2009年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »

2007年2月28日 (水)

二世紀にわたるキス

レディ・ハミルトンとネルソン提督の恋

   ロンドンのテートギャラリーにはジョージ・ロムニー(1734-1802)が描く「キルケーに扮したハミルトン夫人」(1782年)という作品が飾られている。ハミルトン夫人とはナポレオンのフランス艦隊を2度も撃破したイギリス海軍の英雄ネルソン提督の愛人としてヨーロッパにその名を知られた世紀の美女である。二人の恋物語はヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエ主演で「美女ありき」(1941年)という映画がつくられている。

   ハミルトン夫人(1765-1815)は本名はエミリー・リヨンといい、イギリスの貧しい鍛冶屋の娘であった。生後すぐに父は死亡、母と2人で貧しい暮らしをしていた。10代になるとロンドンに出て、子守り女として働くが、その美貌からパトロンがつくようになる。1780年ころエミリー・ハートという名でハリー・フェザストナフ卿の愛人となり、その後チャールズ・グレヴィル(後に夫となるウィリアム・ハミルトンの甥)と付き合う。グレヴィルの友人の画家ロムニーが彼女の美貌に驚嘆し、多くの肖像画を描いたのもこの頃である。ロムニーはエマを神話や歴史的なモチーフを加味してその美貌を賞賛した。

   チャールズ・グレヴィルは道楽者であったらしく、その借金の肩代わりをしてくれた叔父のヴィリアム・ダグラス・ハミルトン(1730-1803)にエマを譲り渡した。ハミルトンは火山研究と美術品の収集家でも知られた英国の駐ナポリ大使だった。1791年、60歳のハミルトンは26歳のエマと結婚した。これにより、エマは「レディ」の称号を得て。「レディ・ハミルトン」と呼ばれた。当時、ナポリ王国の社交界でエマの美貌は知られ、フランス語とイタリア語を流暢に話し、ナポリ王妃マリア・カロリーナとも親しい交流をもつようになった。ナポリ王国には強い軍隊はなく、フランス軍に攻められそうになったとき、イギリス海軍の指揮官ホレイショ・ネルソン(1765-1815)とハミルトン夫人との運命的な出会いが始まる。とくに1799年の大晦日から1800年にまたがる「二世紀にわたるキス」のエピソードは広く知られている。やがてハミルトン夫人とネルソンとの間には子どもまでできた。夫のハミルトンは高齢のためか二人の不倫を半ば公認していたようだ。ハミルトンが死ぬ時も夫人とネルソンが看病していたという。しかし世間の二人に対する風当たりは強かった。イギリス海軍は再びネルソンに出動要請を下す。1805年10月21日、ネルソンは「イギリスは諸君がそれぞれの義務を果たすことを望む」という言を合図に、トラファルガーの海戦に勝利するものの、英雄的な死をとげた。その後のハミルトン夫人の詳しい消息はわからないが、落魄のうちにフランスで死んだという。

2007年2月27日 (火)

スキャンダラスな舞姫ローラ・モンテス

   1848年3月13日、オーストリアではウィーンにおいて三月革命が起きて、ウィーン体制の象徴的人物であったメッテルニヒが失脚し、イギリスに亡命した。南ドイツのバイエルン王国では3月21日、ルードヴィヒ1世(1786-1868、在位1825-1848)が退位を余儀なくされた。しかしこの退位騒動は政治的理由というよりも、王の愛人の野心的な行動に国民が離反したものであった。その女性の名はローラ・モンテス(1818-1861)。

   ローラはスペインの舞姫ということになっているが、実はスコットランド出身で本名をマリー・ドロレス・エリザ・ロザンナ・ギルバートといい、貧しい旅芸人の子だった。60歳を過ぎていた老王は、このローラに夢中になり、二人の愛人関係を公然としたものにするために、ローラにランスフェルド公爵の称号を授けた。王宮ニンフェンブルク城には宮廷画家ヨーゼフ・シュティーラーが描いたローラ・モンテスの肖像画がいまも飾られている。ローラはその美貌によりルートヴィヒ1世をはじめ、ピアニストのリスト、プロイセンのビスマルク、アレクサンドル・デュマなどの男たちを虜にした。彼女の華麗で退廃的な恋物語はマルティーヌ・キャロル(「歴史は女で作られる」1956年)やフロリンダ・ボルカン(「ローヤル・フラシュ」1975年)で映画化されている。

   ちなみに、近代ファションの父といわれるポール・ポワレが1906年に発表したハイ・ウェストのドレスを「ローラ・モンテス」と名づけたのは、ヨーロッパ社会にはスキャンダラスな高級娼婦に対する憧れと賞賛が入り混じった感情があることのあらわれであろう。小説中の人物であるが「椿姫」のマルグリット・ゴーチェの人気が高いのも同様の理由からである。

2007年2月26日 (月)

真田一族と戦国乱世

    NHK大河ドラマ「風林火山」には真田幸隆(佐々木蔵之介)が重要な役として登場する。平安時代以来、東信濃に根をはった滋野氏の宗家海野氏は、武田信虎に逐われて上野国にのがれ、その支族真田幸隆も上野に浪人したが、のちに信玄の臣となる。幸隆は北信濃の村上義清を越後に追い払い、旧領真田を回復した。だが、信玄の死とともに、危機にさらされるようになる。

   真田幸隆の三男昌幸は、長兄信綱と次兄昌輝が、長篠の戦いで戦死したため、真田家の当主となった。才覚のある昌幸は武田勝頼が天目山で滅ぶと、織田氏の武将滝川一益に属した。しかし天正10年、本能寺で織田信長が明智光秀に殺されると、上杉氏についてしまった。次には北条氏、転じて天正11年に徳川氏に随身することとなり、真田昌幸は千曲川のほとり、尼ヶ淵というところに城を築き、翌年に完成した。これを上田城という。まもなく起こった天正13年の第一次上田合戦で、上田城と真田昌幸は名声をほしいままにした。真田氏は当時小県(ちいさがた)地方(上田)3万8千石、上州沼田に2万7千石を領していた。その後、昌幸の長男信之は家康の養女小松姫(本多忠勝の娘)、二男幸村は豊臣方の大谷吉隆の娘を娶った。関ヶ原の戦いに真田信之(1566-1658)は徳川方についたが、真田昌幸(1547-1611)と真田幸村(1567-1615)は石田方につき、戦いののち高野山に流され、信之は父の遺領上田および沼田を与えられた。昌幸は高野山で死に、幸村は大坂夏の陣で奮戦して死んだ。信之は元和8年(1622)、上田から松代に移され、みずから松代十万石を領し、子孫相承けて明治に至った。

永遠の青春映画「エデンの東」

「父はぼくを憎んでいるのだろうか?」

   日曜日の8時から10時までの2時間は父子の対立のドラマ二本がいま高視聴率である。大河ドラマ「風林火山」と日曜劇場「華麗なる一族」(MBS)は、武田信虎(仲代達矢)と信玄(市川亀治郎)、万表大介(北大路欣也)と鉄平(木村拓也)、時代や状況は異なるが、ともにドラマの基本的構図は父子の確執を描いている。ところで父子の対立を描いたドラマの元祖といえば、ジェームズ・ディーンの「エデンの東」ではないだろうか。

    アロン(リチャード・ダバロス)とキャル(ジェームズ・ディーン)は同じ両親から生まれたとは信じられないくらい、性格がちがっていた。兄のアロンは父アダム・トラスク(;レイモンド・マッセイ)の信頼も厚く、町の模範青年なのに、弟のキャルは暴れん坊のひねくれ者。父もキャルには手をやいていた。

   ある日、キャルは、彼を産み落としてから離婚していた母ケイト(ジョー・ヴァン・フリート)の噂を聞き、彼女が経営しているいかがわしい賭博業兼バーへ行ってみた。キャルは老醜の母に対して、懐かしさと同時にかすかな嫌悪の情を抱いた。

   父はレタスを冷凍化して大量輸送する新事業に夢中だったが、失敗して財産のほとんどを失う。キャルは、父の損害を自分で取り戻し、それにより父の愛情をかちえようと考えた。あの母親に頼みこんで3千ドルの大金を借りると、第1次大戦による食料不足を予測して、豆をつくる農業に投資した。彼の予測はあたり、父の損害以上の金を得ることができた。

    父の誕生日。父の喜ぶ顔を期待してキャルは例の金をプレゼントした。だが父は断固これを拒否した。そんなものより、兄とアブラ(ジュリー・ハリス)の婚約のほうがずっとうれしいというのだ。キャルの絶望、むくわれぬ愛の悲しみはいつしか兄への憎悪と変わっていく。キャルは兄を連れ出すと、母のところへ連れていった。死んだと思っていた母がまだ生きていたばかりか、自分の最も軽蔑している種類の女であったことを知り、兄のアロンは理性を失う。ヤケ酒におぼれ、苦しみから逃れようと半狂乱のまま、兵役を志願し、町を去っていった。

    ショックのあまり父も脳卒中で倒れ、身動きできない重病人となる。良心の呵責に耐えきれず、キャルは許しを乞うたが、父の顔には何の表情も浮かんでこなかった。アブラは、心からキャルを愛している自分にめざめ、アダムの枕もとで、キャルが父親の愛情に飢えていることを説いた。そしてアダムは、はじめてキャルに父親らしい愛情をしめし、父子の間に愛が甦るのだった。

ルツの落穂拾い

   士師の時代、ベツレヘムで飢饉があり、イスラエルのなかでも有力な部族の一つだったエフライム人のエリメレクは、妻ナオミ、そしてマフロンとキルヨンという二人の息子を連れてモアブの地に引っ越してきた。息子がモアブの女を嫁にした。兄の妻はオルバ、弟の妻はルツといった。ところが、過労がたたってエリメレクは死に、さらに二人の息子たちも死んだ。姑のナオミは嫁たちに故郷の家に帰り、新しい人生を歩むようにすすめるが、ルツのナオミと共に生きてゆくという気持ちは変わらなかった。結局二人はナオミの故郷ベツレヘムに帰るが、そこにナオミの亡き夫の親類で大地主のボアズがいた。

  ルツとナオミがベツレヘムへ帰ったのは大麦の刈り入れの時期であった。ルツはボアズの畑へ行き、落穂を拾わせてもらい姑ナオミの面倒を見た。畑主のボアズは、ルツのそうした姿を見て心を打たれ、ルツと結婚した。

   ルツとボアズの子がオベドといい、その子がエッサイで、エッサイの子がダビデである。

   イスラエルの律法には「落穂は貧しい人のために残しておき、畑主が拾い集めてはいけない」とあった。農民画家ミレーの名画「落穂拾い」の主題も旧約聖書の「ルツの落穂拾い」に題材を得ており、土地をもたない最下層の農民が豊かな農民の情にすがってその土地に入れてもらい、わずかな落ち穂を拾うことを意味している。ルツとボアズはダビデの直系の先祖であり、キリストの遠祖である。

映画発祥の地・神戸

    神戸湊川神社前の高橋鉄砲店の2代目店主の高橋信治、大阪心斎橋の三木福時計店店主の三木福助がリネル商会(神戸居留地14番)を通じてキネトスコープを輸入し、神戸の料亭「宇治川常盤」で明治29年11月17日に上映したのが日本で最初の映画公開である。キネトスコープとはエジソンが発明したもので、レンズをのぞいて箱の中の動画を見る装置。

    一般の人にもキネトスコープを公開しようということで、神戸花隈の有料貸席「神戸倶楽部」が11月25日から12月1日まで興行された。馬車と自転車の競走などの簡単な映像であったが、好評だった。「12月1日は映画の日」というのは、これに因んできりのよい日という理由で昭和31年に制定されたものである。

2007年2月25日 (日)

平賀源心の胴塚

   大河ドラマ「風林火山」第8話「奇襲!海ノ口」を見る。天文5年(1536)11月、甲斐武田は佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。城には山本勘助がいてなかなか攻め落とせない。12月26日、信虎は一旦甲斐に退却する。しかし武田晴信(市川亀治郎)は300人余りの手勢を率いて海ノ口城を急襲した。平賀源心(菅田俊)や夫人(三原わかほ)、美瑠姫(菅野莉央)は退却したと思い喜ぶ。勘助だけは不安を感じ源心に用心するよう進言する。油断しきっていた平賀勢の城兵はほとんど討ち取られ、海ノ口城は落城する。不落を誇り武田信虎が8000の軍勢で1ヵ月以上かけても落とせなかった城を、晴信はたった300の兵でわずか一刻のうちに落としてしまった。この「甲陽軍艦」に書かれたことがすべて史実かどうかは知らない。ただ城跡近くに晴信が手厚く弔ったとされる平賀源心の胴塚があると聞いた。平賀源心は怪力無双で四尺三寸の大太刀を振り回す勇将であるという。名前が江戸時代の蘭学者の平賀源内に似ていると思ったら、やはり源内は平賀氏の末裔とのことだ。市川亀治郎は声や所作に品格があってよい。落城した美瑠姫のその後が気がかりだ。

