公的扶助は抑制され、1870年初めまでに全国の市では、院外救済を廃止し、公費の救済は原則として施設内だけに限定されるようになった。そのため、救済の多くは民間の慈善団体に依存することになるが、それはこの国の救済政策の発展を抑制する結果となった。

2007年3月12日 (月)

小原保と短歌

   昭和40年頃、「犯人はこんな男です。東北弁ナマリで中年男」というチラシが配られ、テレビ・ラジオで犯人の声が放送された。歌手のザ・ピーナッツが「かえしておくれ今すぐに」と歌っていた。昭和38年3月31日の事件発生からすでに2年が経過していた。そして昭和40年7月犯人が逮捕された。

   小原保(1933-1971)。この戦後最大の誘拐といわれた「吉展ちゃん事件」の犯人の名前をある年齢以上の方なら多くの人が記憶にとどめているであろう。

   千葉県東金市に住む「土偶短歌会」の主宰者に、獄中の小原保から郵便が届けられた。昭和44年6月のことである。内容は数年前から短歌をしており入会したいということであった。土偶短歌会の主宰者は小原の心境や境遇を理解し、会員たちに説明したが、やはり「吉展ちゃん殺しの小原は駄目だ」という反発の声があった。そこで主宰者は小原の投稿歌を「福島誠一」という筆名で載せることにした。福島は小原の出身県、誠一は「誠実一筋」の意味を込めたという。小原が土偶短歌会の会誌「土偶」に寄せた短歌は、一回の休詠もなく、378首にのぼった。昭和47年の正月3日に小原から手紙が届いた。「思えば二年数ヶ月、縁あって土偶の仲間に加えて頂いたのですが、私のような者をも心温かく迎えて下さり、今日までご指導頂きまして訳ですが、その間先生をはじめ土偶のみなさんの心温まる励ましによって、心たのしく勉強することが出来ましたことは、何よりの幸せでした。明日、最期を迎えるに当り、自分でもおどろくほどの平静をたもって居りますが、これも一重に先生をはじめ土偶のみなさんの温かいお心に触れて、人間としての心を取戻すことが出来たからこそで、心からお礼申し上げる次第です。(中略)それでは、先生を初め土偶の皆さん、さようなら。土偶の発展をお祈りしつつ」昭和46年12月23日朝、死刑台へのぼったのである。満39年にわずかおよばないだけ生涯だった。次の辞世の歌が添えられていた。

明日の死を前にひたすら打ちつづく鼓動を指に聴きつつ眠る

ほめられしことも嬉しく六年の祈りの甲斐を見たるつひの日

世をあとにいま逝くわれに花びらを降らすか門の若き枇杷の木

    死後、小原保の歌集「十三の階段」が関係者によって刊行されている。なお昭和55年に講談社から刊行された「昭和万葉集」には次の一首が収録されている。

詫びとしてこの外あらず冥福を炎の如く声に祈るなり(福島誠一)

(参考:本田靖春「遺書」)

忘れじの面影

   映画「忘れじの面影」(1948年)。1900年のウィーン。決闘を明日に控えたステファン(ルイ・ジュールダン)に、名も知らぬ女性(ジョーン・フォンティーン)から一通の手紙が届く。そこには、彼がピアニストとして嘱望されていた頃に彼の隣室に住んでいたことや、初恋を胸に母と共に引越しをしたがその後ウィーンに戻り彼と再会、素晴らしい一夜を過ごした、という女の想いが綴られていた。そして、再度会った時には彼はすでに女を忘れ、想い出の夜にやどした息子は病死、本人も今や死の床にあると手紙は告げる。

    シュテファン・ツバイクの小説「未知の女からの手紙」の映画化。主演のジョーン・フォンテーンの当時の夫・ウィリアム・ドージャーの協力で創立したランバート・プロ(この一作で解散)が制作を担当。監督のマックス・オフュルス(1902-1957)はウィーンの人でメロドラマの巨匠である。オフュルスはドイツからハリウッドに渡り1947年から1949年にかけて4本の作品をつくったが、アメリカではあまり評判にはならず、失意を抱いてヨーロッパに戻り、フランスで「輪舞」「快楽」をつくって名声を快復した。しかし「忘れじの面影」は決して失敗作ではなかった。イギリスでは1951年に公開され絶賛をあびている。ハリウッドでつくられた映画でウィーンの情緒と劇的にもロマンチックなムードを醸し出した作品も珍しい。手紙を受け取る男性は原作ではRという小説家だが、映画では音楽的な情緒を生かすためにコンサート・ピアニストにかえられているのもよい。日本でも昭和29年7月に公開され多くの人がその甘美さに浸った想い出のある佳作である。なお近年の中国の女性監督で女優のシュー・シンレイによりリメイクされたという。(ケペルは未見)「見知らぬ女からの手紙」(2004)主演はシュー・シンレイ、チアン・ウェン。

             *

    高名な小説家のRが山岳地方からの旅を終えてウィーンに帰ってきたとき、駅で買った新聞の日付をみて、自分の誕生日だったことに気づいた。「私もとうとう40になった」しかし、彼に何の感慨もなかった。車を雇って自宅に帰り、たまった手紙をニ、三開封してみた。そのなかで、見なれぬ部厚な封書はあとまわしにした。お茶が選ばれてきたので、Rは椅子にふかぶかと腰をおろし、葉巻に火をつけ、思いなおしてその手紙を手にとった。それは、大急ぎで書いたように見える二十四、五枚もある、手紙というより小説のように見えた。Rはもう一度封筒をとりあげ、なにか添書でもはいってないかと思い、調べたが住所も署名もどこにも見当たらなかった。書き出しは「私を御存知ないあなたへ」とあった。Rは不可解な気持ちに襲われて読むのをちょっとやめた。これは、はたして自分宛の手紙なのだろうか、それとも夢想の人への手紙なのであろうか。彼は急に好奇心にかられて熱心に読みはじめた。

