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2007年3月26日 (月)

ミコと2人のミッチー

   「日本のポップス史1960年前後」でJiroさんから素敵なコメントをいただきました。でもミッチー・サハラの「愛の願い」(昭和41年)は聞いた記憶がない。朱里エイコの「クレイジー・ラブ」(昭和42年)と同曲だそうですがそれも知らない。実は「秘蔵シングル盤天国」(シンコーミュージック)からリライトしたので、あまり熱心なリスナーではありません。同じミッチーでも青山ミチなら、よくテレビにでていたので印象は強烈である。そこでミコ(弘田三枝子)と2人(ミッチー・サハラと青山ミチ)の3人の歌姫を考察してみる。

   弘田三枝子は昭和22年生まれで、昭和36年に「子供じゃないの」でデビューした。(14歳)ミッチー・サハラは昭和23年生まれで、同年、13歳で歌手デビューしている。青山ミチは昭和24年生まれで、ジャズ喫茶が主催する素人ジャズコンクールに入賞しポリドールと契約する。昭和37年、弘田三枝子は「ヴァケイション」(東芝)が大ヒツトしたが、青山ミチもポリドールから「ヴァケイション」を出しヒツトする。このころ二人はテレビによくでていた。あの時、青山ミチはなんと13歳だったのだ。その後、弘田三枝子は「すてきな16歳」「渚のデイト」「砂に消えた涙」とカバー曲のヒツトを連発し、田辺製薬の「アスパラ」や「リキホルモ」やレナウンの「ワンサカ娘」で黄金時代を築く。ミッチー・サハラ(酒井道枝)は美少女系歌手で、なんと16歳で自分で作詞・作曲したLP「聞いてお願い」を発表している。彼女は女性シンガーソングライターの草分けだったのだ。一般にはミッチー・サハラはフランス・ギャル等のカバー・ポップスを歌うキュートなティーン・シンガーのイメージのようにみられるが、実力派のシンガーだったようだ。いま調べただけでも「聞いてお願い」「マッハで行こう」「グリーン・グリーン」「天使のハンマー」「春のときめき」「ヒューヒュー行こう超特急」「雨に消えた想い」「夢みるシャンソン人形」「ラヴ・イン・トーキョー」「風に吹かれて」などCDで聞けるようだ。昭和40年、17歳のときに「ドレミの歌」「エーデルワイス」を日本語で朝日ソノラマから発売している。(当然、ソノシートだろう)あの時「ドレミの歌」はペギー葉山じゃなくて、ミッチー・サハラを聞きたかったなあ。ミッチー・サハラは文化放送のラジオの深夜番組のパーソナリティを5年間務めたのち、21歳のとき渡米、カナダやアメリカ各地でツアーしたほかジャズ・クラブで活躍した。彼女は本場でジャズ歌手として成功したらしい。しかし、2000年9月27日、心臓発作のためロサンゼルスの自宅で亡くなっている。享年53歳。

   もう一人のミッチー、こと青山ミチは昭和37年「ひとりぼっちで思うこと」でデビューし、昭和38年には弘田三枝子との競作の「ヴァケイション」、昭和40年にはエミー・ジャクソンとの競作「涙の太陽」といずれも競作で次点であった。青山ミチのパンチのあるパワフルな歌い方は当時を知る人なら誰でも覚えている。昭和38年3月に失踪事件、昭和44年に電撃結婚、全日本歌謡選手権に出場、しかし再デビュー果たせず。昭和49年結婚、出産、その後のスキャンダルについては省くが、彼女のステージを見る機会はなくなった。実は倍賞千恵子の「下町の太陽」(山田洋次監督、和38年)にジャズ喫茶の歌手という役で青山ミチが出演している。歌うシーンはかなり長くて全盛時代の歌唱を聞くことができるのでファンには一見の価値あり。それにしても、ティーン・エイジのミッチー・サハラを見逃したことは一生の不覚である。

2007年3月25日 (日)

曽根俊虎と興亜会

   明治12年、日本は沖縄県を設置して琉球を日本の版図に編入したことにより、日中間が緊張し、それを緩和する意図もあってアジア主義的な言論が登場し、明治13年には最初のアジア主義組織「興亜会」が成立した。

   しかし興亜会の前身ともいえるのが振亜会である。振亜会の生みの親は大久保利通である。明治7年、台湾問題で大久保が北京に赴く時、海軍中尉の曽根俊虎は大久保に随行している。北京において大久保は明治7年11月3日に天津で李鴻章と会見した折に、日清共存共栄の道を模索した。日清両国が相互理解をきわめるには、まず、互いの国の言語を多くの人に急ぎ修得させることからはじめるべきであると話あった。明治10年、清国初代駐日公使張斯桂の着任をまって、東京に日支両国の語学校を開き、両国の提携をはかろうとしたが、明治11年に大久保が暗殺された。曽根は大久保の遺志をついで、明治13年、東京に中国語学校を開いた。

   曽根俊虎(1847-1910)は、弘化4年、米沢藩士曽根敬一郎の子として生まれた。藩校興護館で雲井龍雄(1844-1870)の影響を受け、江戸に出て洋学を学んだ。雲井は薩摩藩の罪を訴え斬首されたことで知られるが、曽根はその後、西郷隆盛、大久保利通と深く交わるようになった。明治4年に海軍に入り、副島種臣外務卿と共に清国に赴く。その後も征台の役など、海軍本省と中国との間を往来、諜報勤務、大陸情勢の調査にあたった。曽根の努力によって明治13年2月13日、興亜会が設立された。会長は旧熊本藩主細川護久の実弟の長岡護美である。会員には渡辺洪基、曽根俊虎、金子弥兵衛、草間時福、佐藤暢、宮崎駿児、前田献吉、小巻昌業、吉田正春、広部精、小森沢長政、宮島誠一郎、鄭永寧、中上川彦次郎、花房義質、山吉盛義、鍋島直大、細川瀏、恒屋盛服、鈴木慧淳、北沢正誠、林正明、大久保利昭、柳原前光、大倉喜八郎、横山孫一郎、都築経二郎、朽木綱一、伊藤祐麿、吉田晩稼、有馬純行、海賀直常、末広熊五郎、赤松則良、重野安繹、近藤真鋤、中村正直、武藤平学、末弘直哉、小松原英太郎、張滋昉、松平忠礼、松平正信、塚本明毅、矢野義徹、本多晋、田代離三、星野重次郎、丸山孝一郎、成島柳北