山宣の産児制限運動

    少子化社会の現在ではあまりみなれない状況だが、「貧乏人の子沢山」といわれた大正時代、労働者たちにとっては、子どもの多いことは苦難の種であった。このような彼らに正しい性知識をあたえようと奮闘する若き生物学者がいた。;彼はやがて衆議院議員になる。山宣の愛称で知られる山本宣治(1889-1939)である。 

    明治22年京都に生まれる。病気のために中学を退学したが、明治40年に単身でカナダに留学、明治44年帰国後、三高、東大をへて、大正9年京大、同志社大の講師となる。通常の生物学でない「人生生物学」の講義をおこない、性科学や優生学を教えた。大正11年3月10日にマーガレット・サンガー夫人の来日を機に、産児制限運動(山本自身は産児調節という語を使用している)にのりだし、労働者の中に入り、労働運動と結びついた。大正14年に雑誌「産児調節評論」(のち「性と社会」と改題)を刊行するが、同年京都学連事件で京都大学、同志社大学の教壇を追われる。昭和3年の総選挙では労働農民党から立候補。日本最初の無産党代議士となる。三・一五事件の後、労農党は治安警察法によって解散させられ、彼は治安維持法の改悪を痛烈に批判した。そのため昭和3年3月5日、東京神田の旅館で右翼の七生義団の黒田保久ニによって暗殺された。この山本の労農葬は全国で行なわれたが、大山郁夫が贈った追悼の辞、「われらの行くところは、戦場であり、墓場である」は有名である。この山宣の伝記映画がある。「武器なき斗い」(1960、大東映画)という作品だが残念ながら未見である。山本薩夫監督、西口克己原作、依田義賢・山形雄策脚本、前田実撮影、出演・下元勉、渡辺美佐子、東野英治郎、小沢昭一、宇野重吉、キネマ旬報ベストテン。山本薩夫は翌年には「松川事件」を撮っている時期であり大いに期待できる作品だろう。

勝利の女神ニケ

  ルーブル美術館のダリュの階段踊り場には「サモトラケのニケ」といわれる翼を広げた女神像が展示されている。この有翼の勝利の女神像は前190年、ロードス島がセレウコス朝シリアのアンティオクス3世ギリシアへの戦勝を記念して、エーゲ海の北端のサモトラケ島の神殿近くに建てたという。最初の発掘は1863年フランスのシャルル・シャンポアソーがサモトラケ島のカビリ神殿の小室で数多くの断片で発見した。それから16年後、同地の近くでこの像が立っていた船首の部分が発見された。さらに1950年の同神殿址の再発掘の際、右掌と右薬指の断片が発見されたため、ウィーン美術館史博物館に保管されていた指の断片がこの像の一部であることが明らかとなった。女神は船の先端に立って勝利のトランペットを吹き鳴らしている。

    ニケはティターン神族の男神パラスと冥府の河の女神ステュクスとの間に生まれた4人の子(クラトス、ビア、ゼロス、ニケ)の1人。ニケは父や同族を捨てゼウス率いるオリュンポス陣営についた。ニケはアテナと親しく結びつき、アテナの随神と見なされるようになった。パルテノン神殿内の本尊アテナ・パルテノス像で、右手にニケの小像が載っていることはよく知られている。

   話は変わるが、映画「パリの恋人」(1957)でファションモデル役のオードリー・ヘプバーンが両手を広げて階段を降りるのも、「タイタニック」(1997)でケイト・ウィンスレットが船首で両手を広げるポーズも女神ニケを真似たものである。そして「冬のソナタ」(2002)でチェ・ジウが南怡島のデートで自転車に乗りながら両手を広げるシーンも「タイタニック」の影響があると思われる。

    実際の女神ニケの完全復元像を見たことはないが、一説によれば付根の状態から頭部は左にむけられ、右腕をあげ左腕をさげていた状態ではないかとする説が有力であり、おそらく勝利のラッパを吹奏していたのではないかといわれる。女優さんが真似たポーズとは大きく異なっているようだ。思うに、サモトラケのニケは完全な形体を止めていないがために、みる者をさまざまな夢想へと誘い、ロダンが言うように「美よりもさらに美しいもの。それは美の廃墟である」との思念が二つの大戦を経てヨーロッパ人に強く根をおろした。「自由」や「勝利」を想起させる女神ニケは、今日、オリンピックのメダルやスポーツブランド・ナイキの名の由来にもなって人気のある女神である。

二十一ヶ条要求と小日本主義

   大正4年1月、大隈内閣の外相加藤高明は、第一次世界大戦をきっかけとして、大陸政策を積極化することを意図し、対中国要求を二十一ヵ条にまとめ袁世凱に提出した。5月9日袁政府は5号要求を除く全条項を承認、25日に日中条約、交換公文が交わされた。中国では7日、9日を国恥記念日として排日運動が高まった。

   このころ「東洋経済新報」の三浦銕太郎(1874-1972)らは日本の対外膨張政策に正面から反対し、小日本主義の旗を掲げた。明治44年入社の石橋湛山(1884-1973)はこの社風をもとに「軍国主義、専制主義、国家主義」に対して、「産業主義、自由主義、個人主義」の論陣を張った。「其の場合には、独逸から取った物や、這次の対支交渉の結果で得た物の喪失だけでは、到底済まぬ。恐らく二十七、八戦役(日清戦争)から積上げて来た一切の獲物を、元も子もなく、取上げられるであろう」(東洋経済新報」大正4年5月5日社説)と憂慮したが、事実日本は40数年後、石橋の予言どうりに一切を失うこととなった。

2007年2月24日 (土)

二人のラッパ卒の戦死

   明治27年7月29日、日清戦争で清国軍との成歓における激戦があった。この戦闘中に進軍ラッパを吹奏中に被弾し「死しても尚ラッパを口から離さなかった」という二人のラッパ卒の武勇が語りつがれている。白神源次郎(1868-1894)と木口小平である。

    白神は岡山県浅口郡船穂村出身。「安城渡しのラッパ卒」として白神源次郎の名前は、軍歌に歌われ、詩となり、日本中に英雄として広まった。しかし、1年後、実際にラッパ手を努めていたのは木口小平ということになり「キグチコヘイ ハ テキノ タマニ アタリマシタ ガ シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ」と尋常小学修身書に書かれて、木口小平の名前が全国的に広く知られるようになった。

    木口小平は明治5年岡山県成羽村新山に生まれる。木口小平は胸部に敵弾をうけ一度は倒れたが、銃を杖として起き上がり、さらにラッパを口にあて突撃の譜を奏し息の絶えるまでこれを続け、絶命後もなお銃とラッパを手から離さず、その壮絶なる動作は味方の士気を大いに鼓舞したという。

2007年2月23日 (金)

ホッベマの並木道

    むかしは学校に美術商が複製画の販売によく来ていた。一枚でも子供の小遣いで買うにはかなり高かったのでもっぱら見るだけだったが、強く印象に残る絵画がある。泰西名画といわれる一種だが、雲の多い高い空の下、画面の中央を遠くにまでつづく田園の並木道。遠近法と左右対称のシンメトリーの構図のお手本として美術の教科書にもよく採りあげられることが多い絵だ。向かって左側には高い塔のような建物、右側には民家が描かれている。人物も絵の中には数人描かれていて、ロイスダールの絵のように暗い感じはしないが、やはり物悲しい詩情が漂う。それはロンドンナショナルギャラリーが所蔵する「ミッデルハルニスの並木道」(1689)というマインデルト・ホッベマ(1638-1709)の17世紀オランダ風景画の傑作である。

    ホッベマという画家について、あまり詳しいことは知らないが、ロイスダールの弟子だったが、1688年に結婚し、アムステルダムの葡萄酒および油の計量器検定官として働き、そのため一時画家は断念したかにみえたが、1689年に大胆な遠近法をとりいれた代表作「ミッデルハルニスの並木道」を完成させ、彼の名は美術史に永遠に刻まれたということである。

   ところで、オランダにはこのようなポプラ並木が実際にあるのだろうか。現在、小村ミッデルハニルスにはこの並木道はないし、また当時存在したという確証もないという。いずれにしてもなんらかの形で実際の風景に触発されたにしても、この作品はホッベマ自身の自由な構想の所産と考えるべきであろう。ホッベマの作品はそれほど多く残されていないが、バルビゾン派の先駆的存在としてもっと評価されてもいいように思う。

山岳信仰

    役小角が始祖とされる修験道は古代の山林仏教などと融合し、中世に入り、全国各地の霊山に浸透してゆき、出羽三山、立山、白山、三峰山、木曽御岳、伯耆大山、英彦山などは山伏の拠点として発展した。

    鎌倉時代は、山伏修行者のもっとも活発だったときで、山中の修行過程について、やかましく組織的秩序が定められ、修験は「道」と意識された。このように密教としての仏教に支えられた修験道であったが、古来固有の神道作法や山岳信仰に集っただけに、山伏の精進潔斎の仕方、参籠奉幣の儀礼は、純仏教にはうかがえぬものを含んできた。室町時代には、その実践について教養も神秘に綴られるに至り、真言系は当山派、天台系は本山派と分かれることになった。また、出羽三山が羽黒派、九州彦山が彦山派と、各地方的に別派を称したものがあるが、全体として、当山、本山の二派が著しい。近世には峯入り修行の面よりも、一般の俗信にこたえ、種々の呪術をおこなう面で世間に接する山伏が多かった。神仏分離を指令した明治維新政府は、明治5年修験道を廃絶させたが、実質的には民族的山岳信仰に包含されている。

躑躅ヶ崎館

   武田信虎は永正16年(1519)居館を石和の館から府中(甲府)に移し、家臣を城下に集住させた。信虎が本拠として築いたのが躑躅ヶ崎館で、信虎、信玄、勝頼の武田氏三代の居館となった。現在、その館跡に信玄を祭る武田神社が鎮座している。築城当時は、土塁と空堀をめぐらした方形の主郭のみで、信玄の代に、西曲輪、北曲輪などが拡張されて連郭式の縄張りとなった。東西約280m、南北約190m。堀は一重で、土塁も高くなく、必ずしも堅固な城ではないが、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」を信条とする信玄は、領内に新しい城郭を築かなかった。勝頼があたらに韮崎に新府城を築かなければならなくなったとき、武田氏は滅亡の運命を迎えたのである。

2007年2月22日 (木)

ケーテ・コルヴィッツ

   貧困にあえぐ農民や労働者、そして戦争に翻弄される民衆の苦しみを表現主義的な作風で描きだしたドイツの女流画家ケーテ・コルヴィッツ(1867-1945)。ドイツはもちろんのこと世界中でもその名は広く知られているが、なぜか日本ではケーテを知る人が少ないように思う。

    ケーテが、ベルリンの自由劇場に上演されたハウプトマンの「織工」を見たのは1893年2月のことであった。これは労働者階級のストライキを取り扱ったものであるが、ケーテは「織工」を見て深く刻まれた感動を6枚の連作版画「織工たちの蜂起」(1897)として描いた。その後もケーテは二つの大戦を経験し、ナチスへの抵抗を貫いて不条理な戦争や死に対する悲しみや憤りを力強い造形へと昇華させ、見る者の魂を揺さぶるような作品を生み出した。代表作品「死んだ子供を抱く母」(1903)「農民戦争・蜂起」(1906)「種を粉に挽いてはならない」(1941)

2007年2月21日 (水)

ヤコブの夢

    ヤコブは同族の娘をめとるため、母の実家に向かって旅立つ。その途上、行き暮れて道ばたの石を枕として野宿したが、その時夢に見たのが天国に達する階段であった。夢の中で彼は天使のかたわらに立つ神に祝福され、目覚めてから「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と実感する。

   ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をぺテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。

   ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」(創世記28章10~.20)

早春の歌

     早春賦           大正2年

         吉丸一昌作詞、中田章作曲

1 春は名のみの風の寒さや。

    谷の鶯、歌は思えど

  時にあらずと 声も立てず。

    時にあらずと 声も立てず。

2 氷解け去り葦は角ぐむ。

    さては時ぞと 思うあやにく

  今日もきのうも 雪の空。

    今日もきのうも 雪の空。

3 春と聞かねば知らでありしを。

    聞けば急かるる 胸の思を

  いかにせよとの この頃か。

    いかにせよとの この頃か。

    作詞の吉丸一昌(1873-1916)は、大分県生まれ、東京音楽学校教授。作曲の中田章(1886-1931)は、東京生まれ、東京音楽学校教授をつとめる。中田喜直(1923-2000)の父。

