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2007年2月 3日 (土)

木下藤吉郎の出世と天下平定

   天文5年、幼名日吉丸は、織田信秀の足軽木下弥右衛門の長男として生まれた。弥右衛門は戦傷で働けなくなり、彼が8歳のときに死んだ。あちこちに奉公したが、すぐ暇を出され、針売りなどして諸国を放浪。はじめ、今川義元の臣、松下嘉兵衛に仕え、ついで織田信長に仕える。時に日吉、18歳。木下藤吉郎と称す。御小人組を振り出しに、炭薪奉行、厩方知行三十貫、侍小路に屋敷を拝領と短時日のうちに出世してゆく。26歳の時、弓之衆、浅野又衛門の娘、寧々と結婚する。その初仕事が洲股築城だった。蜂須賀小六の手勢二千を使って築城に成功。浅井・朝倉攻めで大功をたて、遂に小谷城の主となった。翌年、小谷攻略の手がらを買われ、一躍、長浜の城主に。姓も木下藤吉郎から羽柴筑前守秀吉に。やがて信長の中国攻略が本格化し、秀吉は5年10月、中国征討の総大将として播磨に出陣した。中国は毛利の強力な地盤であったから敵の抵抗も猛烈で、三木城を落とすにも3年がかりの攻防をくりかえした。ようやく5年目の天正10年、備中高松城を水攻めにして対毛利戦の決着をつけんとしていた。天正10年6月、逆臣明智光秀を山崎の合戦に破り、秀吉は一躍、天下人候補の最右翼となった。信長の継承者を決める清洲会議でも、居並ぶ諸侯を圧して主導権を手中に治めた。必然、重臣の筆頭、柴田勝家と反目せざるをえなかった。もともと、秀吉は、勝家とは反りが合わなかった。賤ヶ岳の戦で勝家を破り、ついで信孝を滅ぼし北陸を平定し、従四位下参議となる。尾張国小牧・長久手に織田信雄・徳川家康と戦ったが、のち和睦する。天正13年、紀伊の根来・雑賀衆を討ち、また四国の長宗我部元親を屈服させる。同年内大臣、ついで藤原姓を称し従一位関白となる。同年大坂城が完成。同年豊臣姓勅許。天正14年、太政大臣。天正18年、北条氏直を滅ぼし、奥州を平定して全国を統一する。

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