武田信玄の諏訪氏経略と山本勘助
天文10年、武田晴信(のちの信玄)は父信虎を駿河に追いやると、翌年6月、諏訪氏への侵略を開始した。諏訪には高遠城主の高遠頼継という者がおり、晴信は頼継と結んで、諏訪頼重を滅ぼした。
諏訪氏を滅ぼした後、晴信は頼重が前夫人との間になした当時14歳の姫君がとても美人であったので側室に迎えようとした。これに板垣信形・飯富兵部・甘利備前等の老臣は反対した。このとき山本勘助は「もし諏訪御料人をお召しおきになり男子が生まれたならば、諏訪の忠臣たちは、お家再興のため武田に仕えるであろう。これは武田家のためではござらぬか」と説いたので、三人とも「なるほど、それもそうじゃの」と納得し、めでたく晴信は諏訪氏の女を側室に迎えいれることができた。(参考:海音寺潮五郎「武将列伝」)
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