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2007年3月31日 (土)

アレキサンダー大王と女性

    「英雄豪傑色を好む」というが、世界帝国を一代で築いた英雄アレキサンダー大王の女性関係はどのようなものだったのだろうか。プルタークによれば、大王は「女性に関して誰もおよばないほど節制を守った」といっている。当時の一般の性道徳からいえば、たしかに彼は節制を守ったほうだったろう。結婚以前に彼の知った唯一の女性はバルシネだった。

   アレキサンダー大王は前333年、イッソスの戦いでペルシアのダレイオス3世を破った。ペルシア王はからくも逃げたが、その母、妻、娘は捕虜となった。大王はその後、部下のパルメニオンにすすめられ、イッソスの戦いで捕虜にしたバクトリア太守のアルタバゾスの娘バルシネを愛人としている。彼女はのちに庶子ヘラクレス(前327-前309)をもうけている。

   アレキサンダーの結婚はかなり遅く、前327年、29歳の時にバクトリア豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚する。プルタークは彼女のことをアレキサンダーが「愛情に負けた唯一の女」といっている。ロクサネはたいへん美しい女性だったらしい。スサでは大王以下マケドニア人1万人とペルシア婦人の婚礼をした。大王自身はペルシア王の娘スタテラーとバリュサティスと結婚している。そのあと大王は熱病のため33歳で急逝した。この時、王妃ロクサネは妊娠中であり、愛人バルシネには庶子ヘラクレスがいた。間もなくロクサネに男の子が生まれた。これがアレキサンダー4世である。大王の死後、その大帝国は部下の将軍たちの奪いあうところとなった。彼らはそれぞれ大王の後継者(デイアドコイ)と称した。ロクサネ、バルシネは子供とともに殺され、アレキサンダー大王の血を引く者は前310年までに完全に絶えた。

2007年3月30日 (金)

クレオパトラの鼻

   「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わったであろう」という言葉は17世紀フランスの数学者・物理学者・哲学者であるブレーズ・パスカル(1623-1651)の「パンセ」(随想録あるいは瞑想集として邦訳される)の中にある有名な警句である。

  人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるがいい。原因は、「私にはわからない何か」(コルネイユ)であり、その結果は恐るべきものである。この「私にはわからない何か」、人が認めることができないほどわずかなものが、全地を、王侯たちを、もろもろの軍隊を、全世界を揺り動かすのだ。クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていただろう」(「世界の名著24」前田陽一、由木康訳)

  芥川龍之介は「侏儒の言葉」の中で、

   クレオパトラの鼻が曲がっていたとすれば、世界の歴史はそのために一変していたかもしれないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人というものはめったに実相を見るものではない。いや、我々の自己欺瞞はひとたび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行なわれるのである。アントニイもそういう例にもれず、クレオパトラの鼻が曲がっていたとすれば、つとめてそれを見まいとしたであろう。また見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所をさがしたであろう。

   芥川はそこから、「人間の自己欺瞞」ということを引き出して、「二千余年の歴史は眇たる一クレオパトラの鼻のいかんによったのではない。むしろ地上に遍満した我々の愚昧によったのである」と結論づけている。

2007年3月29日 (木)

串刺し公ヴラド・ツェぺシュ

   ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュ(1387頃-1456)は、オスマントルコの大軍をベオグラードの戦い(1456)で破り、侵入を阻止したが、疫病で死亡した。

   そのころワラキア公国(現ルーマニア南部)の君主になったヴラド・ツェぺシュ・ドゥラクル(1431-1476)は、首都に貴族たちを招集して、自分の父親と兄の暗殺に加担した貴族たちを串刺しの刑に処した。そして、杭に刺されて悶絶する貴族たちの姿を眺めながら祝宴を開いたという。

   彼は吸血鬼ドラキュラのモデルとして知られているが、本当はオスマントルコの侵略からルーマニアを守り、独立のために戦った英雄だった。

ゴルディオンの結び目

    前4世紀、古代フリュギア(フリジア)の首都ゴルディオン(ゴルディウム)の神殿に一台の車があった。それは賢者の聞こえが高かったゴルディウス王(貪欲の罰で娘を黄金に変えられた伝説で名高いミダス王の父という)がむすんだもので、その車は神殿の柱に固く縛りつけられていた。そして「車を縛りつけてある綱の結び目を解く者は、全世界の支配者になる」といういい伝えがあったが、誰一人として解くことができなかった。

   そこへアレキサンダー大王(前356-前323)が東征の途中に立ち寄った。大王はこの予言をきき、結び目を見たが、容易に解きがたいと知ると、剣を抜いて結び目を一刀のもとに両断した。のちに予言は実現し、大王は剣で世界の支配者になった。この故事から、英語のゴーディアン・ノットという言葉は、「常識外の手段で難事を解決する」という意味がある。

2007年3月28日 (水)

三国志の美女、貂蝉

   貂蝉(ちょうせん)は、後漢の司徒・王允のかかえていた歌姫の美少女で、歳は16歳であった。董卓の暴政に悩む大臣の王允の苦しむ姿を見て、娘同様に可愛いがられていた貂蝉は王允に訴えた。「殿様のお役に立てるならどんなことでもいたします」その姿を見てひらめいた王允は貂蝉の前にひれ伏して言った。「天下の逆賊の董卓と養子の呂布はどちらも好色のやからゆえ、連環の計を用いようと思う」と言ってふたりは打ち合わせた。呂布は貂蝉をひと目見るなり気に入り、貂蝉も意味ありげな視線を呂布におくった。そこで王允が側室として貂蝉を輿入れさせたいと申しでたので話はとんとん拍子に進んだ。しかし、呂布はいくら待っても貂蝉は嫁に来ない。それもそのはずで、貂蝉はとうに董卓の側女になっていたのである。呂布は王允に怒鳴り込んだが、王允は董卓が貂蝉をむりやり連れていったという。呂布はこっそり、董卓の寝所に行って貂蝉に確かめると、「わたしの身は汚されてしまいました。死んでわたくしの心をお見せいたします」とけなげなことを言ったので呂布は董卓を恨むようになり、王允もけしかけたのでついに董卓を殺害したのである。呂布は、その後、李催(りかく)・郭汜(かくし)に洛陽を追われるが、貂蝉は呂布が死ぬまでついていった。

    貂蝉は羅貫中の創作上の人物であるが、その美貌は中国四大美女(西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃)の一人に数えられている。

マラトンの戦いの伝令は誰か

   前490年、第2回ペルシア戦争の際、上陸するペルシア帝国の軍をアテネの名将ミルティアデスはマラトンの戦いで撃退した。このときアテネの伝令フェイディピデス(Pheidippides)がアテネまで走り「喜びあれ(カイレイン、喜べ我が軍勝てり)」と戦勝を告げて、絶命した。この伝説がマラソン競技の起源であることは通俗的によく知られている。しかしこのマラソン伝説は、ほんとうに歴史的事実であろうか。

   まずマラソンの戦いの伝令は誰であろうか?長距離伝令のフェイディピデスの名は発音表記により、フィリッピデス、フェイディッピデス、ピリッピデスなど諸書により多少の違いはあるものの帝政ローマ時代の作家ルキアノス(120-180)に書かれている。そしてルキアノスはプルタルコス(50-120)の「プルターク英雄伝」をもとにしている。その中にはつぎのようにある。

ポントスのヘラクレイデスが物語るところによると、マラトンの戦いの知らせをもたらしたのは、エロイアダイ区のテルシッポスだという。しかし他方、大多数の人々が述べるところによれば、エウクレスという者が、完全武装のまま、身体を火照らせ戦場から急いで走って来て、国家の指導者たちの(建物の)玄関先に倒れ込み、「喜んで下さい。我が軍が勝ちました」とだけ言って、ただちに息が絶えたという。

ルキアノスの話は、このプルタルコスが引用する話をもとにして、伝令の名前だけがすり変わって成立したようである。もっとも古い歴史書であるヘロドトスの「歴史」には次のようにある。

アテナイの将軍たちはまだ市内にいる間に、まずアテナイ人のピリッピデスなる者を伝令としてスパルタへ送った。なおこの男は飛脚を業とする健脚家であった。(松平千秋訳、中央公論「世界の名著5」6-105)

その注釈によれば

写本の伝承は「ピリッピディス」と「ペイディッピデス」の二つに分かれている。後者は「馬を節約する者、馬蹄いらず」と解せられるところから、健脚の者の名として恰好だというのでいつの間にか本来のピリッピデスにとってかわったのであろうとする説がある。

    ヘロドトスによれば、ペルシア軍が攻めてくることを知らせる伝令はピリッピデスであるが、アテネに戦勝をもたらした伝令は誰だったのか、全くふれられていない。マラソン伝説はルキアノスやプルタルコスなどのローマの文筆家による物語であり、戦勝の伝令者の名前を歴史的資料からは、現段階で確定することは、できないのである。

2007年3月26日 (月)

ミコと2人のミッチー

   「日本のポップス史1960年前後」でJiroさんから素敵なコメントをいただきました。でもミッチー・サハラの「愛の願い」(昭和41年)は聞いた記憶がない。朱里エイコの「クレイジー・ラブ」(昭和42年)と同曲だそうですがそれも知らない。実は「秘蔵シングル盤天国」(シンコーミュージック)からリライトしたので、あまり熱心なリスナーではありません。同じミッチーでも青山ミチなら、よくテレビにでていたので印象は強烈である。そこでミコ(弘田三枝子)と2人(ミッチー・サハラと青山ミチ)の3人の歌姫を考察してみる。