    朝野の名士が一同に会したものであった。興亜に生涯を捧げたが、明治24、25年ころ在清中に「法越交兵記」を編纂し、ベトナム問題に関わる伊藤内閣の忌諱にふれる筆禍事件により退職する。この事件は無罪となったが、以来海軍を去り、在野の中国通としておもに清国蘇州に居住し、李鴻章その他の名士と交わり、支那服を着用して暮らした。晩年は不遇であったが、動脈瘤のため東京大森に帰国。明治43年5月30日病没する。曽根俊虎には「北清紀行」「清国近世乱誌」「清国漫遊誌」「法越交兵記」「俄国暴状誌」などの著書がある。

2007年3月24日 (土)

千の風になって

   今日、テレビの「ミュージック・フェア」と「家族で選ぶにっぽんの歌」で秋川雅史の「千の風になって」を聞いた。「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」死者の側から、嘆き悲しむ遺族に慰めの言葉が語りかけられる。ケペルも亡くなった父、母を思い出した。「秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬にはダイヤのように きらめく星になる 朝は鳥になってあなたを目覚めさせる 夜は星になってあなたを見守る」言葉の一つ一つがじわじわと胸に伝わってくる。そして秋川雅史の張りのある歌声が、多くの人たちに共感をよんでいる。クラシック歌手でチャート1位というのはオリコン史上初の快挙だそうだ。

    もっとも戦前までは歌謡界もクラシック系の歌手が主流であった。東海林太郎(1898-1972)は昭和8年音楽コンクールでオペラのアリアをうたい入賞している。藤山一郎(1911-1993 )は増永丈夫という本名でクラシックを歌っていた時期もあった。藤原義江(1898-1976)、田谷力三(1899-1988)、徳山璉、柴田睦陸(1913-1988)たちは日本歌曲の普及に大いに貢献した。これまで紅白歌合戦といえば演歌歌手が中心という印象がある。テノール出場歌手といえば、藤原義江、柴田睦陸、立川澄人、 錦織健くらいであまり印象はなかった。昨年の第57回NHK紅白歌合戦で初めて聞いたが、秋川雅史の「千の風になって」は心に残ったいい歌唱だった。クラシックが日本の歌謡に興隆した昭和という時期と戦時体制とが重なったため、多くのクラシック系の歌手たちは国民歌謡や戦時軍歌を歌わされた不幸な時代だったと思う。いまこそクラシック界はその純粋なる音楽性と芸術性で新しい日本歌曲の普及に貢献してもらいたい。

桃 夭

桃は若いよ 燃え立つ花よ

この娘 嫁(ゆ)きゃれば ゆく先よかろ

桃は若いよ 大きい実だよ

この娘 嫁きゃれば ゆく先よかろ

桃は若いよ 茂った葉だよ

この娘 嫁きゃれば ゆく先よかろ

                      目加田誠訳 「新釈詩経」

(通釈)わかわかしく美しい桃の木に、燃えたつような赤い花が咲いた。このうるわしい花にも似たこの娘はこれからお嫁に行くが、さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

わかわかしく美しい桃の木に、はちきれそうな実がなった。さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

わかわかしく美しい桃の木に、緑の葉が茂りに茂った。さぞかし夫婦仲むつまじく暮らすだろう。

「浜辺の歌」と金賢姫

   3月22日放送の日本テレビ番組「あの人は今、金賢姫悲しき結婚生活追求」を見た。金賢姫(キム・ヒョンヒ)は1997年、ボディガードであった元国家安全企画部員の男性と結婚した。その後、名前を変え、男児を出産し、ソウル市内で普通の主婦として暮らしているという。結婚後は表舞台にでてこない。今回の市川森一の取材も何ら新しい情報はなかった。前回1997年の取材の映像が流れていた。市川森一にコロッケをあげながら、台所で「浜辺の歌」を歌っている。かつて金賢姫は日本人になりすますため、日本語教育だけでなく、日本の文化も教えられ、山口百恵の歌も数多く歌えると聞いたことがある。この戦前の古い唱歌「浜辺の歌」は日本を代表する歌として韓国人には知られていたのであろう。

   「浜辺の歌」は本当に名曲である。「赤とんぼ」と同じように親しまれている。その芸術性が高く評価されている。淋しいとき、悲しいとき、つい口づさみたくなる歌であろう。ところが音楽の先生のブログを見ていると「最近の生徒は、浜辺の歌をあまり好きではない」ということが書かれていた。のんびりしたリズム、微妙な盛り上がりを持つ旋律に魅力を感じないらしい。たしかに唱歌といよりも、大人のセンチメンタルな曲という感じがする。

   あした浜辺を さまよえば

   昔のことぞ 忍ばるる

   風の音よ 雲のさまよ

   寄する波も 貝の色も

 「浜辺の歌」は大正7年10月にセノオ音楽出版社から出された「セノオ楽譜98番」に掲載されて世に出た。作詞は林古渓(1875-1947)が大正2年につくり、これに成田為三(1893-1945)が曲をつけた。成田は鈴木三重吉の提唱した童謡運動に参加した音楽家で「赤い鳥小鳥」なども作曲している。成田は「浜辺の歌」を作曲すると、東京音楽学校の同窓の倉辻正子(1900-1989)に「いとしの正子にさざぐ」と記して、この楽譜を郵送した。そのとき、すでに婚約者がいた倉辻は楽譜を送り返したという。大正5年ごろの話である。「浜辺の歌」の豊かな叙情性は、成田為三の切ない恋歌からでていたものであろう。曲の生まれた背景は知らなかったが、大正、昭和、平成と時世は変わっても、人が人である限りもち続ける純粋な気持ちが見事に表現された美しいメロディーであると改めて思う。

