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2007年2月26日 (月)

真田一族と戦国乱世

    NHK大河ドラマ「風林火山」には真田幸隆(佐々木蔵之介)が重要な役として登場する。平安時代以来、東信濃に根をはった滋野氏の宗家海野氏は、武田信虎に逐われて上野国にのがれ、その支族真田幸隆も上野に浪人したが、のちに信玄の臣となる。幸隆は北信濃の村上義清を越後に追い払い、旧領真田を回復した。だが、信玄の死とともに、危機にさらされるようになる。

   真田幸隆の三男昌幸は、長兄信綱と次兄昌輝が、長篠の戦いで戦死したため、真田家の当主となった。才覚のある昌幸は武田勝頼が天目山で滅ぶと、織田氏の武将滝川一益に属した。しかし天正10年、本能寺で織田信長が明智光秀に殺されると、上杉氏についてしまった。次には北条氏、転じて天正11年に徳川氏に随身することとなり、真田昌幸は千曲川のほとり、尼ヶ淵というところに城を築き、翌年に完成した。これを上田城という。まもなく起こった天正13年の第一次上田合戦で、上田城と真田昌幸は名声をほしいままにした。真田氏は当時小県(ちいさがた)地方(上田)3万8千石、上州沼田に2万7千石を領していた。その後、昌幸の長男信之は家康の養女小松姫(本多忠勝の娘)、二男幸村は豊臣方の大谷吉隆の娘を娶った。関ヶ原の戦いに真田信之(1566-1658)は徳川方についたが、真田昌幸(1547-1611)と真田幸村(1567-1615)は石田方につき、戦いののち高野山に流され、信之は父の遺領上田および沼田を与えられた。昌幸は高野山で死に、幸村は大坂夏の陣で奮戦して死んだ。信之は元和8年(1622)、上田から松代に移され、みずから松代十万石を領し、子孫相承けて明治に至った。

永遠の青春映画「エデンの東」

「父はぼくを憎んでいるのだろうか?」

   日曜日の8時から10時までの2時間は父子の対立のドラマ二本がいま高視聴率である。大河ドラマ「風林火山」と日曜劇場「華麗なる一族」(MBS)は、武田信虎(仲代達矢)と信玄(市川亀治郎)、万表大介(北大路欣也)と鉄平(木村拓也)、時代や状況は異なるが、ともにドラマの基本的構図は父子の確執を描いている。ところで父子の対立を描いたドラマの元祖といえば、ジェームズ・ディーンの「エデンの東」ではないだろうか。

    アロン(リチャード・ダバロス)とキャル(ジェームズ・ディーン)は同じ両親から生まれたとは信じられないくらい、性格がちがっていた。兄のアロンは父アダム・トラスク(;レイモンド・マッセイ)の信頼も厚く、町の模範青年なのに、弟のキャルは暴れん坊のひねくれ者。父もキャルには手をやいていた。

   ある日、キャルは、彼を産み落としてから離婚していた母ケイト(ジョー・ヴァン・フリート)の噂を聞き、彼女が経営しているいかがわしい賭博業兼バーへ行ってみた。キャルは老醜の母に対して、懐かしさと同時にかすかな嫌悪の情を抱いた。

   父はレタスを冷凍化して大量輸送する新事業に夢中だったが、失敗して財産のほとんどを失う。キャルは、父の損害を自分で取り戻し、それにより父の愛情をかちえようと考えた。あの母親に頼みこんで3千ドルの大金を借りると、第1次大戦による食料不足を予測して、豆をつくる農業に投資した。彼の予測はあたり、父の損害以上の金を得ることができた。

    父の誕生日。父の喜ぶ顔を期待してキャルは例の金をプレゼントした。だが父は断固これを拒否した。そんなものより、兄とアブラ(ジュリー・ハリス)の婚約のほうがずっとうれしいというのだ。キャルの絶望、むくわれぬ愛の悲しみはいつしか兄への憎悪と変わっていく。キャルは兄を連れ出すと、母のところへ連れていった。死んだと思っていた母がまだ生きていたばかりか、自分の最も軽蔑している種類の女であったことを知り、兄のアロンは理性を失う。ヤケ酒におぼれ、苦しみから逃れようと半狂乱のまま、兵役を志願し、町を去っていった。

    ショックのあまり父も脳卒中で倒れ、身動きできない重病人となる。良心の呵責に耐えきれず、キャルは許しを乞うたが、父の顔には何の表情も浮かんでこなかった。アブラは、心からキャルを愛している自分にめざめ、アダムの枕もとで、キャルが父親の愛情に飢えていることを説いた。そしてアダムは、はじめてキャルに父親らしい愛情をしめし、父子の間に愛が甦るのだった。

ルツの落穂拾い

   士師の時代、ベツレヘムで飢饉があり、イスラエルのなかでも有力な部族の一つだったエフライム人のエリメレクは、妻ナオミ、そしてマフロンとキルヨンという二人の息子を連れてモアブの地に引っ越してきた。息子がモアブの女を嫁にした。兄の妻はオルバ、弟の妻はルツといった。ところが、過労がたたってエリメレクは死に、さらに二人の息子たちも死んだ。姑のナオミは嫁たちに故郷の家に帰り、新しい人生を歩むようにすすめるが、ルツのナオミと共に生きてゆくという気持ちは変わらなかった。結局二人はナオミの故郷ベツレヘムに帰るが、そこにナオミの亡き夫の親類で大地主のボアズがいた。

  ルツとナオミがベツレヘムへ帰ったのは大麦の刈り入れの時期であった。ルツはボアズの畑へ行き、落穂を拾わせてもらい姑ナオミの面倒を見た。畑主のボアズは、ルツのそうした姿を見て心を打たれ、ルツと結婚した。

   ルツとボアズの子がオベドといい、その子がエッサイで、エッサイの子がダビデである。

   イスラエルの律法には「落穂は貧しい人のために残しておき、畑主が拾い集めてはいけない」とあった。農民画家ミレーの名画「落穂拾い」の主題も旧約聖書の「ルツの落穂拾い」に題材を得ており、土地をもたない最下層の農民が豊かな農民の情にすがってその土地に入れてもらい、わずかな落ち穂を拾うことを意味している。ルツとボアズはダビデの直系の先祖であり、キリストの遠祖である。

2007年2月25日 (日)

平賀源心の胴塚

   大河ドラマ「風林火山」第8話「奇襲!海ノ口」を見る。天文5年(1536)11月、甲斐武田は佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。城には山本勘助がいてなかなか攻め落とせない。12月26日、信虎は一旦甲斐に退却する。しかし武田晴信(市川亀治郎)は300人余りの手勢を率いて海ノ口城を急襲した。平賀源心(菅田俊)や夫人(三原わかほ)、美瑠姫(菅野莉央)は退却したと思い喜ぶ。勘助だけは不安を感じ源心に用心するよう進言する。油断しきっていた平賀勢の城兵はほとんど討ち取られ、海ノ口城は落城する。不落を誇り武田信虎が8000の軍勢で1ヵ月以上かけても落とせなかった城を、晴信はたった300の兵でわずか一刻のうちに落としてしまった。この「甲陽軍艦」に書かれたことがすべて史実かどうかは知らない。ただ城跡近くに晴信が手厚く弔ったとされる平賀源心の胴塚があると聞いた。平賀源心は怪力無双で四尺三寸の大太刀を振り回す勇将であるという。名前が江戸時代の蘭学者の平賀源内に似ていると思ったら、やはり源内は平賀氏の末裔とのことだ。市川亀治郎は声や所作に品格があってよい。落城した美瑠姫のその後が気がかりだ。

二十一ヶ条要求と小日本主義

   大正4年1月、大隈内閣の外相加藤高明は、第一次世界大戦をきっかけとして、大陸政策を積極化することを意図し、対中国要求を二十一ヵ条にまとめ袁世凱に提出した。5月9日袁政府は5号要求を除く全条項を承認、25日に日中条約、交換公文が交わされた。中国では7日、9日を国恥記念日として排日運動が高まった。