    ウグイスは別名を春鳥、春告鳥ともいわれ、ウグイスの初鳴きは春の到来を実感する。

   ウグイス        昭和16年

        林柳波詩、井上武士作曲

1 ウメノ 小枝デ、

   ウグイスハ

  春ガ キタヨト

   ウタイマス。

  ホウ ホウ ホケキョ、

   ホウ ホケキョ。

2 雪ノ オ山ヲ

   キノウ 出テ、

  里へ 来タヨト

   ウタイマス

  ホウ ホウ ホケキョ、

   ホウ ホケキョ。

2007年2月19日 (月)

ゼッケン67

    第1回東京マラソンが終わった翌日の朝日新聞夕刊「惜別」という物故者の記事で、かつて「アジアの鉄人」といわれた台湾の楊伝広がご逝去されたことを知った。すでに1月27日脳卒中で73歳で亡くなり、2月9日台北で追悼式があったということである。ローマ五輪で10種競技の銀メダルだった(陸上ではアジア唯一のメダリスト)楊伝広は大会前の予想では金メダルの有力候補だったが、5位に終わった。ケペルは何故か勝者よりも敗者の涙に感動をおぼえた。東京五輪の涙の敗者といえば、まず第一はヘーシンクにやぶれ、柔道無差別級二位に甘んじた神永昭夫であろう。マラソンの日本勢のエースだった寺沢徹の15位という予想外の不調も、若手の円谷幸吉3位、君原健ニ8位の活躍の陰で無念の涙だった。女子では水泳100m背泳で日本新ながらも田中聡子選手の4位に同情の涙を禁じえなかった。女子80メートル障害の依田郁子選手は5位だったが、トラックでは人見絹枝以来36年ぶりということで、大検討だったのかもしれない。そのような敗者の涙のなかで、栄光の敗者という光景を陸上1万メートルでみることができた。この話は後に国語の教科書にとりあげられたので若い人のほうがよく知っているかもしれない。

                    ゼッケン67

    ゴール前50メートルで勝負がきまるという熱戦をくりひろげた一万メートル決勝も、アメリカのウイリアム・ミルズ選手が優勝しました。ほかの選手もほとんどゴールインをして、トラックからすがたをけしていました。しかし、たったひとりで必死の表情で走りつづける青年がいました。ゼッケン67、セイロンのカルナナンダ選手です。まだ、あと三周しなければゴールインできません。

    二十三、四、五周めと、一万メートルに出場したセイロンの陸上競技の選手として、全身あせまみれになりながらも、しっかりと大地をけって走りに走っています。

    そのほかには人かげ一つありません。ゴールに向かって力走する、カルナナンダ選手のすがたに、七万五千人の大観衆は、おしみない賞賛の声を感動をこめて送りました。

   あるかぎりの力をふりしぼって、最後まで、レースをすてなかった、カルナナンダ選手のおこないは、すべての人々の心にいつまでも残るでしょう。

   レースのあと、カルナナンダ選手は、「わたしはできるだけ力をふりしぼって走りました。びりになったのは、こんどがはじめてです。むすめが大きくなったら、おとうさんは、東京で力いっぱい頑張ったと話してやりたい。」と、胸をはって話していました。(「学研版小学生のための東京オリンピック」より)

武者小路実篤と東京オリンピック

    志賀直哉は、明治35年、学習院中等科卒業の際に落第し、原級(6年)に留まることとなった。しかし一人個人の出来事が近代日本文学史に大きな意味をもつ。落ちたクラスには武者小路実篤がいたからだ。これはまことに幸せな出会いであった。志賀は「武者小路実篤全集」(昭和25年)に次のような一文を書いている。

武者との交わりはもう3年経てば半世紀になる。武者と私とは随分違った性質もあり、こまごました点では寧ろ反対なことが多いが、会って、一番心に近く感じ、別れて後まで愉しい気持を残してくれるのは矢張り武者小路である。(中略)唯、異った性質は互にはっきり分っていて、そういう事では決して干渉し合わないが、私は芸術の上でも武者からよきものを摂取して来たと感じている。(中略)私は私の人生で、武者という人間に出会わなかった場合を想像する事は出来ない。

   武者小路実篤も「志賀直哉のこと」(昭和40年9月)という一文で、晩年の二人の友情を示す面白いエピソードを披露している。

志賀はまた親切で、よく気がつき、気がついたことはぼくより実行力がある。ぼくはいろいろのことを考えて、いろいろのことをしたが、万事他人任せで、一切気にならない質だが、志賀の方はわりに気になる。自分がいいと思うものがあるとぼくにすすめてくれる。去年ぼくのところに電話をかけて来て、カラーテレビを手に入れたから見に来ないか、同じものがもう一ついい条件で手に入るから、よかったら世話すると言うのだ。僕はカラーテレビは前からほしいと思っていたので、ほしく思ったが、いろいろの理由で金がいる時なので、ちょっと考えていたが、志賀が親切に言ってくれるので見に行って、気に入ったが、条件がいくらいいと言っても米国出来の最優品らしいので少し考えさせられていたら、志賀はぼくに気にいったことがわかると、ただでくれるというのだ。話がうますぎるが、相手が志賀なのでただで喜んでもらった。ところがオリンピックの直前に故障が出来て、他ではなおせないので、志賀に相談し、志賀から買った所に話してもらった。オリンピックの直前でぼくはあきらめていたら、オリンピックの前日に完全になおってとどけてもらったのにぼくは感心した。志賀がやかましく言ってくれたのでまにあったのだと言うことはぼくにはわかりすぎていた。おかげでオリンピックの入場式を孫達と一緒に見ることが出来た。志賀はもちろん恩にきせるようなことは一言も言わないし、ぼくも別にお礼を言う必要は認めなかったが、感謝はした。

   志賀直哉と武者小路実篤との友情秘話というと、何か特別なことを想像するかもしれないが、80歳を過ぎた老人が東京オリンピックをカラーテレビで見て素直に喜んでいる様子は普通の人とかわりがないようにも思える。

西芳寺と夢窓国師

   京都市西京区松尾神ヶ谷町にある西芳寺は、洪隠山と号し、俗に苔寺と呼ばれる。寺伝では、天平年間(729-749)に行基が開いたと伝えられ、その後、暦応2年(1339)に夢窓疎石が禅宗寺院として復興した。この時もと西方寺の名を西芳寺に改め、平地部に二層の楼閣を持つ瑠璃殿をはじめとする庭園建築と花木に彩られた池庭を、また山腹には洪隠山と呼ばれる枯山水石組と座禅堂指東庵を配し、華やかな風景を呈した。

   夢窓疎石(1275-1351)は生前没年を通じて、7人の天皇・上皇から国師号を贈られたことから、「七朝の国師」といわれ夢窓国師といわれる。鎌倉幕府が倒れて、室町幕府となっても、夢窓は宗教的・政治的にはおおいに権勢を振るった。たとえば、全国66国2島に安国寺と利生塔を建立したり、後醍醐天皇の冥福を祈るため、天竜寺を創建した。夢窓は若い頃から全国を巡って自然の中で座禅行につとめ、自然と人間の本性を究めて悟りを開いたが、西芳寺の庭をなぜ苔でおおったのであろうか。彼は「夢中問答」の中でこういっている。

白楽天小池をほりて、そのあたりに竹をうゑて愛せられき。その語に云はく、竹はこれ心虚しければ我が友とす。水はよく性浄ければ吾が師とすと云々。世間に山水をこのみたまふ人、同じくは楽天の意のごとくならば、実にこれ俗塵を混ぜざる人なるべし、或は天性淡白にして俗塵の事をば愛せず、ただ詩歌を吟じ泉石にうそぶきて心をやしなふ人あり、煙霞の痼疾、泉石の膏肓といへるはかやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。

    唐の詩人白楽天は池と竹とを愛した。竹は内部が空洞なので心にわだかまりのない人に似ているし、池の水は清らかに澄んでいるので自分がたえず学ぶべきものであると考えた。苔をめでる心情を俗塵を離れて自己の心を養うのに、苔ほど庭にふさわしいものはないと考えたのであろう。夢窓は天竜寺、西芳寺のほかにも、恵林寺、瑞泉寺、永保寺などにすばらしい庭園を作っている。これらの庭は枯山水様式の源流となり、のちの日本庭園の規範となった。

   だが現実の夢窓国師はなかなか俗塵から離れることはできなかったようである。夢窓はあるとき師の高峰顕日から「弟子をもち、法を後世に伝えよ」とさとされた。夢窓はこの教えに従い、じつに1万人をこえる門人を擁するようになった。しかも彼の門下からは無極志玄、春屋妙葩、龍湫周沢、義堂周信、絶海中津らの、禅宗の中心人物や五山文学の人物が輩出した。このような権勢を誇った夢窓であったが、純粋禅の立場の人々には評判は悪かった。花園上皇と宗峰妙超は、夢窓の禅は天台・真言の範囲を一歩も出ていない。あれでは禅宗も滅びたも同然だ、と酷評されている。

2007年2月18日 (日)

マッカーサー解任

   1950年の暮れ、北朝鮮に進撃していたアメリカ軍と国連軍は後退を余儀なくされた。中国の大軍が、共産主義の隣国を支援して戦闘に参加したのである。ソウルは再び共産軍の手に落ちたが、1951年の初めには決死の反撃で38度線を境として膠着状態に入った。朝鮮における国連およびアメリカ軍の総司令官ダグラス・マッカーサー元帥(1880-1964)は、戦争拡大の危険を顧みず、北朝鮮を支援する中国に対しての攻撃を迫った。トルーマン大統領がこれを拒否すると、マッカーサーは、あけすけに政府を批判した。4月11日、トルーマンは彼の解任を命じ、16日に71歳の老元帥は羽田空港からワシントンに戻った。マッカーサーは国民に大歓迎で迎えられ、その後大統領選への出馬すら噂されたが、4月19日、上下両院合同会議における演説において「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という、第一次世界大戦下のイギリス軍歌から引用した一節を最後に残して引退した。

2007年2月17日 (土)

世紀末パリとカフェ

   1900年をはさんで前後30年間ほどの時代を、フランス人は回顧的にベル・エポック(古き良き時代)と呼ぶ。それが1914年の第一次世界大戦勃発をもって終焉したことは明らかであるけれども、その始まりを具体的にどの時点に置くかという点では意見はいくつかに分かれる。1875年のパリ・コミューン鎮圧後の第三共和制の成立、1880年7月14日の革命記念日、1889年のパリ万国博、などベル・エポックの開幕とする見方はいろいろある。

   近代都市パリはセーヌ県知事オスマン男爵のパリ大改造の都市計画によって生まれかわった。道路は整備され、大通り(ブルヴァール)が作られ、鉄道が敷かれ、電灯が灯り、鉄とガラスによる新しい時代を告げる建築が建てられ、カフェや劇場は賑わいを見せ、パリジャンたちは良き時代の生活を謳歌した。それは、「19世紀の首都」(ベンヤミン)と呼ばれるにふさわしいものであった。

   印象派の画家たちが登場したのもちょうどこの頃である。カフェ・ゲルボアが印象派と、カフェ・ヴォルテールが象徴派と結びついた存在であったことはよく知られているが、カフェ・プレバン、フランスカッティ、トルトニ、カフェ・アングレ、カフェ・ナポリタン、カフェ・ド・ラ・ぺ、カフェ・ド・パリ、カフェ・リッシュ、あるいはドーム、ロトンド、セレクト、クーポールといったカフェが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリの芸術界でいかに大きな役割を果たしたかについては、強調してもしすぎることはあるまい。記録によれば、1900年までにパリに27000軒のカフェがあった。モネ、シスレー、ピサロ、ルノアール、ゴッホ、ベルナール、あるいはカイユボットがさまざまなブルヴァール風景を描いた。しかし、記録という点では写真家も忘れてはならない。ルイ・ヴェール、セベルジェ兄弟、ウジェーヌ・アジェなどはベル・エポックを代表する写真家たちである。

   カフェはただコーヒーを飲むところではなかった。パリのパサージュを遊歩するフラヌール(遊民)なる存在はすでにボードレールにおいて先駆的に体現され、そしてそれについてはヴァルター・ベンヤミンが論じている。カフェは芸術家、都市遊民(ボヘミヤン)、社交界の女、高等娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)、労働者などなどさまざまな階層の人々の溜まり場となった。この時代にパリの人口は200万から300万に増加した。まさにパリは独特の香気にみちた快楽都市、モダン・バビロンとしてヨーロッパの中心都市として君臨することになる。

田中智学と磐梯山噴火

   明治21年7月15日、福島県会津磐梯山が突然噴火し、数ヵ村が壊滅し、477人の犠牲者を出すという惨事となった。被災者たちの救済・復興は困難をきわめた。

    日蓮宗の田中智学(1861-1939)は、写真師吉原秀雄を説き伏せて、7月20日に上野駅を立ち、磐梯山周辺に滞在して写真撮影を行い、7月29日に帰京すると、8月上旬から各地で幻燈会を行ない、その入場料、義捐金を罹災地に送ったという。さらに彼は、読売新聞に「磐梯紀行」として30回にわたって連載している。(明治21年8月5日~10月6日)