   弘田三枝子は昭和22年生まれで、昭和36年に「子供じゃないの」でデビューした。(14歳)ミッチー・サハラは昭和23年生まれで、同年、13歳で歌手デビューしている。青山ミチは昭和24年生まれで、ジャズ喫茶が主催する素人ジャズコンクールに入賞しポリドールと契約する。昭和37年、弘田三枝子は「ヴァケイション」(東芝)が大ヒツトしたが、青山ミチもポリドールから「ヴァケイション」を出しヒツトする。このころ二人はテレビによくでていた。あの時、青山ミチはなんと13歳だったのだ。その後、弘田三枝子は「すてきな16歳」「渚のデイト」「砂に消えた涙」とカバー曲のヒツトを連発し、田辺製薬の「アスパラ」や「リキホルモ」やレナウンの「ワンサカ娘」で黄金時代を築く。ミッチー・サハラ(酒井道枝)は美少女系歌手で、なんと16歳で自分で作詞・作曲したLP「聞いてお願い」を発表している。彼女は女性シンガーソングライターの草分けだったのだ。一般にはミッチー・サハラはフランス・ギャル等のカバー・ポップスを歌うキュートなティーン・シンガーのイメージのようにみられるが、実力派のシンガーだったようだ。いま調べただけでも「聞いてお願い」「マッハで行こう」「グリーン・グリーン」「天使のハンマー」「春のときめき」「ヒューヒュー行こう超特急」「雨に消えた想い」「夢みるシャンソン人形」「ラヴ・イン・トーキョー」「風に吹かれて」などCDで聞けるようだ。昭和40年、17歳のときに「ドレミの歌」「エーデルワイス」を日本語で朝日ソノラマから発売している。(当然、ソノシートだろう)あの時「ドレミの歌」はペギー葉山じゃなくて、ミッチー・サハラを聞きたかったなあ。ミッチー・サハラは文化放送のラジオの深夜番組のパーソナリティを5年間務めたのち、21歳のとき渡米、カナダやアメリカ各地でツアーしたほかジャズ・クラブで活躍した。彼女は本場でジャズ歌手として成功したらしい。しかし、2000年9月27日、心臓発作のためロサンゼルスの自宅で亡くなっている。享年53歳。

   もう一人のミッチー、こと青山ミチは昭和37年「ひとりぼっちで思うこと」でデビューし、昭和38年には弘田三枝子との競作の「ヴァケイション」、昭和40年にはエミー・ジャクソンとの競作「涙の太陽」といずれも競作で次点であった。青山ミチのパンチのあるパワフルな歌い方は当時を知る人なら誰でも覚えている。昭和38年3月に失踪事件、昭和44年に電撃結婚、全日本歌謡選手権に出場、しかし再デビュー果たせず。昭和49年結婚、出産、その後のスキャンダルについては省くが、彼女のステージを見る機会はなくなった。実は倍賞千恵子の「下町の太陽」(山田洋次監督、和38年)にジャズ喫茶の歌手という役で青山ミチが出演している。歌うシーンはかなり長くて全盛時代の歌唱を聞くことができるのでファンには一見の価値あり。それにしても、ティーン・エイジのミッチー・サハラを見逃したことは一生の不覚である。

2007年3月25日 (日)

曽根俊虎と興亜会

   明治12年、日本は沖縄県を設置して琉球を日本の版図に編入したことにより、日中間が緊張し、それを緩和する意図もあってアジア主義的な言論が登場し、明治13年には最初のアジア主義組織「興亜会」が成立した。

   しかし興亜会の前身ともいえるのが振亜会である。振亜会の生みの親は大久保利通である。明治7年、台湾問題で大久保が北京に赴く時、海軍中尉の曽根俊虎は大久保に随行している。北京において大久保は明治7年11月3日に天津で李鴻章と会見した折に、日清共存共栄の道を模索した。日清両国が相互理解をきわめるには、まず、互いの国の言語を多くの人に急ぎ修得させることからはじめるべきであると話あった。明治10年、清国初代駐日公使張斯桂の着任をまって、東京に日支両国の語学校を開き、両国の提携をはかろうとしたが、明治11年に大久保が暗殺された。曽根は大久保の遺志をついで、明治13年、東京に中国語学校を開いた。

   曽根俊虎(1847-1910)は、弘化4年、米沢藩士曽根敬一郎の子として生まれた。藩校興護館で雲井龍雄(1844-1870)の影響を受け、江戸に出て洋学を学んだ。雲井は薩摩藩の罪を訴え斬首されたことで知られるが、曽根はその後、西郷隆盛、大久保利通と深く交わるようになった。明治4年に海軍に入り、副島種臣外務卿と共に清国に赴く。その後も征台の役など、海軍本省と中国との間を往来、諜報勤務、大陸情勢の調査にあたった。曽根の努力によって明治13年2月13日、興亜会が設立された。会長は旧熊本藩主細川護久の実弟の長岡護美である。会員には渡辺洪基、曽根俊虎、金子弥兵衛、草間時福、佐藤暢、宮崎駿児、前田献吉、小巻昌業、吉田正春、広部精、小森沢長政、宮島誠一郎、鄭永寧、中上川彦次郎、花房義質、山吉盛義、鍋島直大、細川瀏、恒屋盛服、鈴木慧淳、北沢正誠、林正明、大久保利昭、柳原前光、大倉喜八郎、横山孫一郎、都築経二郎、朽木綱一、伊藤祐麿、吉田晩稼、有馬純行、海賀直常、末広熊五郎、赤松則良、重野安繹、近藤真鋤、中村正直、武藤平学、末弘直哉、小松原英太郎、張滋昉、松平忠礼、松平正信、塚本明毅、矢野義徹、本多晋、田代離三、星野重次郎、丸山孝一郎、成島柳北

    朝野の名士が一同に会したものであった。興亜に生涯を捧げたが、明治24、25年ころ在清中に「法越交兵記」を編纂し、ベトナム問題に関わる伊藤内閣の忌諱にふれる筆禍事件により退職する。この事件は無罪となったが、以来海軍を去り、在野の中国通としておもに清国蘇州に居住し、李鴻章その他の名士と交わり、支那服を着用して暮らした。晩年は不遇であったが、動脈瘤のため東京大森に帰国。明治43年5月30日病没する。曽根俊虎には「北清紀行」「清国近世乱誌」「清国漫遊誌」「法越交兵記」「俄国暴状誌」などの著書がある。

すべての道はローマに通ず

    ローマ帝国は、五賢帝の時代(ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス)末期にいたるまで平和を享受し、「ローマの平和」(パクス・ロマーナ)と呼ばれた。その繁栄の絶頂はトラヤヌス帝のときで、領土はドナウ川の向こう岸のダキアを属領として、帝国の領土は最大となった。北はブリタニアから南はサハラ砂漠北端、東はメソポタミアから西は大西洋岸までの、アジア・アフリカ・ヨーロッパの3大陸にまたがり、地中海を内海、「我らの海」とする大帝国で、総人口は5000万人から6000万人であったと推定される。

    陸海の交通の安全が確保され、ローマ道は帝国中に張りめぐらされ、ギリシア・ローマの融合した都市的文化がゆきわたった。東方ではギリシア語が広く使われていたが、帝国政府はラテン語の普及に努めた。当時、帝国の東のはしから西のはしへ行く旅人はこの2つの言語を使えれば不自由せずに、またいたるところで同じような都市の生活を味わいながら旅行できただろうといわれる。

   17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌの寓話に「すべての道はローマに通ず」という格言は、このようなローマ帝国の全盛期に世界各地からの道がローマに通じていたことから、転じて、どんな方法をとっても同じ目的のところに達すること、真理は一つであることのたとえとして使用されたものである。

   ちなみにローマ帝国の属州と辺境の地名を調べると、ゲルマニア、ブリタンニア、ルシタニア、アクイタニア、ヒスパニア、ガリア、ダルマチア、ダキア、マウレタニア、ルティア、ラエティア、マッサリア(マッシリア)、ルテティア、トラキア、アシア、アンティオキア、アレクサンドリア、アルメニア、モエシア、バレンシア、ニコメディア、カッパドキア、カエサレア、ガラティアなどすべて語尾が「ア」である。これは、ギリシア語、ラテン語、ロマンス語では女性名詞の語尾は「ア(-a)」であり、地名は女性名詞によるものである。(参考:「詳説世界史研究」山川出版社)

2007年3月24日 (土)

千の風になって

   今日、テレビの「ミュージック・フェア」と「家族で選ぶにっぽんの歌」で秋川雅史の「千の風になって」を聞いた。「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」死者の側から、嘆き悲しむ遺族に慰めの言葉が語りかけられる。ケペルも亡くなった父、母を思い出した。「秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬にはダイヤのように きらめく星になる 朝は鳥になってあなたを目覚めさせる 夜は星になってあなたを見守る」言葉の一つ一つがじわじわと胸に伝わってくる。そして秋川雅史の張りのある歌声が、多くの人たちに共感をよんでいる。クラシック歌手でチャート1位というのはオリコン史上初の快挙だそうだ。