青年団の父・田沢義鋪

    田沢義鋪(たざわよしはる、1885-1944)は大正・昭和の官僚・社会運動家。明治18年7月20日、佐賀県藤津郡鹿島村高津原に父・田沢義陳(よしのぶ)、母・すみの長男として生まれた。佐賀中学鹿島分校、熊本第五高等学校を経て明治42年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、高等文官試験に合格し、内務省に入り、明治43年4月、静岡県に赴任し、8月、25歳の若さで静岡県安倍郡長となる。この時代に農村青年教育に意を注ぎ、農村を基盤とする青年団を育成し、さらにその活動範囲をひろげ修養運動とも連携し、農村青年の人間形成を目的とする天幕講習会などを開き、全国的青少年運動の下地をつくった。大正4年7月、明治神宮造営局書記官兼内務書記官として内務省本省に戻ると、全国の青年団員の勤労奉仕によって明治神宮の造営を行なうというプランを立て、実行した。一人一円運動を起こし、大正14年青年団の全国組織・大日本連合青年団を結成し、東京における拠点として日本青年館を建設する。しかし、昭和になると軍部の力が強くなり、青年団の軍事利用を企てる軍部と対立する。反軍演説で議員の地位を追われた斉藤隆夫の応援演説をしたり、軍部や政府のあり方に批判的で、大政翼賛会にも入会しなかった。昭和19年、四国の善通寺で開かれた地方指導者講習会で日本は敗れると語り、その直後、脳溢血で倒れ、11月24日、59歳で他界した。

   下村湖人(1884-1955)の「次郎物語」の田沼先生は田沢義鋪がモデルである。下村は第五高等学校の1年後輩にあたり、同郷の寮生として親しかった。下村は「この人を見よ」で、

   明治以後で真に尊敬に価する人を、私も数多く知っている。その中から三人あげよと言われるならば、私は躊躇することなく、福沢諭吉、新渡戸稲造、とこの田沢義鋪とをあげるであろう。かれの人としての誠実さ、何らの邪念を交えず醇乎として信念つらぬいた生涯、毅然たる清節、私は百代にわたってあえて「この人を見よ」といいたい。

   と書いている。しかしながら、田沢義鋪の名前が現在あまり知られていないことは遺憾である。道義を重んじ、人類愛と平和主義者であり、理想と行動力を備えた田沢義鋪の思想と事績を学ぶことは大切であろう。

実説・累(かさね)

   江戸時代には女の子の名前に「かさね」という名が流行ったことが あった。「累(かさね)」というのは、まことに可愛らしく感じられられると言って、数多く名付けられた。だが、明治時代より平成の今日まで、私の知っている限りでは、「かさね」という名の女子を知らない。それは三遊亭円朝の「眞景累ヶ淵」や鶴谷南北の歌舞伎などに「かさね」という名が使われたことによる影響であろう。

   もともと累の話は、江戸時代初期に60年にわたって繰り広げられた、陰惨な出来事である。下総国岡田郡羽生村の百姓、与右衛門とその後妻お杉の間には助(すけ)という男子があった。しかし連れ子であった助は顔が醜かったため、お杉は助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名付ける。累は助に生き写しであり、村人たちの間ではいつしか「累(るい)」という名が「かさね」と呼ばれるようになった。

   やがて、与右衛門もお杉も亡くなり、成人し独り暮らしの「かさね」はある時病気で苦しむ旅人を助けたことから、この男を2代目与右衛門として婿に迎える。しかし与右衛門は容貌の醜い「かさね」を疎ましく思うようになり、「かさね」を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。与右衛門は鬼怒川堤から河中へ「かさね」を突き落として殺してしまう。

   その後、与右衛門は何食わぬ顔で幾人もの後妻を娶ったが尽く死んでしまうという怪現象が続いた。ようやく6人目の妻きよとの間に菊という娘が生まれた。ところが菊が14歳になった時に、「かさね」と助の死霊が菊にとり憑き、菊の口を借りて与右衛門の非道を語りはじめる。この話を知った祐天上人は助、かさねの死霊に戒名を与えて成仏させた。

   「累(かさね)」の話が怪談物として世に広く知られるようになったのは、それから150年も後の鶴谷南北の「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」が上演される文政4年(1821)のことである。

2007年3月11日 (日)

高村光太郎の戦後

   高村智恵子(1886-1936)は、昭和13年10月5日夜、ゼームス坂病院(品川区)で世を去った。智恵子を失い、芸術の制作目標まで見失った高村光太郎(1883-1956)は、心の空白を埋めるかのように戦争協力に傾斜していく。芸術を戦争政策に奉仕するものと捉え、多くの戦争協力詩を発表した。

   昭和20年4月13日夜、空襲により駒込林町のアトリエは炎上する。多くの制作、草稿などを失う。僅かに持ち出したのは、父からゆずられた木彫用小刀と砥石だけだった。一時、近くの妹よしの婚家藤岡幾方に仮寓する。5月、岩手県花巻市の宮沢清六(宮沢賢治の弟)方に疎開。しかし8月には宮沢家も空襲で被災し、佐藤昌方に移る。9月、佐藤隆房方に寄寓。10月、岩手県稗田郡太田村山口に鉱山小屋を移築して生活する。高村光太郎の7年間の山小屋での農耕自炊の生活は、戦争中に多くの戦争協力詩を作っていたことへの自省の念からでた行動であろう。昭和22年に連作詩「暗愚小伝」という厳しい内容の記録を発表した。昭和27年、十和田湖記念像の制作のために帰京し、翌年完成した。昭和31年4月2日、中野アトリエにて没する。享年74歳。

竜雷太と甘利虎泰

   甘利備前守虎泰(?-1548)は板垣信方と共に、信虎・晴信二代に「両職」として仕えた宿老で、板垣信方が策謀家であったのに対して、甘利虎泰は忠実無私の純粋な武人だった。永正5年(1508)、14歳で甲斐守護職についた信虎をたすけ、国守の座をねらう同族の油川信恵父子討伐に活躍した虎泰にとっては、信虎追放計画を知らされ動揺するものの、断腸の思いで主君の追放に手を貸すことになる。また、晴信が諏訪頼重の娘を側室に迎えようとしたとき、諏訪領民の反感をつのらせるばかりか、将来の天下人としての履歴に傷になるといって大反対した律義者である。彼の武功の第一は、志賀攻城戦の時で、上杉憲政の救援軍を小田井原に迎え撃ち、一人で数十人をなで斬ったという。だがその報復ともいうべき上田原で討死した。

    大河ドラマ「風林火山」で甘利虎泰を演じているのは竜雷太である。「これが青春だ」(昭和42-43)の大岩雷太をそのまま芸名にする話があったが、本人の希望で本名の長谷川龍男の「龍」を「竜」として「竜雷太」が誕生した。劇中に英語の授業がよくあったが、ワーズワースの英詩「幼少時の回想から受ける霊魂不滅の啓示」を読み上げるシーンが印象的である。「かつては目をくらませし光も消え去れり 草原の輝き 花の栄光 再びそれは還らずとも なげくなかれ その奥に秘めたる力を見出すべし」と大岩先生は朗読する。女生徒の松本めぐみは東大志望の秀才の有川博に恋しているが、有川は上京し去っていく。松本は一目みようと教室をぬけだし、列車に別れを告げる。あとに残るは少女の涙ばかりなり。竜雷太の新曲「あの娘と暮らしたい」が流れる。伝説の青春ドラマの名場面は今も鮮やかに脳裏にうかぶ。竜雷太はいつまでも「どろんこ紳士たれ」と喝を入れてくれる逞しい大岩雷太先生なのだ。

