片岡千恵蔵(1903-1983)の晩年を田山力哉は、「千恵蔵一代」で次のように書いている。「死の三週間ばかり前、千恵蔵は病室のべッドに正座し、手をあわせてお経を読んでいた。頬はこけ、鬚も剃ってなく、蒼白な顔色、真っ白になった頭髪は総毛立ち、入れ歯を外した顎はガタガタしていた。その咽喉の奥からうなり声がひびき、それは経典の文句なのだった。その凄絶な姿は、彼がその長い俳優生活を通じて繰り返し演じてきた宮本武蔵の生き写しのように見る者に映じた。」
昭和2年、吉川英治原作「万花地獄」(中島宝三監督)でデビューした千恵蔵は、昭和4年に「宮本武蔵」(井上金太郎監督、千恵プロ)、昭和12年に「宮本武蔵」(尾崎純監督、日活京都)、昭和15年「宮本武蔵 第1部 草分人々」(稲垣浩、日活京都)「第2部 栄達の門」(稲垣浩監督)「第3部 剣心一路」(稲垣浩監督)、昭和17年に「宮本武蔵 一乗寺の決闘」(稲垣浩監督、日活京都)、昭和18年に「宮本武蔵 二刀流開眼」(伊藤大輔監督、大映京都)「宮本武蔵 決闘般若坂」(伊藤大輔監督、大映京都)がある。後年、千恵蔵自身が次のように書いている。
「武蔵で得た人間修養」 片岡千恵蔵
吉川英治先生と云えば、立派な作品が数多くありますが、やはり「宮本武蔵」はその代表作品の一つであると思います。私の多くの主演映画の中でも「宮本武蔵」は代表作の一つです。その「宮本武蔵」のタケゾウ時代を最初に主演させてもらったとき、偶々吉川先生が京都ホテルに来られたので、早速お伺いしていろいろお話をしておりましたところ、「千恵さん、これからの俳優は、どんな役が来てもいいように、人間的修養が大切だね」といわれましたが、当時若い私には、そのお言葉の意味がよく理解できなかったのです。つまり、俳優は、演技なり、立廻りがうまければよいのではないか、など生意気なことを思っていました。続いて。「剣心一路の巻」を撮影し終り、その試写を見ますと、私自身でも、役の「武蔵」になりきっていない、何か「なま」のままなのがよくわかりました。当時の新聞の映画評にも、「千恵蔵はまだ武蔵をやる役者ではない」などと酷評されましたが、残念乍ら、私も認めざるを得ないもっともな批評でした。その後、最後の「巌流島の決闘」を撮るまでの時間を、もう一度「宮本武蔵」を、心して読み直しました。心の底に、先生が云われたお言葉が残っていたこともあったのでしょうが、前に読んだ時は只、ストーリーの面白さで「武蔵」の動きだけを頭に描いていたのが、こんどは「武蔵」の心、悩み、がよく理解出来て、修養ということの意味の大切さをしみじみと感じました。「巌流島の決闘」を撮る時、私の人間的、精神的に、少々オーバーですが、十年位は成長したのではないかと思いました。以来、私の俳優としての「悟」を開く大きな転機になったと、京都ホテルでの吉川先生のお言葉を感謝と共に思い出しています。(「吉川英治全集月報30」)
戦前の稲垣浩監督の「宮本武蔵」は総集編的なものだけが現存するという。佐々木小次郎(月形龍之介)との決闘シーンを見た人も多いだろうが、千恵蔵の文中にある「巌流島の決闘」という映画がフィルモグラフィーにでてこないのは謎である。千恵蔵はその生涯に武蔵を10回演じており、持ち役のひとつであることは自身のエッセーからもうかがえる。しかるに「コンサイス日本人名事典」に千恵蔵の代表作の「宮本武蔵」が遺漏しているのは誠に遺憾である。もちろん代表作も多いので芸術性を優先しているのであろう。「国士無双」「赤西蠣太」「血槍富士」「大菩薩峠」など名作を採録しているが、やはし千恵蔵の真髄は大衆性娯楽性なので「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博)や「宮本武蔵 一乗寺決闘」(稲垣浩)も是非のせてほしい。
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