    もっとも戦前までは歌謡界もクラシック系の歌手が主流であった。東海林太郎(1898-1972)は昭和8年音楽コンクールでオペラのアリアをうたい入賞している。藤山一郎(1911-1993 )は増永丈夫という本名でクラシックを歌っていた時期もあった。藤原義江(1898-1976)、田谷力三(1899-1988)、徳山璉、柴田睦陸(1913-1988)たちは日本歌曲の普及に大いに貢献した。これまで紅白歌合戦といえば演歌歌手が中心という印象がある。テノール出場歌手といえば、藤原義江、柴田睦陸、立川澄人、 錦織健くらいであまり印象はなかった。昨年の第57回NHK紅白歌合戦で初めて聞いたが、秋川雅史の「千の風になって」は心に残ったいい歌唱だった。クラシックが日本の歌謡に興隆した昭和という時期と戦時体制とが重なったため、多くのクラシック系の歌手たちは国民歌謡や戦時軍歌を歌わされた不幸な時代だったと思う。いまこそクラシック界はその純粋なる音楽性と芸術性で新しい日本歌曲の普及に貢献してもらいたい。

桃 夭

桃は若いよ 燃え立つ花よ

この娘 嫁(ゆ)きゃれば ゆく先よかろ

桃は若いよ 大きい実だよ

この娘 嫁きゃれば ゆく先よかろ

桃は若いよ 茂った葉だよ

この娘 嫁きゃれば ゆく先よかろ

                      目加田誠訳 「新釈詩経」

(通釈)わかわかしく美しい桃の木に、燃えたつような赤い花が咲いた。このうるわしい花にも似たこの娘はこれからお嫁に行くが、さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

わかわかしく美しい桃の木に、はちきれそうな実がなった。さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

わかわかしく美しい桃の木に、緑の葉が茂りに茂った。さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

輝く巨人の星となれ

   昭和32年、長嶋茂雄の巨人軍入団が決まった日、その話題を憎らしそうに聞いている少年がいた。少年の名は、星飛雄馬。飛雄馬は父・一徹からしごかれる日々に、野球を憎んでさえいた。そこは長嶋選手入団発表パーティ会場である。

「ではここで偉大なる先輩である千葉さんから栄光の背番号3が励ましを込めて長嶋くんに譲られます」

「長嶋くんを迎え史上最大の三塁手も巨人軍から生まれるだろう」

   その時、飛雄馬は長嶋に魔送球を投げつけた。それを見た川上監督は、かつて星一徹が投げていた魔送球を投げる少年に驚き、逃げる少年を追いかける。

   飛雄馬が家に帰ると、一徹は酔っ払って暴れている。理由は飛雄馬が禁じている魔送球を投げたからだけではない。長嶋が恐れもしないでみこど見破ったからでもあった。この様子をみていた川上は、明日の巨人軍のために一徹が史上最大の投手を育てていることを知る。

    一徹は夜空を指しながら飛雄馬に言う。「飛雄馬よ、見るがいい。あの星座がプロ野球最高の名門巨人軍だ。おれもかってはあの輝かしい星座の一員だった。だがそれが今ではもう手の届かない彼方に遠ざかってしまった。飛雄馬!お前はなにがなんでもあの星座まで駈け登るのだ。巨人軍という星座のど真ん中でひときわでっかい明星となって光れ!輝け!」「野球は憎いけどこと野球となると、しゃんとするとうちゃんはやっぱり好きだぜ」そして厳しい秘密の訓練が続けられた。(巨人の星1)

「浜辺の歌」と金賢姫

   3月22日放送の日本テレビ番組「あの人は今、金賢姫悲しき結婚生活追求」を見た。金賢姫(キム・ヒョンヒ)は1997年、ボディガードであった元国家安全企画部員の男性と結婚した。その後、名前を変え、男児を出産し、ソウル市内で普通の主婦として暮らしているという。結婚後は表舞台にでてこない。今回の市川森一の取材も何ら新しい情報はなかった。前回1997年の取材の映像が流れていた。市川森一にコロッケをあげながら、台所で「浜辺の歌」を歌っている。かつて金賢姫は日本人になりすますため、日本語教育だけでなく、日本の文化も教えられ、山口百恵の歌も数多く歌えると聞いたことがある。この戦前の古い唱歌「浜辺の歌」は日本を代表する歌として韓国人には知られていたのであろう。

   「浜辺の歌」は本当に名曲である。「赤とんぼ」と同じように親しまれている。その芸術性が高く評価されている。淋しいとき、悲しいとき、つい口づさみたくなる歌であろう。ところが音楽の先生のブログを見ていると「最近の生徒は、浜辺の歌をあまり好きではない」ということが書かれていた。のんびりしたリズム、微妙な盛り上がりを持つ旋律に魅力を感じないらしい。たしかに唱歌といよりも、大人のセンチメンタルな曲という感じがする。

   あした浜辺を さまよえば

   昔のことぞ 忍ばるる

   風の音よ 雲のさまよ

   寄する波も 貝の色も

 「浜辺の歌」は大正7年10月にセノオ音楽出版社から出された「セノオ楽譜98番」に掲載されて世に出た。作詞は林古渓(1875-1947)が大正2年につくり、これに成田為三(1893-1945)が曲をつけた。成田は鈴木三重吉の提唱した童謡運動に参加した音楽家で「赤い鳥小鳥」なども作曲している。成田は「浜辺の歌」を作曲すると、東京音楽学校の同窓の倉辻正子(1900-1989)に「いとしの正子にさざぐ」と記して、この楽譜を郵送した。そのとき、すでに婚約者がいた倉辻は楽譜を送り返したという。大正5年ごろの話である。「浜辺の歌」の豊かな叙情性は、成田為三の切ない恋歌からでていたものであろう。曲の生まれた背景は知らなかったが、大正、昭和、平成と時世は変わっても、人が人である限りもち続ける純粋な気持ちが見事に表現された美しいメロディーであると改めて思う。

2007年3月23日 (金)

日本のポップス史1960年前後

    SP盤から17cm45回転シングル盤に移行した頃に登場した音楽がロカビリーである。石原裕次郎主演の映画「陽のあたる坂道」(昭和33年)で腹違いの弟のジミー小池(川地民雄)が新人歌手としてジャズ喫茶で歌う場面があるが、当時の雰囲気がよくでている。ちなみにこの石坂洋次郎の原作小説だが、なんとなく田代信次(石原裕次郎)が「エデンの東」のキャルに似ているように感じるのはケペルだけだろうか。

    ともあれ日本のポップス史の劈頭を飾るのは、まず小坂一也とワゴンマスターズであろう。ウエスタンから派生してロッカビリーが登場し、十代の女性を中心に絶大な人気を博した。昭和31年にプレスリーの日本語カヴァー「ハートブレイクホテル」、「アイウォントユー・アイニードユー・アイラブユー」、昭和32年にプレスリーとジェームズ・ディーンの映画主題曲をカップリングしたA面「優しく愛して」B面「ジャイアンツ」が、SP盤と併行して発売された。昭和32年の秋には都内のジャズ喫茶でロカビリー人気が沸騰。これに目をつけた渡辺プロダクションが昭和33年2月、日劇ウエスタン・カーニバルを開催したところ大成功だった。平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎がロカビリー三人男と呼ばれた。さらに清野太郎、飯田久彦、藤木孝、佐々木功、フランツ・フリーデル、鹿内タカシ(鹿内孝)、スリー・ファンキーズ、克美しげる、ほりまさゆき、清原タケシ、ジミー時田、竹田公彦、坂本九、田辺靖雄、ジェリー藤尾、鈴木やすし、紀本ヨシオ、瀬高明、沢雄一、倉光薫、目方誠などの歌手がでた。また歌謡曲とポップスとは未分化であるが松島アキラ、守屋浩、井上ひろし、佐川ミツオ(佐川満男)、石橋イサオ、北原謙二、菊池正夫(城卓矢)などがいる。北原謙二は「若いふたり」で歌謡曲のイメージがあるが、「北風」というウエスタンの古典をヒットさせている。

    このようにロカビリーははじめ男だけの世界であったが、アメリカでコニー・フランシスやブレンダ・リーといったガール・シンガーが人気を集めると日本でも女性ポップスが続々でてくる。これまでもジャズ歌手としての江利チエミ、雪村いずみは依然として人気者だったが、テレビ時代になって昭和34年「可愛い花」でザ・ピーナッツがデビューすると、テレビの「ザ・ヒットパレード」「シャボン玉ホリデー」のレギュラーとして活躍しはじめ、森山加代子、田代みどり、渡辺トモ子、斎藤チャ子、弘田三枝子、中尾ミエ、青山ミチ、木の実ナナ、伊藤アイコ、園まり、後藤久美子、ベニ・シスターズ、梅木マリ、安村昌子、麻生京子、伊東ゆかり、スリー・グレイセス、伊藤照子、梶原マチ子、小野ヒロ子、槇みちる、沢リリ子、甲山紀代、梓みちよ、富永ユキ、九重祐三子などのアイドルが活躍した。カヴァー・ポップス全盛期であるので、コニー・フランシス、ジョニー・ソマーズ、シルビー・バルタン、ミーナ、ウィルマ・ゴイク、スキーター・ディヴィス、ペギー・マチー、フランス・ギャルといった世界のヒット曲を子供でも歌えることができた。昭和40年になってベンチャーズ、アストロノウツなどの来日によりエレキ・ブームが起こった。東京ビートルズやスパイダースがデビューしたが、昭和41年6月のビートルズ来日は日本ポップス史の画期的出来事であった。その直後の昭和41年7月のブルー・コメッツの「青い瞳」がでて、日本でもヴォーカル&インストゥルメンタル・グループが可能であることが実証された。昭和42年になると、マスコミはこれら歌中心のエレキ・バンドを「グループサウンド」と命名した。とくに昭和42年2月「僕のマリー」でデビューした沢田研二をはじめとする京都出身のタイガースが、十代の少女達を中心に爆発的な人気を得た。ジャッキー吉川とブルーコメッツ、田辺昭知とザ・スパイダース、寺内タケシとブルージーンズ、加山雄三とランチャーズ、ザ・サベージ、ワイルド・ワンズ、テンプターズ、ゴールデン・カップス、フィンガーズ、ジャイアンツ、ジャガーズ、カーナビーツ、オックス、レイジャーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、シャープ・ホークス、シャープ・ファイブ、ズー・ニー・ブー、ザ・リガニーズなど団塊の世代らしく昭和42年から44年までに100有余のグループがレコード・デビューし、500種近くのシングルが発売された。