   このように田中の企画力・実行性がその伝道活動にもおおいに用いられて、その初期から機関紙による文書伝道・幻燈布教などを実施し、日蓮宗の宣伝に努めた。のちに、田中は日蓮宗の革新を志し、還俗仏教者となって、在家主義の新仏教運動に入っていく。明治24年立正安国会(のちの国柱会)を創立する。さらに日本国体学を提唱して高山樗牛、姉崎正治らの支持を得て、明治後期の国粋主義的色彩を強く帯びるようになる。田中は大正3年、新たに国柱会を組織した。

宮沢賢治と国柱会

   宮沢賢治は大正10年1月24日、25歳のとき上京して鶯谷の国柱会館を訪れている。そこで理事をしている高知尾智耀から、文芸によって大乗の教えを広めるように言われ、創作に熱中する。やがて妹トシの病気の知らせをうけて花巻に戻ることになるが、7ヵ月ほどの東京生活で書いた原稿の量はおびただしいものであった。賢治が生前に稿料(5円)を受け取った唯一のものといわれる童話「雪渡り」もこの年に書かれている。田舎青年の宮沢賢治が国柱会の師である田中智学に直接話しができたかどうかは定かではないが、賢治文学を理解するうえで彼の信仰心が国柱会から一定の影響を受けた事実を無視することはできないだろう。ただ現在においては、生涯賢治は国柱会に関係したとする説と早期離脱説とがあり、今後の賢治研究の成果を期待したい。

良寛と茶席

   ある日、良寛は茶席の行儀に退屈して鼻クソを丸めていたが、そのやり場がないまま右側におこうとした。ところが右側の客はこれを知って袖をいそいでたぐり寄せてしまった。そこで左におこうとすると、左側の客も、そうはさせじと袖を引いた。良寛はしかたなく、丸めたものを鼻に戻したという。

    またあるとき、良寛は濃茶であるのに飲みほしてしまった。ところがつぎの客があるのでやむなく口の中の茶を椀に吐き出して渡した。その人は念仏を唱えながら飲んだという。

ムッソリーニとファシズム

   独裁者ムッソリーニ(1883-1945)の日常生活。彼は朝6時に起き、体操をしたのち、オレンジエードか、グレープジュースを一杯飲む。それから軽く馬に乗って、シャワーを浴び、朝食をとる。食卓にはパンとミルク、新鮮なフルーツ。乗馬、水泳、ハイキング、フェンシング、ヴァイオリンを愛好した。酒もタバコもたしなまず、社交生活もあまり好きではない。ちょっとかわったことと言えば、スピード感を愛し、みずからオートバイ、飛行機を操縦することぐらいなものであり、独裁者の日常は、意外に健康的なものであった。ムッソリーニは古代ローマ帝国の復興を掲げたもののローマ皇帝ネロ、カリギュラ、カラカラのようなエピソードがあるわけではなく、彼自身は勉強家で教養も深い知的な人物だった。

    ベニト・ムッソリーニは、1883年7月29日、イタリア北東部、フォルリ州プレダッピオ郡ドヴィアに生まれた。父は鍛冶屋、母は小学校の教師をしていたが、生活は豊かではなかった。父は熱狂的な社会主義者で、息子のベニトという名は、メキシコの革命家ベニト・ファレス(1806-1872)にちなんだものである。第一次大戦後の1919年3月23日、ムッソリーニはミラノで同志150人を集め「ファッシ・ディ・コンバティメント」(戦闘団)を組織した。ファッシ(ファッショの複数)は団結、結束を意味するが、これからファシズムという言葉が生まれた。1922年ローマ進軍を行なってムッソリーニ政権が誕生した。1924年ファシズムに反対するジャコモ・マッテオッティ(1885-1924)が謎の死を遂げた。これ以後、ムッソリーニは正体を現し始め、首相の権力の拡大、ストライキの非合法化、ファシスト党青年の全国組織「バリーラ」の結成などが進められていた。反対派にはもはやムッソリーニを暗殺するしかなかった。

   1926年4月7日、カピトーロでの外科医世界会議を主宰し終えたムッソリーニが外へ出たとき、銃弾4発がピストルから発射された。ムッソリーニは鼻を負傷した。犯人は62歳のアイルランド女性バイオレット・ギブソンで、精神病院を退院したばかりだった。この狙撃事件には政治的背景はなかったが、ファシスタ党の戦闘員はこの機会をとらえ、反対派の新聞2社の社屋を襲撃した。そして同じ日の午後、ムッソリーニは、ファシズムを「全民主主義社会に対抗する明快にして決定的かつ絶対的アンチテーゼ」と規定する。これは反対派に対する宣戦布告となった。

小林多喜二と志賀直哉

    小林多喜ニ(1903-1933)が奈良にいた志賀直哉を訪問した時、志賀は「麻雀か将棋でもしないか」と誘ったが、多喜ニは両方とも趣味がないと言ったという。志賀は当時の文士なら必須の趣味を多喜ニが知らないことに驚いたという。多喜ニとほぼ同世代の小林秀雄(1902-1983)も志賀直哉を敬愛していたが、多喜二とは大きく違って秀雄は恵まれた文学的環境だった。秀雄は昭和3年5月頃から、長谷川泰子と別れて、奈良の志賀家に出入りしている。おそらく小林秀雄は志賀直哉と将棋を指していただろう。

    小林多喜ニが志賀家を訪れたのは、昭和7年春ごろであろうが、翌年の2月20日、正午すぎ赤坂福吉町で今村恒夫と共に築地署特高に逮捕され、激しい拷問の末に虐殺された。志賀は、弔文と供物をよせ、25日の日記に「暗澹たる気持になる。不図彼等の意図、ものになるべしという気する」と記している。

    今日、プロレタリア文学といえば、前田河一郎の「三等船客」、葉山嘉樹の「海に生くる人々」、徳永直の「太陽のない街」、そして小林多喜ニの「蟹工船」が挙げられる。しかし多喜ニの文学的出発は、志賀直哉に私淑して本格的に小説を書き始めたことはよく知られている。最も初期の私小説的な題材から、「政治と文学」に覚醒した多喜ニの文学的軌跡を研究することの現代的意義は大きいものがある。戦後文学、とくに芥川賞受賞作品を代表とする現代文学が内面的なものや感受性を重視し、国家や社会という現実の重みや虚偽の深さにあまり目を向けなくなったのは、敗戦の影響が強くあるのだろう。志賀直哉に代表される「個人中心の文学」と小林多喜二に代表される「社会(国家)中心の文学」とが、さらに高次な段階にあって総合されることをひそかに望んでいる。

2007年2月16日 (金)

懐かしのアメリカンTVウエスタン

  テレビ開局草創期はまだ番組制作力が弱かったため、アメリカンTVがゴールデンタイムに放送されるという状況が昭和30年代終わりまで続いて、子供心にも満足のゆくラインナップだったように思う。昭和34年の「ローハイド」はフランキー・レインが歌う「ローレン ローレン ローレン」という主題歌でおなじみのカウボーイの物語。主役はエリック・フレミングだがクリント・イーストウッドを世に送り出した西部劇として日本人にも記憶にのこる。チャック・コナーズの「ライフルマン」も忘れられない。「四角い顔にやさしい目」という主題歌が懐かしい。監督はなんとサム・ペキンパーだった。「ガンスモーク」は保安官マット・ディロン(ジェームズ・アーネス)が町の治安を守る姿を描く。「ボナンザー カートライト兄弟」では若きマイケル・ランドンがででいた。そのほかショットガン片手にひとり荒野を行くスティーブ・マックィーンの「拳銃無宿」、ヒュー・オブライエンの「保安官ワイアットアープ」、ヘンリー・フォンダの「胸に輝く銀の星」、ジーン・バリーの「バットマスターソン」、ゲイル・ディヴィスの「アニーよ銃をとれ」、ジームズ・ガーナーの「マーべリック」。そのほかにファミリー西部劇というジャンルに「ララミー牧場」「バークレー牧場」「ワイオミングの兄弟」などがある。とくに淀川長治解説の「ララミー牧場」のロバート・フラーの人気はすごかった。ロバート・フラーの写真が表紙の学習ノートがあった。デューク・エイセスが歌った主題歌も広く知られている。

  ララミー牧場  井田誠一訳詩

草は青く 山遠く

ここは西部の 大草原

たそがれの 牧場に

のぼる煙り なつかしや

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

      *

白い雲が とんでゆく

空にひびくは ムチの音

ならず者は よせつけぬ

腰の拳銃 伊達じゃない

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

            *

沈む夕陽 追いかけて

山の向こうへ とんでゆく

たくましい 渡り鳥

明日のねぐらを 誰が知ろう

おれはカウボーイ

ラ ララミー ララミー

石川啄木、生活の歌

はたらけど

はたらけど猶わが生活楽にならざり

ぢっと手を見る

    この短歌は明治43年7月26日夜の石川啄木のノートに記されている。初出は8月4日付の東京朝日新聞である。貧しい勤労者の心理、庶民共通の悲哀を表現し、働いても働いても楽にならない現実について深く考えようとしているところに特色があり、21世紀の現在も多くの庶民にとっては痛切な実体感を伴う一首であろう。また手帳の片隅に鉛筆書きで次のような走り書きも見つかっている。

心よきあはれこのつかれ、息をもつかず仕事をしたる後のこのつかれ

明治42年3月、当時の啄木は東京朝日新聞社に勤務して一応の生活が保証され、その年の6月、やっとのことで函館に残していた家族を呼び寄せ、本郷弓町の喜之床という理髪店の二階ニ間を借りて移り住んだ。彼は生活費を少しでも得ようと、夜の勤までして懸命に働いたが、暮らしは依然として苦しく、貧乏は死ぬまで彼の心をおびやかし続けた。

    私は私の全時間をあげて(殆んど)この一家の生活を先づ何より先にモツと安易にするだけの金をとる為に働いてゐます。その為には、社で出す二葉亭全集の校正もやってゐます。田舎の新聞へ下らぬ通信も書きます。それでも私にはまだ不識不知空想にふけるだけの頭にスキがあります。目がさめて一秒の躊躇もなく床を出て、そして枕についてすぐ眠れるまで一瞬の間断なく働くことが出来たらどんなに愉快でせう。そして、さう全身をもつて働いてゐるときに、願くはコロリと死にたい。かう思うのは、兎角自分の弱い心が昔の空想にかくれたくなる其疲労を憎しみ且つ恐れるからです。(大島経男宛書簡)

   啄木の貧乏の原因については、彼が経済観念に弱いところからもきていた。友人に対してたえず金銭上の迷惑をかけていたことはよく知られている。また、少し金が入るとふらふらと女遊びに使ってしまうような弱さもある。またひとつの職場に長続きしないという人間関係のまずさもあった。そうした人生の辛酸をなめ、労苦を経験してきた啄木は上京後、人間的な成長の跡がはっきりその作品に現れてきていることは「時代閉塞の現状」という評論に読み取れる。この評論によって、宿命論に陥ってあがきのとれなくなった自然主義をはっきり否定して、国家、社会に対する関心を深め、社会主義の研究をはじめ、「人民の中へ」を志している。しかし、それを果たす前に啄木はすでに不治の病気にかかっていた。自分だけではなく、母も妻も結核に冒されるという苦境のどん底で若い生命をおわったのである。啄木の貧困の生活の中から生まれた文学は、これからも、いつ、いかなる時代になろうとも多くの人々に親しまれるであろう。(参考:現代文学研究会編 佐々木一夫解説「啄木人生のーと」真昼文庫)

大船山とミヤマキリシマ

    大船山(だいせんざん)山頂の南斜面は、初夏のころ紅紫色に咲く花 ミヤマキリシマで埋め尽くされる。大船山は九重連山の一つで、久住山、稲星山、星生山、天狗ヶ城、中岳、三俣山、白口岳、平治岳などが聳える。九重連山の真ん中にある窪地が「坊がつる」である。「坊がつる」とは、かつてこの地は天台宗の霊場として栄え、「坊」(本坊弘蔵坊)のある「つる」(平坦地、湿原)という意味。

