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2007年2月26日 (月)

真田一族と戦国乱世

    NHK大河ドラマ「風林火山」には真田幸隆(佐々木蔵之介)が重要な役として登場する。平安時代以来、東信濃に根をはった滋野氏の宗家海野氏は、武田信虎に逐われて上野国にのがれ、その支族真田幸隆も上野に浪人したが、のちに信玄の臣となる。幸隆は北信濃の村上義清を越後に追い払い、旧領真田を回復した。だが、信玄の死とともに、危機にさらされるようになる。

   真田幸隆の三男昌幸は、長兄信綱と次兄昌輝が、長篠の戦いで戦死したため、真田家の当主となった。才覚のある昌幸は武田勝頼が天目山で滅ぶと、織田氏の武将滝川一益に属した。しかし天正10年、本能寺で織田信長が明智光秀に殺されると、上杉氏についてしまった。次には北条氏、転じて天正11年に徳川氏に随身することとなり、真田昌幸は千曲川のほとり、尼ヶ淵というところに城を築き、翌年に完成した。これを上田城という。まもなく起こった天正13年の第一次上田合戦で、上田城と真田昌幸は名声をほしいままにした。真田氏は当時小県(ちいさがた)地方(上田)3万8千石、上州沼田に2万7千石を領していた。その後、昌幸の長男信之は家康の養女小松姫(本多忠勝の娘)、二男幸村は豊臣方の大谷吉隆の娘を娶った。関ヶ原の戦いに真田信之(1566-1658)は徳川方についたが、真田昌幸(1547-1611)と真田幸村(1567-1615)は石田方につき、戦いののち高野山に流され、信之は父の遺領上田および沼田を与えられた。昌幸は高野山で死に、幸村は大坂夏の陣で奮戦して死んだ。信之は元和8年(1622)、上田から松代に移され、みずから松代十万石を領し、子孫相承けて明治に至った。

ルツの落穂拾い

   士師の時代、ベツレヘムで飢饉があり、イスラエルのなかでも有力な部族の一つだったエフライム人のエリメレクは、妻ナオミ、そしてマフロンとキルヨンという二人の息子を連れてモアブの地に引っ越してきた。息子がモアブの女を嫁にした。兄の妻はオルバ、弟の妻はルツといった。ところが、過労がたたってエリメレクは死に、さらに二人の息子たちも死んだ。姑のナオミは嫁たちに故郷の家に帰り、新しい人生を歩むようにすすめるが、ルツのナオミと共に生きてゆくという気持ちは変わらなかった。結局二人はナオミの故郷ベツレヘムに帰るが、そこにナオミの亡き夫の親類で大地主のボアズがいた。

  ルツとナオミがベツレヘムへ帰ったのは大麦の刈り入れの時期であった。ルツはボアズの畑へ行き、落穂を拾わせてもらい姑ナオミの面倒を見た。畑主のボアズは、ルツのそうした姿を見て心を打たれ、ルツと結婚した。

   ルツとボアズの子がオベドといい、その子がエッサイで、エッサイの子がダビデである。

   イスラエルの律法には「落穂は貧しい人のために残しておき、畑主が拾い集めてはいけない」とあった。農民画家ミレーの名画「落穂拾い」の主題も旧約聖書の「ルツの落穂拾い」に題材を得ており、土地をもたない最下層の農民が豊かな農民の情にすがってその土地に入れてもらい、わずかな落ち穂を拾うことを意味している。ルツとボアズはダビデの直系の先祖であり、キリストの遠祖である。

2007年2月25日 (日)

平賀源心の胴塚

   大河ドラマ「風林火山」第8話「奇襲!海ノ口」を見る。天文5年(1536)11月、甲斐武田は佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。城には山本勘助がいてなかなか攻め落とせない。12月26日、信虎は一旦甲斐に退却する。しかし武田晴信(市川亀治郎)は300人余りの手勢を率いて海ノ口城を急襲した。平賀源心(菅田俊)や夫人(三原わかほ)、美瑠姫(菅野莉央)は退却したと思い喜ぶ。勘助だけは不安を感じ源心に用心するよう進言する。油断しきっていた平賀勢の城兵はほとんど討ち取られ、海ノ口城は落城する。不落を誇り武田信虎が8000の軍勢で1ヵ月以上かけても落とせなかった城を、晴信はたった300の兵でわずか一刻のうちに落としてしまった。この「甲陽軍艦」に書かれたことがすべて史実かどうかは知らない。ただ城跡近くに晴信が手厚く弔ったとされる平賀源心の胴塚があると聞いた。平賀源心は怪力無双で四尺三寸の大太刀を振り回す勇将であるという。名前が江戸時代の蘭学者の平賀源内に似ていると思ったら、やはり源内は平賀氏の末裔とのことだ。市川亀治郎は声や所作に品格があってよい。落城した美瑠姫のその後が気がかりだ。