   昭和40年、エイミー・ジャクソンの「涙の太陽」がヒットし、女性がビートに乗ったパンチのある曲を歌った。昭和42年2月、黛ジュンがミニスカートで「恋のハレルヤ」を歌って、ビート・ガールの時代が始まる。歌謡曲の女王の美空ひばりがブルー・コメッツをバックにして「真っ赤な太陽」(昭和42年6月)を歌ったのには正直、驚いた。黛ジュンは「霧のかなたに」(昭和42年7月)、「乙女の祈り」(昭和43年1月)とヒットを連発し、「ひとりGS」の女王的存在だった。とくに「乙女の祈り」の「恋にもえる胸の願いはひとつ、好きな人とかたく結ばれたい」と歌い出しにサビの部分をもってきた「ひとりGS」の特徴を現した名曲といえるだろう。昭和42年10月には中村晃子の「虹色の湖」がヒットした。中村晃子は数年前からテレビにででいたキュートな娘だったが、オールスターワゴンというバックに支えられてヒットに結びついた。翌年には渡辺プロがバックアップした梢みわ「恋のバイカル」がヒツトしている。「シャボン玉ホリディー」など人気歌番組に出演したこととパンチのきいた歌唱法、キュートなルックスで黛ジュンの路線を継承したものである。そのほかに小畑ミキ、葉山エツコ、響かおる、木の実ナナ、鍵山珠理、金井克子、奈美悦子、久美かおり、恵とも子、泉アキ、ジュディ・オング、朱里エイコ、万里れい子、山本リンダ、小山ルミ、由美かおる、ミッチー・サハラ、はつみかんな、麻里圭子、堀内美紀、江美早苗、徳永芽里、川奈ミキ、木下節子、水沢有美、浅尾千亜紀などがいる。いしだあゆみ「ブールライト・ヨコハマ」以前は人気はあったものの、ヒット曲に恵まれなかったが、「太陽は泣いている」(昭和43年3月)が「ひとりGS」の特徴がよくでている。

   このほか60年代活躍した歌手でポップ&歌謡曲の区別のつかないシャンソン、ラテン、ハワイアン、ジャズ、フォーク各種ジャンルの大物歌手としては、フランク永井、笈田敏夫、ジェームズ繁田、旗照夫、ペギー葉山、高英男、芦野宏、ウイリー沖山、アイ・ジョージ、水原弘、越路吹雪、藤沢嵐子、石井好子、朝丘雪路、岸洋子、坂本スミ子、西田佐知子、日野てる子、布施明、ジャニーズ、マイク真木、荒木一郎、ちあきなおみ、奥村チヨ、高田恭子など多数いる。

芥川龍之介の初恋

   芥川龍之介(1892-1927)は明治25年3月1日、東京市京橋区入船町8丁目1番地(現在の聖路加病院の辺)に、牛乳販売業耕牧舎を営む新原敏三(しんばらとしぞう)・フクの長男として生まれた。母が発狂したため、龍之介はフクの長兄芥川道草にあずけられた。生来病弱で感受性が強く、早くから書物を通じて人生への懐疑を深めた。大正3年5月、龍之介23歳、青山女子学院英文科に通う吉田弥生という同じ年の女性と知り合う。文学を好み、英語が堪能な弥生は才色兼備の女性であった。

    7月20日から約1か月間、大学で1年上級の堀内利器の郷里千葉県一宮に滞在した。龍之介は毎日のように海水浴に行った。しかし、想うのは弥生のことばかりだった。滞在中、吉田弥生に手紙を出している。翌年には弥生は大学を卒業するが、すでに陸軍中尉との婚約話が進んでいた。龍之介は弥生のことを養家に打ち明けたが、反対された。実は弥生は新原と親しい家の娘であること、士族でないこと、私生児であることなどが反対の理由だった。大正4年2月、龍之介はついに吉田弥生との恋を諦めた。大正4年5月、弥生は結婚する。この失恋の痛手は、後の人生に大きな影響を及ぼした。友人への手紙にこう書いている。「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」。そして、現実とかけ離れた世界に眼を向けようとして筆をとったのが、「羅生門」と「鼻」であった。

ジミーとピアとの悲恋物語

   ジェームズ・ディーン(1931-1955)は1950年、父のすすめでカリフォルニア大学の法律科に入ったが、俳優への執着は強く、演劇科へ移った。この時代にエキストラとして「底抜け艦隊」などに出演したが、芽が出ないと知ってニューヨークへ行きアクターズ・スタジオで演技を磨いた。ニューヨークで同棲したリズ・シェリダンと破局後、ポール・ニューマンの紹介で、イタリア女優ピア・アンジェリと出会った。瞬く間に二人は恋に堕ちる。しかし、宗教上の問題や、ジミーの自由奔放な生活スタイルなどに反対したピアの母親は恋する二人を引き離した。1954年にピアは歌手のヴィック・ダモーンと半ば強制的に結婚させられる。ピアの結婚式の当日、教会の向かいの道には、オートバイをとめて沈痛な表情をしたジミーがいたという噂もある。1955年9月30日、ジェームズ・ディーンは愛車ポルシェ・スパイダーを運転中に交通事故で亡くなる。この事故の直後の昭和30年10月、日本ではジミーの「エデン東」とピアの「銀の盃」とのワーナーシネマスコープがほぼ同時期に公開された。去りし恋人の死の知らせをピアはどんな気持ちで聞いたことだろう。

   ジミーの恋人ピア・アンジェリ(1932-1971)とはどのような女優であったのか。イタリアのサルジニア島生まれの清純派女優。双生児のもう1人マリサ・パヴァンは演技派女優で名作「バラの刺青」がある。ピアは美術学校卒業後、イタリア映画でデビュー。思春期映画「明日では遅すぎる」(1949)で、一躍世界中の若者たちのアイドルとなった。ハリウッドへ渡り、フレッド・ジンネマン監督の「テレサ」(1951)、「赤い唇」(1952)、「三つの恋の物語」(1953)、「君知るや南の国」(1953)、「銀の盃」(1954)、「傷だらけの栄光」(1956)と清楚な美しさで一時は人気があったが、マリリン・モンローなどのようなグラマラスな女優がもてはやされるようになり作品に恵まれず次第に存在感が薄れていく。ダニー・ケイ主演の「僕はついてる」(1958)を最後に、1961年にはヴック・ダモーンと離婚し、欧州へ戻る。イタリアでは映画音楽の大御所アルマンド・トロバヨーリと再婚するが、うまくいかなかった。「ソドムとゴモラ」(1963)、「バンコ・バンコ作戦」(1964)、「バジル大作戦」(1965)、「殺し屋専科」(1965)、「キング・オブ・アフリカ」(1968)、「吸盤男オクトマン」(1971)の撮影後の1971年9月10日、バビルツールの過剰服用で亡くなった。友人に充てた手紙には「愛はもう過去のもの。愛はポルシェの中で死にました」と伝えたという。ピアの選んだ相手のヴィック・ダモーン、アルマンド・トロバヨーリもそれぞれ才能ある人たちだが、ピアが親の反対を押してもジミーの愛を受け入れていれば、ジミーの不慮の死もなかっただろう。そうすると永遠の青春スターのジェームズ・ディーンではなくて、マーロン・ブランドーやポール・ニューマン以上の演技派の老優ジェームズ・ディーンの姿が見れたかもしれない。

昭和29年映画女優論

   昭和29年頃といえば、エリザベス・テーラーやマリリン・モンローなどのスターがトップクラスの人気があった。ところが映画「ローマの休日」(1953年アメリカ制作)が、昭和29年4月19日、公開されるや女優の魅力に大きな変化がおきた。はっとするような美しさ、あどけなさ、初々しさ、その全てが印象的である。

    オードリー・ヘプバーンはこの一作でアカデミー主演女優賞を獲得し、押しも押されぬ大スターになった。日本でも、街中でオードリーをまねたショートカットの若い女性が現れた。「映画の友」昭和29年10月号では津村秀夫、南部圭之助、筈見恒夫による「涼風映画鼎談」において女優論を語っているが、歴史的観点でかつての男性の女優観の一端をこの記事から読みとることができる。

津村 ルース・ローマンは駄目だね。この間「遠い国」を見たが実にまずいと思った。もう一人の女優、うん、コリンヌ・カルヴェか、あれに完全にやられている。ローマンは見放したよ。

筈見 この頃のスターの没落は早いからね。

津村 本当にアメリカ女優というのはいないよ。

筈見 オードリー・ヘプバーンはどう?