2007年3月23日 (金)

芥川龍之介の初恋

   芥川龍之介(1892-1927)は明治25年3月1日、東京市京橋区入船町8丁目1番地(現在の聖路加病院の辺)に、牛乳販売業耕牧舎を営む新原敏三(しんばらとしぞう)・フクの長男として生まれた。母が発狂したため、龍之介はフクの長兄芥川道草にあずけられた。生来病弱で感受性が強く、早くから書物を通じて人生への懐疑を深めた。大正3年5月、龍之介23歳、青山女子学院英文科に通う吉田弥生という同じ年の女性と知り合う。文学を好み、英語が堪能な弥生は才色兼備の女性であった。

    7月20日から約1か月間、大学で1年上級の堀内利器の郷里千葉県一宮に滞在した。龍之介は毎日のように海水浴に行った。しかし、想うのは弥生のことばかりだった。滞在中、吉田弥生に手紙を出している。翌年には弥生は大学を卒業するが、すでに陸軍中尉との婚約話が進んでいた。龍之介は弥生のことを養家に打ち明けたが、反対された。実は弥生は新原と親しい家の娘であること、士族でないこと、私生児であることなどが反対の理由だった。大正4年2月、龍之介はついに吉田弥生との恋を諦めた。大正4年5月、弥生は結婚する。この失恋の痛手は、後の人生に大きな影響を及ぼした。友人への手紙にこう書いている。「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」。そして、現実とかけ離れた世界に眼を向けようとして筆をとったのが、「羅生門」と「鼻」であった。

2007年3月21日 (水)

映画「青燕」の親日批判問題

   韓国初の民間人の女性飛行士、パク・キョンウォン(朴敬元、1901-1933)の生涯を描いた映画「青燕」(あおつばめ、2005)がようやく日本でも公開されたが、国内ではあまり話題にならなかった。パク・キョンウォン役はチャン・ジニョン。映画は大作であったが、韓国では親日派の実在人物ということで、若者の間で「見る、見ない」という物議を醸したそうだ。また韓国初の女性飛行士はクォン・ギォクだという説もでた。クォン・ギォクは1925年に中国空軍で服務しており、パク・キョンウォンより3年早い。ただし、ギォクは軍人であるということなので、パク・キョンウォンは民間人としては初の女性飛行士ということになる。映画「青燕」の公開には親日批判問題が背景にあって話はなかなか難しくなってしまった。

    パク・キョンウォンは、1901年6月24日、慶尚北道大邱府に生まれる。1917年にシンミョン女学校を中退し、1920年に日本の横浜技芸学校を卒業した。看護婦として働いたあと、1925年に立川飛行学校に入学。当時の女性としては長身で168cmあったという。1928年に韓国の民間人女性では初めて高等飛行士の資格を得て、彼女は飛行レースに参加し、優れた飛行の実力をしめした。海峡を越えて祖国の空を飛びたいという夢は、日満親善・皇軍慰問飛行という形で実現するかにみえた。1933年8月7日は悪天候であった。離陸後50分に静岡県玄嶽山において濃い霧が発生し、飛行機は墜落し、死去した。飛行機は単発小型機で「青燕号」と命名されていた。多賀村では一周年に「鳥人霊誌」という慰霊碑を建立した。

彼女は失敗したとはいえ、多くの偏見や障害を乗り越え、単独で海峡を越えるという夢にチャレンジした。飛行学校の学費なども東亜日報が後援した朝鮮全土からの寄付金と彼女が看護婦として働いた資金を充てたという。

宋学と四書五経

    一般に儒教の経典は「十三経」として知られており、「周易」「尚書」「毛詩」「周礼」「儀礼」「礼記」「左氏伝」「公羊伝」「穀梁伝」「論語」「孝経」「爾雅」「孟子」を収めている。漢から唐まで儒学は訓詁学として発達した。十三経は経書の本文であるが、それには古い注釈の「伝」というものがついたのもある。この経書の本文と伝とに対してさらに注釈をつけ加えたのが「疏」で、全部あわせるとたいへんな分量になる。注疏は大体は唐代までにできあがり、ニ、三の足りない部分を補足して、「十三経注疏」全部が成立したのは北宋時代のころである。

   唐代では仏教が栄えた。仏教の経典は三部に分けて、経、律、論である。宋代の儒者たちは仏教と儒教との経典を比べると、儒教は仏教の論部にあたる分野が欠けていることに気づいた。そこで、独自の発想と思索を重ねて、性・命・道・理・気などについて形而上的な解明を試み、論部の補強を思い立ったのが宋学の起こりであるといえる。

   宋学は周敦頤(周濂渓、1017-1073)に起こり、張載(張横渠、1020-1077)、程顥(程明道、1032-1085)、程頤(程伊川、1033-1107)に受け継がれ、南宋の朱熹(1130-1200)によって集大成された。また漢代以来、儒学の経典として尊重されてきた五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)よりも、四書(大学、中庸、論語、孟子)が高く評価された。

周敦頤「愛蓮説」

    北宋の儒学者・周敦頤(1017-1073)47歳の作「愛蓮の説」は古文眞宝後集にあり、古来より名文として知られる。

水陸草木の花、愛すべき者甚だ蕃(おお)し。晋の陶淵明、独り菊を愛す。李唐自(よ)りこのかた、世人甚だ牡丹を愛す。予独り蓮の汚泥より出でて染まらず、清漣に濯(あら)はれて妖ならず、中通じ外直く、蔓あらず枝あらず、香遠くして益々清く、亭亭として浄く植(た)ち、遠観すべくして褻翫(せつがん)すべからざるを愛す。予謂へらく、菊は華の隠逸なる者なり。牡丹は華の富貴なる者なり。蓮は華の君子なる者なりと。噫、菊を之れ愛するは、陶の後、聞く有ること鮮し。蓮を之れ愛するは、予に同じき者何人ぞ。牡丹を之れ愛するは、宣(むべ)なるかな衆(おお)きこと。

