ミコと2人のミッチー
「日本のポップス史1960年前後」でJiroさんから素敵なコメントをいただきました。でもミッチー・サハラの「愛の願い」(昭和41年)は聞いた記憶がない。朱里エイコの「クレイジー・ラブ」(昭和42年)と同曲だそうですがそれも知らない。実は「秘蔵シングル盤天国」(シンコーミュージック)からリライトしたので、あまり熱心なリスナーではありません。同じミッチーでも青山ミチなら、よくテレビにでていたので印象は強烈である。そこでミコ(弘田三枝子)と2人(ミッチー・サハラと青山ミチ)の3人の歌姫を考察してみる。
弘田三枝子は昭和22年生まれで、昭和36年に「子供じゃないの」でデビューした。(14歳)ミッチー・サハラは昭和23年生まれで、同年、13歳で歌手デビューしている。青山ミチは昭和24年生まれで、ジャズ喫茶が主催する素人ジャズコンクールに入賞しポリドールと契約する。昭和37年、弘田三枝子は「ヴァケイション」(東芝)が大ヒツトしたが、青山ミチもポリドールから「ヴァケイション」を出しヒツトする。このころ二人はテレビによくでていた。あの時、青山ミチはなんと13歳だったのだ。その後、弘田三枝子は「すてきな16歳」「渚のデイト」「砂に消えた涙」とカバー曲のヒツトを連発し、田辺製薬の「アスパラ」や「リキホルモ」やレナウンの「ワンサカ娘」で黄金時代を築く。ミッチー・サハラ(酒井道枝)は美少女系歌手で、なんと16歳で自分で作詞・作曲したLP「聞いてお願い」を発表している。彼女は女性シンガーソングライターの草分けだったのだ。一般にはミッチー・サハラはフランス・ギャル等のカバー・ポップスを歌うキュートなティーン・シンガーのイメージのようにみられるが、実力派のシンガーだったようだ。いま調べただけでも「聞いてお願い」「マッハで行こう」「グリーン・グリーン」「天使のハンマー」「春のときめき」「ヒューヒュー行こう超特急」「雨に消えた想い」「夢みるシャンソン人形」「ラヴ・イン・トーキョー」「風に吹かれて」などCDで聞けるようだ。昭和40年、17歳のときに「ドレミの歌」「エーデルワイス」を日本語で朝日ソノラマから発売している。(当然、ソノシートだろう)あの時「ドレミの歌」はペギー葉山じゃなくて、ミッチー・サハラを聞きたかったなあ。ミッチー・サハラは文化放送のラジオの深夜番組のパーソナリティを5年間務めたのち、21歳のとき渡米、カナダやアメリカ各地でツアーしたほかジャズ・クラブで活躍した。彼女は本場でジャズ歌手として成功したらしい。しかし、2000年9月27日、心臓発作のためロサンゼルスの自宅で亡くなっている。享年53歳。
もう一人のミッチー、こと青山ミチは昭和37年「ひとりぼっちで思うこと」でデビューし、昭和38年には弘田三枝子との競作の「ヴァケイション」、昭和40年にはエミー・ジャクソンとの競作「涙の太陽」といずれも競作で次点であった。青山ミチのパンチのあるパワフルな歌い方は当時を知る人なら誰でも覚えている。昭和38年3月に失踪事件、昭和44年に電撃結婚、全日本歌謡選手権に出場、しかし再デビュー果たせず。昭和49年結婚、出産、その後のスキャンダルについては省くが、彼女のステージを見る機会はなくなった。実は倍賞千恵子の「下町の太陽」(山田洋次監督、和38年)にジャズ喫茶の歌手という役で青山ミチが出演している。歌うシーンはかなり長くて全盛時代の歌唱を聞くことができるのでファンには一見の価値あり。それにしても、ティーン・エイジのミッチー・サハラを見逃したことは一生の不覚である。
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