津村 ヘプバーンがでてきたね。あれは子供みたいなものでこれからどう成長するかわからないが、大したものだ。だけど戦前、ずらりと顔をならべていたような…

筈見 いや、僕のいうのはね、「ローマの休日」の人気で、あと引き継いてうけるかということだよ。

津村 一本だけじゃわからない。

筈見 一本でああ人気が出たのだから、それだけに早い。去年のいま頃はエリザベス・テーラーで騒いでいた。いまじゃテイラーの地盤がヘプバーンに行ったわけだろう。

津村 エリザベス・テイラーなんて吹けば飛ぶようなものだ。女の子が騒ぐだけで、あんなものは問題じゃない。

筈見 かりに、「ローマの休日」をエリザベス・テーラーやジーン・シモンズがやったらつまらんだろう。

南部 そりゃそうだ。ジーン・シモンズじゃつまらない。

津村 実際、アメリカ女優の凋落はひどいものだよ。誰がいるかということを考えさせられるね。

筈見 僕たちの考えが戦前的なのかもしれないが、戦後にこれは大丈夫というのはいないんだ。

記者 南部さん、オードリー・ヘプバーンはどうです?

南部 まあいいと思いますね。飯島君は、評価を引き下げる役にまわる方だと言っていたが、先生自身、彼女を買ってないんだね。大いに議論しようと思ったが、やめたよ。

筈見 女の子のことでは好みがそれぞれあるわけだから、やめよう。僕はね、「ローマの休日」はよかったが、みんながあまり言いやがんで、こつちは言わないよ。若い子なんか、オードリー・ヘプバーンがどうのこうのと言うが、こっちはキャサリン・ヘプバーンがいいと言いいたくなるんだ。同じヘプバーンでも、ちょっとヘプバーンがちがう、といいたいよ。

津村 それはね、批評家の評価の仕方もちがうよ。昔のヘプバーンは芸もうまかった。いまの芸はこれからで、素質がいい、というところで。何か別のものだな、あの魅力は。

筈見 キャサリン・ヘプバーンを初めて知ったときは、新鮮な個性があった。

津村 いまのヘプバーンはそれとちがうのだよ。

筈見 議論をしてもしようがない。よそうよ。

津村 両極端なのだよ、あの二人は。しかし、オードリーが欧州育ちというのは面白いな。アメリカにああいうのは育たない。昔からそうだよ。欧州で育ったやつがアメリカに行って売り出すんだね。純粋のアメリカ女優では誰だろう。ジョーン・クロフォードぐらいだ。

筈見 昔はいろいろいたよ。

津村 昔はいたさ。けれどもトーキーになってからでは?

筈見 まあグロリア・スワンスンは古いから別としても、トーキー以後になってからだって相当あるだろう。戦後にはワリにいないのだよ。

津村 マーナ・ロイなんかどうしちゃつたのかね。

筈見 ジューン・アリスンなんかはいい方だろう。

津村 あれは糠味噌くさい。糠味噌くさい女優は大物にはならん。

津村 イングリッド・バーグマンもグリア・ガースンも凋落が早かったな。ジェーン・ワイマンとか、「ブルックリン横町」のドロシー・マクガイアー、あれなんかでも非常に有望と思ったが、カスンじゃつたね。

筈見 ジェーン・ワイマンはつまらんよ。

津村 「偽りの花園」に出ていたテレサ・ライトなんか、伸びるかと思ったら案外だった。ああいうヒラメの刺身みたいなのはアメリカでは伸びないんだな。何か非常に弱々しいのだよ。

南部 黒鯛の刺身とはいえないかな。

津村 黒鯛はこまる。

南部 サヨリの刺身か…

筈見 テレサ・ライトってのは相手役女優としては物足りないよ。

津村 昔はいろいろいい女優がいたぞ。シルヴィア・シドニーとか、なんとか。写真を支えるようなのが。

南部 それに、昔は製作がしつかりしていた。

津村 スーザン・ヘイワードやリタ・ヘイワースが花形になるようじゃ心細いよ。

筈見 雰囲気を持っていないのだ。

津村 戦後のジョーン・クロフォードはごひいきなんだけども、今度は西部劇に出ているね。

津村 西部劇に出るということは、ちょつと凋落だな。それはそうと、ディートリッヒはまだ欧州で遊んでいるの?

記者 ええ。今度映画に出るという話もありますが。

津村 なんだかんだといっても、彼女は大立者だ。いまはそういうのがいない。

記者 このないだイギリスの舞台にノエル・カワードの紹介で出て、大変な人気だったそうです。

南部 彼女の記事はいまでもアメリカの雑誌に出ているよ。みんなに評判がよい。

南部 そう。あんなになると思わなかったなあ。スタンバーグ監督のおかげで出世したのかと思ってたら、そうじゃないんだね。

              *

   津村、南部、筈見の三氏はやはり戦前のスターがご贔屓らしく、新星オードリー・ヘプバーンの魅力については、認めるものの、うまくその魅力を表現できずになにかしらとまどいを感じているようみえるのが面白い。へプバーンの新鮮な魅力を発見したのは若い女性たちだったようだ。この鼎談からまもなくして、秋に「麗しのサブリナ」が公開された。監督のビリー・ワイルダーは「この子はふくらんだ胸を過去のものにしてしまうかもしれない」と言った予言は的中した。彼女のファション・センスは現在でも雑誌などで頻繁に取り上げられ、人々を魅了し続けている。

2007年3月22日 (木)

尾崎放哉、放浪孤独の人生

   「咳をしても一人」などの自由律俳句で知られる尾崎放哉(1885-1926)は、大学生時代、従妹の沢芳衛と恋仲であった。彼の俳号は「芳哉」といい、彼女が日本女子大学を卒業するとき結婚を申し込んでいる。だが、周囲から結婚を反対され、芳衛との結婚を放擲する意から俳号を「放哉」に変えたといわれる。以後の放哉は酒を飲むようになり、酔えば言動も粗暴になった。東大卒業後は東洋生命保険会社、朝鮮火災保険と出世したものの、人生に疑問をいだき、托鉢生活を始め、放浪孤独の生涯を送った。小豆島西光寺の奥の院南郷庵にはいって、門外不出の生活を半年余り続け、大正15年4月7日夕刻、近所の漁師夫婦にみとられながら死去した。享年42歳。

2007年3月21日 (水)

映画「青燕」の親日批判問題

   韓国初の民間人の女性飛行士、パク・キョンウォン(朴敬元、1901-1933)の生涯を描いた映画「青燕」(あおつばめ、2005)がようやく日本でも公開されたが、国内ではあまり話題にならなかった。パク・キョンウォン役はチャン・ジニョン。映画は大作であったが、韓国では親日派の実在人物ということで、若者の間で「見る、見ない」という物議を醸したそうだ。また韓国初の女性飛行士はクォン・ギォクだという説もでた。クォン・ギォクは1925年に中国空軍で服務しており、パク・キョンウォンより3年早い。ただし、ギォクは軍人であるということなので、パク・キョンウォンは民間人としては初の女性飛行士ということになる。映画「青燕」の公開には親日批判問題が背景にあって話はなかなか難しくなってしまった。

    パク・キョンウォンは、1901年6月24日、慶尚北道大邱府に生まれる。1917年にシンミョン女学校を中退し、1920年に日本の横浜技芸学校を卒業した。看護婦として働いたあと、1925年に立川飛行学校に入学。当時の女性としては長身で168cmあったという。1928年に韓国の民間人女性では初めて高等飛行士の資格を得て、彼女は飛行レースに参加し、優れた飛行の実力をしめした。海峡を越えて祖国の空を飛びたいという夢は、日満親善・皇軍慰問飛行という形で実現するかにみえた。1933年8月7日は悪天候であった。離陸後50分に静岡県玄嶽山において濃い霧が発生し、飛行機は墜落し、死去した。飛行機は単発小型機で「青燕号」と命名されていた。多賀村では一周年に「鳥人霊誌」という慰霊碑を建立した。

彼女は失敗したとはいえ、多くの偏見や障害を乗り越え、単独で海峡を越えるという夢にチャレンジした。飛行学校の学費なども東亜日報が後援した朝鮮全土からの寄付金と彼女が看護婦として働いた資金を充てたという。

宋学と四書五経

    一般に儒教の経典は「十三経」として知られており、「周易」「尚書」「毛詩」「周礼」「儀礼」「礼記」「左氏伝」「公羊伝」「穀梁伝」「論語」「孝経」「爾雅」「孟子」を収めている。漢から唐まで儒学は訓詁学として発達した。十三経は経書の本文であるが、それには古い注釈の「伝」というものがついたのもある。この経書の本文と伝とに対してさらに注釈をつけ加えたのが「疏」で、全部あわせるとたいへんな分量になる。注疏は大体は唐代までにできあがり、ニ、三の足りない部分を補足して、「十三経注疏」全部が成立したのは北宋時代のころである。

   唐代では仏教が栄えた。仏教の経典は三部に分けて、経、律、論である。宋代の儒者たちは仏教と儒教との経典を比べると、儒教は仏教の論部にあたる分野が欠けていることに気づいた。そこで、独自の発想と思索を重ねて、性・命・道・理・気などについて形而上的な解明を試み、論部の補強を思い立ったのが宋学の起こりであるといえる。