    「愛蓮説」は、菊を隠逸の士に、牡丹を富貴の人にたとえ、自分の理想とする君子像を蓮の花にたとえながら、社会の風潮を批判しているのである。俗人は世間的な名位や豊かな生活にあこがれ、豪華な牡丹に人気がある。唐の則天武后は牡丹を好んで宮中に植えたため、唐代では世をあげて牡丹が愛好された。蓮の花はこれらに対して、脱俗でもなく世俗でもなく、俗界にありながらひとり清らかに高潔な態度を保ちつづけ、君子にふさわしいとしたのである。

   周敦頤は、字は茂叔(もしゅく)、濂渓先生と呼ばれ、道州営道(湖南)を原籍とする。慶暦の治と呼ばれる北宋の最盛期、中央では革新的な政論・学風が開花していたが、彼は禅僧と交わり清貧に安んじる地方官の生活を送っていた。南宋に入り、朱熹が道学を大成していらい、道学の開祖といわれる。彼の著述は「太極図説」と「通書」がある。「太極図説」は太極を万物の本体とする宇宙論を説く。つまり、「宇宙生成の過程は無極にして太極なる本体より発して五行を生じ、さらに一切の現象として現われ、人間は陰陽二気によって化成され、形体・精神ともに有するものであり、その道徳は聖人の定めた中正仁義の四字である」とする。

林芙美子「放浪記」刊行前後

   林芙美子(1903-1951)は尾道から上京して、本郷蓬莱町の大和館で洋画を勉強中だった長野県下高井郡平岡村出身の手塚緑敏(1902生)と知り合い、結婚(内縁関係)したのは改元した年の12月であった。二人は昭和2年1月、高円寺の西武電車車庫裏にあたる山本方の二階に間借し、5月には和田堀の内妙法寺境内浅加園にある借家に住み、この家において芙美子の文業が開けてくる。

   当時大衆作家として盛名をあげていた三上於菟吉は、芙美子の詩に注目して、彼の妻である長谷川時雨に推薦した。そして長谷川が主宰する「女人芸術」第2号(昭和3年8月号)に詩「黍畑」が載った。ついで第4号(昭和3年10月号)から「秋が来たんだ」(副題「放浪記」)の連載が始まった。「放浪記」という副題名をつけたのは三上於菟吉である。プロレタリア文学興隆のおりから、当初は好意的に迎えられたが、共産党の活動に距離をおいていたため、プチブルと批判を受け、「秋は来たんだ」の連載は20回で打ち切られた。

   昭和4年、「秋が来たんだ」を読んだ「改造」の記者・鈴木一意の計らいで、随筆原稿の依頼がきた。「改造」は当時の一流の綜合雑誌である。鈴木が彼女の西武線中井の家を訪れたとき、彼女は着る物を全部入質してしまって、海水着一つで応対したという。芙美子は「改造」10月号に「九州炭鉱放浪記」を発表した。昭和5年1月、林芙美子、望月百合子、北村兼子、生田花世、堀江かど江らと台湾旅行をする。7月に改造社から「新鋭文学叢書」の1冊として「放浪記」が出版され、ベストセラーとなる。11月には「続放浪記」が出版される。これから林芙美子の流行作家としての活躍が始まるのである。

   台湾旅行では、大阪朝日新聞で活躍したジャーナリストの北村兼子(1903-1931)が同行しているのも注目される。才気と行動力ある同年代の女性たちは旅先でどのような話をしていたのだろうか。北村兼子は自らを「女浪人」と呼び世界各地を歩き回って日本の植民地政策を批判したので、林との意見の違いはあったであろう。北村は旅行の後まもなく27歳で急逝している。

2007年3月20日 (火)

マリー・ド・メディシスの栄誉なき生涯

    マリー・ド・メディシス(1573-1642)はアンリ4世の死後数時間で自ら摂政の位に就き、以降7年間、彼女はフランスを支配した。マリーは素早くイタリア人を主とした派閥でまわりを固めた。1617年、青年王ルイ13世(1601-1641)がマリーに反旗をひるがえした。マリーはブロアに追放された。1620年、リシュリーのはからいでマリーは再びパリに戻った。しかし、マリーの政治への影響力はもうなかった。ルイ13世が1630年に病で倒れると、信仰をなおざりにした天罰だと、マリーは言い張った。そしてマリーは1631年にフランスを去り、二度とフランスに戻ることはなかった。1642年7月にケルンで世を去った。遺体はフランスに運ばれ、サン・ドニ大聖堂のアンリ4世のかたわらに葬られた。

   フランス王妃となったイタリアの姫君の波瀾の生涯は、今日リュクサンブール宮殿にあるルーべンス(1577-1640)が描いた「マリー・ド・メディシスの生涯」(1622-25)の21枚の絵画によってうかがい知ることができる。これは、ルーベンスの最大業績の一つに数えられるが、歴史と寓意と肖像の要素を混ぜ合わせ、マリーのまったく栄誉なき生涯に対する栄誉に満ちた賛辞となっている。

2007年3月19日 (月)

武田典厩信繁

    風林火山「信虎追放」。武田信玄(市川亀治郎)は家臣団が居並ぶ前で「信繁、頼む。このわしに従うてはくれまいか」と頭を下げる。「兄上、頭をお上げください。それがしも侮られたものよ」武田信繁(嘉島典俊)は、父が兄を憎む理由が、その器量を恐れてのことだとわかっていた。「兄上、よくぞ、ご決意なされた。信繁は、これより晴れて堂々と、兄上の命に従いとうございまする」「信繁、わしは、今日ほど己を恥じたことはない。すまない、信繁」その場にいる家臣の誰もが、ひとつの思いを胸に感じた。

