武田信虎と大井夫人
大河ドラマ「風林火山」の武田信玄の父と母、武田信虎(仲代達矢)と大井夫人(風吹ジュン)。武田信縄の子、信虎(1494-1574)は暴悪な性質で、人間の胎児はどんな具合にして発育するものか見たいというので、妊婦を1ヶ月から10ヶ月まで10人とらえて、順々に腹を裂いて点検したと伝えられている。怒りにまかせれば重臣でも手討ちにしたともいう。こんな人ではあったが、勇猛で、戦さ上手で、14歳の時家をついでから30数年の間に甲斐を統一し、勢力は信濃の一部にも及んだ。信玄に追放されてから今川氏の食客となる。永禄6年、信玄へ内通の疑いにより今川氏真に追われ上洛、足利義輝の相伴衆となる。信虎は長命で、信濃国伊那郡で没したのは息子の信玄の亡くなった翌年の天正2年のことであった。
大井夫人(1497-1552)は、大井信達の長女で、大井氏はもとは武田一族であったが、所領名に姓を変えて、本家の武田家と敵対するようになっていた。しかし大井信達は武田信虎に敗れ、その和睦として、大井夫人は父の敵、信虎に嫁いだのである。大井夫人の三人の子供たち、信玄、信繁、信廉はいずれも学芸と武勇に秀でていた。信玄は詩作にふけり、老臣に諌められるほどであった。二男の信繁は戦国の賢人といわれた。三男の信廉は武人画家でもあった。信廉が描いた長禅寺にある大井夫人の肖像画は重要文化財である。
天文10年(1541)6月、21歳の信玄は父信虎を駿府に追放する無血クーデターを起こした。信虎が信玄を嫌い廃嫡をもくろむ一方、粗暴な信虎を家臣も嫌がったためという。大井夫人も夫に従わず、息子たちの甲斐に残った。彼女は3人の息子たちに支えられるが、寂しい晩年であった。目や耳の悪い人のために資金を出すなど慈悲深く、天文21年に56歳で躑躅ヶ崎館の御隠居曲輪に病没した。信虎と大井夫人は生き別れのまま、再びこの世で再会することはなかった。(参考:海音寺潮五郎「武将列伝」、楠戸義昭「戦国女系譜2」)
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