    昭和53年、芹洋子によって「坊がつる讃歌」が全国に広められたが、原曲は昭和15年に作られた広島高等師範学校山岳部部歌。

1 人みな花に 酔うときも

  残雪恋し 山に入り

  涙を流す 山男

  雪解の水に 春を知る

2 みやまきりしま 咲き誇り

  山紅に 大船の

  峰を仰ぎて 山男

  花の情けを 知る者ぞ

お通という理想的女性像

   吉川英治の「宮本武蔵」では、武蔵と小次郎は実在の人物であるが、お通、本位田又八、その親のお杉婆、恋人朱美、その母のお甲などはみな架空の人物である。吉川英治が朝日新聞の夕刊に連載をはじめた昭和10年ころは、人気作家でありながら、自ら創刊した「青年太陽」が危機的状態で、最初の妻やすとは離別状態であった。そのころ43歳の吉川英治は16歳の池戸文子と銀座の料亭で知り合う。お通の描写が清々しいのはどうやらこの少女のイメージが投影されているからであろう。お通は小説では、こう描かれている。

孤児であるうえに、寺育ちのせいもあるのだろう、お通という処女は、香炉の灰のように、冷たくて淋しい。年は、去年が十六、許婚の又八とは、一つ下だった。

    お通のイメージは吉川英治にとっても理想的女性像になっている。それは多分に古風で、貞節で、ひたぶる情熱を秘めた美しい女性像である。これまで映画化されたお通役の女優といえば、轟夕起子、宮城千賀子、相馬千恵子、八千草薫、入江若葉などである。お通になぜかタカラヅカ出身の女優が多いのは「清く、正しく、美しく」のモットーの表れであろうか。実はお通・タカラヅカに熱き想いをよせたのは我らが千恵蔵御大なのだ。

   片岡千恵蔵は、昭和12年3月に千恵プロを解散し、日活「謳え春風」に続く第2作は吉川英治「宮本武蔵」(尾崎純監督)と決まった。ところが、お通が決まらなかった。千恵蔵は少し前、宝塚劇場に「モオンブルウメン」というミュージカルを見た。「あれ、なんとう女優だ?」「月組のトップスターで轟夕起子というんだよ。トルコという愛称で大変な人気だ」同行した曽我の説明を聞いて千恵蔵はうなずいた。そして引き続き、トルコさんがジュリア役を演じている「気まぐれジュリア」を見に行った。こんどは楽屋まで訪ねて、トルコはびっくりした。34歳の時代劇スターは、19歳のプリマドンナの甘く初々しい美しさに惹かれた。千恵蔵は製作会議で強硬に轟夕起子のお通起用を主張した。これまで宝塚から映画界入りは霧立のぼるくらいであまり例がなかった。この美男美女スターの共演は熱狂的な人気を呼んだ。続くマキノ正博監督「江戸の荒鷲」で轟が目を傷めた事件が婦人雑誌の大ニュースとなり、そのことが縁でマキノ正博と轟は結婚する。お通・轟は1本だけで終わった。千恵蔵にとつてみれば自分が宝塚から彼女を引き抜いてきたのに、まんまとマキノ正博に横取りされたかたちとなった。だが戦後のGHQ時代劇禁止時代の多羅尾伴内「シリーズ第一作七つの顔」(昭和22年)にも富豪令嬢・馬場きみ子役で轟とは共演している。千恵蔵が背広にソフト帽の姿で拳銃を撃つ。「ある時は老探偵多羅尾伴内、ある時は片目の運転手。またある時はインドの魔法使い。しかしてその実態は、正義と真実の人、藤村大造」この名台詞とともに映画は大ヒットした。やはり千恵蔵=轟共演は大衆に受ける要素があるようだ。

   轟夕起子の引き抜きで日活と宝塚でいざこざはあったものの、次のお通も宝塚の東風うららという研究生が抜擢された。芸名は宮城千賀子に決まった。監督は稲垣浩。しかし撮影中に千恵蔵は病気となり完成までに1年を要した。「宮本武蔵」の映画は数多いがこの戦前の稲垣浩を第一とする人は多いであろう。戦後の稲垣浩(東宝)では三船敏郎・八千草薫だった。純情可憐な娘という容姿の点では八千草・お通が一番かも知れない。ここまでが、タカラヅカお通で、内田吐夢監督は入江たか子の娘入江若葉を起用、ダイナミックな演出とリアリズムの武蔵が生まれる。テレビにもお通はよく登場する。梓英子、古手川祐子、賀来千香子、鶴田真由、米倉涼子。今後も新進女優によるお通が生まれるであろうが、お通は日本的女性の理想像なのであまり現代的イメージの強い女優はふさわしくないような気がする。(参考:田山力哉「千恵蔵一代」)

ネヴァ河の幻想

    フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821-1881)はモスクワのマリヤ貧民施療病院(現在、国立結核予防研究所)の官舎で生まれた。父ミハイル・アンドレイェヴィチは退職軍医、母マリア・フョードロヴナはモスクワの富裕な商家の出で、音楽や詩にも秀でた心の優しい女性だった。17歳のとき陸軍工兵学校へ入学、22歳でぺテルブルグ工兵隊に編入、製図課所属となった。1844年1月、23歳のドストエフスキーは、工兵隊に勤め始めてまもなく「ネヴァ河の幻想」と呼ばれる不思議な体験をした。

   その時、もうひとつの物語が私の目の前に浮かんできた。どこか暗い貸間、ある正直で心の清らかな九等官、彼とともに登場するのは、辱しめを受け、悲しみに打ち沈んだある娘。こうして彼らの物語全体に私の心は深くえぐられるような思いがした。

   これはドストエフスキーの文学の出発点を形づくる創造的啓示の瞬間であった。彼は文学に対する溢れるばかりの情熱を消しとめることができず、やがて工兵隊を退職し、失敗したらネヴァ河に飛び込む覚悟で「貧しき人々」の執筆に専念した。原稿は友人のグリゴローヴィチの手はずで、詩人ネクラーソフのところへ持ち込まれた。ネクラーソフは夜明け近くまでかかって原稿に目を通したあと、早暁、ドストエフスキーのアパートを訪ね、新進作家誕生を祝福した。2日後、無名の一青年はついに大批評家だったべリンスキーに引き合わせられ熱い賛辞を受ける。ドストエフスキーは後年「これは私の生涯のうちでもっとも感激的な一瞬だった。私は徒刑時代にこの時のことを思い出しては勇気を奮い起こしたものだ」と回想している。

グレンジとグレンジャー運動

   南北戦争は農民の生活にも大きな変化をあたえた。それまでの農民は自作農が主であり、自給自足的であった。しかし、しだいに農業も商業化するようになった。また都市の発達とヨーロッパ市場の拡大は、アメリカ農業をこれまでの独立自営から、農業機械を買ったり、より広大な耕作地を借りたりする必要がでできた。このような商業的な農業は、南部の綿花やタバコとおなじように、地域に主要農産物を集中させることになった。小麦はミネソタ・ダコタ・カンサス、トウモロコシはイリノイ・カンサス・ネブラスカ・アイオワに集まった。しかし、1870年以降、農産物の生産コストが高まった反面、生産物そのものの価格は下落する傾向をしめした。それは主として、鉄道の普及による生産組織の拡大の結果であった。農民の不満の爆発は、まず鉄道に向けられた。鉄道は、東部の産業資本家が支配していたので、東部の工業製品が西部に運ばれる場合に、荷主に対して鉄道会社がリベートを支払ったり、また荷主に対して無料パスを発行したりしたが、農産物を西部から東部へおくる農民にはなんらの特典もあたえられなかった。また、農民が農産物を貨車輸送するために設けられた穀物積込み倉庫なども、鉄道会社に保管料、積込み料などを支払わねばならなかった。農民のこれらの不満はいろいろな運動となって表明され、とくに鉄道と倉庫業に対しては激しい反抗がおこなわれた。これが組織されたのが、いわゆるグレンジャー運動である。

   ワシントンの一官吏であったオリヴァー・ハドソン・ケリー(1826-1913)は1867年に、農民の社会活動を促進するために各農村に農業保護者(パトロンズ・オブ・ハズバンドリー)通称グレンジ(Grang)という支部をつくることを提案した。このグレンジはピクニックや音楽や講義など多彩な文化と社交活動を通じ、男性だけでなく、農村で淋しい生活をしている婦人にもよびかけた。これは理想社会を目指す結社団体であるから、急速に中西部、南部に広がった。これが全国的な組織になって1875年ころには最盛期を迎え、ほとんどの州にグレンジができ、グレンジの数は約2万、会員の数は80万に達した。はじめは政治運動には参加せず、物資の協同購入や販売運動をおこなっていたが、1873年7月4日の大会では、鉄道その他の独占に対して闘争をおこなうことが宣言され、それ以来グレンジャー運動は政治活動をおこなうようになった。グレンジたちは代表を州議会へ送り込み、グレンジ法など州法を制定し、企業への規正をおこなった。これらは、1876年の最高裁による合憲判決、1886年の違憲判決をへて、1887年連邦政府による「州際通商法」の成立をみるが、企業活動に対する政府の規正の最初の試みであった。

森本六爾と林芙美子、巴里のめぐり逢い

   昭和6年頃、パリには多くの日本人がいた。画家では藤田嗣治、海老原喜之助、鳥海青児。美術評論家の土方定一、詩人の金子光晴など。そんな中で異彩を放つのは考古学者・森本六爾(1903-19036)のパリ遊学である。

   森本六爾は畝傍中学卒業後、奈良県下の遺跡を独力で調査し、昭和2年に考古学研究会(後の東京考古学会)を創設し、主幹となり雑誌「考古学」を発刊した。弥生時代に稲作農耕が存在したことをいち早く提唱した夭折の考古学者。この時「放浪記」(昭和5年刊行)で文壇に華々しくデビューした女流作家・林芙美子(1903-1951)も昭和6年11月にパリに来ており、孤独な二人の旅情はやがてかりそめの恋となる。

   林芙美子は小柄で美人ではなかったが、明るくて女性的な魅力があった人である。このとき芙美子はすでに画家・手塚緑敏と結婚しているが、パリ滞在中も森本のほかにも、画家の外山五郎、建築家の白井晟一、坂倉準三、詩人の辻潤、仏文学者の渡辺一夫などとも交遊があった。芙美子は画家の外山五郎に会いたい一心で渡仏したらしい。失恋した芙美子の前に現れた男性が森本である。森本は芙美子と同じ年の28歳、ミツギ夫人がいる。

   芙美子の日記に森本が登場するのは昭和6年12月26日である。「夕方顔氏(台湾人留学生)、森本氏達と支那めしをたべ、サンミッシェルを散歩する」とある。12月29日には森本、田嶋隆純(真言宗の学僧)とギメ美術館へ行った。翌年1月6日、芙美子は森本と田嶋を自分の部屋に招いて食事を供にした。翌日森本は朝早く芙美子を訪ねた。芙美子が好きだといった。日記には「へえ! こんなやぶれた女がね」「此男とは絶交する必要がある。本当はいいひとなのだろうが、学者にはどうも、精神的ケッカン者が多い」とある。1月10日にも森本が姿を見せたので、芙美子は「来らば水かけん」と宣言する。その翌日、ホテルに帰ると森本からリラの花三本が、「此花が御部屋を訪問いたします。どうか水をぶっかけて下さい。出来たら根の方が結構です」という手紙を添えて届けられていた。

   やがて、2人はパリを離れロンドンへ。森本は1月29日、靖国丸で帰国する。芙美子は1月23日から2月25日までロンドンに滞在する。ケンジントンの下宿は森本に紹介してもらった。森本は3月9日帰国した。その年から翌年にかけて森本は活発に仕事をおこない、弥生文化研究の基礎をつくった。だが結核は進行していき、昭和11年1月、32歳で死んだ。(参考:関川夏央「女流 林芙美子と有吉佐和子」)

2007年2月15日 (木)

宮沢賢治の信仰心

   宮沢賢治の一家の宗教は浄土真宗で、両親もかなり信仰の篤い人たちだった。母イチは賢治を寝かしつけるときにも、人は何のために生まれて来たか、世のためになるようにと語りきかせていた。賢治の幼い心に、母の慈悲深い心が伝わっていた。少年時代の賢治は、父親から今にお前は何になると聞かれた時に、「むやみにえらくならなくてもいい」と言った。そんな答え方では満足しない父が一層強くたずねると、「寒いときには鍛冶屋になればいいし、暑いときには馬車屋の別当になればいい」と言ったという。

    賢治は大正3年9月、18歳のとき「漢和対照妙法蓮華経」を読み、感動し、体のふるえを禁じ得なかったという。浄土真宗を信仰する父・政次郎と、法華経を読んで以来日蓮宗を信ずる賢治とは争ったが、賢治は生涯、法華経の精神をもって生きた。

2007年2月14日 (水)

デコちゃんと函館大火

   昭和9年3月21日の夕から翌朝にかけて函館市に大火があったことと、戦前の少女スターが日本映画を代表するような女優として成長することと関連するといえば「風が吹けば桶屋が儲かる」のような話として笑われるかもしれない。