   このころ「東洋経済新報」の三浦銕太郎(1874-1972)らは日本の対外膨張政策に正面から反対し、小日本主義の旗を掲げた。明治44年入社の石橋湛山(1884-1973)はこの社風をもとに「軍国主義、専制主義、国家主義」に対して、「産業主義、自由主義、個人主義」の論陣を張った。「其の場合には、独逸から取った物や、這次の対支交渉の結果で得た物の喪失だけでは、到底済まぬ。恐らく二十七、八戦役(日清戦争)から積上げて来た一切の獲物を、元も子もなく、取上げられるであろう」(東洋経済新報」大正4年5月5日社説)と憂慮したが、事実日本は40数年後、石橋の予言どうりに一切を失うこととなった。

2007年2月24日 (土)

二人のラッパ卒の戦死

   明治27年7月29日、日清戦争で清国軍との成歓における激戦があった。この戦闘中に進軍ラッパを吹奏中に被弾し「死しても尚ラッパを口から離さなかった」という二人のラッパ卒の武勇が語りつがれている。白神源次郎(1868-1894)と木口小平である。

    白神は岡山県浅口郡船穂村出身。「安城渡しのラッパ卒」として白神源次郎の名前は、軍歌に歌われ、詩となり、日本中に英雄として広まった。しかし、1年後、実際にラッパ手を努めていたのは木口小平ということになり「キグチコヘイ ハ テキノ タマニ アタリマシタ ガ シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ」と尋常小学修身書に書かれて、木口小平の名前が全国的に広く知られるようになった。

    木口小平は明治5年岡山県成羽村新山に生まれる。木口小平は胸部に敵弾をうけ一度は倒れたが、銃を杖として起き上がり、さらにラッパを口にあて突撃の譜を奏し息の絶えるまでこれを続け、絶命後もなお銃とラッパを手から離さず、その壮絶なる動作は味方の士気を大いに鼓舞したという。

2007年2月23日 (金)

山岳信仰

    役小角が始祖とされる修験道は古代の山林仏教などと融合し、中世に入り、全国各地の霊山に浸透してゆき、出羽三山、立山、白山、三峰山、木曽御岳、伯耆大山、英彦山などは山伏の拠点として発展した。

    鎌倉時代は、山伏修行者のもっとも活発だったときで、山中の修行過程について、やかましく組織的秩序が定められ、修験は「道」と意識された。このように密教としての仏教に支えられた修験道であったが、古来固有の神道作法や山岳信仰に集っただけに、山伏の精進潔斎の仕方、参籠奉幣の儀礼は、純仏教にはうかがえぬものを含んできた。室町時代には、その実践について教養も神秘に綴られるに至り、真言系は当山派、天台系は本山派と分かれることになった。また、出羽三山が羽黒派、九州彦山が彦山派と、各地方的に別派を称したものがあるが、全体として、当山、本山の二派が著しい。近世には峯入り修行の面よりも、一般の俗信にこたえ、種々の呪術をおこなう面で世間に接する山伏が多かった。神仏分離を指令した明治維新政府は、明治5年修験道を廃絶させたが、実質的には民族的山岳信仰に包含されている。

躑躅ヶ崎館

   武田信虎は永正16年(1519)居館を石和の館から府中(甲府)に移し、家臣を城下に集住させた。信虎が本拠として築いたのが躑躅ヶ崎館で、信虎、信玄、勝頼の武田氏三代の居館となった。現在、その館跡に信玄を祭る武田神社が鎮座している。築城当時は、土塁と空堀をめぐらした方形の主郭のみで、信玄の代に、西曲輪、北曲輪などが拡張されて連郭式の縄張りとなった。東西約280m、南北約190m。堀は一重で、土塁も高くなく、必ずしも堅固な城ではないが、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」を信条とする信玄は、領内に新しい城郭を築かなかった。勝頼があたらに韮崎に新府城を築かなければならなくなったとき、武田氏は滅亡の運命を迎えたのである。

2007年2月21日 (水)

ヤコブの夢

    ヤコブは同族の娘をめとるため、母の実家に向かって旅立つ。その途上、行き暮れて道ばたの石を枕として野宿したが、その時夢に見たのが天国に達する階段であった。夢の中で彼は天使のかたわらに立つ神に祝福され、目覚めてから「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と実感する。

   ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をぺテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。

   ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」(創世記28章10~.20)

早春の歌

     早春賦           大正2年

         吉丸一昌作詞、中田章作曲

1 春は名のみの風の寒さや。

    谷の鶯、歌は思えど

  時にあらずと 声も立てず。

    時にあらずと 声も立てず。

2 氷解け去り葦は角ぐむ。

    さては時ぞと 思うあやにく

  今日もきのうも 雪の空。

    今日もきのうも 雪の空。

3 春と聞かねば知らでありしを。

    聞けば急かるる 胸の思を

  いかにせよとの この頃か。

    いかにせよとの この頃か。

    作詞の吉丸一昌(1873-1916)は、大分県生まれ、東京音楽学校教授。作曲の中田章(1886-1931)は、東京生まれ、東京音楽学校教授をつとめる。中田喜直(1923-2000)の父。

    ウグイスは別名を春鳥、春告鳥ともいわれ、ウグイスの初鳴きは春の到来を実感する。

   ウグイス        昭和16年

        林柳波詩、井上武士作曲

1 ウメノ 小枝デ、

   ウグイスハ

  春ガ キタヨト

   ウタイマス。

  ホウ ホウ ホケキョ、

   ホウ ホケキョ。

2 雪ノ オ山ヲ

   キノウ 出テ、

  里へ 来タヨト

   ウタイマス

  ホウ ホウ ホケキョ、

   ホウ ホケキョ。

2007年2月17日 (土)

良寛と茶席

   ある日、良寛は茶席の行儀に退屈して鼻クソを丸めていたが、そのやり場がないまま右側におこうとした。ところが右側の客はこれを知って袖をいそいでたぐり寄せてしまった。そこで左におこうとすると、左側の客も、そうはさせじと袖を引いた。良寛はしかたなく、丸めたものを鼻に戻したという。

    またあるとき、良寛は濃茶であるのに飲みほしてしまった。ところがつぎの客があるのでやむなく口の中の茶を椀に吐き出して渡した。その人は念仏を唱えながら飲んだという。

小林多喜二と志賀直哉

    小林多喜ニ(1903-1933)が奈良にいた志賀直哉を訪問した時、志賀は「麻雀か将棋でもしないか」と誘ったが、多喜ニは両方とも趣味がないと言ったという。志賀は当時の文士なら必須の趣味を多喜ニが知らないことに驚いたという。多喜ニとほぼ同世代の小林秀雄(1902-1983)も志賀直哉を敬愛していたが、多喜二とは大きく違って秀雄は恵まれた文学的環境だった。秀雄は昭和3年5月頃から、長谷川泰子と別れて、奈良の志賀家に出入りしている。おそらく小林秀雄は志賀直哉と将棋を指していただろう。

    小林多喜ニが志賀家を訪れたのは、昭和7年春ごろであろうが、翌年の2月20日、正午すぎ赤坂福吉町で今村恒夫と共に築地署特高に逮捕され、激しい拷問の末に虐殺された。志賀は、弔文と供物をよせ、25日の日記に「暗澹たる気持になる。不図彼等の意図、ものになるべしという気する」と記している。

    今日、プロレタリア文学といえば、前田河一郎の「三等船客」、葉山嘉樹の「海に生くる人々」、徳永直の「太陽のない街」、そして小林多喜ニの「蟹工船」が挙げられる。しかし多喜ニの文学的出発は、志賀直哉に私淑して本格的に小説を書き始めたことはよく知られている。最も初期の私小説的な題材から、「政治と文学」に覚醒した多喜ニの文学的軌跡を研究することの現代的意義は大きいものがある。戦後文学、とくに芥川賞受賞作品を代表とする現代文学が内面的なものや感受性を重視し、国家や社会という現実の重みや虚偽の深さにあまり目を向けなくなったのは、敗戦の影響が強くあるのだろう。志賀直哉に代表される「個人中心の文学」と小林多喜二に代表される「社会(国家)中心の文学」とが、さらに高次な段階にあって総合されることをひそかに望んでいる。