    武田典厩信繁(1524-1561)は、信虎の二男。終生、兄信玄を敬慕してやまなかった実直な人柄で、容姿が信玄にそっくりだったので、兄に危険がせまるたび、信玄になりすまして敵前に立つという影武者を幾度となくつとめた。天文10年の信虎追放事件が起きた時、真相を知る信繁は冷静に兄の非常手段を暗黙のうちに理解し、信玄の指揮に従った。信繁は信玄のよき補佐役として軍略、識見ともに優れ、武田の副大将として活躍した。兵法書「虎略品」の中でも、「北条氏康、上杉謙信、織田信長ら諸将も異口同音にほめ称えること限りなし」と記し、江戸の室鳩巣も「典厩公は天文、永禄の間の賢と称すべき武将で、兄信玄公に仕えて人臣の節を失うことなく、その忠信、誠実は人の心に通じ、加えて武威武略に長じ知剛知柔、まことの武将」と最高の賛辞を寄せている。永禄4年9月、川中島合戦で「信玄本陣危うし」と見た信繁の死力を尽くしての奮戦で、辛くも信玄は虎口を脱するが、兄の身代わりとなって敵陣へ斬り込んで果てたのである。

   信繁は嫡男信豊に九十九か条の教訓を遺しているが、これが「信玄家法」と呼ばれ、武道、兵法、礼儀作法などを倫理、道徳、宗教を基底として述べているもので、江戸時代の武士教育に大きな役割を果たしている。

   典厩というのは、唐の官職名の馬寮(めりょう)のことで、職務は、軍馬の調達、調教、管理だったからその長たる信繁は、無敵を誇る武田騎馬軍団の枢機をにぎっていたともいえる。

2007年3月18日 (日)

安倍清明と蘆屋道満

    安倍清明と蘆屋道満が天皇の立会いで内裏の白州で対決することになった。「長持ちの中身を占いで当てよ」という課題であった。中には大柑子(夏みかん)があった。道満は「大柑子が16個あります」と占うと、清明は「鼠が16匹います」と告げた。清明サイドの大臣や公家らは清明が占断を誤ったと思い、長持ちの蓋を開けるのをためらっていた。そこへ自信満々の道満が早く開けるように促した。清明までもがすぐに開けるようにいったので、やむなくそうすると、長持ちの中から鼠が16匹飛び出してきた。清明は道満がずばり占ったので、あえて加持を修して、大柑子を鼠に変えるという術を使ったというわけである。

2007年3月14日 (水)

貧乏人は肉を食え

   晋の武帝のあとをついだ恵帝は、世界史上にもまれな暗愚な君主であった。あるとき大臣が「ちかごろ世の中は飢饉で、貧乏人は米が食えなくて困っております」と伝えると、恵帝は不思議そうな顔をして、「それなら肉を代用食にしたらどうだ」と答えたという。このような天子を表に立てて、悪がしこい賈皇后が勝手なことをおこない、人望ある大臣を殺したりした。そのため、一族の八人の王たちが、かわるがわる兵をつれて都にはいっては政権をにぎろうとし、親類どうしが殺し合いを始めた。これがいわゆる八王の乱(300-306)である。国内は混乱し、五胡の中原侵入を招き、西晋の滅亡は早められた。

アメリカの進歩と貧困

    南北戦争以後の30年間に、アメリカはあらゆる面で、ことに工業、農業、政治、社会の分野で信じられないほどの発展を遂げた。鉄道網が張りめぐらされ、世界第一を誇る工業が確立し、広大なフロンティア(辺境)のほとんどに人が住むようになり、また12の新しい州が成立し、数百万の移民が受け入れられた。この膨大な移民は、この国の経済発展の一因になったのであるが、それはまた貧困層を増大させることにもなった。こうした発展ぶりは、同時に全体に異常な現象をひく起こした。すなわち、最高の価値となった富のあくなき追求、他方に貧しい人々がいるなかで富を得たもののばかばかしいぜいたく、政界のいちじるしい腐敗などである。この時代を、マーク・トウェーンが黄金でなくて「鍍金の時代」とよび、ホイットマンが「巨大でまったく完全な肉体を与えられていながら、魂を与えられていない」と激しく非難したのも当然だった。またヘンリー・ジョージの「進歩と貧困」(1879年刊)は、物質的進歩が貧困を絶滅せず、反対に貧困をいちじるしくしていた当時の状態を、正確に指摘していた。アメリカの貧困対策は著しく立ち遅れていた。それは「社会進化論」が広がっていないためで、これは「生存競争が生活の法則であり、貧困に対する救済策は自助努力以外にはない」、「貧乏人に対する救済は無駄だし、またすべきではない」というものである。こういう考えが強まるにつれ、公的扶助は抑制され、1870年初めまでに全国の市では、院外救済を廃止し、公費の救済は原則として施設内だけに限定されるようになった。そのため、救済の多くは民間の慈善団体に依存することになるが、それはこの国の救済政策の発展を抑制する結果となった。

2007年3月12日 (月)

実説・累(かさね)

   江戸時代には女の子の名前に「かさね」という名が流行ったことが あった。「累(かさね)」というのは、まことに可愛らしく感じられられると言って、数多く名付けられた。だが、明治時代より平成の今日まで、私の知っている限りでは、「かさね」という名の女子を知らない。それは三遊亭円朝の「眞景累ヶ淵」や鶴谷南北の歌舞伎などに「かさね」という名が使われたことによる影響であろう。

   もともと累の話は、江戸時代初期に60年にわたって繰り広げられた、陰惨な出来事である。下総国岡田郡羽生村の百姓、与右衛門とその後妻お杉の間には助(すけ)という男子があった。しかし連れ子であった助は顔が醜かったため、お杉は助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名付ける。累は助に生き写しであり、村人たちの間ではいつしか「累(るい)」という名が「かさね」と呼ばれるようになった。

   やがて、与右衛門もお杉も亡くなり、成人し独り暮らしの「かさね」はある時病気で苦しむ旅人を助けたことから、この男を2代目与右衛門として婿に迎える。しかし与右衛門は容貌の醜い「かさね」を疎ましく思うようになり、「かさね」を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。与右衛門は鬼怒川堤から河中へ「かさね」を突き落として殺してしまう。