   いまネットでは簡単に高峰秀子の「森の水車」を聞くことができる。

緑の森の彼方から 

陽気な唄が聞えます

あれは水車のまわる音

耳をすましてお聞きなさい

コトコト コットン コトコト コットン

ファミレドシドレミファ

コトコト コットン コトコト コツトン

仕事にはげみましょう

コトコト コットン コトコト コットン

いつの日か 楽しい春がやって来る

  戦後生まれのケペルもなぜか、ラジオからよく流れていた歌「森の水車」(作詞・清水みのる、作曲・米山正夫)はよく聞いた。荒井恵子がJOAKラジオ歌謡で昭和26年ヒットした。つづいて並木路子が歌っていたのを覚えている。この曲はもともとは高峰秀子がポリドール(当時は大東亜蓄音器レコードといった)からレコーディングして昭和17年9月に発売していたことを知ったのは最近のことである。しかしこの曲は昭和18年1月に警視庁が指導した敵性音楽としてレコード発売、演奏を禁止した法律により敵性歌謡とみなされ、発売禁止となった。「ファミレドシドレミファ」の部分が問題になったらしい。

   ところで、高峰秀子は戦前にレコードを三枚だしている。昭和16年9月「煙草屋の娘」「宵の明星」、昭和17年9月「森の水車」「小鳥よお前は声自慢」、昭和18年2月「歌へ山彦」「小鳥のやうに」。マンドリン音楽家の鈴木静一 は「歌へ山彦」と同年に轟夕起子の「お使いは自転車に乗って」で大ヒット曲をだしたが、高峰の主演映画「愛の世界 山猫とみの話」は不良少女の映画だったので暗い感じの主題歌は残念ながらヒットにはならなかったようだ。

    函館生まれの高峰は、昭和の歩みとともに、子役として映画界で活躍するが、昭和9年の函館大火で祖父一家7人が上京し、養父母あわせて9人の面倒をみなければいけない家庭状況となった。松竹から東宝への移籍、多数の映画出演、レコーディングなど多忙な仕事ぶりはそのような経済的な事情と関係があるようで、子役から女優高峰秀子へと成長する陰には、函館大火という大惨事が遠因するとみれば、人生とは思わぬ結果が生ずるという一例ではないだろうか。

2007年2月13日 (火)

移民による北海道開拓事業

   北海道の開拓事業は屯田兵とならんで、旧士族を主体とした組織によってはじめられた。明治11年に旧藩士たちを山越郡の八雲村へ送り込んだのをはじめに、旧山口半が余市郡大江村に、旧佐賀藩が石狩郡当別村に開墾事業をおこした。翌年から民間団体の移民も始められた。代表的なものに開拓社、赤心社、晩成社がある。

開拓社   民間移民による開拓事業は、明治12年和歌山県人岩橋徹輔によってはじめられた開拓社が最初である。開拓社は本社を函館に、第二会所を乙部町に置き、欧米式農業をおこなった。

赤心社  赤心社は明治13年3月、兵庫県の三田藩士の鈴木清、加藤清徳らによって設立され、明治14年、広島と兵庫の二県から54戸の移民が日高の浦河町に入植し、明治15年には鈴木清と沢茂吉が移民80名余りを率いて元浦河の荻伏に入植した。

晩成社   明治15年1月、伊豆の豪族依田一族は晩成社を設立して、依田勉三、渡辺勝らは明治16年、下帯広に13戸27人が入植した。晩成社は十勝平野内陸部の開墾につとめたが、冷害、野鼠、バッタの襲撃に何度もあい、開拓事業は失敗し、昭和7年に解散した。しかし帯広にとって依田勉三らの努力は十勝開拓の先駆となった。

2007年2月12日 (月)

詩人の妻・石川節子の生涯

    石川節子(1886-1913)。明治19年10月14日、岩手県南岩手郡上田村新山小路に堀合忠操の長女として生まれる。父は、岩手郡役所に勤務し、のち玉山村村長になった。明治35年3月私立盛岡女学校を卒業。38年5月に啄木と結婚したが、生活苦のため茨の道を歩み、啄木という一個の天才の陰に幸薄き短命の生涯となる。

    明治41年4月28日、石川啄木は上京した。5月4日、金田一京助の友情により本郷区菊坂町82番地の赤心館に同宿。上京後の一ヶ月余に「菊池君」「病院の窓」「母」「天鵞絨」「二筋の血」等、五つの作品三百枚余の原稿を書き、その小説の売り込みに奔走したが失敗だった。ために収入の道なく生活に困窮。しかしこのような生活難のなかで名作は生まれた。6月23日夜、歌興とみに湧き、この夜から暁にかけて55首、24日午前50首、翌25日141首と多くの歌を作った。「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」「たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて三歩あゆまず」「己が名をほのかに呼びて涙せし 十四の春にかへる術なし」などの歌がある。啄木が東京で家族と別れて単身生活をしていたころ、妻節子、長女京子は北海道にいた。厳冬の北海道の冬、障子も襖も売り払い吹きさらしになった部屋で小さな京子といつまでも啄木の文学的成功を夢みて待っていた。だが明治45年4月13日午前9時30分、啄木は父、妻、友人の若山牧水にみとられながら26歳と2ヶ月の人生を閉じた。啄木は亡くなるとき日記を燃やせと言い残したそうだ。「私の愛着が結局そうさせませんでした」と節子は宮崎郁雨に語った。節子は「吾れはあくまで愛の永遠性なると言ふ事を信じ度候」と手紙に書き残している。節子も、翌大正2年5月5日、肺結核のために28歳の若さで死んだ。啄木の死におくれることわずか1年である。

2007年2月11日 (日)

司馬遷、淮陰紀行

:   前漢武帝の治世の元朔3年(前126)、司馬遷は20歳のとき、天下漫遊の旅に出た。河南、安徽、江蘇、浙江、江西、湖南、湖北、山東の各省にわたる大旅行で、前後二、三年はついやしたようである。司馬遷は淮陰に立ち寄った。この地は、漢王朝の成立後、劉邦にあっけなく滅ぼされたが、劉邦、項羽の漢楚興亡のただ中にあっては斉王となり、漢室の一敵国となした名将・韓信の故郷である。司馬遷はこの地の父老たちから韓信の人柄を示す故事を聞くことができた。韓信は若い頃、屠殺屋仲間の若者にばかにされて、その股をくぐらされた「韓信の股くぐり」の話は有名であるが、のちに韓信は、その若者を召し出し、「わしの今日があるのはおまえのおかげだ」といって厚く報いたという。司馬遷は、どのように、こうしたエピソードを集めたのであろうか。じつは「史記ワイ淮陰候列伝」の論賛に、司馬遷が収集の経緯の一端を語っている。

    わたしが淮陰に行ったとき、淮陰の人々はわたしにこういった。「韓信は平民であったときでも、その気がまえは普通のものとはちがっていました。彼の母が死にましたとき、貧乏で葬式もできなかったのです。ところが、彼は高爽な、ひらけた場所に墓をつくり、将来その周囲に何万軒もの墓守りをおけるようにしたのです。」と。わたしは彼の母の墓を見にいったが、まことにその通りであった。もし韓信が道理を学び、謙虚な態度をとって自分の功績を自慢せず、その才能を鼻にかけなかったならば、漢室に対して、その勲功はかの周公、召公や太公望などにも比せられて、後世ながく国家の元勲として廟に祭られることにもなったろうものを。ところが彼はそうなろうとつとめずに、天下が統合されたあとで、なお反逆をたくらんだ。一族全滅にみまわれたのも当然ではなかろうか。

    ここには司馬遷の韓信の人柄に対する愛情と、それ故にこそあえて加える批判の筆とがよくあらわれている。(参考:大島利一「司馬遷」清水書院)

函館罹災史

    北海道の歴史は函館に始まる。北海道の玄関口であると同時に経済・文化の中心でもあった。函館は津軽海峡に突出している地形のため強風が吹くと大火を引起すことがある。また函館には大きな川がない。函館は日本一大火の多い町といわれる。明治40年には焼失戸数12390戸、昭和9年には24186戸に達する大火があった。とくに昭和9年の函館大火は3月といっても北国の函館はまだ寒い。焼死者が650人で、吹雪の中を逃げた被災者、負傷者のうち385人が凍死した。その後になっても収容後の死亡者も増加したので、死者2166人、重傷者2318人に達する大惨事となった。

明治からの災害を略記する。(火災は焼失戸数1000戸以上)

明治2年4、5月  戦災  箱館戦争

明治4年9月12日 大火  1123戸焼失

明治6年3月23日 大火  1314戸焼失

明治12年12月6日 大火  2326戸焼失

明治29年8月26日 大火  2280戸焼失

明治32年9月15日 大火  2494戸焼失

明治40年8月25日 大火   12390戸焼失

大正2年5月4日  大火  1532戸焼失

大正5年8月2日  大火  1763戸焼失

大正10年4月14日 大火  2141戸焼失

昭和4年6月 駒ケ岳大噴火  8ヶ村被害

昭和9年3月21日 大火   24186戸焼失

昭和20年7月14,15日 空襲  死者79人

昭和29年9月26日 洞爺丸沈没 死者1430人

なお、寺田虎彦には防災対策の必要性を説いた「函館の大火について」がある。(「中央公論」昭和9年5月)

函館青柳町時代の石川啄木

   石をもて追はるるごとく故郷渋民村を去った石川啄木が、函館に到着したのは、明治40年5月5日のことである。宮崎郁雨の好意で青柳町18番地に新居を構え、妻節子と子・母・妹光子を迎え、一家五人の生活は明るく楽しいものであった。日記に「我が函館に於ける新家庭は漸く賑やかになり、京ちゃんは日増しに生長したり、越て数日小樽なりし妹光子は脚気転地のため来れり、一家五人家庭は賑はしくなりたれどもそのために予は殆ど何事をも成す能はざりき、六畳ニ間の家は狭し、天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室がなくては物かく事も出来ぬなり」と書いてその不便をかこっている。

函館の青柳町こそかなしけれ

友の恋歌

矢ぐるまの花

(解釈)函館の青柳町時代がとりわけて懐かしいことだ。家の周囲に矢ぐるまの花が咲き、友の恋歌を聞いて楽しんだあのころの生活が。

    この青柳町の新居はやがて啄木の主宰する文芸雑誌「紅苜蓿」の本拠となり、岩崎正(白鯨)、松岡政之助(蕗堂)、大島経男(流人)、並木武雄(翡翠)、西村彦次郎、吉野章三(白村)、宮崎郁雨たちは暇さえあれば文学を論じ人生を語りあった。友人のひとり岩崎正は当時函館郵便局の為替係として勤務していた。後年相次ぐ家庭の不幸に妻を娶ることもなく、大正3年9月5日、肺結核のために薄幸不遇の生涯を閉じた。

目を閉じて

傷心の句を誦してゐし

友の手紙のおどけ悲しも

(解釈)友人の岩崎白鯨は常に目をとじて悲しみの歌を口ずさんでいたが、この薄幸不遇の友の手紙に、おどけた言葉が書かれてあるのも悲しいことだなあ。

    明治40年8日25日に函館の大火があった。焼失家屋12000余、死者8人、負傷者1000人。啄木一家は焼失を免れたが、勤務先の弥生小学校、函館日日新聞社ともに焼失した。函館は当分再興の見込みなしと判断し、札幌行きを決心する。在函期日132日なり。

函館のかの焼跡を去りし夜の

こころ残りを

今も残しつ

    啄木日記より。「八月二十五日此夜十時半、東川町より火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二を焼けり。この函館に来て百二十有余日、知る人一人もなかりし我は、新しき友を得ぬ。我友は予を恋ひせんとす。而して今予はこの記念多き地を去らんとするなり。別離といふ言ひ難き哀感は予が胸の底に泉の如く湧き、今迄さほど心にとめざりし事物俄かに新しき色彩を帯びて予を留めむとす。」

近代モード・ファッションと女優たち

   近代モードのファッションの基礎を形成したデザイナーといえば、オート・クチュールの創始者シャルル・フレデリック・ウォルト(1825-1895)、女性をコルセットから解放したポール・ポワレ(1879-1944)、そしてココ・シャネル(1883-1971 )である。

   イギリス人のウォルトだが、彼の権力はその時代の大臣もかなわないほどで、このエレガンスの使者は、フランス宮廷を征服してしまった。彼のサロンで日がな一日待って、やっと服をつくっていただくという高貴な女たちが、あとをたたなかった。そのころの舞台の名女優サラ・ベルナールでさえ、ウォルトに舞台衣装の一部をつくってほしいと頭を低くして頼んだものだが、ウォルトは冷たく断わったという。全部を彼自身の手でデザインするならまだしも、たとえサラ・ベルナールという大スターでさえがまんのできることではなかった。誇り高いサラも、二度とウォルトには頼もうとはしなかった。