2007年2月16日 (金)

懐かしのアメリカンTVウエスタン

  テレビ開局草創期はまだ番組制作力が弱かったため、アメリカンTVがゴールデンタイムに放送されるという状況が昭和30年代終わりまで続いて、子供心にも満足のゆくラインナップだったように思う。昭和34年の「ローハイド」はフランキー・レインが歌う「ローレン ローレン ローレン」という主題歌でおなじみのカウボーイの物語。主役はエリック・フレミングだがクリント・イーストウッドを世に送り出した西部劇として日本人にも記憶にのこる。チャック・コナーズの「ライフルマン」も忘れられない。「四角い顔にやさしい目」という主題歌が懐かしい。監督はなんとサム・ペキンパーだった。「ガンスモーク」は保安官マット・ディロン(ジェームズ・アーネス)が町の治安を守る姿を描く。「ボナンザー カートライト兄弟」では若きマイケル・ランドンがででいた。そのほかショットガン片手にひとり荒野を行くスティーブ・マックィーンの「拳銃無宿」、ヒュー・オブライエンの「保安官ワイアットアープ」、ヘンリー・フォンダの「胸に輝く銀の星」、ジーン・バリーの「バットマスターソン」、ゲイル・ディヴィスの「アニーよ銃をとれ」、ジームズ・ガーナーの「マーべリック」。そのほかにファミリー西部劇というジャンルに「ララミー牧場」「バークレー牧場」「ワイオミングの兄弟」などがある。とくに淀川長治解説の「ララミー牧場」のロバート・フラーの人気はすごかった。ロバート・フラーの写真が表紙の学習ノートがあった。デューク・エイセスが歌った主題歌も広く知られている。

  ララミー牧場  井田誠一訳詩

草は青く 山遠く

ここは西部の 大草原

たそがれの 牧場に

のぼる煙り なつかしや

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

      *

白い雲が とんでゆく

空にひびくは ムチの音

ならず者は よせつけぬ

腰の拳銃 伊達じゃない

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

            *

沈む夕陽 追いかけて

山の向こうへ とんでゆく

たくましい 渡り鳥

明日のねぐらを 誰が知ろう

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

大船山とミヤマキリシマ

    大船山(だいせんざん)山頂の南斜面は、初夏のころ紅紫色に咲く花 ミヤマキリシマで埋め尽くされる。大船山は九重連山の一つで、久住山、稲星山、星生山、天狗ヶ城、中岳、三俣山、白口岳、平治岳などが聳える。九重連山の真ん中にある窪地が「坊がつる」である。「坊がつる」とは、かつてこの地は天台宗の霊場として栄え、「坊」(本坊弘蔵坊)のある「つる」(平坦地、湿原)という意味。

    昭和53年、芹洋子によって「坊がつる讃歌」が全国に広められたが、原曲は昭和15年に作られた広島高等師範学校山岳部部歌。

1 人みな花に 酔うときも

  残雪恋し 山に入り

  涙を流す 山男

  雪解の水に 春を知る

2 みやまきりしま 咲き誇り

  山紅に 大船の

  峰を仰ぎて 山男

  花の情けを 知る者ぞ

2007年2月14日 (水)

デコちゃんと函館大火

   昭和9年3月21日の夕から翌朝にかけて函館市に大火があったことと、戦前の少女スターが日本映画を代表するような女優として成長することと関連するといえば「風が吹けば桶屋が儲かる」のような話として笑われるかもしれない。

   いまネットでは簡単に高峰秀子の「森の水車」を聞くことができる。

緑の森の彼方から 

陽気な唄が聞えます

あれは水車のまわる音

耳をすましてお聞きなさい

コトコト コットン コトコト コットン

ファミレドシドレミファ

コトコト コットン コトコト コツトン

仕事にはげみましょう

コトコト コットン コトコト コットン

いつの日か 楽しい春がやって来る

  戦後生まれのケペルもなぜか、ラジオからよく流れていた歌「森の水車」(作詞・清水みのる、作曲・米山正夫)はよく聞いた。荒井恵子がJOAKラジオ歌謡で昭和26年ヒットした。つづいて並木路子が歌っていたのを覚えている。この曲はもともとは高峰秀子がポリドール(当時は大東亜蓄音器レコードといった)からレコーディングして昭和17年9月に発売していたことを知ったのは最近のことである。しかしこの曲は昭和18年1月に警視庁が指導した敵性音楽としてレコード発売、演奏を禁止した法律により敵性歌謡とみなされ、発売禁止となった。「ファミレドシドレミファ」の部分が問題になったらしい。

   ところで、高峰秀子は戦前にレコードを三枚だしている。昭和16年9月「煙草屋の娘」「宵の明星」、昭和17年9月「森の水車」「小鳥よお前は声自慢」、昭和18年2月「歌へ山彦」「小鳥のやうに」。マンドリン音楽家の鈴木静一 は「歌へ山彦」と同年に轟夕起子の「お使いは自転車に乗って」で大ヒット曲をだしたが、高峰の主演映画「愛の世界 山猫とみの話」は不良少女の映画だったので暗い感じの主題歌は残念ながらヒットにはならなかったようだ。

    函館生まれの高峰は、昭和の歩みとともに、子役として映画界で活躍するが、昭和9年の函館大火で祖父一家7人が上京し、養父母あわせて9人の面倒をみなければいけない家庭状況となった。松竹から東宝への移籍、多数の映画出演、レコーディングなど多忙な仕事ぶりはそのような経済的な事情と関係があるようで、子役から女優高峰秀子へと成長する陰には、函館大火という大惨事が遠因するとみれば、人生とは思わぬ結果が生ずるという一例ではないだろうか。

2007年2月12日 (月)

詩人の妻・石川節子

    石川節子(1886-1913)。明治19年10月14日、岩手県南岩手郡上田村新山小路に堀合忠操の長女として生まれる。父は、岩手郡役所に勤務し、のち玉山村村長になった。明治35年3月私立盛岡女学校を卒業。38年5月に啄木と結婚したが、生活苦のため茨の道を歩み、啄木という一個の天才の陰に幸薄き短命の生涯となる。

    明治41年4月28日、石川啄木は上京した。5月4日、金田一京助の友情により本郷区菊坂町82番地の赤心館に同宿。上京後の一ヶ月余に「菊池君」「病院の窓」「母」「天鵞絨」「二筋の血」等、五つの作品三百枚余の原稿を書き、その小説の売り込みに奔走したが失敗だった。ために収入の道なく生活に困窮。しかしこのような生活難のなかで名作は生まれた。6月23日夜、歌興とみに湧き、この夜から暁にかけて55首、24日午前50首、翌25日141首と多くの歌を作った。「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」「たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて三歩あゆまず」「己が名をほのかに呼びて涙せし 十四の春にかへる術なし」などの歌がある。啄木が東京で家族と別れて単身生活をしていたころ、妻節子、長女京子は北海道にいた。厳冬の北海道の冬、障子も襖も売り払い吹きさらしになった部屋で小さな京子といつまでも啄木の文学的成功を夢みて待っていた。だが明治45年4月13日午前9時30分、啄木は父、妻、友人の若山牧水にみとられながら26歳と2ヶ月の人生を閉じた。啄木は亡くなるとき日記を燃やせと言い残したそうだ。「私の愛着が結局そうさせませんでした」と節子は宮崎郁雨に語った。節子は「吾れはあくまで愛の永遠性なると言ふ事を信じ度候」と手紙に書き残している。節子も、翌大正2年5月5日、肺結核のために28歳の若さで死んだ。啄木の死におくれることわずか1年である。

2007年2月11日 (日)

