二十一ヶ条要求と小日本主義
大正4年1月、大隈内閣の外相加藤高明は、第一次世界大戦をきっかけとして、大陸政策を積極化することを意図し、対中国要求を二十一ヵ条にまとめ袁世凱に提出した。5月9日袁政府は5号要求を除く全条項を承認、25日に日中条約、交換公文が交わされた。中国では7日、9日を国恥記念日として排日運動が高まった。
このころ「東洋経済新報」の三浦銕太郎(1874-1972)らは日本の対外膨張政策に正面から反対し、小日本主義の旗を掲げた。明治44年入社の石橋湛山(1884-1973)はこの社風をもとに「軍国主義、専制主義、国家主義」に対して、「産業主義、自由主義、個人主義」の論陣を張った。「其の場合には、独逸から取った物や、這次の対支交渉の結果で得た物の喪失だけでは、到底済まぬ。恐らく二十七、八戦役(日清戦争)から積上げて来た一切の獲物を、元も子もなく、取上げられるであろう」(東洋経済新報」大正4年5月5日社説)と憂慮したが、事実日本は40数年後、石橋の予言どうりに一切を失うこととなった。
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