   その後、与右衛門は何食わぬ顔で幾人もの後妻を娶ったが尽く死んでしまうという怪現象が続いた。ようやく6人目の妻きよとの間に菊という娘が生まれた。ところが菊が14歳になった時に、「かさね」と助の死霊が菊にとり憑き、菊の口を借りて与右衛門の非道を語りはじめる。この話を知った祐天上人は助、かさねの死霊に戒名を与えて成仏させた。

   「累(かさね)」の話が怪談物として世に広く知られるようになったのは、それから150年も後の鶴谷南北の「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」が上演される文政4年(1821)のことである。

2007年3月11日 (日)

竜雷太と甘利虎泰

   甘利備前守虎泰(?-1548)は板垣信方と共に、信虎・晴信二代に「両職」として仕えた宿老で、板垣信方が策謀家であったのに対して、甘利虎泰は忠実無私の純粋な武人だった。永正5年(1508)、14歳で甲斐守護職についた信虎をたすけ、国守の座をねらう同族の油川信恵父子討伐に活躍した虎泰にとっては、信虎追放計画を知らされ動揺するものの、断腸の思いで主君の追放に手を貸すことになる。また、晴信が諏訪頼重の娘を側室に迎えようとしたとき、諏訪領民の反感をつのらせるばかりか、将来の天下人としての履歴に傷になるといって大反対した律義者である。彼の武功の第一は、志賀攻城戦の時で、上杉憲政の救援軍を小田井原に迎え撃ち、一人で数十人をなで斬ったという。だがその報復ともいうべき上田原で討死した。

    大河ドラマ「風林火山」で甘利虎泰を演じているのは竜雷太である。「これが青春だ」(昭和42-43)の大岩雷太をそのまま芸名にする話があったが、本人の希望で本名の長谷川龍男の「龍」を「竜」として「竜雷太」が誕生した。劇中に英語の授業がよくあったが、ワーズワースの英詩「幼少時の回想から受ける霊魂不滅の啓示」を読み上げるシーンが印象的である。「かつては目をくらませし光も消え去れり 草原の輝き 花の栄光 再びそれは還らずとも なげくなかれ その奥に秘めたる力を見出すべし」と大岩先生は朗読する。女生徒の松本めぐみは東大志望の秀才の有川博に恋しているが、有川は上京し去っていく。松本は一目みようと教室をぬけだし、列車に別れを告げる。あとに残るは少女の涙ばかりなり。竜雷太の新曲「あの娘と暮らしたい」が流れる。伝説の青春ドラマの名場面は今も鮮やかに脳裏にうかぶ。竜雷太はいつまでも「どろんこ紳士たれ」と喝を入れてくれる逞しい大岩雷太先生なのだ。

      あの娘と暮らしたい

まだ来ないのさ 日が暮れるのに

窓からじっと 見ていよう

夕やけ雲の 彼方から

バスに揺られてくる 可愛い娘

恋は夜毎の セレナーデ

僕はあの娘と 暮らしたい

訂正 ワーズワースの詩がてでくる回はサイトをよく調べると「これが青春だ第21話、初恋をこんにちは」でした。そして主役は松本めぐみではなく、岡田可愛でした。松本めぐみが主演したのは、「第18話、さらば故郷」です。どちらも汽車を追いかけるシーンがあったので、長い歳月とともに記憶が混乱していたようで、訂正とお詫びします。流れていた曲は岡田可愛の新曲「悲しきカナリア」。それにしても、ブテッィック経営者と加山夫人、皆さんご活躍で喜ばしいことです。

2007年3月10日 (土)

古典的なイギリスの貧困研究

   貧困や格差、ワーキングプアなど日本で大きな問題となっている。貧困の研究は、経済学を中心とした社会科学の一つの原点となるものである。社会に現存する貧乏を的確に把握し、それを克服する方策を検討することが重要であることはいうまでもない。かつて河上肇が「貧乏物語」のなかで「貧乏は国家の大病」と喝破したことを肝に銘じて、資本主義にとっての最大の悪弊である貧困問題を追及していきたい。

   およそ100年前のイギリスで2人の学者が別々の都市で貧困調査をした。驚くことにどちらも30%に近い市民が貧乏線以下の生活であり、その原因はそれまで信じられていた飲酒・怠惰・浪費などの個人的責任ではなく、失業・低賃金・疾病など社会構造に問題があり、その改良は政府の責任と考えられるようになった。貧乏線とは、貧困の範囲または境界を決定するために示す最低の生活標準。それ以下の収入では一家の生活を支えられないと認められる境界線(広辞苑)。

                       *

   チャールズ・ブース(1840-1914)は、1886-1902年の間に、3回にわたってロンドンの労働者階級を中心にすえた貧困調査の実施と、その結果を「ロンドン民衆の生活と労働」(1902-1903)としてまとめた。報告書の主な内容は次のとおりである。

1.全人口の約3分の1が貧困線以下の生活を送っている。

2.貧困の原因は飲酒・浪費等の「習慣の問題」ではなく、賃金などの「雇用の問題」に起因し、特に前者が大きく作用している。

3.貧困と密住は相関する。

                  *

   シーボーム・ロウントリーは、ブースのロンドン調査に影響を受け、ヨーク市調査を1899年に行なった。ロウントリーはまず貧乏生活している家庭を2種に分類した。

第1次的貧乏とは、その総収入が単なる肉体的能率を保持するために必要な最小限度にも足らぬ家庭。

第2次的貧乏とは、その総収入が、もしその一部分が他の支出にふりむけられぬ限り、単なる肉体的能率を保持するにたる家庭。1901年の「貧乏研究」によると、第1次と第2次的貧乏をあわせると全人口の27.6%にのぼることが明らかになった。

    ロウントリーは、1936年に第2回目の調査を行なうが、この場合の貧困調査の基準は1899年の貧困線ではなく、「健康と労働能力を維持するための、最低消費食料」を採用した。第1次的貧困は19.9%、第2次的貧困は17.9%にものぼった。