   宋学は周敦頤(周濂渓、1017-1073)に起こり、張載(張横渠、1020-1077)、程顥(程明道、1032-1085)、程頤(程伊川、1033-1107)に受け継がれ、南宋の朱熹(1130-1200)によって集大成された。また漢代以来、儒学の経典として尊重されてきた五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)よりも、四書(大学、中庸、論語、孟子)が高く評価された。

仏教伝承芸能「仏舞」

   仏舞(ほとけのまい)の正確な由来は不詳であるが、奈良時代に唐から伝えられた宮廷舞楽が各地に伝播したものといわれる。現在全国各地に数箇所残されている。

「松尾の仏舞」京都府舞鶴市松尾、松尾寺(まつのおでら)、毎年5月8日)、

「糸崎の仏舞」福井県福井市糸崎、糸崎寺、隔年4月18日

「小國の仏舞」静岡県岡智郡森町一宮、小國神社の十二段舞楽、4月18日に近い日曜

「花園の仏舞」和歌山県伊都郡かつらぎ町

「隠岐国分寺の仏舞」

    「松尾寺の仏舞」は江戸時代から伝わる民俗芸能で、大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三像の面をつけた優雅な舞が奉納される。「糸崎の仏舞」は、鷹巣海岸にある真言宗智山派・育王山龍華院糸崎寺の糸崎観音堂の正面に設けられた石組の舞台で披露される。金色の菩薩面に黒染めの法衣をまとい、鐘や太鼓にあわせて幻想的な舞を奉納する。舞手は糸崎に住みここで産湯を浸かった長男に限られる。唐の高僧禅海が糸崎寺を訪れたとき、その景観が明州育王山に酷似していることに喜び、菩薩や天女が喜びの舞を踊ったことが仏舞の由来とされる。全国に仏舞は伝わるが、昔ながらの舞を伝承しているところは少なく、重要無形民俗文化財に指定された。大陸から渡来した奈良時代の舞楽を今に伝える伝統芸能である。

周敦頤「愛蓮説」

    北宋の儒学者・周敦頤(1017-1073)47歳の作「愛蓮の説」は古文眞宝後集にあり、古来より名文として知られる。

水陸草木の花、愛すべき者甚だ蕃(おお)し。晋の陶淵明、独り菊を愛す。李唐自(よ)りこのかた、世人甚だ牡丹を愛す。予独り蓮の汚泥より出でて染まらず、清漣に濯(あら)はれて妖ならず、中通じ外直く、蔓あらず枝あらず、香遠くして益々清く、亭亭として浄く植(た)ち、遠観すべくして褻翫(せつがん)すべからざるを愛す。予謂へらく、菊は華の隠逸なる者なり。牡丹は華の富貴なる者なり。蓮は華の君子なる者なりと。噫、菊を之れ愛するは、陶の後、聞く有ること鮮し。蓮を之れ愛するは、予に同じき者何人ぞ。牡丹を之れ愛するは、宣(むべ)なるかな衆(おお)きこと。

    「愛蓮説」は、菊を隠逸の士に、牡丹を富貴の人にたとえ、自分の理想とする君子像を蓮の花にたとえながら、社会の風潮を批判しているのである。俗人は世間的な名位や豊かな生活にあこがれ、豪華な牡丹に人気がある。唐の則天武后は牡丹を好んで宮中に植えたため、唐代では世をあげて牡丹が愛好された。蓮の花はこれらに対して、脱俗でもなく世俗でもなく、俗界にありながらひとり清らかに高潔な態度を保ちつづけ、君子にふさわしいとしたのである。

   周敦頤は、字は茂叔(もしゅく)、濂渓先生と呼ばれ、道州営道(湖南)を原籍とする。慶暦の治と呼ばれる北宋の最盛期、中央では革新的な政論・学風が開花していたが、彼は禅僧と交わり清貧に安んじる地方官の生活を送っていた。南宋に入り、朱熹が道学を大成していらい、道学の開祖といわれる。彼の著述は「太極図説」と「通書」がある。「太極図説」は太極を万物の本体とする宇宙論を説く。つまり、「宇宙生成の過程は無極にして太極なる本体より発して五行を生じ、さらに一切の現象として現われ、人間は陰陽二気によって化成され、形体・精神ともに有するものであり、その道徳は聖人の定めた中正仁義の四字である」とする。

林芙美子「放浪記」刊行前後

   林芙美子(1903-1951)は尾道から上京して、本郷蓬莱町の大和館で洋画を勉強中だった長野県下高井郡平岡村出身の手塚緑敏(1902生)と知り合い、結婚(内縁関係)したのは改元した年の12月であった。二人は昭和2年1月、高円寺の西武電車車庫裏にあたる山本方の二階に間借し、5月には和田堀の内妙法寺境内浅加園にある借家に住み、この家において芙美子の文業が開けてくる。

   当時大衆作家として盛名をあげていた三上於菟吉は、芙美子の詩に注目して、彼の妻である長谷川時雨に推薦した。そして長谷川が主宰する「女人芸術」第2号(昭和3年8月号)に詩「黍畑」が載った。ついで第4号(昭和3年10月号)から「秋が来たんだ」(副題「放浪記」)の連載が始まった。「放浪記」という副題名をつけたのは三上於菟吉である。プロレタリア文学興隆のおりから、当初は好意的に迎えられたが、共産党の活動に距離をおいていたため、プチブルと批判を受け、「秋は来たんだ」の連載は20回で打ち切られた。

   昭和4年、「秋が来たんだ」を読んだ「改造」の記者・鈴木一意の計らいで、随筆原稿の依頼がきた。「改造」は当時の一流の綜合雑誌である。鈴木が彼女の西武線中井の家を訪れたとき、彼女は着る物を全部入質してしまって、海水着一つで応対したという。芙美子は「改造」10月号に「九州炭鉱放浪記」を発表した。昭和5年1月、林芙美子、望月百合子、北村兼子、生田花世、堀江かど江らと台湾旅行をする。7月に改造社から「新鋭文学叢書」の1冊として「放浪記」が出版され、ベストセラーとなる。11月には「続放浪記」が出版される。これから林芙美子の流行作家としての活躍が始まるのである。

   台湾旅行では、大阪朝日新聞で活躍したジャーナリストの北村兼子(1903-1931)が同行しているのも注目される。才気と行動力ある同年代の女性たちは旅先でどのような話をしていたのだろうか。北村兼子は自らを「女浪人」と呼び世界各地を歩き回って日本の植民地政策を批判したので、林との意見の違いはあったであろう。北村は旅行の後まもなく27歳で急逝している。

酒仙若山牧水と若山喜志子

白玉の歯にしみとほる秋の夜の

酒はしづかに飲むべかりけり

(白珠のような美しい歯にしみとおる酒、秋の夜の灯の下でくむ酒は、しずかにひとりしみじみと味わいながら飲むのがよいものだ)

    若山牧水(1885-1928)、26歳の作である。前田夕暮はこの歌に対して、「彼の行くところ山河あり、山河あるところ彼と酒とがあった。酒によって彼は彼の悲しみを深め、彼の純情一路の心境を研いた。秋の夜の孤独感が酒によって如何に慰められているか、冷たい響きと匂とを持っているこの歌によく流露されている」(「現代短歌全集」月報「若山牧水の歌」)といっている。

   牧水は大正5、6年ごろになると、人生的な詠風から、旅を中心とした自然詠や、日常生活の淡い感情を歌った歌などが多くなり、自然歌人としての道に徹してゆくことになる。酒と旅のうちに44歳の生涯をつねに支えたのは妻の若山喜志子(1888-1968)であった。

    明治44年7月、若山牧水は、歌人の太田水穂(1876-1955)方で、のちに妻となる太田喜志子と出会う。喜志子は明治21年5月28日、長野県東筑摩郡広丘村吉田に太田清人の四女として生まれた。喜志子も歌人で、「信濃毎日新聞」の選者だった太田水穂を頼って上京し、水穂の家に住み込んでいるところへ、牧水の訪問を受けた。

   このあと牧水は、旅先でもどこでも喜志子に近づき、手紙を送り、過去の恋愛や秘すべき病のことまで、洗いざらい打ち明けた。長男の旅人が「それでよく結婚したね」と言うと、母は「あの澄んだ瞳の持ち主に悪い人のいるはずはないと思ったから」と答えたという。

2007年3月20日 (火)

マリー・ド・メディシスの栄誉なき生涯

    マリー・ド・メディシス(1573-1642)はアンリ4世の死後数時間で自ら摂政の位に就き、以降7年間、彼女はフランスを支配した。マリーは素早くイタリア人を主とした派閥でまわりを固めた。1617年、青年王ルイ13世(1601-1641)がマリーに反旗をひるがえした。マリーはブロアに追放された。1620年、リシュリーのはからいでマリーは再びパリに戻った。しかし、マリーの政治への影響力はもうなかった。ルイ13世が1630年に病で倒れると、信仰をなおざりにした天罰だと、マリーは言い張った。そしてマリーは1631年にフランスを去り、二度とフランスに戻ることはなかった。1642年7月にケルンで世を去った。遺体はフランスに運ばれ、サン・ドニ大聖堂のアンリ4世のかたわらに葬られた。

   フランス王妃となったイタリアの姫君の波瀾の生涯は、今日リュクサンブール宮殿にあるルーべンス(1577-1640)が描いた「マリー・ド・メディシスの生涯」(1622-25)の21枚の絵画によってうかがい知ることができる。これは、ルーベンスの最大業績の一つに数えられるが、歴史と寓意と肖像の要素を混ぜ合わせ、マリーのまったく栄誉なき生涯に対する栄誉に満ちた賛辞となっている。