      あの娘と暮らしたい

まだ来ないのさ 日が暮れるのに

窓からじっと 見ていよう

夕やけ雲の 彼方から

バスに揺られてくる 可愛い娘

恋は夜毎の セレナーデ

僕はあの娘と 暮らしたい

訂正 ワーズワースの詩がてでくる回はサイトをよく調べると「これが青春だ第21話、初恋をこんにちは」でした。そして主役は松本めぐみではなく、岡田可愛でした。松本めぐみが主演したのは、「第18話、さらば故郷」です。どちらも汽車を追いかけるシーンがあったので、長い歳月とともに記憶が混乱していたようで、訂正とお詫びします。流れていた曲は岡田可愛の新曲「悲しきカナリア」。それにしても、ブテッィック経営者と加山夫人、皆さんご活躍で喜ばしいことです。

豊臣秀吉と茶会

   豊臣秀吉は天正6年(1578)頃、信長から許可されて茶の湯をはじめた。その後しばしば茶会を催したが、天正9年、それまでの功績によって信長から8種の名物道具を与えられた感激をのちのちまで忘れず、書状に書き残している。天正11年の大坂城入城記念の茶会、天正12年10月の大坂城茶会、天正13年3月5日の大徳寺茶会、天正14年の黄金の茶室で有名になった禁裏茶会、天正15年5月3日の大坂城茶会、天正15年10月1日の北野大茶会などである。茶人としては、千宗易(利休,1522-1591)、今井宗久(1520-1593)、津田宗久(?-1591)、山上宗ニ、重宗甫、住吉屋宗無、万代屋宗安、田中紹安(千道安)などの「御茶八人衆」をはじめ神谷宗湛(1551-1635)、今井宗薫(1552-1627)、松井友閑、荒木道薫、武将では細川幽斎、小寺休夢斎(黒田如水の叔父)、高山右近、荒木村重などの有名人が参会している。

   北野大茶会はとくに盛大で歴史上もっとも有名な茶会であった。天正15年8月より、洛中をはじめ畿内一円に高札を立てて参加者を募った。高札の全文は7箇条にわたるが、身分上下の別なく、数寄者であれば手持ちの道具を持参せよ、茶器のない者は「こがし」でもよい、と呼びかけている。「こがし」とは、米や麦を焼いて焦がしたもので、湯に溶かして飲むもののようだ。きわめて庶民的な発想をもったものであった。そのため当日は1000人以上の参会者があったという。

千葉真一と板垣信方

    武田氏と祖先を同じくする板垣駿河守信方(1489-1548)は、武田信虎・晴信の父子二代に仕えた重臣である。晴信による信虎追放事件では、無血クーデター成功の原動力となり、また信虎を今川家へ送りとどける役目も引き受けている。青年晴信のよき補佐役となり、時には詩歌に興じる晴信に対して死を賭して諌めたというエピソードも伝えられている。晴信を擁立した信方は、さっそく上原城主の諏訪頼重、頼高兄弟を滅ぼし、信州攻略の足掛りをつくった。この天文11年から17年までの6年間、信方の作戦と指揮ぶりは、佐久の志賀城、小県の長窪城攻めと残虐をきわめた。天文17年(1548)2月、村上義清、小笠原長時との北信濃連合軍との上田原の合戦で、信方は戦死する。享年60歳。後年、徳川時代譜代の井伊家に受け継がれた「赤備え」という甲冑、武器、旗差物すべてを朱一色に統一した騎馬隊を考案したのは板垣信方である。

    大河ドラマ「風林火山」で板垣信方を演じている千葉真一は久しぶりにテレビでその雄姿を見せている。ハリウッドでは「サニー千葉」として国際スターとして活躍されていたようだが、ケペル世代としては千葉真一といえば「七色仮面」「アラーの使者」である。はじめ七色仮面こと蘭光太郎役は波島進だったが、アクションがイマイチだったため第32話「影なき挑戦」から千葉真一になった。この突如の交代劇に全国のお茶の間のチビッ子たちもさぞや驚いたことだろうが、新人の千葉はハンサムでカッコよかった。続く「アラーの使者」で子どもたちの人気は不動のものとなった。思えば「月光仮面」世代の子どもたちは、祝十郎役の大瀬康一と蘭光太郎、鳴海五郎役の千葉真一を永遠のヒーローと信じている。ところで「月光仮面」「七色仮面」「アラーの使者」の原作者は川内康範であるが、「正義の味方」は絶対に不正を許さない人なのだろう。一説によると月光仮面のモデルは大山倍達であるというが、千葉真一の原点を知るうえでも興味深い因縁である。

    昨夜の「風林火山・両雄死す」(7月15日放送)は千葉板垣と竜甘利が壮絶な最期をとげる上田原の戦闘の場面。いつかはくると思っていたがつらい。千葉の殺陣には鬼気迫るものを感じた。そして今日15日、突然、千葉真一の俳優引退発表を知る。「板垣の死とともに千葉真一を葬りたい」と。嗚呼、残念無念。しかし、流石、千葉真一らしい見事な引き際。長い間、ごくろうさま。千葉さんはいつまでもぼくらのヒーローです。たくさんの夢をありがとう。

2007年3月10日 (土)

古典的なイギリスの貧困研究

   貧困や格差、ワーキングプアなど日本で大きな問題となっている。貧困の研究は、経済学を中心とした社会科学の一つの原点となるものである。社会に現存する貧乏を的確に把握し、それを克服する方策を検討することが重要であることはいうまでもない。かつて河上肇が「貧乏物語」のなかで「貧乏は国家の大病」と喝破したことを肝に銘じて、資本主義にとっての最大の悪弊である貧困問題を追及していきたい。

   およそ100年前のイギリスで2人の学者が別々の都市で貧困調査をした。驚くことにどちらも30%に近い市民が貧乏線以下の生活であり、その原因はそれまで信じられていた飲酒・怠惰・浪費などの個人的責任ではなく、失業・低賃金・疾病など社会構造に問題があり、その改良は政府の責任と考えられるようになった。貧乏線とは、貧困の範囲または境界を決定するために示す最低の生活標準。それ以下の収入では一家の生活を支えられないと認められる境界線(広辞苑)。