二十一ヶ条要求と小日本主義

   大正4年1月、大隈内閣の外相加藤高明は、第一次世界大戦をきっかけとして、大陸政策を積極化することを意図し、対中国要求を二十一ヵ条にまとめ袁世凱に提出した。5月9日袁政府は5号要求を除く全条項を承認、25日に日中条約、交換公文が交わされた。中国では7日、9日を国恥記念日として排日運動が高まった。

   このころ「東洋経済新報」の三浦銕太郎(1874-1972)らは日本の対外膨張政策に正面から反対し、小日本主義の旗を掲げた。明治44年入社の石橋湛山(1884-1973)はこの社風をもとに「軍国主義、専制主義、国家主義」に対して、「産業主義、自由主義、個人主義」の論陣を張った。「其の場合には、独逸から取った物や、這次の対支交渉の結果で得た物の喪失だけでは、到底済まぬ。恐らく二十七、八戦役(日清戦争)から積上げて来た一切の獲物を、元も子もなく、取上げられるであろう」(東洋経済新報」大正4年5月5日社説)と憂慮したが、事実日本は40数年後、石橋の予言どうりに一切を失うこととなった。

2007年2月24日 (土)

二人のラッパ卒の戦死

   明治27年7月29日、日清戦争で清国軍との成歓における激戦があった。この戦闘中に進軍ラッパを吹奏中に被弾し「死しても尚ラッパを口から離さなかった」という二人のラッパ卒の武勇が語りつがれている。白神源次郎(1868-1894)と木口小平である。

    白神は岡山県浅口郡船穂村出身。「安城渡しのラッパ卒」として白神源次郎の名前は、軍歌に歌われ、詩となり、日本中に英雄として広まった。しかし、1年後、実際にラッパ手を努めていたのは木口小平ということになり「キグチコヘイ ハ テキノ タマニ アタリマシタ ガ シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ」と尋常小学修身書に書かれて、木口小平の名前が全国的に広く知られるようになった。

    木口小平は明治5年岡山県成羽村新山に生まれる。木口小平は胸部に敵弾をうけ一度は倒れたが、銃を杖として起き上がり、さらにラッパを口にあて突撃の譜を奏し息の絶えるまでこれを続け、絶命後もなお銃とラッパを手から離さず、その壮絶なる動作は味方の士気を大いに鼓舞したという。

2007年2月23日 (金)

山岳信仰

    役小角が始祖とされる修験道は古代の山林仏教などと融合し、中世に入り、全国各地の霊山に浸透してゆき、出羽三山、立山、白山、三峰山、木曽御岳、伯耆大山、英彦山などは山伏の拠点として発展した。

    鎌倉時代は、山伏修行者のもっとも活発だったときで、山中の修行過程について、やかましく組織的秩序が定められ、修験は「道」と意識された。このように密教としての仏教に支えられた修験道であったが、古来固有の神道作法や山岳信仰に集っただけに、山伏の精進潔斎の仕方、参籠奉幣の儀礼は、純仏教にはうかがえぬものを含んできた。室町時代には、その実践について教養も神秘に綴られるに至り、真言系は当山派、天台系は本山派と分かれることになった。また、出羽三山が羽黒派、九州彦山が彦山派と、各地方的に別派を称したものがあるが、全体として、当山、本山の二派が著しい。近世には峯入り修行の面よりも、一般の俗信にこたえ、種々の呪術をおこなう面で世間に接する山伏が多かった。神仏分離を指令した明治維新政府は、明治5年修験道を廃絶させたが、実質的には民族的山岳信仰に包含されている。

躑躅ヶ崎館

   武田信虎は永正16年(1519)居館を石和の館から府中(甲府)に移し、家臣を城下に集住させた。信虎が本拠として築いたのが躑躅ヶ崎館で、信虎、信玄、勝頼の武田氏三代の居館となった。現在、その館跡に信玄を祭る武田神社が鎮座している。築城当時は、土塁と空堀をめぐらした方形の主郭のみで、信玄の代に、西曲輪、北曲輪などが拡張されて連郭式の縄張りとなった。東西約280m、南北約190m。堀は一重で、土塁も高くなく、必ずしも堅固な城ではないが、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」を信条とする信玄は、領内に新しい城郭を築かなかった。勝頼があたらに韮崎に新府城を築かなければならなくなったとき、武田氏は滅亡の運命を迎えたのである。