近代モード・ファッションと女優たち

   近代モードのファッションの基礎を形成したデザイナーといえば、オート・クチュールの創始者シャルル・フレデリック・ウォルト(1825-1895)、女性をコルセットから解放したポール・ポワレ(1879-1944)、そしてココ・シャネル(1883-1971 )である。

   イギリス人のウォルトだが、彼の権力はその時代の大臣もかなわないほどで、このエレガンスの使者は、フランス宮廷を征服してしまった。彼のサロンで日がな一日待って、やっと服をつくっていただくという高貴な女たちが、あとをたたなかった。そのころの舞台の名女優サラ・ベルナールでさえ、ウォルトに舞台衣装の一部をつくってほしいと頭を低くして頼んだものだが、ウォルトは冷たく断わったという。全部を彼自身の手でデザインするならまだしも、たとえサラ・ベルナールという大スターでさえがまんのできることではなかった。誇り高いサラも、二度とウォルトには頼もうとはしなかった。

   ポール・ポワレはウォルトの店で働いていたが、1903年、オペラ座近くに自分の店を持った。1906年に、ハイ・ウエストのドレス「ローラ・モンテス」を発表し、女性のウエストを締めつけていたコルセットを追放し、ファッション史上画期的な役割を果たした。女優サラ・ベルナールの衣装デザインを担当し、画家ラウル・デュフィは彼のために布地をデザインした。その後、衣装のデザインにとどまらず、色彩学、装飾一般まで教えたし、香水ロジーヌをつくり出し、一世を風靡した。またアメリカに渡った最初のオート・クチュールでもあった。1920年代になるとポール・ポワレのコルセット無しのドレスが流行したが、誇り高いポワレは、自分の作品がコピーされることを極力きらい、映画に自分の作品を出すことは考えもつかなかった。しかし、メアリー・ピックフォードやそのころ売り出したばかりのジョン・クロフォードのために、デザイン画を描いたという記録が残っている。

  それまでの映画は、会社おかかえのデザイナーが存在していて、スターのために衣装をつくった。グロリア・スワンソンはアイナ・モルガン、マレーネ・デートリッヒはトラヴィス・バントンだった。しかし、スターたちの中からも会社のお仕着せでは、あきたらないと思う女優が出てきた。グロリア・スワンソンは一年に一回はパリ、ロンドンに行って、自分の衣装を注文し始めるし、メエ・ウエストは、等身大のボディをつくらせて、イタリア出身のクチュリエのスキャパレリに注文した。こうした風潮の中で、メトロのゴールドウィン・メイヤーは、ココ・シャネルとの協力を考えた。シャネルは特別仕立ての白い列車に乗ってニューヨークからロサンゼルスに向かった。駅にはグレタ・ガルボをはじめ、数多くのスターが待ちかまえていた。ポワレとはちがって、シャネルは折りあえることには寛大だった。最初にシャネルの衣装を着たスターは、グロリア・スワンソンで、映画「今宵こそは」であった。戦後になって、クリスチャン・ディオールが登場すると、ピエール・カルダン、ユベル・ド・ジバンシー、ギ・ラロッシュ、イブ・サン・ローラン、ルイ・フェローらが続々現れた。スターもまた新しくなった。イングリッド・バーグマンは、ディオール、シャネル。ミッシェル・モルガンは、ピエール・バルマン。そして極めつけは、ジバンシーとオードリー・ヘップバーンのコンビであろう。彼女はスクリーンの上でも、オフ・スクリーンでもジバンシー一本槍で、彼女の不思議な魅力をより鮮明に打ち出すことに成功した。(参考:秦早穂子「スクリーン・モードと女優たち」)

追記:秦早穂子の引用するグロリア・スワンソン主演映画「今宵こそは」であるが、同名の映画がフィルモ・グラフィーには見当たらなかった。有名なドイツ映画「今宵こそは」(1931年)はアナトール・リトヴァク監督、主演ヤン・キープラ、マクダ・シュナイダー主演のセミ・ミュージカル・コメディとも言うべき作品で主題歌は日本でも戦前からよく知られているが、グロリア・スワンソンの作品ではない。グロリア・スワンソンの出演作品の中で近い題名は「今宵ひととき」(Tonight or Never)1931年作品、監督マービン・ルロイ、主演メルビン・ダグラスがあり、この映画の中でグロリア・スワンスンがシャネルの衣装で出演しているのではないかと推測する。

片岡千恵蔵、武蔵で得た人間修養

    片岡千恵蔵(1903-1983)の晩年を田山力哉は、「千恵蔵一代」で次のように書いている。「死の三週間ばかり前、千恵蔵は病室のべッドに正座し、手をあわせてお経を読んでいた。頬はこけ、鬚も剃ってなく、蒼白な顔色、真っ白になった頭髪は総毛立ち、入れ歯を外した顎はガタガタしていた。その咽喉の奥からうなり声がひびき、それは経典の文句なのだった。その凄絶な姿は、彼がその長い俳優生活を通じて繰り返し演じてきた宮本武蔵の生き写しのように見る者に映じた。」

   昭和2年、吉川英治原作「万花地獄」(中島宝三監督)でデビューした千恵蔵は、昭和4年に「宮本武蔵」(井上金太郎監督、千恵プロ)、昭和12年に「宮本武蔵」(尾崎純監督、日活京都)、昭和15年「宮本武蔵 第1部 草分人々」(稲垣浩、日活京都)「第2部 栄達の門」(稲垣浩監督)「第3部 剣心一路」(稲垣浩監督)、昭和17年に「宮本武蔵 一乗寺の決闘」(稲垣浩監督、日活京都)、昭和18年に「宮本武蔵 二刀流開眼」(伊藤大輔監督、大映京都)「宮本武蔵 決闘般若坂」(伊藤大輔監督、大映京都)がある。後年、千恵蔵自身が次のように書いている。

「武蔵で得た人間修養」 片岡千恵蔵

   吉川英治先生と云えば、立派な作品が数多くありますが、やはり「宮本武蔵」はその代表作品の一つであると思います。私の多くの主演映画の中でも「宮本武蔵」は代表作の一つです。その「宮本武蔵」のタケゾウ時代を最初に主演させてもらったとき、偶々吉川先生が京都ホテルに来られたので、早速お伺いしていろいろお話をしておりましたところ、「千恵さん、これからの俳優は、どんな役が来てもいいように、人間的修養が大切だね」といわれましたが、当時若い私には、そのお言葉の意味がよく理解できなかったのです。つまり、俳優は、演技なり、立廻りがうまければよいのではないか、など生意気なことを思っていました。続いて。「剣心一路の巻」を撮影し終り、その試写を見ますと、私自身でも、役の「武蔵」になりきっていない、何か「なま」のままなのがよくわかりました。当時の新聞の映画評にも、「千恵蔵はまだ武蔵をやる役者ではない」などと酷評されましたが、残念乍ら、私も認めざるを得ないもっともな批評でした。その後、最後の「巌流島の決闘」を撮るまでの時間を、もう一度「宮本武蔵」を、心して読み直しました。心の底に、先生が云われたお言葉が残っていたこともあったのでしょうが、前に読んだ時は只、ストーリーの面白さで「武蔵」の動きだけを頭に描いていたのが、こんどは「武蔵」の心、悩み、がよく理解出来て、修養ということの意味の大切さをしみじみと感じました。「巌流島の決闘」を撮る時、私の人間的、精神的に、少々オーバーですが、十年位は成長したのではないかと思いました。以来、私の俳優としての「悟」を開く大きな転機になったと、京都ホテルでの吉川先生のお言葉を感謝と共に思い出しています。(「吉川英治全集月報30」)

   戦前の稲垣浩監督の「宮本武蔵」は総集編的なものだけが現存するという。佐々木小次郎(月形龍之介)との決闘シーンを見た人も多いだろうが、千恵蔵の文中にある「巌流島の決闘」という映画がフィルモグラフィーにでてこないのは謎である。千恵蔵はその生涯に武蔵を10回演じており、持ち役のひとつであることは自身のエッセーからもうかがえる。しかるに「コンサイス日本人名事典」に千恵蔵の代表作の「宮本武蔵」が遺漏しているのは誠に遺憾である。もちろん代表作も多いので芸術性を優先しているのであろう。「国士無双」「赤西蠣太」「血槍富士」「大菩薩峠」など名作を採録しているが、やはし千恵蔵の真髄は大衆性娯楽性なので「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博)や「宮本武蔵 一乗寺決闘」(稲垣浩)も是非のせてほしい。