                       *

   チャールズ・ブース(1840-1914)は、1886-1902年の間に、3回にわたってロンドンの労働者階級を中心にすえた貧困調査の実施と、その結果を「ロンドン民衆の生活と労働」(1902-1903)としてまとめた。報告書の主な内容は次のとおりである。

1.全人口の約3分の1が貧困線以下の生活を送っている。

2.貧困の原因は飲酒・浪費等の「習慣の問題」ではなく、賃金などの「雇用の問題」に起因し、特に前者が大きく作用している。

3.貧困と密住は相関する。

                  *

   シーボーム・ロウントリーは、ブースのロンドン調査に影響を受け、ヨーク市調査を1899年に行なった。ロウントリーはまず貧乏生活している家庭を2種に分類した。

第1次的貧乏とは、その総収入が単なる肉体的能率を保持するために必要な最小限度にも足らぬ家庭。

第2次的貧乏とは、その総収入が、もしその一部分が他の支出にふりむけられぬ限り、単なる肉体的能率を保持するにたる家庭。1901年の「貧乏研究」によると、第1次と第2次的貧乏をあわせると全人口の27.6%にのぼることが明らかになった。

    ロウントリーは、1936年に第2回目の調査を行なうが、この場合の貧困調査の基準は1899年の貧困線ではなく、「健康と労働能力を維持するための、最低消費食料」を採用した。第1次的貧困は19.9%、第2次的貧困は17.9%にものぼった。

2007年3月 9日 (金)

室生犀星、逆境との闘い

    芥川龍之介の「朱儒の言葉」の中でも「人生」はとくによく知られた名文であろう。

    もし遊泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もしまたランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我々は生まれた時から、こういうばかげた命令を負わされているのも同じことである。我々は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか?しかも胎内を離れるが早いか、とにかく大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。もちろん遊泳を学ばないものは満足に泳げる理屈はない。同様にランニングを学ばないものはたいてい人後に落ちそうである。すると我々も創痍を負わず人生の競技場を出られるはずはない。なるほど世人は言うかもしれない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の遊泳者や千のランナーを眺めたにしろ、たちまち遊泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその遊泳者はことごとく水を飲んでおり、そのまたランナーは一人残らず競技場の土にまみれている。見たまえ、世界の名選手さえたいていは得意のかげに渋面を隠しているのではないか?人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我々は人生と闘いながら、人生を学ばねばならぬ。こういうゲームのばかばかしさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るがよい。自殺もまた確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。

             *

   薄幸の歌人江口きちもまたその哀しき運命に敗れて自殺した。しかしなかにはその苛酷な生い立ちに負けず人生と闘った詩人もいる。室生犀星(1889-1962)はその典型であろう。犀星は明治22年8月1日、石川県金沢市裏千日町に生まれた。父の小畠弥左衛門吉種は、加賀藩の武士で百五十石扶持、足軽組頭を勤め、維新後は剣術道場をひらいたこともあったが、妻に死なれた後、裏千日町の広い屋敷に隠棲し、果樹や茶の栽培をしながら暮らしていた。犀星の母ハルは、この小畠家の女中であった。当時64歳になっていた小畠吉種は、女中のハルをみもごらせたことを、長男一家の手前、世間の手前困惑した。そしてうまれてから7日たらずで犀星は、近くの表千日町、犀川のほとり、雨宝院という寺の権妻である赤井ハツの手にわたされた。そしてハツの私生児赤井照道として出生届が出され、ハツの子として育てられることになった。赤井ハツは、既に真道、テエの2人のもらい子を養育していて、その2人は犀星の兄と姉になり、後に同じくもらい子のきくという妹も出来た。つまりハツは養育費めあてに、不義の子供たちをもらい受け、大きくなれば女なら娼婦として売り、男ならば勤めさせてもうけようとしていた。この養母の赤井ハツは、馬力ハツのあだ名があり、貰い子たちをあごで使い、煙管で折檻し、女だてら昼間から肌ぬぎして大酒を飲む、近所で評判な莫連女であった。しかもこの四十女は、雨宝寺の優男の住職である室生真乗を尻に敷き、ののしり、おくめんもなく戯れ、首をひもでしめて殺そうとしたり、実の父をあんまに呼んで足腰をもませて悪態をつき、近所の仲間たちと芝居見物しては深夜まで役者を家に引き入れ、狂態を演じ、もらい子の姉を娼婦に売りとばし、朝から振舞い酒に上機嫌でいるなど、犀星の育った環境は、およそまともなことがひとつとしてない、地獄絵さながらであった。犀星は7歳の時、戸籍面では雨宝院の住職室生真乗の養子となり室生姓を名乗るようになるが、小学校に入った彼は手のつけられないガキ大将として教師に憎まれ、劣等生であった。つい近所にある実の父母のところにも、行くことを禁じられ、養母からは「女中の子」としてさげすまれる。その頃実の父は死に、女中であった実の母のハルは罪人のように小畠家を追い出され、そのまま行方知らずとなり、その後犀星は生母と再び会うことはなかった。犀星はすべての人々を憎み、いつの日にかの復讐を誓う。高等小学校を落第し、中退し、義兄の勤務する金沢地方裁判所に給仕となった。月給一円五十銭、もっとも下役であった。そのような逆境にすさんだ犀星を救ったのは俳句であり詩だった。「少年文芸」「文章世界」などに投稿した。18歳の時の詩「さくら石班魚(うぐひ)に添へて」が児玉花外の撰で雑誌「新声」明治40年7月号に掲載されたことで、犀星は詩によって人生に闘うことを決意したのだった。(参考:奥野健男「人と文学」現代文学全集30 筑摩書房)

薄幸の女流歌人、江口きち

    「女啄木」とも言われた薄幸の歌人・江口きち(1913-1938)。大正2年11月23日、江口熊吉・いわ(ユワ)の長女として、武尊(ほたか)山の麓、群馬県利根郡川場村谷地に生まれた。昭和2年5月にはアメリカから贈られた「青い目の人形」を学校代表として受け取るほど成績優秀な少女であった。昭和5年2月、沼田郵便局に勤めるが、6月には母がなくなり、肉・うどん・菓子等を商う「栃木屋」を継ぎ、そのかたわら短歌に精進する。昭和7年から河井酔茗・島本久恵が主宰する「女性時代」に投稿する。昭和11年頃からきちは、18歳年上で妻子もある宮田弥右衛門と恋仲になるが、そのことに苦悶する。父と障害の兄・広寿の面倒をみながら店の経営は苦労が多かった。昭和13年12月2日未明、兄と共に服毒自殺する。自分で仕立てた純白のドレスを身につけ、胸には赤いバラの花がつけられていたという。享年25歳。辞世は二首ある。