2007年2月21日 (水)

ヤコブの夢

    ヤコブは同族の娘をめとるため、母の実家に向かって旅立つ。その途上、行き暮れて道ばたの石を枕として野宿したが、その時夢に見たのが天国に達する階段であった。夢の中で彼は天使のかたわらに立つ神に祝福され、目覚めてから「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と実感する。

   ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をぺテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。

   ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」(創世記28章10~.20)

2007年2月17日 (土)

良寛と茶席

   ある日、良寛は茶席の行儀に退屈して鼻クソを丸めていたが、そのやり場がないまま右側におこうとした。ところが右側の客はこれを知って袖をいそいでたぐり寄せてしまった。そこで左におこうとすると、左側の客も、そうはさせじと袖を引いた。良寛はしかたなく、丸めたものを鼻に戻したという。

    またあるとき、良寛は濃茶であるのに飲みほしてしまった。ところがつぎの客があるのでやむなく口の中の茶を椀に吐き出して渡した。その人は念仏を唱えながら飲んだという。

2007年2月16日 (金)

懐かしのアメリカンTVウエスタン

  テレビ開局草創期はまだ番組制作力が弱かったため、アメリカンTVがゴールデンタイムに放送されるという状況が昭和30年代終わりまで続いて、子供心にも満足のゆくラインナップだったように思う。昭和34年の「ローハイド」はフランキー・レインが歌う「ローレン ローレン ローレン」という主題歌でおなじみのカウボーイの物語。主役はエリック・フレミングだがクリント・イーストウッドを世に送り出した西部劇として日本人にも記憶にのこる。チャック・コナーズの「ライフルマン」も忘れられない。「四角い顔にやさしい目」という主題歌が懐かしい。監督はなんとサム・ペキンパーだった。「ガンスモーク」は保安官マット・ディロン(ジェームズ・アーネス)が町の治安を守る姿を描く。「ボナンザー カートライト兄弟」では若きマイケル・ランドンがででいた。そのほかショットガン片手にひとり荒野を行くスティーブ・マックィーンの「拳銃無宿」、ヒュー・オブライエンの「保安官ワイアットアープ」、ヘンリー・フォンダの「胸に輝く銀の星」、ジーン・バリーの「バットマスターソン」、ゲイル・ディヴィスの「アニーよ銃をとれ」、ジームズ・ガーナーの「マーべリック」。そのほかにファミリー西部劇というジャンルに「ララミー牧場」「バークレー牧場」「ワイオミングの兄弟」などがある。とくに淀川長治解説の「ララミー牧場」のロバート・フラーの人気はすごかった。ロバート・フラーの写真が表紙の学習ノートがあった。デューク・エイセスが歌った主題歌も広く知られている。

  ララミー牧場  井田誠一訳詩

草は青く 山遠く

ここは西部の 大草原

たそがれの 牧場に

のぼる煙り なつかしや

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

      *

白い雲が とんでゆく

空にひびくは ムチの音

ならず者は よせつけぬ

腰の拳銃 伊達じゃない

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

            *

沈む夕陽 追いかけて

山の向こうへ とんでゆく

たくましい 渡り鳥

明日のねぐらを 誰が知ろう

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

大船山とミヤマキリシマ

    大船山(だいせんざん)山頂の南斜面は、初夏のころ紅紫色に咲く花 ミヤマキリシマで埋め尽くされる。大船山は九重連山の一つで、久住山、稲星山、星生山、天狗ヶ城、中岳、三俣山、白口岳、平治岳などが聳える。九重連山の真ん中にある窪地が「坊がつる」である。「坊がつる」とは、かつてこの地は天台宗の霊場として栄え、「坊」(本坊弘蔵坊)のある「つる」(平坦地、湿原)という意味。

    昭和53年、芹洋子によって「坊がつる讃歌」が全国に広められたが、原曲は昭和15年に作られた広島高等師範学校山岳部部歌。

 

1 人みな花に 酔うときも

 

  残雪恋し 山に入り

 

  涙を流す 山男

 

  雪解の水に 春を知る

 

2 みやまきりしま 咲き誇り

 

  山紅に 大船の

 

  峰を仰ぎて 山男

 

  花の情けを 知る者ぞ

2007年2月11日 (日)

