神子上典膳、小金原の決闘
神子上典膳(1569-1628)は、伊勢の神職荒木田家に属する神苑衛士の家、神子上に生まれた。剣の道を求める熱意のあまりの烈しさに、獅子咬み典膳とさえ異名された。上総の万喜城主土岐氏の家来であった典膳は、旅の途中の伊藤一刀斎に勝負を挑み、負けてしまった。寝食を忘れ築きあげてきた修行と自身が打ち砕かれるや、翻然、一刀斎に師事する。
伊藤一刀斎には、典膳より前に小野善鬼(善鬼三介)という、第一の高弟がいた。徳川家康が一刀斎を召し抱えようといった時、一刀斎は辞退して、代わりに門人の典膳を推挙した。それを面白く思わなかった兄弟子の善鬼が怒って、試合を挑んだ。場所は総州小金原である。試合は凄絶をきわめ、なかなか決着がつかない。善鬼は隙をみて、傍らにおいてあった秘伝書を横づかみに奪い、逃走した。一刀斎と典膳は慌てて後を追いかけた。善鬼は追いつかれ、もはや逃げることができないと見ると、そこにあった大きな瓶のかげに隠れた。典膳がその瓶をどけようとすると、一刀斎は「足を払われるから、瓶と共に斬れ」と叫んだ。典膳は瓶もろともに善鬼を斬った。善鬼は奪った秘伝書だけをしっかりと口にくわえ、目をカッと見開き、すさまじい忿怒の形相のまま息絶えていた。そして、これ以後、一刀斎は消息不明となった。神子上典膳は名を小野次郎右衛門忠明と変えたが、苗字の小野は母方の姓ともいわれるが、一説には善鬼を哀れんだ典膳が、小野善鬼の「小野」を引き継いだとも言われている。小野忠明は、柳生家と共に将軍家師範となり、一刀流を継承した。
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