2007年3月19日 (月)

武田典厩信繁

    風林火山「信虎追放」。武田信玄(市川亀治郎)は家臣団が居並ぶ前で「信繁、頼む。このわしに従うてはくれまいか」と頭を下げる。「兄上、頭をお上げください。それがしも侮られたものよ」武田信繁(嘉島典俊)は、父が兄を憎む理由が、その器量を恐れてのことだとわかっていた。「兄上、よくぞ、ご決意なされた。信繁は、これより晴れて堂々と、兄上の命に従いとうございまする」「信繁、わしは、今日ほど己を恥じたことはない。すまない、信繁」その場にいる家臣の誰もが、ひとつの思いを胸に感じた。

    武田典厩信繁(1524-1561)は、信虎の二男。終生、兄信玄を敬慕してやまなかった実直な人柄で、容姿が信玄にそっくりだったので、兄に危険がせまるたび、信玄になりすまして敵前に立つという影武者を幾度となくつとめた。天文10年の信虎追放事件が起きた時、真相を知る信繁は冷静に兄の非常手段を暗黙のうちに理解し、信玄の指揮に従った。信繁は信玄のよき補佐役として軍略、識見ともに優れ、武田の副大将として活躍した。兵法書「虎略品」の中でも、「北条氏康、上杉謙信、織田信長ら諸将も異口同音にほめ称えること限りなし」と記し、江戸の室鳩巣も「典厩公は天文、永禄の間の賢と称すべき武将で、兄信玄公に仕えて人臣の節を失うことなく、その忠信、誠実は人の心に通じ、加えて武威武略に長じ知剛知柔、まことの武将」と最高の賛辞を寄せている。永禄4年9月、川中島合戦で「信玄本陣危うし」と見た信繁の死力を尽くしての奮戦で、辛くも信玄は虎口を脱するが、兄の身代わりとなって敵陣へ斬り込んで果てたのである。

   信繁は嫡男信豊に九十九か条の教訓を遺しているが、これが「信玄家法」と呼ばれ、武道、兵法、礼儀作法などを倫理、道徳、宗教を基底として述べているもので、江戸時代の武士教育に大きな役割を果たしている。

   典厩というのは、唐の官職名の馬寮(めりょう)のことで、職務は、軍馬の調達、調教、管理だったからその長たる信繁は、無敵を誇る武田騎馬軍団の枢機をにぎっていたともいえる。

俳句の魔術師・西東三鬼

水枕ガバリと寒い海がある

(高熱に耐えるため水まくらをして安静にしていた。ふと頭を動かすと、ガバリと水まくらが鳴った。その陰鬱な音は、病人の記憶の底から、広く寒々とした海を思い起こさせ、同時に窓外に冬の大森の海が見えて、なんともいえない不安感が襲ってきたのであった。)

算術の少年しのび泣けり夏

(算数の問題に長い間取り組んでいた少年は、どうしてもそれを解くすべがわからず、ついにシクシクと泣き出してしまった。長い夏の日も傾き、はや夕闇が迫ってきた。)

暗く暑く大群集と花火待つ

(花火大会に集まった大群集。やみの中で花火を待っていると、人いきれとおりからの暑さでむんむんするほどである。自分も今その中のひとりとして、花火の上がるのをじっと待っているのである。)

   西東三鬼(さいとうさんき、1900-1962)。本名は斎藤敬直(けいちょく)。明治33年5月15日、岡山県津山市南新座に生まれる。父は斎藤敬止は郡視学、母登勢。6歳で父を失い、その後は長兄の扶養を受けた。大正8年9月、二人ぐらしをつづけた母の死に遭い、東京の長兄に引き取られ、大正14年、日本歯科専卒業、長兄在勤の関係で12月渡航、シンガポールで開業。しかし、昭和3年済南事変が起こり、日貨排斥による不況とチフスの大患のため休院をつづけ、失意のうちに帰国した。昭和8年、東京神田共立病院歯科部長に就任。昭和9年、32歳の時、患者に俳句会にすすめられて作句に志す。このころ新興俳句の勃興期であった。日野草城、吉岡禅寺洞、山口誓子に師事するが、平畑静塔に誘われて京大俳句に参加する。新興俳句陣の花形となり、「俳句の魔術師」といわれた。昭和15年8月末日、京大俳句事件に絡み治安維持法違反で検挙された。11月起訴猶予となったが、爾来たのしまず、俳句も放棄する。昭和17年、神戸に移る。戦後俳誌「天狼」創刊に加わったが、昭和27年から「断崖」を主宰。昭和37年1月、発病、胃がんで4月1日葉山の寓居で没した(西東忌、三鬼忌)。享年62歳。主な句集は「夜の桃」(昭和25年)「今日」(昭和26年)「変身」(昭和37年)など。

愛された国王・アンリ4世

    アンリ3世(在位1574-1589)が熱狂的なドミニコ会士の凶刃によって暗殺されヴァロア朝が絶えると、1589年、ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世(1553-1610、在位1589-1610)がフランス国王に登った。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、その一方、1598年にはナントの勅令を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。ブルボン家のアンリ4世は35歳、均斉がとれた身体、活気にあふれ、威厳に満ちた歴戦のつわもの、柔軟な知性と明敏な政治力を持っていた。プロテスタントとカトリック双方の信頼を勝ち得て、フランスの王権は急速に強化された。シュリー公(マクシミリアン・ド・べテューヌ、1559-1641)を財務官に起用して、財政改革と農業保護にあたらせた。王とほとんど同年輩で、その同志にして友人、宗教内乱歴戦の勇将、王に改革をすすめこそすれ、自分はつねにルターとカルヴァンの肖像を壁にかけていた気難しく頑固な人物は、勤勉そのもの、吝嗇なまでに節約家であった。「耕作と牧畜とはフランスの二つの乳房」とは、彼の有名な言葉である。シュリー公にとって国土の復興とは、フランス農村の立て直しをはかることであった。農業とそれに従事する人間だけが、フランスに国富と平和をもたらす、というのが、彼の信念であった。もちろんシュリー公の仕事にも限界はあった。農業中心で商業、工業にはあまり関心がなかった。だが、明敏なアンリ4世は養蚕、絹織物、ゴブラン織などの工業をおこし、海外貿易に力をいれた。サミュエル・ド・シャンプラン(1567-1635)がカナダを探検してケベック植民地などの建設がはじめられ、東インド会社がつくられたのも、アンリ4世の治世のことである。

    アンリ4世は色事でも勇名をはせたが、一説に恋人の数は56人以上に及ぶという。最初の妻であるマルグリッド・ド・ヴァロアとはサン・バルテルミの虐殺という忌まわしい事件のため別居状態が続き、子供もなかった。アンリ4世はガブリエル・デストレとの結婚を望んでいたが、1599年4月にガブリエルは24歳の若さで急死した。身分の低さからガブリエルを嫌ったマルグリッドも、メディチ家の娘マリー・ド・メディシス(1573-1642)との縁組には応じた。国王47歳、新しい王妃は26歳であった。二人の結婚式は、1600年10月5日にフィレンツェ大聖堂で挙行された。アンリ4世は政務多忙のためフランスを離れられなかったので、トスカーナ大公が新郎の代理となった。荘厳な結婚式と1週間に及ぶ祝祭のあと、マリーは金襴緞子で飾られた豪華なガレー船でマルセイユに向けて船出した。そしてリヨンで初めてアンリ4世にまみえ、1600年11月にその地で結婚の儀は完了をみた。イタリア人のマリーはフランス語が喋れなかったため宮廷での暮らしは孤独だった。それを紛らすためか、マリーの浪費癖は尋常ではなく、毎日のように宝石を購入したりする生活だった。だが翌年の9月には世継ぎであるルイ13世を出産した。アンリ4世も放蕩を自重し、自分が不在の場合に王政の全権をマリーに与える布告を出した。夫妻の生活を取戻しやっとこれから王宮での穏やかな生活を送ることができると思われたが、1610年5月14日、狂信的なカトリック教徒ラヴァイヤックによってアンリ4世は暗殺された。国民の驚き、悲しみは、祖父により、父によって、子々孫々にまで語りつがれた。フランスの王のなかで、これほど死をいたまれた王はあるまいといわれる。勇敢で良識があり、陽気で豪放で庶民的なこの王はまことに国民から敬愛されていた。

長谷川時雨と三上於菟吉

   長谷川時雨(1879-1941)。本名、長谷川ヤス。明治12年10月1日、東京日本橋区通油町(現・大伝馬町)一番地に免許伝言人の長女として生まれる。最初の結婚に失敗して実家に戻った。このころ気の向くままに書いた戯曲「海潮音」が読売新聞に入選した。明治43年8月、「操」が好評を得、翌年「桜吹雪」と改題、尾上菊五郎によって歌舞伎で上演された。これによって劇作家としての地位を確立することができた。大正になると、時雨は菊五郎・猿之助らとともに「新舞踊劇運動」を起こし、歌舞伎に新風を吹き込んだ。同時に、演劇雑誌「シバキ」を発行したり、菊五郎らと「狂言座」を組織したりした。また大正12年、岡田八千代とともに女性文芸誌「女人芸術」を刊行したりしたが、これは経済的理由で2号で廃刊となった。この間、時雨は戯曲のほかに「名婦伝」「美人伝」「旧聞日本橋」などの伝記小説や随筆も書き、脚光を浴びるようになった。