   ポール・ポワレはウォルトの店で働いていたが、1903年、オペラ座近くに自分の店を持った。1906年に、ハイ・ウエストのドレス「ローラ・モンテス」を発表し、女性のウエストを締めつけていたコルセットを追放し、ファッション史上画期的な役割を果たした。女優サラ・ベルナールの衣装デザインを担当し、画家ラウル・デュフィは彼のために布地をデザインした。その後、衣装のデザインにとどまらず、色彩学、装飾一般まで教えたし、香水ロジーヌをつくり出し、一世を風靡した。またアメリカに渡った最初のオート・クチュールでもあった。1920年代になるとポール・ポワレのコルセット無しのドレスが流行したが、誇り高いポワレは、自分の作品がコピーされることを極力きらい、映画に自分の作品を出すことは考えもつかなかった。しかし、メアリー・ピックフォードやそのころ売り出したばかりのジョン・クロフォードのために、デザイン画を描いたという記録が残っている。

  それまでの映画は、会社おかかえのデザイナーが存在していて、スターのために衣装をつくった。グロリア・スワンソンはアイナ・モルガン、マレーネ・デートリッヒはトラヴィス・バントンだった。しかし、スターたちの中からも会社のお仕着せでは、あきたらないと思う女優が出てきた。グロリア・スワンソンは一年に一回はパリ、ロンドンに行って、自分の衣装を注文し始めるし、メエ・ウエストは、等身大のボディをつくらせて、イタリア出身のクチュリエのスキャパレリに注文した。こうした風潮の中で、メトロのゴールドウィン・メイヤーは、ココ・シャネルとの協力を考えた。シャネルは特別仕立ての白い列車に乗ってニューヨークからロサンゼルスに向かった。駅にはグレタ・ガルボをはじめ、数多くのスターが待ちかまえていた。ポワレとはちがって、シャネルは折りあえることには寛大だった。最初にシャネルの衣装を着たスターは、グロリア・スワンソンで、映画「今宵こそは」であった。戦後になって、クリスチャン・ディオールが登場すると、ピエール・カルダン、ユベル・ド・ジバンシー、ギ・ラロッシュ、イブ・サン・ローラン、ルイ・フェローらが続々現れた。スターもまた新しくなった。イングリッド・バーグマンは、ディオール、シャネル。ミッシェル・モルガンは、ピエール・バルマン。そして極めつけは、ジバンシーとオードリー・ヘップバーンのコンビであろう。彼女はスクリーンの上でも、オフ・スクリーンでもジバンシー一本槍で、彼女の不思議な魅力をより鮮明に打ち出すことに成功した。(参考:秦早穂子「スクリーン・モードと女優たち」)

追記:秦早穂子の引用するグロリア・スワンソン主演映画「今宵こそは」であるが、同名の映画がフィルモ・グラフィーには見当たらなかった。有名なドイツ映画「今宵こそは」(1931年)はアナトール・リトヴァク監督、主演ヤン・キープラ、マクダ・シュナイダー主演のセミ・ミュージカル・コメディとも言うべき作品で主題歌は日本でも戦前からよく知られているが、グロリア・スワンソンの作品ではない。グロリア・スワンソンの出演作品の中で近い題名は「今宵ひととき」(Tonight or Never)1931年作品、監督マービン・ルロイ、主演メルビン・ダグラスがあり、この映画の中でグロリア・スワンスンがシャネルの衣装で出演しているのではないかと推測する。

片岡千恵蔵、武蔵で得た人間修養

    片岡千恵蔵(1903-1983)の晩年を田山力哉は、「千恵蔵一代」で次のように書いている。「死の三週間ばかり前、千恵蔵は病室のべッドに正座し、手をあわせてお経を読んでいた。頬はこけ、鬚も剃ってなく、蒼白な顔色、真っ白になった頭髪は総毛立ち、入れ歯を外した顎はガタガタしていた。その咽喉の奥からうなり声がひびき、それは経典の文句なのだった。その凄絶な姿は、彼がその長い俳優生活を通じて繰り返し演じてきた宮本武蔵の生き写しのように見る者に映じた。」

   昭和2年、吉川英治原作「万花地獄」(中島宝三監督)でデビューした千恵蔵は、昭和4年に「宮本武蔵」(井上金太郎監督、千恵プロ)、昭和12年に「宮本武蔵」(尾崎純監督、日活京都)、昭和15年「宮本武蔵 第1部 草分人々」(稲垣浩、日活京都)「第2部 栄達の門」(稲垣浩監督)「第3部 剣心一路」(稲垣浩監督)、昭和17年に「宮本武蔵 一乗寺の決闘」(稲垣浩監督、日活京都)、昭和18年に「宮本武蔵 二刀流開眼」(伊藤大輔監督、大映京都)「宮本武蔵 決闘般若坂」(伊藤大輔監督、大映京都)がある。後年、千恵蔵自身が次のように書いている。

「武蔵で得た人間修養」 片岡千恵蔵

   吉川英治先生と云えば、立派な作品が数多くありますが、やはり「宮本武蔵」はその代表作品の一つであると思います。私の多くの主演映画の中でも「宮本武蔵」は代表作の一つです。その「宮本武蔵」のタケゾウ時代を最初に主演させてもらったとき、偶々吉川先生が京都ホテルに来られたので、早速お伺いしていろいろお話をしておりましたところ、「千恵さん、これからの俳優は、どんな役が来てもいいように、人間的修養が大切だね」といわれましたが、当時若い私には、そのお言葉の意味がよく理解できなかったのです。つまり、俳優は、演技なり、立廻りがうまければよいのではないか、など生意気なことを思っていました。続いて。「剣心一路の巻」を撮影し終り、その試写を見ますと、私自身でも、役の「武蔵」になりきっていない、何か「なま」のままなのがよくわかりました。当時の新聞の映画評にも、「千恵蔵はまだ武蔵をやる役者ではない」などと酷評されましたが、残念乍ら、私も認めざるを得ないもっともな批評でした。その後、最後の「巌流島の決闘」を撮るまでの時間を、もう一度「宮本武蔵」を、心して読み直しました。心の底に、先生が云われたお言葉が残っていたこともあったのでしょうが、前に読んだ時は只、ストーリーの面白さで「武蔵」の動きだけを頭に描いていたのが、こんどは「武蔵」の心、悩み、がよく理解出来て、修養ということの意味の大切さをしみじみと感じました。「巌流島の決闘」を撮る時、私の人間的、精神的に、少々オーバーですが、十年位は成長したのではないかと思いました。以来、私の俳優としての「悟」を開く大きな転機になったと、京都ホテルでの吉川先生のお言葉を感謝と共に思い出しています。(「吉川英治全集月報30」)

   戦前の稲垣浩監督の「宮本武蔵」は総集編的なものだけが現存するという。佐々木小次郎(月形龍之介)との決闘シーンを見た人も多いだろうが、千恵蔵の文中にある「巌流島の決闘」という映画がフィルモグラフィーにでてこないのは謎である。千恵蔵はその生涯に武蔵を10回演じており、持ち役のひとつであることは自身のエッセーからもうかがえる。しかるに「コンサイス日本人名事典」に千恵蔵の代表作の「宮本武蔵」が遺漏しているのは誠に遺憾である。もちろん代表作も多いので芸術性を優先しているのであろう。「国士無双」「赤西蠣太」「血槍富士」「大菩薩峠」など名作を採録しているが、やはし千恵蔵の真髄は大衆性娯楽性なので「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博)や「宮本武蔵 一乗寺決闘」(稲垣浩)も是非のせてほしい。

2007年2月10日 (土)

吉川「宮本武蔵」を書かせた直木

   吉川英治が宮本武蔵を描く以前の武蔵のイメージは武芸の達人ではあっても、必ずしも深い人格の持ち主として扱われていたわけではない。あるとき、直木三十五は武蔵がそれほど強くなかったと断じ、吉川と論争になった。「僕は作家だから小説で書く」として、やがてそれが朝日新聞に連載されることになった(昭和10年8月から昭和14年7月)。新聞社も宮本武蔵という講談向けの素材に難色を示し、吉川をあきらめさせようとしたが、吉川の熱意に負けて当初200回の予定で連載が開始された。

どうなるものか、この天地の大きな動きが。もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。武蔵(たけぞう)は、そう思った。

   このような書き出しで始まる小説だが、当初、武蔵(たけぞう)から武蔵(むさし)にならないので、編集部では「武蔵はまだか」と問題となった。やがて読者たちの間で次回を読むのが楽しみと評判となり、新聞小説がこれぼと広範な読者を獲得したのは空前の出来事で、全部で1000回を超えることとなった。吉川「宮本武蔵」で繰り返し描かれているのは、武蔵の精神的な成長過程である。手のつけられない乱暴者であった武蔵は、沢庵によって千年杉に括りつけられ、人間の勇気を説かれる。それがきっかけとなり、「今から生まれ直したい。人間と生まれたのは大きな使命を持って出て来たのだということがわかった」と、人間としての自己に目覚める。そして、武蔵は、剣の道によって、「どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう」と決心を固め、修行の旅に出かける。槍で名高い奈良の宝蔵院での闘いや、洛北蓮台寺での吉岡清十郎との戦いなどを経て、佐々木小次郎との巌流島の決闘。武蔵が小次郎に勝利したのは、力や天佑以上のものであった。小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。

水茶屋鍵屋の娘、笠森お仙

    江戸は、男と女、圧倒的に男の数のほうが多かった。吉原や岡場所が繁盛したのはそのためだが、女に触れられなくても身近に感じられればよい、しかも払いは安く、といった需要に応えた風俗営業が水茶屋だった。一般に湯茶の接待をするところが茶屋だが、水茶屋は美女を置いて客の接待に当たらせたやや高級な休み茶屋。店を小奇麗にし、掛行灯をかけ、良質の茶を使ったが、客の目当ては看板娘。水茶屋の茶汲女が評判を呼んだのは明和年間(1764-1771)の笠森お仙(1751-1827)である。お仙は、谷中笠森稲荷の境内にあった水茶屋鍵屋の娘。美人との評判が高まり、笠森稲荷に人々はむらがったのは明和5年、お仙18歳のとき。父親の営む茶屋には13歳のときからずっと手伝いに出ていたが、錦絵の鈴木春信が次から次へとお仙の一枚絵を出して人気が沸騰。ところがお仙は20歳のとき結婚して姿を消し、老父が店に立ったから「飛んだ茶釜が薬缶に化けた」という歌がはやったという。人気役者瀬川菊之丞との駆落の噂まで出たが、お仙は倉地甚左衛門と結婚し、数人の子をもうけ76歳で没した。ちなみに明和三美人とは、笠森お仙、柳屋お藤、蔦屋お好。(参考:「大江戸ものしり図鑑」主婦と生活社)

誕生日の朝のわかめスープ

   誕生日には産んでくれた母への感謝の気持ちや子供を産んだ時の気持ちを思い出すため、わかめスープを食べる習慣があることは韓流ブームのおかげて日本でもよく知られるようになった。「冬のソナタ」ではサンヒョクのお母さんの誕生日のシーンにでてくる。「天国の階段」ではテファ(シン・ヒョンジュン)が「誕生日にわかめスープを作ってくれたのはお前が初めてだった」と泣きながら叫ぶシーンが印象的である。そのほか「秘密」(第4回)、「美しき日々」「春のワルツ」、それから「屋根部屋の猫」は毎回庶民的な料理がでてくるが第2回目のタイトルがズバリそのもの「ワカメスープ」。就職浪人のダメ男ジョンウン(キム・レウォン)と猫のようにキュートなギョンミン(チョン・ダビン)の同棲コメディ。とここまで書いていると、またもや悲報が届いた。チョン・ダビンが自殺した。ダビンはチェ・ジンシルに似ていることから「リトル・チェ・ジンシル」と呼ばれ、映画「燃ゆる月」(2000)でデビュー。ドラマ「屋根部屋の猫」(2003)は日本でも評判をとり、「兄弟は花嫁」(2004)、「その夏の台風」(2005)と出演していた。韓国では先月も歌手のユニが自殺しており、2005年のイ・ウンジュのように将来を嘱望されたスターが次々と自殺するとはなんとも痛ましい出来事だ。記事によると、最近仕事が減ってきたことを気にしていたらしいが、ダビンは日本では若いころの宮本信子に似ている感じで人気者だった。韓国スターの中には、日本の俳優とちょっと似ている人が多い。イ・ビョンホン=原田泰造、キム・レウォン=大鶴義丹、ソ・ドヨン=野口五郎、ぺ・ドゥナ=田畑智子などである。小野栄一司会で「日韓スターそっくりショー」を企画したら面白いだろう。