睡(ね)たらひて夜は明けにけりうつそみに 聴きをさめなる雀鳴き初む

大いなるこの寂(しず)けさや天地(あめつち)の 時刻(とき)あやまたず夜は明けにけり

    きちが自殺した翌年の昭和14年、「武尊乃麓」(江口きち著)が婦女界社から刊行され、昭和14年11月には肉筆版「江口きち歌集」が書物展望社から刊行された。

2007年3月 7日 (水)

香川綾と実践栄養学

   毎日健康な生活を送り元気な体を保持するためには、運動・休養・栄養バランスのとれた食事が大きな三本柱である。しかしバランスのとれた食事といっても、日常生活で細かな栄養計算をして食事を用意することはとても難しいことである。そこで食品を大きく4グループに分け、各栄養素の目安量を簡単につかめるように考案されたのが香川綾の「四群点数法」である。第一群は乳・乳製品、卵、第ニ群は魚介類、肉類、大豆・大豆製品、第三群は野菜、芋類、くだもの、第四群は穀物(ごはん・パン)、砂糖、油脂。1日の食事の適正量は成人女性では20点(1600kcal)を目安としている。

   横巻綾(1899-1997、後の香川綾)は、明治32年3月28日、和歌山県元宮村で、父・横巻一茂、母・のぶ枝の間に生まれた。母の父は維新前に紀州藩の食膳係をしていたので、食生活の大切さを家風として伝えられていた。その母を若くして病気で亡くした綾は医者になる決意をする。大正3年、和歌山県立師範学校女子部に入学し、卒業後、小学校の教師をしていたが、大正10年に上京。東京女子医学専門学校に入学し、吉岡弥生(1871-1959)との出会いもあった。昭和5年にはビタミンと脚気の研究をしていた香川昇三(1895-1945)と結婚する。綾は昭和3年に「主食は胚芽米、おかずは魚1・豆1・野菜4」を提唱する。その後いろいろ研究を重ねて昭和45年「四群点数法」を完成した。また教育機関として、昭和8年に家庭食養研究会を設立し、昭和10年5月に「栄養と料理」を創刊し、昭和12年に女子栄養学園を設立。その後、学校は財団法人香川栄養学園、女子栄養短期大学、女子栄養大学と発展する。

   香川綾の紹介で「計量カップ・計量スプーンの考案者」という記述をよくみかけるが、これは正しくない。戦後いちはやくメートル法に準拠して計量を普及させた功績はあるものの、こうした計量器具が考案されたのは明治半ば頃である。日本初の料理学校の創設者である赤堀峰吉(1816-1904)によるものである。

   料理と栄養と健康を結びつけた実践栄養学の基礎を築いた香川綾の功績は、いわば日本版チャングムのように偉大なるものであり、晩年も早朝ジョギングを欠かさず、身をもって実践栄養学の成果を示し、平成9年4月2日に永眠した。98歳の生涯であった。

テニスの起源

    近代スポーツであるテニスの原型は、「ポーム遊び」の発達にその一端をうかがうことができる。フランスでは古くは「ラ・ソーユ」という球技が8世紀に発生したが、11世紀には修道院で行なわれていた球技がフランスの貴族の間に広まり、13世紀には盛況をきわめた。ジュ・ド・ポーム(Jeu  de paume)と呼ばれる球技がそれである。ポームとは「手のひら」を意味するが、当初は手を使ってロープ越しに打ち返すというものだったが、11世紀にはグローブをはめるようになり、16世紀にはラケットが発明された。「エセー」(随想録)で知られる16世紀の思想家モンテーニュの弟のアルノー・エイケム・ド・モンテーニュ(1541-1564、サン・マルタン隊長)は23歳の時にポーム遊びの事故で死んだという。フランス革命で有名な「テニスコートの誓い」(1789.6.20)は国王が議場を閉鎖したため、ベルサイユ宮殿内の球技場(ジュ・ド・ポーム競技場)で第三身分の議員が集会を開いたものである。

   ポーム遊びはもともと貴族の球技だったので、動作には礼儀が残っており、最初ボールを打つとき、相手に「どうぞ、受けて(Tenez)」とあいさつの言葉をかけた。その言葉を英語式に読むと、「テニス(Tennis)」となる。

2007年3月 6日 (火)

離島の保健婦・荒木初子

    戦後間もない頃の沖ノ島(高知県宿毛市)は医師も医療施設もなく、乳児死亡率は全国平均の4倍、それに加えて風土病フィラリアの発生地でもあった。荒木初子(1917-1998)は高知県衛生会産婆学を卒業後、昭和24年の春、沖ノ島の駐在保健婦として赴任した。初子は毎日、石段だらけの島内を巡回し、献身的に働いた。当初非協力的だった島民にも受け入れられ、その努力の結果、島の乳児死亡率、フィラリアの発生などは大幅に低下した。この活動に対して第1回吉川英治文化賞が贈られた。そして伊藤桂一の著書「沖の島よ、私の愛と献身を」や樫山文枝主演で映画化「孤島の太陽」が制作された。その頃、学校映画会といって講堂で年数回の上映会あったがケペルは映画「孤島の太陽」をよく憶えている。テレビでは小林千登勢が演じていた。ところで、映画のモデルである荒木初子はこの映画の試写会の出席のため上京したが、その直後に脳卒中で倒れている。昭和43年、51歳であった。治療を続けたが右半身不随になり昭和47年に退職、平成10年9月に81歳で他界する。劇中の半生より、それからの人生が壮絶だった。ちなみに「やすきよ漫才」の横山やすし、本名は木村雄二は沖ノ島出身。産婆の荒木初子がはじめてとりあげた赤ん坊は横山やすしという風説がある。横山は昭和19年生まれで、荒木は昭和24年に赴任したので疑問点はあるものの、ともに引瀬集落に住んでいたので、荒木は巡回診療に行って顔なじみであったことは事実であろう。

2007年3月 5日 (月)