2007年2月10日 (土)

吉川「宮本武蔵」を書かせた直木

   吉川英治が宮本武蔵を描く以前の武蔵のイメージは武芸の達人ではあっても、必ずしも深い人格の持ち主として扱われていたわけではない。あるとき、直木三十五は武蔵がそれほど強くなかったと断じ、吉川と論争になった。「僕は作家だから小説で書く」として、やがてそれが朝日新聞に連載されることになった(昭和10年8月から昭和14年7月)。新聞社も宮本武蔵という講談向けの素材に難色を示し、吉川をあきらめさせようとしたが、吉川の熱意に負けて当初200回の予定で連載が開始された。

どうなるものか、この天地の大きな動きが。もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。武蔵(たけぞう)は、そう思った。

   このような書き出しで始まる小説だが、当初、武蔵(たけぞう)から武蔵(むさし)にならないので、編集部では「武蔵はまだか」と問題となった。やがて読者たちの間で次回を読むのが楽しみと評判となり、新聞小説がこれぼと広範な読者を獲得したのは空前の出来事で、全部で1000回を超えることとなった。吉川「宮本武蔵」で繰り返し描かれているのは、武蔵の精神的な成長過程である。手のつけられない乱暴者であった武蔵は、沢庵によって千年杉に括りつけられ、人間の勇気を説かれる。それがきっかけとなり、「今から生まれ直したい。人間と生まれたのは大きな使命を持って出て来たのだということがわかった」と、人間としての自己に目覚める。そして、武蔵は、剣の道によって、「どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう」と決心を固め、修行の旅に出かける。槍で名高い奈良の宝蔵院での闘いや、洛北蓮台寺での吉岡清十郎との戦いなどを経て、佐々木小次郎との巌流島の決闘。武蔵が小次郎に勝利したのは、力や天佑以上のものであった。小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。

水茶屋鍵屋の娘、笠森お仙

    江戸は、男と女、圧倒的に男の数のほうが多かった。吉原や岡場所が繁盛したのはそのためだが、女に触れられなくても身近に感じられればよい、しかも払いは安く、といった需要に応えた風俗営業が水茶屋だった。一般に湯茶の接待をするところが茶屋だが、水茶屋は美女を置いて客の接待に当たらせたやや高級な休み茶屋。店を小奇麗にし、掛行灯をかけ、良質の茶を使ったが、客の目当ては看板娘。水茶屋の茶汲女が評判を呼んだのは明和年間(1764-1771)の笠森お仙(1751-1827)である。お仙は、谷中笠森稲荷の境内にあった水茶屋鍵屋の娘。美人との評判が高まり、笠森稲荷に人々はむらがったのは明和5年、お仙18歳のとき。父親の営む茶屋には13歳のときからずっと手伝いに出ていたが、錦絵の鈴木春信が次から次へとお仙の一枚絵を出して人気が沸騰。ところがお仙は20歳のとき結婚して姿を消し、老父が店に立ったから「飛んだ茶釜が薬缶に化けた」という歌がはやったという。人気役者瀬川菊之丞との駆落の噂まで出たが、お仙は倉地甚左衛門と結婚し、数人の子をもうけ76歳で没した。ちなみに明和三美人とは、笠森お仙、柳屋お藤、蔦屋お好。(参考:「大江戸ものしり図鑑」主婦と生活社)

ヘーゲルとシェリング

    フリードリッヒ・ヘーゲル(1770-1831)。カントにはじまり、フィヒテ、シェリングにうけつがれたドイツ観念論哲学はヘーゲルによって完成されたといわれる。近代的精神の総決算をした人であり、ギリシア的理性(ヘレニズム)とキリスト教の精神(ヘブライズム)とを融合・統一したといわれている。またヘーゲルは、弁証法という論理を確立した人としても有名である。しかし一口にいってヘーゲルの哲学や著書はまことに難解である。ここではヘーゲル第一歩、ヘーゲルの第一著書の「精神現象学」を公刊したときのエピソードを紹介する。

   ヘーゲルが大学卒業後、7年間の家庭教師時代を経てシェリング(1775-1854)の世話でようやくイエナ大学に就職できたのは31歳の時であった。1801年1月、当時のドイツ哲学の中心地であるイエナにフランクフルトから移り住んだ。この地では、年下のシェリングが、無神論論争らよって大学を去ったフィヒテの後任として、すでに教授の地位についていた。そのころ、イエナには、シラー、シュレーゲル兄弟がおり、哲学者シェリングをも含めて、それぞれ活躍していた。ヘーゲルは7月に「フィヒテとシェリングの哲学体系の相違」を公にして、シェリングと同一の立場(汎神論的傾向)からフィヒテを批判した。しかし1807年4月に刊行した最初の主著「精神現象学」によって2人の決別は明らかとなった。この書の中で、ヘーゲルは、スピノザ、カント、フィヒテ、シェリングの哲学を痛烈に批判して自己自身の立場を宣言するのである。シェリングの絶対者についての考え方をそのなかにおいては、牛が黒くなる闇夜のごときものであるといって皮肉ったのはよく知られている。シェリングのもとにもこの本が送られてきたが、シェリングは序論しか読まなかったと伝えられる。

「春のワルツ」と「スーホの白い馬」

   ある女性が韓国ドラマ「春のワルツ」を見ていて、そのあとで、たまたま紺野美沙子の朗読「スーホの白い馬」を見つけた。これに「えぇっ!スホ!?」と驚いた、というブログを見つけた。

   「スーホの白い馬」というのは、40歳以下ぐらいの若い人は国語の教科書に掲載されているので誰でも知っているだろう。大塚勇三の再話、赤羽末吉の絵で昭和42年に福音館から出されて40年間親しまれている絵本だ。お話は、モンゴルの草原に育ったスーホは、ある日白い子馬を拾って帰る。スーホの世話で白い馬は美しくたくましく育った。殿様の主催した競馬から、白い馬は殿様にとりあげられることになるが、白い馬はスーホに会いたくて逃げて帰った。しかし、矢を射こまれて命を落とす。白馬の願いで、その身体から作ったのが、馬頭琴(モリン・ホール)であった。その音色がすばらしく、モンゴルの人々の心をやわらげたという、スーホと白い馬の愛の物語。ところが昔、言語学の田中克彦が「名前と人間」という本の中で、モンゴル人には「スーホ」という名前はいない、これは斧という意味の「スヘ」の間違いと指摘した。おそらく絵本の再話をする人が中国の漢語から「スホ」とカタカナ表記を適当に充てたのだろう。モンゴルの人からすると「スーホ」は聞きなれない名前らしい。ところでイ・ビョンホンの新作映画「夏物語」で主演しているヒロインの芸名は「スエ」である。「スホ」「スエ」「スヘ」などは韓国ではよく見られる名前なのだろう。

    問題の「春のワルツ」というドラマは、韓国の美しい島で母親と二人きりで暮らしている少女ウニョンの元にスホ(ウン・ウォンジュ)がやって来て仲良しになる。成長したウニョン(ハン・ヒョジュ)のもとにスホに似たチェハ(ソ・ドヨン)が現れる。スホとチェハは同一人物である。ウニョンとチェハの二人の愛の行方や如何に。

   さて冒頭で紹介した女性の疑問に対して、正確に答えるだけの言語学的、東洋史的知識をケペルは持たない。ただ同じ蒙古斑を持つモンゴルと韓国が、似たような名を持つことは偶然とは思えない。モンゴル語にくわしい田中克彦のいうように「スヘ」と発音することがより近いので問題はそう簡単ではない。韓国人名にはすべて漢字が充てられるので、漢語の音が変化したことが考えられないだろうか。人名ひとつとってみてもいろいろな興味と疑問がわいてくる。