片岡千恵蔵、武蔵で得た人間修養

    片岡千恵蔵(1903-1983)の晩年を田山力哉は、「千恵蔵一代」で次のように書いている。「死の三週間ばかり前、千恵蔵は病室のべッドに正座し、手をあわせてお経を読んでいた。頬はこけ、鬚も剃ってなく、蒼白な顔色、真っ白になった頭髪は総毛立ち、入れ歯を外した顎はガタガタしていた。その咽喉の奥からうなり声がひびき、それは経典の文句なのだった。その凄絶な姿は、彼がその長い俳優生活を通じて繰り返し演じてきた宮本武蔵の生き写しのように見る者に映じた。」

   昭和2年、吉川英治原作「万花地獄」(中島宝三監督)でデビューした千恵蔵は、昭和4年に「宮本武蔵」(井上金太郎監督、千恵プロ)、昭和12年に「宮本武蔵」(尾崎純監督、日活京都)、昭和15年「宮本武蔵 第1部 草分人々」(稲垣浩、日活京都)「第2部 栄達の門」(稲垣浩監督)「第3部 剣心一路」(稲垣浩監督)、昭和17年に「宮本武蔵 一乗寺の決闘」(稲垣浩監督、日活京都)、昭和18年に「宮本武蔵 二刀流開眼」(伊藤大輔監督、大映京都)「宮本武蔵 決闘般若坂」(伊藤大輔監督、大映京都)がある。後年、千恵蔵自身が次のように書いている。

「武蔵で得た人間修養」 片岡千恵蔵

   吉川英治先生と云えば、立派な作品が数多くありますが、やはり「宮本武蔵」はその代表作品の一つであると思います。私の多くの主演映画の中でも「宮本武蔵」は代表作の一つです。その「宮本武蔵」のタケゾウ時代を最初に主演させてもらったとき、偶々吉川先生が京都ホテルに来られたので、早速お伺いしていろいろお話をしておりましたところ、「千恵さん、これからの俳優は、どんな役が来てもいいように、人間的修養が大切だね」といわれましたが、当時若い私には、そのお言葉の意味がよく理解できなかったのです。つまり、俳優は、演技なり、立廻りがうまければよいのではないか、など生意気なことを思っていました。続いて。「剣心一路の巻」を撮影し終り、その試写を見ますと、私自身でも、役の「武蔵」になりきっていない、何か「なま」のままなのがよくわかりました。当時の新聞の映画評にも、「千恵蔵はまだ武蔵をやる役者ではない」などと酷評されましたが、残念乍ら、私も認めざるを得ないもっともな批評でした。その後、最後の「巌流島の決闘」を撮るまでの時間を、もう一度「宮本武蔵」を、心して読み直しました。心の底に、先生が云われたお言葉が残っていたこともあったのでしょうが、前に読んだ時は只、ストーリーの面白さで「武蔵」の動きだけを頭に描いていたのが、こんどは「武蔵」の心、悩み、がよく理解出来て、修養ということの意味の大切さをしみじみと感じました。「巌流島の決闘」を撮る時、私の人間的、精神的に、少々オーバーですが、十年位は成長したのではないかと思いました。以来、私の俳優としての「悟」を開く大きな転機になったと、京都ホテルでの吉川先生のお言葉を感謝と共に思い出しています。(「吉川英治全集月報30」)

   戦前の稲垣浩監督の「宮本武蔵」は総集編的なものだけが現存するという。佐々木小次郎(月形龍之介)との決闘シーンを見た人も多いだろうが、千恵蔵の文中にある「巌流島の決闘」という映画がフィルモグラフィーにでてこないのは謎である。千恵蔵はその生涯に武蔵を10回演じており、持ち役のひとつであることは自身のエッセーからもうかがえる。しかるに「コンサイス日本人名事典」に千恵蔵の代表作の「宮本武蔵」が遺漏しているのは誠に遺憾である。もちろん代表作も多いので芸術性を優先しているのであろう。「国士無双」「赤西蠣太」「血槍富士」「大菩薩峠」など名作を採録しているが、やはし千恵蔵の真髄は大衆性娯楽性なので「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博)や「宮本武蔵 一乗寺決闘」(稲垣浩)も是非のせてほしい。

2007年2月10日 (土)

吉川「宮本武蔵」を書かせた直木

   吉川英治が宮本武蔵を描く以前の武蔵のイメージは武芸の達人ではあっても、必ずしも深い人格の持ち主として扱われていたわけではない。あるとき、直木三十五は武蔵がそれほど強くなかったと断じ、吉川と論争になった。「僕は作家だから小説で書く」として、やがてそれが朝日新聞に連載されることになった(昭和10年8月から昭和14年7月)。新聞社も宮本武蔵という講談向けの素材に難色を示し、吉川をあきらめさせようとしたが、吉川の熱意に負けて当初200回の予定で連載が開始された。