近代以前の日本人の歩き方

   現代のわれわれは通常は歩く時、右足を前に踏み出すと同時に左手を前に振り出し、左足を前に出すと一緒に右手を前に振る。このようなウォーキングの動作は実は明治以降の学校教育の中で訓練されたものであるという説が巷間に流布しているようである。それは最近、「ナンバ歩き」という耳慣れない言葉が流行していることとも関連している。ナンバとは簡単に言うと、右手と右足、左手と左足を同時に出す歩き方である。ナンバは農耕民族の基本動作であり、たとえば利き手の右で鍬を打ち下ろすとき、人は右足を前にして踏ん張るはずである。右手と右足、左手と左足が組みになっていないと、鍬は自分の足を打ち込んでしまう。

   ナンバは歌舞伎の所作や伝統舞踏に見られるが、相撲の押し、剣道・能のすり足、盆踊りなどに現在残っている。西洋人の歩行のように腰をねじる動きは、とくに武士の刀の大小が邪魔になるし、着物の帯がゆるみやすい。ただし、ナンバ歩きが日本独自の歩き方かというとかならずしもそうとも言えず、例えば古代ギリシアの壷絵にもナンバ走法が描かれているし、オスマントルコの軍隊のイェニチェリはナンバ歩行だという説がある。また近代以前の日本人の歩き方すべてがナンバ歩きかというと、それも一概には言えない。江戸時代でも都市と農村では多少異なるかもしれないが、近世後期の都市においてはナンバはすでに消滅していたという説も有力である。幕末から明治の外国人の見聞録などの調査研究によると、日本人の歩行の特徴として、引き摺り足、歩行の音、爪先歩行、前傾姿勢、小股・内股、奇妙な歩き方といった項目が挙げられた。このうちの多くは草履や下駄などの履物による影響により、小股・内股は主に女性に見られ、着物による必然化した特徴である。外国人の見聞録からはナンバ歩行に関する記述は見いだせない。日本人によるナンバ歩行の史料が少ないのは、歩行という動作があまりに日常的であるため、意識的に記録することがなかったためであろう。近世後期の日本にナンバ歩きがあったのか、あるいは無かったのだろうか。一つ考えられるとすれば、ナンバは実際には一見してそれとは判明しないほどに、自然で目立たない動作であったのかもしれない。かつての日本人が右手と右足、左手と左足を、手を振らずに、エネルギーのロスを最小限にした自然な歩行をしていたとすれば、外国人にとっても奇妙に感じなかったであろう。明治10年の西南戦争のとき、明治政府の農民兵は薩摩兵に完敗を喫したので、洋式練兵法を採用し、それを義務教育にまで取り入れて新しい歩き方が普及されたというのが通説であるが、近世日本人が整列行進ができず、近代明治の軍隊で整列行進ができるようになったというのである。しかしながらナンバ歩行、ナンバ走法と関連づけられるこの説も戦国時代の足軽の存在や秀吉の大返しの故事を考えると機動力の点で近世がすごく劣っていたと考えるには無理な点がある。

   そもそも「ナンバ」については由来があまりはっきりしない用語である。①骨筋の違うという意から、骨筋の違いをなおす医者が大阪の難波にいたのでそれからきたという説②南蛮人すなわち外国人の動作からきたという説(「演劇百科大事典」平凡社)これらのいずれも信憑性を欠く説であろう。

   いずれにしても、近代以前の日本人の歩き方は、着物と履物に強く規制されていたことは間違いないことであり、その歩行をナンバと呼ぶのがはたして適切であるのか、ではウォーキングがいつごろからはじまったのか、などの疑問は今後の研究調査が待たれる興味あるテーマであろう。

2007年3月 4日 (日)

山中貞雄と鳴滝組

    山中貞雄(1909-1938)は昭和初期、サイレンとからトーキーへの変動期の映画監督。東亜キネマから昭和8年に日活京都撮影所に移籍した。アメリカ映画にならって、数名で脚本を執筆しようと山中貞雄が中心となって稲垣浩、八尋不二、滝沢英輔、三村伸太郎、萩原遼、土肥正幹(鈴木桃作)、藤井滋司ら監督・脚本家とともに鳴滝組というグループを結成した。鳴滝とは京都の洛西、鳴滝音戸山の周辺に住んでいたことに由来する。当時の京都は太秦や嵯峨に、日活、帝国キネマ、千恵蔵プロ、マキノ、寛十郎プロの撮影所があった。彼らは所属の撮影所は違っていたが、お互いに仕事を助け合ってシナリオを共同制作した。そして共同ペンネームを梶原金八と称した。梶原は山中貞雄ごひいきの当時の東大野球部の名投手梶原からとったもので、金に縁のない8人が儲かりますようにと、縁起をかついで金八と名付けたと伝えられている。

    梶原金八のシナリオは19本がある。稲垣浩「富士の白雪」、山中貞雄との共同監督の「関の弥太ッぺ」「怪盗白頭巾」、山中貞雄「勝鬨」「雁太郎街道」「海鳴り街道」、滝沢英輔「晴れる木曽路」「太閤記」「海内無双」「宮本武蔵」その他。そのうち3本を除いてことごとく山中貞雄が執筆している。昭和13年に山中は従軍中の中国北部で戦病死してから、昭和16年、稲垣浩の「海を渡る祭礼」を最後の作品として鳴滝組の活動は休止した。

山田美妙と田沢稲舟

    明治20年代半ば、樋口一葉と並び称せられる女流作家がいた。田沢稲舟(1874-1896)である。一葉が半井桃水に師事したように、稲舟は山形から上京して共立女子職業学校に学んだが、やがて山田美妙に師事した。稲舟の筆名は「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」(古今集東歌)に由来する。「医学修行」「しろばら」「小町湯」「五大堂」「唯我独尊」などがある。第二の一葉と呼ばれ、その原稿料は一葉の5倍で扱われたという。

    山田美妙(1868-1910)は、明治文壇で一番の美男であり、言文一致の新進作家として知られていた。明治22年1月の「国民之友」の小説「胡蝶」の渡辺省亭(1851-1918)が描いた挿絵の裸体画が世間の騒動となった。主人公の女性が武者と対面している絵柄であるが、明治期の裸体論争の第一号である。美妙は時代小説を中心に全盛期であり、美貌と才能に恵まれた稲舟とともに、やがて二人は大恋愛のうちに明治28年12月に結婚する。樋口一葉も二人の結婚を祝福するかのように、「結婚できてうらやましい」と日記に書いている。おそらく一葉と稲舟との間にはなんらかの交流があったのであろう。