おらァ三太だ! 千代ノ山はおいらの親友だ

   噂の大相撲疑惑がついに訴訟沙汰となる。八百長の語源は「八百屋の長兵衛、通称八百長という人がある相撲の年寄とよく碁をうち、勝てる腕前を持ちながら、巧みにあしらって常に一勝一敗になるように細工したところから起こるという」(「国語大辞典」小学館)とある。実は八百長の語源は、相撲ではなく囲碁だった。「ある相撲の年寄」とは、明治時代の伊勢ノ海五太夫だといわれる。相撲人気は低迷といわれるが、ケペルの少年時代はすごい人気だった。横綱が栃錦、吉葉山、鏡里、千代ノ山と4人おり、大関が若乃花、朝汐、松登。テレビは普及していなかったが、めんこでその雄姿はみな知っていたのでラジオでも十分満足だった。相撲ヒーローの伝記映画もしばしば作られたし、映画館では「大相撲速報」というニュースがあった。家庭では月刊漫画誌の別冊付録「若ノ乃物語」を熟読する。「朝は朝星、夜は夜星、雨が降っても、槍が降っても若ノ花は稽古を休まなかった」というコマ絵をいまも覚えている。昭和34年から創刊された少年週刊誌は現在のグラビアアイドルではなく、人気力士が表紙を飾ることも少なくなかった。映画作品には、「涙の敢闘賞」(名寄岩、山根寿子、高田敏江、芦川いずみ)、「風雪十年全勝吉葉山」、褐色の弾丸房錦の「土俵物語」、「三太と千代ノ山」、「力道山物語、怒涛の男」、そして極めつけは「若ノ花物語 土俵の鬼」(若ノ花勝治、北原三枝)。若き日の花田勝治は青山恭二だったが、力道山にしろ若ノ花にしろ本人が主演しているところがスゴイ時代だったと思う。

ここに昭和33年頃のものだと推定するが、「大相撲かるた」を紹介する。

いっきにつきだす千代の山

ろうこうなとりくちみせる清恵波

はりて一発 大晃

錦絵みるような吉葉山

ぼくらのすきな島錦

へんかにとんだ出羽湊

とうしまんまん泉洋

ちりをきり この一番どひょう上

りきとうの新進気鋭若の海

ぬーっと大起(おおだち)四十八貫

るいのない内掛名人琴ヶ浜

おしをとくいの若前田

若葉山かわりみ早くあれまわる

かいきりのむそうの玉の海

よりみにするどい三根山

大豪大関大内山

連日元気な鶴ヶ浜

速攻に成山うけるかちなのり

つりだしぐいっと双ッ竜

ねっ戦に火花をちらす時津山

なげわざふるう潮錦

ラジオがつたえる最高潮

むすぴのいちばん庄之助

上手だしなげ名人横綱栃錦

のっしのっしと鏡里

大昇外掛にきめるあざやかさ

蔵前にひろげる熱戦十五日

やぐらでとばす羽島山

松登たちあい一発ぶちかまし

けいこねっしんな栃光

ふれ太鼓相撲ファンの血をわかし

五百かい出場記録の若瀬川

えいしさっそう朝汐太郎

であしのするどい宮錦

あしこししぶとい常の山

さっとけたぐり北の洋

きおってよりきる大天竜

ゆさぶりできめるあらわざ若の花

めざましいかつやく芳の嶺

みらいのホープ安念山

清水川師匠ゆずりの上手投げ

ひだりよつさっとよりきる国登

もろざしいっきの信夫山

正攻法江戸っ子力士出羽錦

すもうのうまい鳴門海

    「おらァ三太だ!千代ノ山はおいらの親友だ!」の三太少年のような夢と希望をいつまでも持ち続けたい。

2007年2月 8日 (木)

ジャン・サントゥイユの肖像

   マルセル・プルースト(1871-1922)は、パリのオートゥイユ、ラ・フォンテーヌ通り96番地に生まれる。父は、後にパリ大学医学部教授、フランス衛生局総裁となったアドリアン・プルーストで、伝染病予防交通遮断線の初めての提唱者。母ジャンヌはユダヤ系財閥のヴェイユ氏の出で、パリ生まれ。マルセルは、9歳の時、ブーローニュの森の散歩から帰ってきて突然喘息の発作を起こす。この喘息症状は、彼を生涯にわたって悩ますことになる。1905年、34歳のときに最愛の母が亡くなったことで、彼に転機が訪れる。37歳のとき「失われた時を求めて」という膨大な長編小説を書き始める。次の全7篇である。「スワン家のほうへ」「花咲く乙女たちのかげに」「ゲルマントの方」「ソドムとゴモラ」「囚われの女」「逃げさる女」「見出された時」。しかし1952年、無名の一青年の手でプルーストが生前に発表せずに捨ててしまった長編小説が発見された。この「失われた時を求めて」の母体となる小説は「ジャン・サントゥイユの肖像」として1952年にベルナール・ド・フアロウの校訂によって、出版された。「われわれの内部には、芸術的感動よりももっと深い何物かがある。それは、過去の、或る時間のなかの、どこか忘れられた一瞬に、完全なまま、新鮮なままにもたれていて、突然だまってわれわれにさしだされる自身の一部分である」という冒頭にかかげられた短文はこの小説の形態を暗示している。作者「私」は一友人とともにブルターニュの農園ホテルに滞在中、偶然同宿者のなかに彼らが私淑する大作家Cがいる。Cは彼らに或る長い物語を読み聞かせる。二人の青年はその物語のコピーをとる。時がたちCが死んだとき、「私」は、作品として発表しようと決心する。こういう三人称体の長編小説である。この小説はマルセル24歳から28歳まで書き続けられたが、1899年には放棄している。

武田信虎と大井夫人

    大河ドラマ「風林火山」の武田信玄の父と母、武田信虎(仲代達矢)と大井夫人(風吹ジュン)。武田信縄の子、信虎(1494-1574)は暴悪な性質で、人間の胎児はどんな具合にして発育するものか見たいというので、妊婦を1ヶ月から10ヶ月まで10人とらえて、順々に腹を裂いて点検したと伝えられている。怒りにまかせれば重臣でも手討ちにしたともいう。こんな人ではあったが、勇猛で、戦さ上手で、14歳の時家をついでから30数年の間に甲斐を統一し、勢力は信濃の一部にも及んだ。信玄に追放されてから今川氏の食客となる。永禄6年、信玄へ内通の疑いにより今川氏真に追われ上洛、足利義輝の相伴衆となる。信虎は長命で、信濃国伊那郡で没したのは息子の信玄の亡くなった翌年の天正2年のことであった。

    大井夫人(1497-1552)は、大井信達の長女で、大井氏はもとは武田一族であったが、所領名に姓を変えて、本家の武田家と敵対するようになっていた。しかし大井信達は武田信虎に敗れ、その和睦として、大井夫人は父の敵、信虎に嫁いだのである。大井夫人の三人の子供たち、信玄、信繁、信廉はいずれも学芸と武勇に秀でていた。信玄は詩作にふけり、老臣に諌められるほどであった。二男の信繁は戦国の賢人といわれた。三男の信廉は武人画家でもあった。信廉が描いた長禅寺にある大井夫人の肖像画は重要文化財である。

   天文10年(1541)6月、21歳の信玄は父信虎を駿府に追放する無血クーデターを起こした。信虎が信玄を嫌い廃嫡をもくろむ一方、粗暴な信虎を家臣も嫌がったためという。大井夫人も夫に従わず、息子たちの甲斐に残った。彼女は3人の息子たちに支えられるが、寂しい晩年であった。目や耳の悪い人のために資金を出すなど慈悲深く、天文21年に56歳で躑躅ヶ崎館の御隠居曲輪に病没した。信虎と大井夫人は生き別れのまま、再びこの世で再会することはなかった。(参考:海音寺潮五郎「武将列伝」、楠戸義昭「戦国女系譜2」)