どうなるものか、この天地の大きな動きが。もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。武蔵(たけぞう)は、そう思った。

   このような書き出しで始まる小説だが、当初、武蔵(たけぞう)から武蔵(むさし)にならないので、編集部では「武蔵はまだか」と問題となった。やがて読者たちの間で次回を読むのが楽しみと評判となり、新聞小説がこれぼと広範な読者を獲得したのは空前の出来事で、全部で1000回を超えることとなった。吉川「宮本武蔵」で繰り返し描かれているのは、武蔵の精神的な成長過程である。手のつけられない乱暴者であった武蔵は、沢庵によって千年杉に括りつけられ、人間の勇気を説かれる。それがきっかけとなり、「今から生まれ直したい。人間と生まれたのは大きな使命を持って出て来たのだということがわかった」と、人間としての自己に目覚める。そして、武蔵は、剣の道によって、「どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう」と決心を固め、修行の旅に出かける。槍で名高い奈良の宝蔵院での闘いや、洛北蓮台寺での吉岡清十郎との戦いなどを経て、佐々木小次郎との巌流島の決闘。武蔵が小次郎に勝利したのは、力や天佑以上のものであった。小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。

ヘーゲルとシェリング

    フリードリッヒ・ヘーゲル(1770-1831)。カントにはじまり、フィヒテ、シェリングにうけつがれたドイツ観念論哲学はヘーゲルによって完成されたといわれる。近代的精神の総決算をした人であり、ギリシア的理性(ヘレニズム)とキリスト教の精神(ヘブライズム)とを融合・統一したといわれている。またヘーゲルは、弁証法という論理を確立した人としても有名である。しかし一口にいってヘーゲルの哲学や著書はまことに難解である。ここではヘーゲル第一歩、ヘーゲルの第一著書の「精神現象学」を公刊したときのエピソードを紹介する。

   ヘーゲルが大学卒業後、7年間の家庭教師時代を経てシェリング(1775-1854)の世話でようやくイエナ大学に就職できたのは31歳の時であった。1801年1月、当時のドイツ哲学の中心地であるイエナにフランクフルトから移り住んだ。この地では、年下のシェリングが、無神論論争らよって大学を去ったフィヒテの後任として、すでに教授の地位についていた。そのころ、イエナには、シラー、シュレーゲル兄弟がおり、哲学者シェリングをも含めて、それぞれ活躍していた。ヘーゲルは7月に「フィヒテとシェリングの哲学体系の相違」を公にして、シェリングと同一の立場(汎神論的傾向)からフィヒテを批判した。しかし1807年4月に刊行した最初の主著「精神現象学」によって2人の決別は明らかとなった。この書の中で、ヘーゲルは、スピノザ、カント、フィヒテ、シェリングの哲学を痛烈に批判して自己自身の立場を宣言するのである。シェリングの絶対者についての考え方をそのなかにおいては、牛が黒くなる闇夜のごときものであるといって皮肉ったのはよく知られている。シェリングのもとにもこの本が送られてきたが、シェリングは序論しか読まなかったと伝えられる。

「春のワルツ」と「スーホの白い馬」

   ある女性が韓国ドラマ「春のワルツ」を見ていて、そのあとで、たまたま紺野美沙子の朗読「スーホの白い馬」を見つけた。これに「えぇっ!スホ!?」と驚いた、というブログを見つけた。

   「スーホの白い馬」というのは、40歳以下ぐらいの若い人は国語の教科書に掲載されているので誰でも知っているだろう。大塚勇三の再話、赤羽末吉の絵で昭和42年に福音館から出されて40年間親しまれている絵本だ。お話は、モンゴルの草原に育ったスーホは、ある日白い子馬を拾って帰る。スーホの世話で白い馬は美しくたくましく育った。殿様の主催した競馬から、白い馬は殿様にとりあげられることになるが、白い馬はスーホに会いたくて逃げて帰った。しかし、矢を射こまれて命を落とす。白馬の願いで、その身体から作ったのが、馬頭琴(モリン・ホール)であった。その音色がすばらしく、モンゴルの人々の心をやわらげたという、スーホと白い馬の愛の物語。ところが昔、言語学の田中克彦が「名前と人間」という本の中で、モンゴル人には「スーホ」という名前はいない、これは斧という意味の「スヘ」の間違いと指摘した。おそらく絵本の再話をする人が中国の漢語から「スホ」とカタカナ表記を適当に充てたのだろう。モンゴルの人からすると「スーホ」は聞きなれない名前らしい。ところでイ・ビョンホンの新作映画「夏物語」で主演しているヒロインの芸名は「スエ」である。「スホ」「スエ」「スヘ」などは韓国ではよく見られる名前なのだろう。