2007年3月 9日 (金)

室生犀星、逆境との闘い

    芥川龍之介の「朱儒の言葉」の中でも「人生」はとくによく知られた名文であろう。

 

    もし遊泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もしまたランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我々は生まれた時から、こういうばかげた命令を負わされているのも同じことである。我々は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか?しかも胎内を離れるが早いか、とにかく大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。もちろん遊泳を学ばないものは満足に泳げる理屈はない。同様にランニングを学ばないものはたいてい人後に落ちそうである。すると我々も創痍を負わず人生の競技場を出られるはずはない。なるほど世人は言うかもしれない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の遊泳者や千のランナーを眺めたにしろ、たちまち遊泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその遊泳者はことごとく水を飲んでおり、そのまたランナーは一人残らず競技場の土にまみれている。見たまえ、世界の名選手さえたいていは得意のかげに渋面を隠しているのではないか?人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我々は人生と闘いながら、人生を学ばねばならぬ。こういうゲームのばかばかしさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るがよい。自殺もまた確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。

 

             *

 

   薄幸の歌人江口きちもまたその哀しき運命に敗れて自殺した。しかしなかにはその苛酷な生い立ちに負けず人生と闘った詩人もいる。室生犀星(1889-1962)はその典型であろう。犀星は明治22年8月1日、石川県金沢市裏千日町に生まれた。父の小畠弥左衛門吉種は、加賀藩の武士で百五十石扶持、足軽組頭を勤め、維新後は剣術道場をひらいたこともあったが、妻に死なれた後、裏千日町の広い屋敷に隠棲し、果樹や茶の栽培をしながら暮らしていた。犀星の母ハルは、この小畠家の女中であった。当時64歳になっていた小畠吉種は、女中のハルをみもごらせたことを、長男一家の手前、世間の手前困惑した。そしてうまれてから7日たらずで犀星は、近くの表千日町、犀川のほとり、雨宝院という寺の権妻である赤井ハツの手にわたされた。そしてハツの私生児赤井照道として出生届が出され、ハツの子として育てられることになった。赤井ハツは、既に真道、テエの2人のもらい子を養育していて、その2人は犀星の兄と姉になり、後に同じくもらい子のきくという妹も出来た。つまりハツは養育費めあてに、不義の子供たちをもらい受け、大きくなれば女なら娼婦として売り、男ならば勤めさせてもうけようとしていた。この養母の赤井ハツは、馬力ハツのあだ名があり、貰い子たちをあごで使い、煙管で折檻し、女だてら昼間から肌ぬぎして大酒を飲む、近所で評判な莫連女であった。しかもこの四十女は、雨宝寺の優男の住職である室生真乗を尻に敷き、ののしり、おくめんもなく戯れ、首をひもでしめて殺そうとしたり、実の父をあんまに呼んで足腰をもませて悪態をつき、近所の仲間たちと芝居見物しては深夜まで役者を家に引き入れ、狂態を演じ、もらい子の姉を娼婦に売りとばし、朝から振舞い酒に上機嫌でいるなど、犀星の育った環境は、およそまともなことがひとつとしてない、地獄絵さながらであった。犀星は7歳の時、戸籍面では雨宝院の住職室生真乗の養子となり室生姓を名乗るようになるが、小学校に入った彼は手のつけられないガキ大将として教師に憎まれ、劣等生であった。つい近所にある実の父母のところにも、行くことを禁じられ、養母からは「女中の子」としてさげすまれる。その頃実の父は死に、女中であった実の母のハルは罪人のように小畠家を追い出され、そのまま行方知らずとなり、その後犀星は生母と再び会うことはなかった。犀星はすべての人々を憎み、いつの日にかの復讐を誓う。高等小学校を落第し、中退し、義兄の勤務する金沢地方裁判所に給仕となった。月給一円五十銭、もっとも下役であった。そのような逆境にすさんだ犀星を救ったのは俳句であり詩だった。「少年文芸」「文章世界」などに投稿した。18歳の時の詩「さくら石班魚(うぐひ)に添へて」が児玉花外の撰で雑誌「新声」明治40年7月号に掲載されたことで、犀星は詩によって人生に闘うことを決意したのだった。(参考:奥野健男「人と文学」現代文学全集30 筑摩書房)

 

 

2007年3月 6日 (火)

離島の保健婦・荒木初子

    戦後間もない頃の沖ノ島(高知県宿毛市)は医師も医療施設もなく、乳児死亡率は全国平均の4倍、それに加えて風土病フィラリアの発生地でもあった。荒木初子(1917-1998)は高知県衛生会産婆学を卒業後、昭和24年の春、沖ノ島の駐在保健婦として赴任した。初子は毎日、石段だらけの島内を巡回し、献身的に働いた。当初非協力的だった島民にも受け入れられ、その努力の結果、島の乳児死亡率、フィラリアの発生などは大幅に低下した。この活動に対して第1回吉川英治文化賞が贈られた。そして伊藤桂一の著書「沖の島よ、私の愛と献身を」や樫山文枝主演で映画化「孤島の太陽」が制作された。その頃、学校映画会といって講堂で年数回の上映会あったがケペルは映画「孤島の太陽」をよく憶えている。テレビでは小林千登勢が演じていた。ところで、映画のモデルである荒木初子はこの映画の試写会の出席のため上京したが、その直後に脳卒中で倒れている。昭和43年、51歳であった。治療を続けたが右半身不随になり昭和47年に退職、平成10年9月に81歳で他界する。劇中の半生より、それからの人生が壮絶だった。ちなみに「やすきよ漫才」の横山やすし、本名は木村雄二は沖ノ島出身。産婆の荒木初子がはじめてとりあげた赤ん坊は横山やすしという風説がある。横山は昭和19年生まれで、荒木は昭和24年に赴任したので疑問点はあるものの、ともに引瀬集落に住んでいたので、荒木は巡回診療に行って顔なじみであったことは事実であろう。

2007年3月 4日 (日)

