無料ブログはココログ

« 現代詩の難解性による功罪論 | トップページ | 武田信虎と大井夫人 »

2007年2月 8日 (木)

武田信玄の諏訪氏経略と山本勘助

   天文10年、武田晴信(のちの信玄)は父信虎を駿河に追いやると、翌年6月、諏訪氏への侵略を開始した。諏訪には高遠城主の高遠頼継という者がおり、晴信は頼継と結んで、諏訪頼重を滅ぼした。

   諏訪氏を滅ぼした後、晴信は頼重が前夫人との間になした当時14歳の姫君がとても美人であったので側室に迎えようとした。これに板垣信形・飯富兵部・甘利備前等の老臣は反対した。このとき山本勘助は「もし諏訪御料人をお召しおきになり男子が生まれたならば、諏訪の忠臣たちは、お家再興のため武田に仕えるであろう。これは武田家のためではござらぬか」と説いたので、三人とも「なるほど、それもそうじゃの」と納得し、めでたく晴信は諏訪氏の女を側室に迎えいれることができた。(参考:海音寺潮五郎「武将列伝」)

« 現代詩の難解性による功罪論 | トップページ | 武田信虎と大井夫人 »

日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 現代詩の難解性による功罪論 | トップページ | 武田信虎と大井夫人 »

最近のトラックバック

2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31