    問題の「春のワルツ」というドラマは、韓国の美しい島で母親と二人きりで暮らしている少女ウニョンの元にスホ(ウン・ウォンジュ)がやって来て仲良しになる。成長したウニョン(ハン・ヒョジュ)のもとにスホに似たチェハ(ソ・ドヨン)が現れる。スホとチェハは同一人物である。ウニョンとチェハの二人の愛の行方や如何に。

   さて冒頭で紹介した女性の疑問に対して、正確に答えるだけの言語学的、東洋史的知識をケペルは持たない。ただ同じ蒙古斑を持つモンゴルと韓国が、似たような名を持つことは偶然とは思えない。モンゴル語にくわしい田中克彦のいうように「スヘ」と発音することがより近いので問題はそう簡単ではない。韓国人名にはすべて漢字が充てられるので、漢語の音が変化したことが考えられないだろうか。人名ひとつとってみてもいろいろな興味と疑問がわいてくる。

2007年2月 8日 (木)

ジャン・サントゥイユの肖像

   マルセル・プルースト(1871-1922)は、パリのオートゥイユ、ラ・フォンテーヌ通り96番地に生まれる。父は、後にパリ大学医学部教授、フランス衛生局総裁となったアドリアン・プルーストで、伝染病予防交通遮断線の初めての提唱者。母ジャンヌはユダヤ系財閥のヴェイユ氏の出で、パリ生まれ。マルセルは、9歳の時、ブーローニュの森の散歩から帰ってきて突然喘息の発作を起こす。この喘息症状は、彼を生涯にわたって悩ますことになる。1905年、34歳のときに最愛の母が亡くなったことで、彼に転機が訪れる。37歳のとき「失われた時を求めて」という膨大な長編小説を書き始める。次の全7篇である。「スワン家のほうへ」「花咲く乙女たちのかげに」「ゲルマントの方」「ソドムとゴモラ」「囚われの女」「逃げさる女」「見出された時」。しかし1952年、無名の一青年の手でプルーストが生前に発表せずに捨ててしまった長編小説が発見された。この「失われた時を求めて」の母体となる小説は「ジャン・サントゥイユの肖像」として1952年にベルナール・ド・フアロウの校訂によって、出版された。「われわれの内部には、芸術的感動よりももっと深い何物かがある。それは、過去の、或る時間のなかの、どこか忘れられた一瞬に、完全なまま、新鮮なままにもたれていて、突然だまってわれわれにさしだされる自身の一部分である」という冒頭にかかげられた短文はこの小説の形態を暗示している。作者「私」は一友人とともにブルターニュの農園ホテルに滞在中、偶然同宿者のなかに彼らが私淑する大作家Cがいる。Cは彼らに或る長い物語を読み聞かせる。二人の青年はその物語のコピーをとる。時がたちCが死んだとき、「私」は、作品として発表しようと決心する。こういう三人称体の長編小説である。この小説はマルセル24歳から28歳まで書き続けられたが、1899年には放棄している。

武田信虎と大井夫人

    大河ドラマ「風林火山」の武田信玄の父と母、武田信虎(仲代達矢)と大井夫人(風吹ジュン)。武田信縄の子、信虎(1494-1574)は暴悪な性質で、人間の胎児はどんな具合にして発育するものか見たいというので、妊婦を1ヶ月から10ヶ月まで10人とらえて、順々に腹を裂いて点検したと伝えられている。怒りにまかせれば重臣でも手討ちにしたともいう。こんな人ではあったが、勇猛で、戦さ上手で、14歳の時家をついでから30数年の間に甲斐を統一し、勢力は信濃の一部にも及んだ。信玄に追放されてから今川氏の食客となる。永禄6年、信玄へ内通の疑いにより今川氏真に追われ上洛、足利義輝の相伴衆となる。信虎は長命で、信濃国伊那郡で没したのは息子の信玄の亡くなった翌年の天正2年のことであった。

    大井夫人(1497-1552)は、大井信達の長女で、大井氏はもとは武田一族であったが、所領名に姓を変えて、本家の武田家と敵対するようになっていた。しかし大井信達は武田信虎に敗れ、その和睦として、大井夫人は父の敵、信虎に嫁いだのである。大井夫人の三人の子供たち、信玄、信繁、信廉はいずれも学芸と武勇に秀でていた。信玄は詩作にふけり、老臣に諌められるほどであった。二男の信繁は戦国の賢人といわれた。三男の信廉は武人画家でもあった。信廉が描いた長禅寺にある大井夫人の肖像画は重要文化財である。