山中貞雄と鳴滝組

    山中貞雄(1909-1938)は昭和初期、サイレンとからトーキーへの変動期の映画監督。東亜キネマから昭和8年に日活京都撮影所に移籍した。アメリカ映画にならって、数名で脚本を執筆しようと山中貞雄が中心となって稲垣浩、八尋不二、滝沢英輔、三村伸太郎、萩原遼、土肥正幹(鈴木桃作)、藤井滋司ら監督・脚本家とともに鳴滝組というグループを結成した。鳴滝とは京都の洛西、鳴滝音戸山の周辺に住んでいたことに由来する。当時の京都は太秦や嵯峨に、日活、帝国キネマ、千恵蔵プロ、マキノ、寛十郎プロの撮影所があった。彼らは所属の撮影所は違っていたが、お互いに仕事を助け合ってシナリオを共同制作した。そして共同ペンネームを梶原金八と称した。梶原は山中貞雄ごひいきの当時の東大野球部の名投手梶原からとったもので、金に縁のない8人が儲かりますようにと、縁起をかついで金八と名付けたと伝えられている。

    梶原金八のシナリオは19本がある。稲垣浩「富士の白雪」、山中貞雄との共同監督の「関の弥太ッぺ」「怪盗白頭巾」、山中貞雄「勝鬨」「雁太郎街道」「海鳴り街道」、滝沢英輔「晴れる木曽路」「太閤記」「海内無双」「宮本武蔵」その他。そのうち3本を除いてことごとく山中貞雄が執筆している。昭和13年に山中は従軍中の中国北部で戦病死してから、昭和16年、稲垣浩の「海を渡る祭礼」を最後の作品として鳴滝組の活動は休止した。

近代の女流作家たち

   明治10年、中島歌子(1841-1903)によって東京に歌塾「萩の舎」が創設された。田辺花圃(三宅花圃、1868-1943)は明治21年長篇小説「藪の鶯」を出版し、女流作家として注目された。明治25年、三宅雪嶺と結婚。「みだれ咲」「露のよすが」「萩桔梗」「空行月」「玉すだれ」などの小説のほか短歌・随筆などを発表。同期の樋口一葉(1872-1896)は明治25年「闇桜」「たま襷」などの短編を発表、花圃の紹介で「うもれ木」「暁月夜」を発表。明治27年「大つごもり」明治28年「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」明治29年「わかれ道」「われから」などすぐれた作品を残し、はじめて作家を職業としてとらえた女性であったが24歳で他界した。

 

   はじめての新聞連載小説を書いたのは木村曙(1873-1890)で「婦人鏡」を読売新聞に連載して認められた。ついで「勇み肌」「操くらべ」「わか松」などを発表したが19歳で病没した。他に田沢稲舟(1874-1896)、大塚楠緒子(1875-1910)、清水紫琴(1867-1933)、相馬黒光(1876-1955)、福田英子(1865-1927)などが初期の文筆の道を拓いた女性である。

 

    明治、大正、昭和期に活躍する女性作家の多くは、「青鞜」「女人芸術」にその名が見られる。平塚らいてう(1886-1971)、与謝野晶子(1878-1942)、野上弥生子(1885-1985)、岡田八千代(1883-1962)、田村俊子(1884-1945)、長谷川時雨(1879-1941)、岡本かの子(1889-1939)などである。

 

   こうして多くの女流文学者が輩出する。吉屋信子、矢田津世子、真杉静枝、宇野千代、林芙美子、森田たま、今井邦子、深尾須磨子、平林たい子、円地文子、壷井栄、佐多稲子、網野菊、大田洋子、城夏子らである。

2007年3月 3日 (土)

冬のソナタ第8話のシナリオ

 「冬のソナタ」第8話「疑惑」を観る。あらためてシナリオの良さ、ストーリーの展開に惹かれていく。

   チェリンの嘘に気づいたミニョン(ぺ・ヨンジュン)は、ユジン(チェ・ジウ)に今までの誤解を謝罪し、彼女の本来の姿を知るうちに惹かれ始める。そんなとき、ふたりは山頂のレストランの調査に行くも、吹雪でゴンドラが止まり、その夜をレストランで過ごす。そこでミニョンはユジンに「いつまで死んだ人を想いながら生きていくつもりですか?」「お願いだからしっかりと現実を見てください。その人は死んだんです」ユジンは「やぬてよ!お願い、やめてってば!なんでこんなことするんですか?」ミニョンは「僕があなたを愛しているから…」と思わず告白する。レストランの椅子の上で一夜を明かし、翌朝、山頂の外に出た二人。ミニョンは「ユジンさん…昨日のこと、謝りません」「僕のせいでユジンさんを苦しめたと思うけど、言っておきたかった。後悔はしてません」「本当に僕を好きだったこと…一度もないんですか?」とユジンに問い詰める。そのときサンヒョク(パク・ヨンハ)が現れて、「ユジンは僕の婚約者です。そうした行動は失礼だとは思いませんか?」それでもミニョンは「まだユジンさんの答えを聞いていません。答えてください。ユジンさんが愛している人は…誰でしょうか?」ユジン「……」サンヒョクは「あなたがなんでそんなこと気にするんですか?」ミニョンは「ユジンさんを愛しているからです」サンヒョンは胸ぐらをつかんで「なんだって!もう1回言ってみろ!」ユジン「やめてください」目を怒らせてミニョンを放すサンヒョク。

   典型的な三角関係のもつれシーンであるが、画面に緊迫感があり演出が冴えわたる。この第8話の最後のワンシーンにサングラスをした中年女性(ミニョンの母)が空港から出てくると、携帯で「チュンサン元気にしていますか?」と誰かと会話する(ミニョンでなくチュンサンというところがミソ)。ここからミニョンの出生の秘密が絡んだストーリーはサスペンス的な要素も加わり新展開を見せる。「冬のソナタ」が四季シリーズで出色の出来栄えであるのは、名セリフも含めてストーリーの展開、脚本の完成度の高さにあるといえる。

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