   だが稲舟が幸福の絶頂にあったのは、ほんの短い期間だった。美妙の女癖の悪さと、姑との折り合いが悪く、稲舟は明治29年3月に郷里の山形県鶴岡五日町68番地に帰郷する。山田美妙は4月には西戸カメと再婚したが、稲舟は9月10日には急性肺炎により22歳で他界する。一葉も同年11月23日、24歳で亡くなっている。ところで稲舟の死因については、美妙との離婚の直後であったため誤報が飛び交い、自殺説が一般化されてしまった。その後、美妙は文壇から忘れ去られ、「大辞典」の編纂で生活の糧を得るという作家としては不遇な晩年であった。

近代の女流作家たち

   明治10年、中島歌子(1841-1903)によって東京に歌塾「萩の舎」が創設された。田辺花圃(三宅花圃、1868-1943)は明治21年長篇小説「藪の鶯」を出版し、女流作家として注目された。明治25年、三宅雪嶺と結婚。「みだれ咲」「露のよすが」「萩桔梗」「空行月」「玉すだれ」などの小説のほか短歌・随筆などを発表。同期の樋口一葉(1872-1896)は明治25年「闇桜」「たま襷」などの短編を発表、花圃の紹介で「うもれ木」「暁月夜」を発表。明治27年「大つごもり」明治28年「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」明治29年「わかれ道」「われから」などすぐれた作品を残し、はじめて作家を職業としてとらえた女性であったが24歳で他界した。

   はじめての新聞連載小説を書いたのは木村曙(1873-1890)で「婦人鏡」を読売新聞に連載して認められた。ついで「勇み肌」「操くらべ」「わか松」などを発表したが19歳で病没した。他に田沢稲舟(1874-1896)、大塚楠緒子(1875-1910)、清水紫琴(1867-1933)、相馬黒光(1876-1955)、福田英子(1865-1927)などが初期の文筆の道を拓いた女性である。

    明治、大正、昭和期に活躍する女性作家の多くは、「青鞜」「女人芸術」にその名が見られる。平塚らいてう(1886-1971)、与謝野晶子(1878-1942)、野上弥生子(1885-1985)、岡田八千代(1883-1962)、田村俊子(1884-1945)、長谷川時雨(1879-1941)、岡本かの子(1889-1939)などである。

   こうして多くの女流文学者が輩出する。吉屋信子、矢田津世子、真杉静枝、宇野千代、林芙美子、森田たま、今井邦子、深尾須磨子、平林たい子、円地文子、壷井栄、佐多稲子、網野菊、大田洋子、城夏子らである。

2007年3月 3日 (土)

冬のソナタ第8話のシナリオ

 「冬のソナタ」第8話「疑惑」を観る。あらためてシナリオの良さ、ストーリーの展開に惹かれていく。

   チェリンの嘘に気づいたミニョン(ぺ・ヨンジュン)は、ユジン(チェ・ジウ)に今までの誤解を謝罪し、彼女の本来の姿を知るうちに惹かれ始める。そんなとき、ふたりは山頂のレストランの調査に行くも、吹雪でゴンドラが止まり、その夜をレストランで過ごす。そこでミニョンはユジンに「いつまで死んだ人を想いながら生きていくつもりですか?」「お願いだからしっかりと現実を見てください。その人は死んだんです」ユジンは「やぬてよ!お願い、やめてってば!なんでこんなことするんですか?」ミニョンは「僕があなたを愛しているから…」と思わず告白する。レストランの椅子の上で一夜を明かし、翌朝、山頂の外に出た二人。ミニョンは「ユジンさん…昨日のこと、謝りません」「僕のせいでユジンさんを苦しめたと思うけど、言っておきたかった。後悔はしてません」「本当に僕を好きだったこと…一度もないんですか?」とユジンに問い詰める。そのときサンヒョク(パク・ヨンハ)が現れて、「ユジンは僕の婚約者です。そうした行動は失礼だとは思いませんか?」それでもミニョンは「まだユジンさんの答えを聞いていません。答えてください。ユジンさんが愛している人は…誰でしょうか?」ユジン「……」サンヒョクは「あなたがなんでそんなこと気にするんですか?」ミニョンは「ユジンさんを愛しているからです」サンヒョンは胸ぐらをつかんで「なんだって!もう1回言ってみろ!」ユジン「やめてください」目を怒らせてミニョンを放すサンヒョク。

   典型的な三角関係のもつれシーンであるが、画面に緊迫感があり演出が冴えわたる。この第8話の最後のワンシーンにサングラスをした中年女性(ミニョンの母)が空港から出てくると、携帯で「チュンサン元気にしていますか?」と誰かと会話する(ミニョンでなくチュンサンというところがミソ)。ここからミニョンの出生の秘密が絡んだストーリーはサスペンス的な要素も加わり新展開を見せる。「冬のソナタ」が四季シリーズで出色の出来栄えであるのは、名セリフも含めてストーリーの展開、脚本の完成度の高さにあるといえる。

ユン・ソクホ監督の功績

    3月1日で「春のワルツ」の最終回が終了し、これでユン・ソクホ監督「四季シリーズ」の4作品(KBS)全ての日本での放映が完結した。美しい自然を背景に純粋な愛を描く「四季シリーズ」が「秋の童話」「冬のソナタ」「夏の香り」「春のワルツ」であることは今更紹介するまでもないが、四季シリーズの日本での放送を通じて「お互いが愛しあっていれば、離れていても、見えなくても、愛は永遠である」といったユン・ソクホのメッセージが日本のいわゆる韓流ファンに十ニ分に伝わったということ、それは日本と韓国との永い交流の中でも歴史的な意義をもつものとなるであろう。

   ドラマの王道である純愛というテーマは、ともすれば使いふるされて陳腐になりがちであるが、ロマンチストのユン・ソクホは純愛を21世紀の現代に鮮やかに甦らせることに成功した。映像美もさることながら、ファッション、音楽に至るまで、すべての作品が叙情的であり古典的であり現代的であった。主題曲には「禁じられた遊び」「白い恋人たち」「シューベルトのセレナーデ」「愛しのクレメンタイン」などのポピュラーな曲を選曲したが詩的な映像との相乗効果が冴えわたった。はじめ「禁じられた遊び」のギターの奏でる音色はルネ・クレマンのフランス映画の印象が強く、違和感もあったが、見ていくうちに切ないギターの調べが幼い日から続くジュンソとウンソの愛を自然に表現していた。「春のワルツ」のクレメンタイン(日本では「雪山賛歌」で知られる)も、やがて幼いウニョンとスホのテーマ曲として耳になじんできた。実はケペル世代にとっては、このクレメンタインの音楽は、「珍犬ハックル」というハンナバーバラのアニメに使用されたので、ついつい「オーマイ ダーリン オーマイ ダーリン オーマイ ダーリン クレメタイン」と犬のカーボーイーが調子よく口ずさんでいた幼き日々を思いだすのである。本国アメリカではゴールドラッシュ時代に川で溺死した少女クレメンタインであるが、韓国では漁師が島を去った娘を懐かしむ歌詞となっている。