   三上於菟吉(1891-1944)は、埼玉県北葛飾郡桜井村字木崎の生まれ。早稲田大学に進み、宇野浩二、広津和郎、谷崎精二、直木三十五、国枝史郎、近松秋江などを知り、三富朽葉、北原白秋と親しくなる。処女作「春光のもとに」が朝鮮独立運動を題材にしていたため発禁となる。不遇をかこつ於菟吉を深く理解したのが、長谷川時雨だった。

   昭和のはじめに、時雨と於菟吉との結婚は、劇界や文壇をおどろかせた。時雨は昭和3年、「女人芸術」を再度発行して主宰した。(昭和3年7月から昭和7年6月まで全5巻、48冊)神近市子、山川菊枝、平林たい子、中条百合子(宮本百合子)などの論客に、林芙美子、矢田津世子、上田文子(円地文子)、ささきふさ、窪川いね子(佐多稲子)、中本たか子、岡本かの子、森三千代などの女流作家を育てた。昭和3年10月から連載された林芙美子の「放浪記」で一躍注目を浴び、多くの女流文学者が輩出し、当時の女流文芸雑誌の頂点に立った。於菟吉も「敵討日月双紙」「鴛鴦呪文」「淀君」「雪之丞変化」などで大衆作家としての人気を博した。於菟吉の稼ぎは赤字経営の「女人芸術」に惜しげもなく注ぎ込まれた。だが於菟吉の実生活は乱脈を極めた。昭和10年、長谷川一夫主演映画「雪之丞変化」が大当たりし、全盛期を迎えるが、翌年に自動車事故で右腕を骨折、さらに血栓症で病に伏せて文壇から遠ざかった。時雨は昭和16年8月22日、慶応病院で死去、63歳だった。於菟吉は昭和19年2月18日、埼玉県幸松村(:現・春日部市八丁目)で53年の生涯を閉じた。

2007年3月18日 (日)

安倍清明と蘆屋道満

    安倍清明と蘆屋道満が天皇の立会いで内裏の白州で対決することになった。「長持ちの中身を占いで当てよ」という課題であった。中には大柑子(夏みかん)があった。道満は「大柑子が16個あります」と占うと、清明は「鼠が16匹います」と告げた。清明サイドの大臣や公家らは清明が占断を誤ったと思い、長持ちの蓋を開けるのをためらっていた。そこへ自信満々の道満が早く開けるように促した。清明までもがすぐに開けるようにいったので、やむなくそうすると、長持ちの中から鼠が16匹飛び出してきた。清明は道満がずばり占ったので、あえて加持を修して、大柑子を鼠に変えるという術を使ったというわけである。

バートランド・ラッセルの平和運動

   バートランド・ラッセル(1872-1970)は、イギリスのウェールズのトレレックに生まれた。父アンバーレー子爵および母ケイト夫人がともに早く亡くなったため、3歳9ヵ月の頃から、父方の祖父ラッセル伯爵(1792-1878)夫妻のもとで養育された。祖父はホイッグ党の領袖として、二度まで宰相の印綬を帯びた政治家であったが、この祖父の没後、幼いバートランドは、厳格な清教徒であった祖母レディ・ラッセルの膝元で訓育された。バートランドはすでに少年時代に、徹底的な懐疑と思索の結果、独力で無神論に達したが、彼の生涯を貫く道義的な信念の形成には、祖母の影響がはっきり現れている。祖母が12歳のバートランドに贈った戒めの言葉は、「群衆のなす悪事に追随するなかれ」という聖書の句であった。

   二度にわたる世界大戦、広島・長崎への原爆投下、とくにビキニ環礁の水爆実験(1954年3月)は、ラッセルに大きなショックを与えた。彼は、原爆のときから水爆の可能性を予見していたそうであるが、実験の成功のショックは、それまでの西欧中心的平和思想をゆるがすものであった。1954年12月23日、BBC放送で核兵器の廃絶が地上のいかなる政治的・思想的対立をも越えた人類共通の課題であることをアピールした。ラッセルはその草稿を書き、アインシュタインが死の直前に署名した(ラッセル・アインシュタイン宣言)。彼は、核兵器の廃棄をアメリカ・イギリス・フランスに、さらにソヴィエトや中国にアピールし、1955年には、世界の代表的科学者を集めた会議を提唱した。1957年7月7日、第1回の会議がカナダのノバスコシア州のパグウォッシュという所でサイラス・イートンの援助で開催された(パグウォッシュ会議)。湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄、マックス・ボルソ、フレデリック・ジョリオ=キュリーら10ヵ国22人の科学者が集まった。1961年には、みずから結成した百人委員会の委員長として国防省玄関前に座りこんで逮捕され、さらにトラファルガー広場で市民不服従運動の大集会を指導し、イギリス全土の核兵器基地にデモをかける。1962年には、ケネディとフルシチョフに長文の電報を送って、キューバ危機の回避に努力し、1965年には、ベトナム危機についていくたびかのアメリカ非難の声明を発し、1967年には、サルトルなどと協力、戦犯裁判をパリに開催してアメリカの有罪を宣告するなど生涯にわたり平和運動を貫いた。

    最後に、1966年12月に中国の核兵実験が成功して意見を求められた時、バートランド・ラッセルは次のように語っている。

   他の国が核兵器を保有するからといって、自分も持とうと考えることは愚かなことである。それは問題の解決に少しも寄与することにならないばかりでなく、核兵力を拡散させる機運を促進する。そしてこの軍備拡張と核兵力の拡散が予期しない大規模戦争を誘発する危険をはらむものである。核兵力が役立つような戦争の勃発は、もはや問題の解決や勝敗の決定どころの程度ではなく、相手もろともに自分も滅亡することである。いや、戦争当事国だけでなく、人類のほとんどが破滅する、いわば全人類の自殺行為である。

2007年3月17日 (土)

未知の女の手紙 続

   私はレストランで会った陽気な友達にさそわれダンス・ホールにまいりました。いつもの私でしたらすぐにも断ったにちがいないのですが、なにか拒みがたい魔力にひかれたと申しましょうか。そこになにかが私を待っているような期待を感じました。シャンパンをぬき、さわぎがひとしきりたかまったとき、私は不意に心臓がしめつけられるような気持で思わず立ちあがりました。隣りの卓子にお友達のかたとあなたが坐って、ほれぼれとした眼差で私を見つめていられたのです。あなたは眼で私に合図をして店をお出になりました。私はもちろん後を追いました。

   あなたは瞳を輝かし、微笑みながら私を待っていらした。そのとき、私はすぐに感じました。やはりあなたは私を御存知なかったのです。そして、あなたはまた新しく知らない女の私をお誘いになったのです。その様子で、あなたは、私をただの夜の女としか見られなかったことがよくわかりました。私は御一緒に車であなたのお宅にまいりました。そのときの気持ち、私にはすべてが過去と現在がぴたりと重なりあったような格好でした。

   あなたは私を抱いて下さった。私はもう一度、楽しい夜をあなたのお側ですごしました。朝ごはんをあなたの居間で一緒にいただいたのもこれがはじめてのことでした。でも、あなたは私の名前も住所もお訊きになろうとはなさらなかった。あなたにとって私はやはり一夜の火遊びの相手でしかなかったのです。あなたは近いうちにアメリカに旅行なさると仰いました。私はどんなにか「一緒に連れていって」と叫びたかったことでしょう。

   私は、「私の好きなひとも、いつも旅行がちなのです」と申しました。私を思いだしてくれるにちがいないと、あなたの瞳をじっと見つめておりました。けれども、あなたは「きっと帰ってきますよ」と慰めてくださっただけです。私は「帰っていらしても、もうすっかり忘れていますわ」と答えました。あなたは優しい瞳で私を御覧になって、「楽しい思い出は忘れ難い。あなたのことはいつまでもおぼえていますよ」と仰いました。でも、とうとう私のことは思い出してくださいませんでした。

   私は鏡の前で乱れた髪をなおしているとき、あなたがこっそりと私のマフの中に紙幣を押しこむ様子をみたとき、どうしてあなたをぶたなかったのでしょう。忘れるだけでなく、卑しい商売女にまで私をひきおとさなければならなかったあなただったのでしょうか。私は居たまれませんでした。私は机の上にあなたの誕生日のために贈った白薔薇が花瓶に生けられているのを見て、ねだりました。あなたは「どうぞ」といい、「贈主はまるで見当つかないんです。誰だかわからないだけに、ぼくはなお好きですよ」とお答えでした。私は、もう一度じっとあなたを見つめ、思い出して!とねがいましたが、あなたは接吻してくださっただけでした。

   私はあふれそうになった涙を見せまいと大急ぎで扉の方にまいりました。そのとき、あぶなくヨハン爺やにぶつかりそうになりました。ヨハンはこの瞬間に私を見てあっと驚いたようでした。子供のときから会ったことのないこの老人が私を思いだしてくれたことを知りました。私はあなたがマフの中に押し込んだ紙幣をヨハンの手に押し込んでやるのがやっとでした。ヨハンはこの一秒の間にあなたが一生かかってなさったことよりも、もっとたくさんのことをしてくれたのでした。あなただけが私を忘れ、思い出してくださいませんでした。

   坊やが亡くなりました。もはやこの世のなかでは私の愛する人はあなただけです。でも私のことを思い出してもいただけなかったあなたは私にとっては死んだも同