   天文10年(1541)6月、21歳の信玄は父信虎を駿府に追放する無血クーデターを起こした。信虎が信玄を嫌い廃嫡をもくろむ一方、粗暴な信虎を家臣も嫌がったためという。大井夫人も夫に従わず、息子たちの甲斐に残った。彼女は3人の息子たちに支えられるが、寂しい晩年であった。目や耳の悪い人のために資金を出すなど慈悲深く、天文21年に56歳で躑躅ヶ崎館の御隠居曲輪に病没した。信虎と大井夫人は生き別れのまま、再びこの世で再会することはなかった。(参考:海音寺潮五郎「武将列伝」、楠戸義昭「戦国女系譜2」)

武田信玄の諏訪氏経略と山本勘助

   天文10年、武田晴信(のちの信玄)は父信虎を駿河に追いやると、翌年6月、諏訪氏への侵略を開始した。諏訪には高遠城主の高遠頼継という者がおり、晴信は頼継と結んで、諏訪頼重を滅ぼした。

   諏訪氏を滅ぼした後、晴信は頼重が前夫人との間になした当時14歳の姫君がとても美人であったので側室に迎えようとした。これに板垣信形・飯富兵部・甘利備前等の老臣は反対した。このとき山本勘助は「もし諏訪御料人をお召しおきになり男子が生まれたならば、諏訪の忠臣たちは、お家再興のため武田に仕えるであろう。これは武田家のためではござらぬか」と説いたので、三人とも「なるほど、それもそうじゃの」と納得し、めでたく晴信は諏訪氏の女を側室に迎えいれることができた。(参考:海音寺潮五郎「武将列伝」)

2007年2月 4日 (日)

現代詩の難解性による功罪論

    大正詩壇で活躍された佐藤春夫は、昭和34年当時、朝日新聞に「現代詩はなぜ難解か」という一文を発表している。その主な内容は「私は年を取っているのでもう格別に努力を払って現代を追いかけようとは思わない。だが私も他の人々とともに現代詩を難解だと思う。その意図するところは分かっているつもりにもかかわらず、現代詩はやはり難解である。」と嘆いている。

   日本の近代詩の成立には、例えば島崎藤村、土井晩翠、与謝野鉄幹、薄田泣菫、伊良子清白、河井酔名、蒲原有明、北原白秋、木下杢太郎、高村光太郎、三木露風、室生犀星、萩原朔太郎、宮沢賢治、中原中也など感傷と主情とを以て、暗誦するほど親しまれた詩が多数うまれた。佐藤春夫が嘆く「現代詩は難解になった」とは、現代詩史のどの時点をさすのであろうか。佐藤春夫には具体的な記述がないので、あくまでケペルの推測であるが、それはモダニズム詩人とか知性詩といわれる詩人たちの出現によるものであろう。吉田精一の「現代詩」(学燈文庫)から参考すると、「日本詩人」以後の一雑誌氏による合同運動として、特筆すべきは「詩と試論」(]昭和3年)である。昭和4年更に「文学」と改めて昭和8年までつづいた。ここによった詩人には、安西冬衛、上田敏衛、神原泰、北川冬彦、近藤東、滝口武士、竹中郁、春山行夫、北園克衛、三好達治、佐藤一英、滝口修造、西脇順三郎、吉田一穂等がある。この運動の目的は要するに主知的な詩であり、更に超現実的な詩風の追求であった。それを一口にいえば、単に感覚すればよい、意味をぬきにした想像の世界の創造であり、夢を現実のうちに建設しようという試みである。代表例として、西脇順三郎の「天気」という詩があげられる。

     天気

(覆された宝石)のやうな朝

何人か戸口で誰かとささやく

それは神の生誕の日

   この詩を何度となく読み返したが、佐藤春夫のいうことがわかっただけで、詩のいわんとするところはさっぱり理解できなかった。高校時代の教科書にも西脇順三郎の詩があったが、やはり難解だという印象があった。では、村野四郎の「体操詩集」は現在も中学校の教材として使われ、わかりやすいのではないかという人がいるであろう。

