ジャン・サントゥイユの肖像
マルセル・プルースト(1871-1922)は、パリのオートゥイユ、ラ・フォンテーヌ通り96番地に生まれる。父は、後にパリ大学医学部教授、フランス衛生局総裁となったアドリアン・プルーストで、伝染病予防交通遮断線の初めての提唱者。母ジャンヌはユダヤ系財閥のヴェイユ氏の出で、パリ生まれ。マルセルは、9歳の時、ブーローニュの森の散歩から帰ってきて突然喘息の発作を起こす。この喘息症状は、彼を生涯にわたって悩ますことになる。1905年、34歳のときに最愛の母が亡くなったことで、彼に転機が訪れる。37歳のとき「失われた時を求めて」という膨大な長編小説を書き始める。次の全7篇である。「スワン家のほうへ」「花咲く乙女たちのかげに」「ゲルマントの方」「ソドムとゴモラ」「囚われの女」「逃げさる女」「見出された時」。しかし1952年、無名の一青年の手でプルーストが生前に発表せずに捨ててしまった長編小説が発見された。この「失われた時を求めて」の母体となる小説は「ジャン・サントゥイユの肖像」として1952年にベルナール・ド・フアロウの校訂によって、出版された。「われわれの内部には、芸術的感動よりももっと深い何物かがある。それは、過去の、或る時間のなかの、どこか忘れられた一瞬に、完全なまま、新鮮なままにもたれていて、突然だまってわれわれにさしだされる自身の一部分である」という冒頭にかかげられた短文はこの小説の形態を暗示している。作者「私」は一友人とともにブルターニュの農園ホテルに滞在中、偶然同宿者のなかに彼らが私淑する大作家Cがいる。Cは彼らに或る長い物語を読み聞かせる。二人の青年はその物語のコピーをとる。時がたちCが死んだとき、「私」は、作品として発表しようと決心する。こういう三人称体の長編小説である。この小説はマルセル24歳から28歳まで書き続けられたが、1899年には放棄している。
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