   男性視聴者からの立場でいうとやはり主演女優たちの新鮮な魅力について語らねばならないだろう。4人のうちでチェ・ジウはキャリア十分の「涙のヒロイン」であるが、日本では「冬のソナタ」が初登場だったので、やはりとても新鮮に映った。ソン・へギョは今では大スターだが「秋の童話」のときはまだまだ無名に近く、この一作で一躍シンデレラになった女優さんである。ソン・へギョ自身もインタビューで「ウンソを演じたことは、死ぬまで絶対に忘れないと思います」といっている。チェ・ジウもソン・へギョも1997年のKBSドラマ「初恋」に出ているのでぺ・ヨンジュンとも縁があったことも後で知るのだが、ソッキとチャヌの恋が「冬のソナタ」で成就してよかったと思っている。ソン・イエジンは「夏の香り」のあと、「四月の雪」「私の頭の中の消しゴム」で大ブレイクするのだが、清純な新進女優から韓国を代表する美人女優に成長していった。「春のワルツ」のウニョン役のハン・ヒョジュは2003年の「ミスにっこり」コンテストに優勝して芸能界入りしている。春をイメージしたカラフルな衣装を着たウニョンは可憐で綺麗でスホやフィリップでなくても男性ならば「守ってあげたい」と感じさせる女性である。彼女の魅力はまだ演技というよりは素のままの若さゆえの新鮮な魅力につきるであろう。これからの活躍を日本のオジサンも遠くから見守っている。女優はもちろん演技力が大切であるが、オードリー・ヘプバーンは今でも日本でトップクラスの人気があるように、やはり「ローマの休日」「麗しのサブリナ」のデビュー時の印象が強い。昭和30年ころの日本の若い娘たちのファションや雑誌にいかにオードリーの影響が大きいことか驚かされる。そしていまもオードリーの魅力は不滅である。韓国のユン・ソクホはハリウッドやフランス映画などの長所を巧みに学びながら、アジア人自身の美を発見させた人という点が高く評価ができるのではないだろうか。それまでアジア人にとっても美の典型はオードリー・ヘプバーンやアラン・ドロンであったのが、チェ・ジウやぺ・ヨンジュンであることを宣言したのである。これは韓国のみならず、中国、台湾、香港、フィリピン、シンガポール、マレーシア、そして日本などの多くの人々に大きな夢と希望を与えている。すなわち韓流ファンとは単なるミーハーや芸能人の追っかけ集団としてとらえるのではなく、アジア人としての誇りを持って積極的に美しく生きる人たちの集まりととらえたほうがいいと思うのである。

柳田國男と牧口常三郎

    村尾行一著「柳田國男と牧口常三郎」を読む。柳田國男(1875-1969)と牧口常三郎(1871-1944)は、明治42年5月2日、英文学者の馬場孤蝶の紹介で知り合う。その後新渡戸稲造主催の郷土会で二人の交流が始まる。牧口と柳田は農村調査のため明治44年5月12日から15日にかけて旅行をしている。のち柳田は、創価教育学説支援会の発起人の一人にもなっている。しかしそのような二人もやがて疎遠になる。柳田は仏教きらいであるらしく、牧口の温厚な人柄に好意を抱くものの宗教に対する根本的な考え方の相違が理由の一つに考えられる。とくに昭和になると、牧口が戦争反対や平和論を唱えることに柳田は否定的であり、「反抗が最も悲しむべき不幸を伴なうたのも、むしろ結果であった」と冷たく書いている。本書によれば二人は喧嘩別れをしたとある。昭和26年、柳田は文化勲章を受章し、「後狩詞記」「石神問答」「遠野物語」「山島民譚集」などの著書でその栄誉はゆるぎないものではあるが、一方の牧口常三郎の遺志は戸田城聖、池田大作と受け継がれ現在の精華を思うと、二人の偉人の遭遇と阻隔には、大きく考えさせられる問題がある。

2007年3月 1日 (木)

若山牧水、酒と旅と女

    「白鳥(しらとり)は哀しからずや 空の青海のあをにも染まずただよふ」(第一歌集「海の声」)などの歌で知られる若山牧水(1885-1928)は宮崎県東臼杵郡郷村字坪谷に医師若山立蔵の長男として生まれた。有名な「白鳥は」の歌の初出(明治40年12月号「新潮」)は「白鳥(はくてう)は哀しからずや海の青そらのあをにも染まずただよふ」だった。そして第三歌集「別離」では「女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ。われその傍らにありて夜も昼も絶えず歌ふ」という詞書がある。この歌は「波間に漂っている白いかもめ鳥はかなしくはないのか。空も青、海も青、そのまっさおな色にまぎれることなく漂っている姿をみると、何ともいいようのない悲しさがわたしの胸にあふれてくることだ」という通釈であるが、制作状況から判断して園田小枝子への恋愛の哀歓がモチーフになっていると考えてさしつかえないだろう。小枝子という女性は「牧水よりも一つ年上である。生まれたのは瀬戸内海のある海岸町、まことに不思議な両親をもち、まだ何もわからぬ幼女時代に既に幾回となくその戸籍が転々としているような数奇な運命の下に成人した。そして16、17歳ぐらいで結婚し、二人の子供さえもっていたが、胸を病み、家を離れて須磨の療養所に入った経験があった。彼女はそれから家庭にかえらず、明治40年の春あたり東京に出て来たのであるが、彼女は非常に美しかった」(大悟法利雄「若山牧水伝記篇」)とある。園田小枝子の郷里は広島県竹原市忠海と福山市鞆町の二説あるが、幼少期転々としていたのかも知れない。ともかく牧水は24歳のとき、病弱の人妻に恋をし、千葉県安房根本海岸に10日余り滞在し、多くの感傷歌が生まれた。しかしこの恋はうまく行くかず、牧水は大いに悩み5年のちに恋は破局する。

小枝子への熱い想いがあらわれた歌

「わが小枝子おもひいずればふくみたる酒の匂いのさびしくあるかな」「恋人のうまれしといふ安芸の国の山の夕日を見て海を過ぐ」「山を見よ山に日に照る海を見よ海に日には照るいざ唇を君」「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」

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