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2007年2月10日 (土)

吉川「宮本武蔵」を書かせた直木

   吉川英治が宮本武蔵を描く以前の武蔵のイメージは武芸の達人ではあっても、必ずしも深い人格の持ち主として扱われていたわけではない。あるとき、直木三十五は武蔵がそれほど強くなかったと断じ、吉川と論争になった。「僕は作家だから小説で書く」として、やがてそれが朝日新聞に連載されることになった(昭和10年8月から昭和14年7月)。新聞社も宮本武蔵という講談向けの素材に難色を示し、吉川をあきらめさせようとしたが、吉川の熱意に負けて当初200回の予定で連載が開始された。

どうなるものか、この天地の大きな動きが。もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。武蔵(たけぞう)は、そう思った。

   このような書き出しで始まる小説だが、当初、武蔵(たけぞう)から武蔵(むさし)にならないので、編集部では「武蔵はまだか」と問題となった。やがて読者たちの間で次回を読むのが楽しみと評判となり、新聞小説がこれぼと広範な読者を獲得したのは空前の出来事で、全部で1000回を超えることとなった。吉川「宮本武蔵」で繰り返し描かれているのは、武蔵の精神的な成長過程である。手のつけられない乱暴者であった武蔵は、沢庵によって千年杉に括りつけられ、人間の勇気を説かれる。それがきっかけとなり、「今から生まれ直したい。人間と生まれたのは大きな使命を持って出て来たのだということがわかった」と、人間としての自己に目覚める。そして、武蔵は、剣の道によって、「どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう」と決心を固め、修行の旅に出かける。槍で名高い奈良の宝蔵院での闘いや、洛北蓮台寺での吉岡清十郎との戦いなどを経て、佐々木小次郎との巌流島の決闘。武蔵が小次郎に勝利したのは、力や天佑以上のものであった。小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。

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