高峰秀子に恋した男たち

   高峰秀子は「細雪」に出演した関係で谷崎潤一郎とは家族ぐるみで交流があった。その谷崎に連れられて、高峰は新村出の京都の家を訪問した。玄関を入ると「私の等身大よりもっと大きなナショナル色つきポスターがビロンと下がっていた」のに驚いたという。新村は森鴎外「雁」が東大付近が写るというので、生まれて初めて映画を見て、お玉に惚れたのだろう。家中が高峰グッズで一杯になった。

   真面目な学者の新村だけではなく、政界・財界にも高峰ファンは多いと聞く。かつて司馬遼太郎が高峰と対談したとき「どういう教育をすれば、高峰秀子さんのような人間ができるのかなぁ・・・」と言ったそうだ。だが大人となって才気や知性を備えた高峰ではなく、まだ少女の頃の高峰を養女にほしがり2年にわたり養父となって歌とピアノを教えた東海林太郎もいる。梅原龍三郎は高峰秀子の肖像画を何枚も描いている。文人では、川口松太郎、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、井伏鱒二。なんと太宰と志賀は不仲は周知のとおりだがデコちゃん贔屓では一致している。今日出海、池島信平、大宅壮一、山田風太郎、扇谷正造、宮城道雄。映画界では、黒澤明、木下恵介、市川崑、小津安二郎、成瀬巳喜男など当然ながらも多数いる。

   最近、終戦後すぐの新東宝時代の作品「花ひらく真知子より」「三百六十五夜」を見た。曽根真知子、小牧蘭子の役だが、戦後の暗い世相でも秀子の顔をみれば元気がでた男性も多かっただろう。「三百六十五夜」は主題歌「緑の風におくれ毛が やさしく揺れる恋の夜」(霧島昇・松原操)という大ヒットメロドラマ。主演は上原謙と山根寿子だが、上原を追いかける大阪のお金持ちの娘・蘭子はおきゃんな恋敵役なのだが、見ている男はデコちゃんの美しさ、可愛さに惹かれてしまい、ヒロインの山根寿子には古風すぎて新鮮味が感じられない。当時はまだ和服の似合う女性、とデコちゃんのような新しい女性の二派に分かれていたのだろうが。やっぱり若い監督の市川崑も主役でない高峰に惹かれたのであろう。のちに東映がリメイクしたが、小牧蘭子の役を美空ひばりが演じているのは、多くの新東宝版を見た人が助演の高峰秀子の印象が強かったからに他ならないと思う。

武田信玄の諏訪氏経略と山本勘助

   天文10年、武田晴信(のちの信玄)は父信虎を駿河に追いやると、翌年6月、諏訪氏への侵略を開始した。諏訪には高遠城主の高遠頼継という者がおり、晴信は頼継と結んで、諏訪頼重を滅ぼした。

   諏訪氏を滅ぼした後、晴信は頼重が前夫人との間になした当時14歳の姫君がとても美人であったので側室に迎えようとした。これに板垣信形・飯富兵部・甘利備前等の老臣は反対した。このとき山本勘助は「もし諏訪御料人をお召しおきになり男子が生まれたならば、諏訪の忠臣たちは、お家再興のため武田に仕えるであろう。これは武田家のためではござらぬか」と説いたので、三人とも「なるほど、それもそうじゃの」と納得し、めでたく晴信は諏訪氏の女を側室に迎えいれることができた。(参考:海音寺潮五郎「武将列伝」)

2007年2月 4日 (日)

現代詩の難解性による功罪論

    大正詩壇で活躍された佐藤春夫は、昭和34年当時、朝日新聞に「現代詩はなぜ難解か」という一文を発表している。その主な内容は「私は年を取っているのでもう格別に努力を払って現代を追いかけようとは思わない。だが私も他の人々とともに現代詩を難解だと思う。その意図するところは分かっているつもりにもかかわらず、現代詩はやはり難解である。」と嘆いている。

   日本の近代詩の成立には、例えば島崎藤村、土井晩翠、与謝野鉄幹、薄田泣菫、伊良子清白、河井酔名、蒲原有明、北原白秋、木下杢太郎、高村光太郎、三木露風、室生犀星、萩原朔太郎、宮沢賢治、中原中也など感傷と主情とを以て、暗誦するほど親しまれた詩が多数うまれた。佐藤春夫が嘆く「現代詩は難解になった」とは、現代詩史のどの時点をさすのであろうか。佐藤春夫には具体的な記述がないので、あくまでケペルの推測であるが、それはモダニズム詩人とか知性詩といわれる詩人たちの出現によるものであろう。吉田精一の「現代詩」(学燈文庫)から参考すると、「日本詩人」以後の一雑誌氏による合同運動として、特筆すべきは「詩と試論」(]昭和3年)である。昭和4年更に「文学」と改めて昭和8年までつづいた。ここによった詩人には、安西冬衛、上田敏衛、神原泰、北川冬彦、近藤東、滝口武士、竹中郁、春山行夫、北園克衛、三好達治、佐藤一英、滝口修造、西脇順三郎、吉田一穂等がある。この運動の目的は要するに主知的な詩であり、更に超現実的な詩風の追求であった。それを一口にいえば、単に感覚すればよい、意味をぬきにした想像の世界の創造であり、夢を現実のうちに建設しようという試みである。代表例として、西脇順三郎の「天気」という詩があげられる。

     天気

(覆された宝石)のやうな朝

何人か戸口で誰かとささやく

それは神の生誕の日

   この詩を何度となく読み返したが、佐藤春夫のいうことがわかっただけで、詩のいわんとするところはさっぱり理解できなかった。高校時代の教科書にも西脇順三郎の詩があったが、やはり難解だという印象があった。では、村野四郎の「体操詩集」は現在も中学校の教材として使われ、わかりやすいのではないかという人がいるであろう。

      体操

僕には愛がない

僕には権力を持たぬ

白い襯衣の中の個だ

僕は解体し、構成する

地平線がきて僕に交叉る

僕は周囲を無視する

しかも外界は整列するのだ

僕の咽喉は笛だ

僕の命令は音だ

僕は柔い掌をひるがえし

深呼吸する

このとき

僕の形へ挿される一輪の薔薇

   村野の第2詩集「体操詩集」(昭和14年)は、その機知とイメージの美しさにおいて現代詩史上特筆すべき詩業として、詩壇の評価はいまも高い。詩から湿った叙情性や詠嘆性を一切取り除くことに成功した。いわば「体操詩集」は、日本の詩が近代史から現代詩に進んでいくポイントになった詩集である。「体操」「鉄亜鈴」「鉄亜鈴」「鉄鎚投」「吊環」「鉄棒」「鞦韆」「棒高飛」「登攀」「スキー」「飛込」「フーブ」「拳闘」「槍投」「競走」「肋木」などがある。とくに「鉄棒」はよく知られている。ところが実際読んでみると難解であることに気づかされる。例にあげた「体操」の詩の「僕には愛がない」とあるが、体操と愛とはどう関連があるのだろうか。解説書には適切な紹介が示されていることと思うが、これらはつまり「暗喩」というものだそうだ。最もやさしく理解できる「鉄棒」にも作者の意図するところは、実は別にあるのかもしれない。かような詩が新しい発展を示したことは疑いえないが、同時にそれは詩を空想のおもちゃとし、一般的な根強い人間性の共感を欠く結果を招いたことはたしかである。(参考:吉田精一「現代詩」学燈社)

2007年2月 3日 (土)