      体操

僕には愛がない

僕には権力を持たぬ

白い襯衣の中の個だ

僕は解体し、構成する

地平線がきて僕に交叉る

僕は周囲を無視する

しかも外界は整列するのだ

僕の咽喉は笛だ

僕の命令は音だ

僕は柔い掌をひるがえし

深呼吸する

このとき

僕の形へ挿される一輪の薔薇

   村野の第2詩集「体操詩集」(昭和14年)は、その機知とイメージの美しさにおいて現代詩史上特筆すべき詩業として、詩壇の評価はいまも高い。詩から湿った叙情性や詠嘆性を一切取り除くことに成功した。いわば「体操詩集」は、日本の詩が近代史から現代詩に進んでいくポイントになった詩集である。「体操」「鉄亜鈴」「鉄亜鈴」「鉄鎚投」「吊環」「鉄棒」「鞦韆」「棒高飛」「登攀」「スキー」「飛込」「フーブ」「拳闘」「槍投」「競走」「肋木」などがある。とくに「鉄棒」はよく知られている。ところが実際読んでみると難解であることに気づかされる。例にあげた「体操」の詩の「僕には愛がない」とあるが、体操と愛とはどう関連があるのだろうか。解説書には適切な紹介が示されていることと思うが、これらはつまり「暗喩」というものだそうだ。最もやさしく理解できる「鉄棒」にも作者の意図するところは、実は別にあるのかもしれない。かような詩が新しい発展を示したことは疑いえないが、同時にそれは詩を空想のおもちゃとし、一般的な根強い人間性の共感を欠く結果を招いたことはたしかである。(参考:吉田精一「現代詩」学燈社)

2007年2月 3日 (土)

神子上典膳、小金原の決闘

  神子上典膳(1569-1628)は、伊勢の神職荒木田家に属する神苑衛士の家、神子上に生まれた。剣の道を求める熱意のあまりの烈しさに、獅子咬み典膳とさえ異名された。上総の万喜城主土岐氏の家来であった典膳は、旅の途中の伊藤一刀斎に勝負を挑み、負けてしまった。寝食を忘れ築きあげてきた修行と自身が打ち砕かれるや、翻然、一刀斎に師事する。

   伊藤一刀斎には、典膳より前に小野善鬼(善鬼三介)という、第一の高弟がいた。徳川家康が一刀斎を召し抱えようといった時、一刀斎は辞退して、代わりに門人の典膳を推挙した。それを面白く思わなかった兄弟子の善鬼が怒って、試合を挑んだ。場所は総州小金原である。試合は凄絶をきわめ、なかなか決着がつかない。善鬼は隙をみて、傍らにおいてあった秘伝書を横づかみに奪い、逃走した。一刀斎と典膳は慌てて後を追いかけた。善鬼は追いつかれ、もはや逃げることができないと見ると、そこにあった大きな瓶のかげに隠れた。典膳がその瓶をどけようとすると、一刀斎は「足を払われるから、瓶と共に斬れ」と叫んだ。典膳は瓶もろともに善鬼を斬った。善鬼は奪った秘伝書だけをしっかりと口にくわえ、目をカッと見開き、すさまじい忿怒の形相のまま息絶えていた。そして、これ以後、一刀斎は消息不明となった。神子上典膳は名を小野次郎右衛門忠明と変えたが、苗字の小野は母方の姓ともいわれるが、一説には善鬼を哀れんだ典膳が、小野善鬼の「小野」を引き継いだとも言われている。小野忠明は、柳生家と共に将軍家師範となり、一刀流を継承した。

2007年2月 1日 (木)

「万葉集」冒頭の歌

   万葉集をひらくと、いちばんはじめに、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に皇居のあった雄略天皇の作と伝える求婚の歌がある。

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持つ この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

(通釈)かごもまあ、よいかごを持ち、ふくしもまあ、よいふくしを持って、この丘で菜を摘んでいらっしゃる娘さんよ、あなたの家がどこか聞きたい。おっしゃってください。大和の国は、この私がぜんぶ従えているのです。この私がすべて領有しているのです。こういう私にこそ、おっしゃるがよろしい、あなたの家をも、あなたの名前をも。

   犬養孝は「時は春、所は国原の見渡せる丘(おそらく天ノ森の丘あたりか)、籠を持ちへらを持つ若菜つみの野の乙女に、名をたずねて求婚の情を示す、とらわれぬ人間真情の律動は、春風とともに、よみがえってきて、万葉開幕の象徴の感さえおぼえさせられる。もちろん作者は雄略天皇と伝えられるだけあって、もともと求婚の民謡風のものが、5世紀後半の英雄的君主の物語とからみあって、伝承発展をとげ、宮廷の大歌として、舞いなど伴ってのこされたものであろう。」と記している。(参考:犬養孝「万葉の旅」現代教養文庫)

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