木下藤吉郎の出世と天下平定

   天文5年、幼名日吉丸は、織田信秀の足軽木下弥右衛門の長男として生まれた。弥右衛門は戦傷で働けなくなり、彼が8歳のときに死んだ。あちこちに奉公したが、すぐ暇を出され、針売りなどして諸国を放浪。はじめ、今川義元の臣、松下嘉兵衛に仕え、ついで織田信長に仕える。時に日吉、18歳。木下藤吉郎と称す。御小人組を振り出しに、炭薪奉行、厩方知行三十貫、侍小路に屋敷を拝領と短時日のうちに出世してゆく。26歳の時、弓之衆、浅野又衛門の娘、寧々と結婚する。その初仕事が洲股築城だった。蜂須賀小六の手勢二千を使って築城に成功。浅井・朝倉攻めで大功をたて、遂に小谷城の主となった。翌年、小谷攻略の手がらを買われ、一躍、長浜の城主に。姓も木下藤吉郎から羽柴筑前守秀吉に。やがて信長の中国攻略が本格化し、秀吉は5年10月、中国征討の総大将として播磨に出陣した。中国は毛利の強力な地盤であったから敵の抵抗も猛烈で、三木城を落とすにも3年がかりの攻防をくりかえした。ようやく5年目の天正10年、備中高松城を水攻めにして対毛利戦の決着をつけんとしていた。天正10年6月、逆臣明智光秀を山崎の合戦に破り、秀吉は一躍、天下人候補の最右翼となった。信長の継承者を決める清洲会議でも、居並ぶ諸侯を圧して主導権を手中に治めた。必然、重臣の筆頭、柴田勝家と反目せざるをえなかった。もともと、秀吉は、勝家とは反りが合わなかった。賤ヶ岳の戦で勝家を破り、ついで信孝を滅ぼし北陸を平定し、従四位下参議となる。尾張国小牧・長久手に織田信雄・徳川家康と戦ったが、のち和睦する。天正13年、紀伊の根来・雑賀衆を討ち、また四国の長宗我部元親を屈服させる。同年内大臣、ついで藤原姓を称し従一位関白となる。同年大坂城が完成。同年豊臣姓勅許。天正14年、太政大臣。天正18年、北条氏直を滅ぼし、奥州を平定して全国を統一する。

神子上典膳、小金原の決闘

  神子上典膳(1569-1628)は、伊勢の神職荒木田家に属する神苑衛士の家、神子上に生まれた。剣の道を求める熱意のあまりの烈しさに、獅子咬み典膳とさえ異名された。上総の万喜城主土岐氏の家来であった典膳は、旅の途中の伊藤一刀斎に勝負を挑み、負けてしまった。寝食を忘れ築きあげてきた修行と自身が打ち砕かれるや、翻然、一刀斎に師事する。

   伊藤一刀斎には、典膳より前に小野善鬼(善鬼三介)という、第一の高弟がいた。徳川家康が一刀斎を召し抱えようといった時、一刀斎は辞退して、代わりに門人の典膳を推挙した。それを面白く思わなかった兄弟子の善鬼が怒って、試合を挑んだ。場所は総州小金原である。試合は凄絶をきわめ、なかなか決着がつかない。善鬼は隙をみて、傍らにおいてあった秘伝書を横づかみに奪い、逃走した。一刀斎と典膳は慌てて後を追いかけた。善鬼は追いつかれ、もはや逃げることができないと見ると、そこにあった大きな瓶のかげに隠れた。典膳がその瓶をどけようとすると、一刀斎は「足を払われるから、瓶と共に斬れ」と叫んだ。典膳は瓶もろともに善鬼を斬った。善鬼は奪った秘伝書だけをしっかりと口にくわえ、目をカッと見開き、すさまじい忿怒の形相のまま息絶えていた。そして、これ以後、一刀斎は消息不明となった。神子上典膳は名を小野次郎右衛門忠明と変えたが、苗字の小野は母方の姓ともいわれるが、一説には善鬼を哀れんだ典膳が、小野善鬼の「小野」を引き継いだとも言われている。小野忠明は、柳生家と共に将軍家師範となり、一刀流を継承した。

2007年2月 2日 (金)

風吹ジュンの不思議な魅力

   女優の風吹ジュン(54歳)が好調である。映画「魂萌え!」(阪本順治監督)では、夫を急に亡くした59歳の未亡人役を演じている。実際より5歳年長の役ということに興味をおぼえる。テレビの「風林火山」では、武田信虎の正室、武田信玄の母、大井夫人の役である。

    彼女は昭和46年にモデルとしてスカウトされユニチカ・マスコットガールとして、テレビCMでそのキュートな笑顔と舌足らずの独特なしゃべり方で男の子の注目を浴びた。ある芸能人水泳大会番組で水着コンテストがあり、彼女が優勝したのを記憶する。長い髪と小柄で均整のとれたプロポーションだった。そして22歳のとき「愛がはじまる時」で歌手デビュー。当時、天地真理、麻丘めぐみ、山口百恵とアイドル歌謡曲が全盛であった。風吹ジュンとの同期は伊藤咲子、木之内みどり、リンリン・ランラン、テレサ・テン。だが、彼女は他のアイドルとはちょっと変わった魅力があった。女性歌手は十代でのデビューが主流であったので、実年齢よりも若くしようとしていたようだが、やはり大人女性の妖しい雰囲気があった。ハスキーボイス、ジーパン、甘ったるいムード、ブリジット・バルドーのような小悪魔的な魅力はきわめて個性的な存在だった。大学に通う途中の店先に飾られたベニヤ板張りの風吹ジュンのポスターをながめながら通った。しかし、内心は歌と演技は下手、蓮っ葉なしゃべり方、やがて消えて行くだろうと思っていた。この予測は一時ある程度あたったようにおもえたが、結果的には見事にはずれた。風吹ジュンは、女優としての道で大成し、いまも快進撃を続けている。「阿修羅の如く」「蘇る金狼」「無能の人」「コキーユ」と出演作品を並べてもどれが出世作といえるかわからないほど地味である。むしろ彼女はこれからまだまだ活躍する女優なのかも知れない。若い頃の長い髪をなびかせた風吹ジュンでなく、目じりにすこし小じわがあって、声のしゃがれた色っぽいおばさんが結構受けているようなのだ。役柄もなんの変哲もない普通の家庭の主婦。おそらく監督とかディレクターたちは枯れたアイドルに不思議な魅力を感じるのであろう。

   彼女の栄光の影にも、知られざる苦労があったのではないか。海道はじめ「スナッキーで踊ろう」というレコード・ジャケットを見ると吉沢京子と小山ルミと風吹ジュンがゴーゴーを踊っている。このレコードの発売は昭和43年1月なので、彼女は15歳のときにすでに京都から上京してモデルをしていたようだ。その3年間、大都会で暮らし、どのような経緯で初代ユニチカ・マスコットガールになったか知らないが、その芸能活動はさぞかし悲惨なものだったろう。以前、テレビのインタビューで自分の芸名のことを「風吹という字では、ふぶき、とは読みませんよね」と語っていた。しかし、国語のルール無視でも事務所の方の命名法は大正解だったように思う。

2007年2月 1日 (木)

「万葉集」冒頭の歌

   万葉集をひらくと、いちばんはじめに、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に皇居のあった雄略天皇の作と伝える求婚の歌がある。

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持つ この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

(通釈)かごもまあ、よいかごを持ち、ふくしもまあ、よいふくしを持って、この丘で菜を摘んでいらっしゃる娘さんよ、あなたの家がどこか聞きたい。おっしゃってください。大和の国は、この私がぜんぶ従えているのです。この私がすべて領有しているのです。こういう私にこそ、おっしゃるがよろしい、あなたの家をも、あなたの名前をも。

   犬養孝は「時は春、所は国原の見渡せる丘(おそらく天ノ森の丘あたりか)、籠を持ちへらを持つ若菜つみの野の乙女に、名をたずねて求婚の情を示す、とらわれぬ人間真情の律動は、春風とともに、よみがえってきて、万葉開幕の象徴の感さえおぼえさせられる。もちろん作者は雄略天皇と伝えられるだけあって、もともと求婚の民謡風のものが、5世紀後半の英雄的君主の物語とからみあって、伝承発展をとげ、宮廷の大歌として、舞いなど伴ってのこされたものであろう。」と記している。(参考:犬養孝「万葉の旅」現代教養文庫)

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