ヘーゲルとシェリング

    フリードリッヒ・ヘーゲル(1770-1831)。カントにはじまり、フィヒテ、シェリングにうけつがれたドイツ観念論哲学はヘーゲルによって完成されたといわれる。近代的精神の総決算をした人であり、ギリシア的理性(ヘレニズム)とキリスト教の精神(ヘブライズム)とを融合・統一したといわれている。またヘーゲルは、弁証法という論理を確立した人としても有名である。しかし一口にいってヘーゲルの哲学や著書はまことに難解である。ここではヘーゲル第一歩、ヘーゲルの第一著書の「精神現象学」を公刊したときのエピソードを紹介する。

   ヘーゲルが大学卒業後、7年間の家庭教師時代を経てシェリング(1775-1854)の世話でようやくイエナ大学に就職できたのは31歳の時であった。1801年1月、当時のドイツ哲学の中心地であるイエナにフランクフルトから移り住んだ。この地では、年下のシェリングが、無神論論争らよって大学を去ったフィヒテの後任として、すでに教授の地位についていた。そのころ、イエナには、シラー、シュレーゲル兄弟がおり、哲学者シェリングをも含めて、それぞれ活躍していた。ヘーゲルは7月に「フィヒテとシェリングの哲学体系の相違」を公にして、シェリングと同一の立場(汎神論的傾向)からフィヒテを批判した。しかし1807年4月に刊行した最初の主著「精神現象学」によって2人の決別は明らかとなった。この書の中で、ヘーゲルは、スピノザ、カント、フィヒテ、シェリングの哲学を痛烈に批判して自己自身の立場を宣言するのである。シェリングの絶対者についての考え方をそのなかにおいては、牛が黒くなる闇夜のごときものであるといって皮肉ったのはよく知られている。シェリングのもとにもこの本が送られてきたが、シェリングは序論しか読まなかったと伝えられる。

「春のワルツ」と「スーホの白い馬」

   ある女性が韓国ドラマ「春のワルツ」を見ていて、そのあとで、たまたま紺野美沙子の朗読「スーホの白い馬」を見つけた。これに「えぇっ!スホ!?」と驚いた、というブログを見つけた。

   「スーホの白い馬」というのは、40歳以下ぐらいの若い人は国語の教科書に掲載されているので誰でも知っているだろう。大塚勇三の再話、赤羽末吉の絵で昭和42年に福音館から出されて40年間親しまれている絵本だ。お話は、モンゴルの草原に育ったスーホは、ある日白い子馬を拾って帰る。スーホの世話で白い馬は美しくたくましく育った。殿様の主催した競馬から、白い馬は殿様にとりあげられることになるが、白い馬はスーホに会いたくて逃げて帰った。しかし、矢を射こまれて命を落とす。白馬の願いで、その身体から作ったのが、馬頭琴であった。その音色がすばらしく、モンゴルの人々の心をやわらげたという、スーホと白い馬の愛の物語。ところが昔、言語学の田中克彦が「名前と人間」という本の中で、モンゴル人には「スーホ」という名前はいない、これは斧という意味の「スヘ」の間違いと指摘した。おそらく絵本の再話をする人が中国の漢語から「スホ」とカタカナ表記を適当に充てたのだろう。モンゴルの人からすると「スーホ」は聞きなれない名前らしい。ところでイ・ビョンホンの新作映画「夏物語」で主演しているヒロインの芸名は「スエ」である。「スホ」「スエ」「スヘ」などは韓国ではよく見られる名前なのだろう。

    問題の「春のワルツ」というドラマは、韓国の美しい島で母親と二人きりで暮らしている少女ウニョンの元にスホ(ウン・ウォンジュ)がやって来て仲良しになる。成長したウニョン(ハン・ヒョジュ)のもとにスホに似たチェハ(ソ・ドヨン)が現れる。スホとチェハは同一人物である。ウニョンとチェハの二人の愛の行方や如何に。

   さて冒頭で紹介した女性の疑問に対して、正確に答えるだけの言語学的、東洋史的知識をケペルは持たない。ただ同じ蒙古斑を持つモンゴルと韓国が、似たような名を持つことは偶然とは思えない。モンゴル語にくわしい田中克彦のいうように「スヘ」と発音することがより近いので問題はそう簡単ではない。韓国人名にはすべて漢字が充てられるので、漢語の音が変化したことが考えられないだろうか。人名ひとつとってみてもいろいろな興味と疑問がわいてくる。

おらァ三太だ! 千代ノ山はおいらの親友だ

   噂の大相撲疑惑がついに訴訟沙汰となる。八百長の語源は「八百屋の長兵衛、通称八百長という人がある相撲の年寄とよく碁をうち、勝てる腕前を持ちながら、巧みにあしらって常に一勝一敗になるように細工したところから起こるという」(「国語大辞典」小学館)とある。実は八百長の語源は、相撲ではなく囲碁だった。「ある相撲の年寄」とは、明治時代の伊勢ノ海五太夫だといわれる。相撲人気は低迷といわれるが、ケペルの少年時代はすごい人気だった。横綱が栃錦、吉葉山、鏡里、千代ノ山と4人おり、大関が若乃花、朝汐、松登。テレビは普及していなかったが、めんこでその雄姿はみな知っていたのでラジオでも十分満足だった。相撲ヒーローの伝記映画もしばしば作られたし、映画館では「大相撲速報」というニュースがあった。家庭では月刊漫画誌の別冊付録「若ノ乃物語」を熟読する。「朝は朝星、夜は夜星、雨が降っても、槍が降っても若ノ花は稽古を休まなかった」というコマ絵をいまも覚えている。昭和34年から創刊された少年週刊誌は現在のグラビアアイドルではなく、人気力士が表紙を飾ることも少なくなかった。映画作品には、「涙の敢闘賞」(名寄岩、山根寿子、高田敏江、芦川いずみ)、「風雪十年全勝吉葉山」、褐色の弾丸房錦の「土俵物語」、「三太と千代ノ山」、「力道山物語、怒涛の男」、そして極めつけは「若ノ花物語 土俵の鬼」(若ノ花勝治、北原三枝)。若き日の花田勝治は青山恭二だったが、力道山にしろ若ノ花にしろ本人が主演しているところがスゴイ時代だったと思う。

ここに昭和33年頃のものだと推定するが、「大相撲かるた」を紹介する。

いっきにつきだす千代の山

ろうこうなとりくちみせる清恵波

はりて一発 大晃

錦絵みるような吉葉山

ぼくらのすきな島錦

へんかにとんだ出羽湊

とうしまんまん泉洋

ちりをきり この一番どひょう上

りきとうの新進気鋭若の海

ぬーっと大起(おおだち)四十八貫

るいのない内掛名人琴ヶ浜

おしをとくいの若前田

若葉山かわりみ早くあれまわる

かいきりのむそうの玉の海

よりみにするどい三根山

大豪大関大内山

連日元気な鶴ヶ浜

速攻に成山うけるかちなのり

つりだしぐいっと双ッ竜

ねっ戦に火花をちらす時津山

なげわざふるう潮錦

ラジオがつたえる最高潮

むすぴのいちばん庄之助

上手だしなげ名人横綱栃錦

のっしのっしと鏡里

大昇外掛にきめるあざやかさ

蔵前にひろげる熱戦十五日

やぐらでとばす羽島山

松登たちあい一発ぶちかまし

けいこねっしんな栃光

ふれ太鼓相撲ファンの血をわかし

五百かい出場記録の若瀬川

えいしさっそう朝汐太郎

であしのするどい宮錦

あしこししぶとい常の山

さっとけたぐり北の洋

きおってよりきる大天竜

ゆさぶりできめるあらわざ若の花

めざましいかつやく芳の嶺

みらいのホープ安念山

清水川師匠ゆずりの上手投げ

ひだりよつさっとよりきる国登

もろざしいっきの信夫山

正攻法江戸っ子力士出羽錦

すもうのうまい鳴門海

    「おらァ三太だ!千代ノ山はおいらの親友だ!」の三太少年のような夢と希望をいつまでも持ち続けたい。

2007年2月 8日 (木)

ジャン・サントゥイユの肖像

   マルセル・プルースト(1871-1922)は、パリのオートゥイユ、ラ・フォンテーヌ通り96番地に生まれる。父は、後にパリ大学医学部教授、フランス衛生局総裁となったアドリアン・プルーストで、伝染病予防交通遮断線の初めての提唱者。母ジャンヌはユダヤ系財閥のヴェイユ氏の出で、パリ生まれ。マルセルは、9歳の時、ブーローニュの森の散歩から帰ってきて突然喘息の発作を起こす。この喘息症状は、彼を生涯にわたって悩ますことになる。1905年、34歳のときに最愛の母が亡くなったことで、彼に転機が訪れる。37歳のとき「失われた時を求めて」という膨大な長編小説を書き始める。次の全7篇である。「スワン家のほうへ」「花咲く乙女たちのかげに」「ゲルマントの方」「ソドムとゴモラ」「囚われの女」「逃げさる女」「見出された時」。しかし1952年、無名の一青年の手でプルーストが生前に発表せずに捨ててしまった長編小説が発見された。この「失われた時を求めて」の母体となる小説は「ジャン・サントゥイユの肖像」として1952年にベルナール・ド・フアロウの校訂によって、出版された。「われわれの内部には、芸術的感動よりももっと深い何物かがある。それは、過去の、或る時間のなかの、どこか忘れられた一瞬に、完全なまま、新鮮なままにもたれていて、突然だまってわれわれにさしだされる自身の一部分である」という冒頭にかかげられた短文はこの小説の形態を暗示している。作者「私」は一友人とともにブルターニュの農園ホテルに滞在中、偶然同宿者のなかに彼らが私淑する大作家Cがいる。Cは彼らに或る長い物語を読み聞かせる。二人の青年はその物語のコピーをとる。時がたちCが死んだとき、「私」は、作品として発表しようと決心する。こういう三人称体の長編小説である。この小説はマルセル24歳から28歳まで書き続けられたが、1899年には放棄している。

武田信虎と大井夫人

    大河ドラマ「風林火山」の武田信玄の父と母、武田信虎(仲代達矢)と大井夫人(風吹ジュン)。武田信縄の子、信虎(1494-1574)は暴悪な性質で、人間の胎児はどんな具合にして発育するものか見たいというので、妊婦を1ヶ月から10ヶ月まで10人とらえて、順々に腹を裂いて点検したと伝えられている。怒りにまかせれば重臣でも手討ちにしたともいう。こんな人ではあったが、勇猛で、戦さ上手で、14歳の時家をついでから30数年の間に甲斐を統一し、勢力は信濃の一部にも及んだ。信玄に追放されてから今川氏の食客となる。永禄6年、信玄へ内通の疑いにより今川氏真に追われ上洛、足利義輝の相伴衆となる。信虎は長命で、信濃国伊那郡で没したのは息子の信玄の亡くなった翌年の天正2年のことであった。

    大井夫人(1497-1552)は、大井信達の長女で、大井氏はもとは武田一族であったが、所領名に姓を変えて、本家の武田家と敵対するようになっていた。しかし大井信達は武田信虎に敗れ、その和睦として、大井夫人は父の敵、信虎に嫁いだのである。大井夫人の三人の子供たち、信玄、信繁、信廉はいずれも学芸と武勇に秀でていた。信玄は詩作にふけり、老臣に諌められるほどであった。二男の信繁は戦国の賢人といわれた。三男の信廉は武人画家でもあった。信廉が描いた長禅寺にある大井夫人の肖像画は重要文化財である。

   天文10年(1541)6月、21歳の信玄は父信虎を駿府に追放する無血クーデターを起こした。信虎が信玄を嫌い廃嫡をもくろむ一方、粗暴な信虎を家臣も嫌がったためという。大井夫人も夫に従わず、息子たちの甲斐に残った。彼女は3人の息子たちに支えられるが、寂しい晩年であった。目や耳の悪い人のために資金を出すなど慈悲深く、天文21年に56歳で躑躅ヶ崎館の御隠居曲輪に病没した。信虎と大井夫人は生き別れのまま、再びこの世で再会することはなかった。(参考:海音寺潮五郎「武将列伝」、楠戸義昭「戦国女系譜2」)

高峰秀子に恋した男たち

   高峰秀子は「細雪」に出演した関係で谷崎潤一郎とは家族ぐるみで交流があった。その谷崎に連れられて、高峰は新村出の京都の家を訪問した。玄関を入ると「私の等身大よりもっと大きなナショナル色つきポスターがビロンと下がっていた」のに驚いたという。新村は森鴎外「雁」が東大付近が写るというので、生まれて初めて映画を見て、お玉に惚れたのだろう。家中が高峰グッズで一杯になった。

   真面目な学者の新村だけではなく、政界・財界にも高峰ファンは多いと聞く。かつて司馬遼太郎が高峰と対談したとき「どういう教育をすれば、高峰秀子さんのような人間ができるのかなぁ・・・」と言ったそうだ。だが大人となって才気や知性を備えた高峰ではなく、まだ少女の頃の高峰を養女にほしがり2年にわたり養父となって歌とピアノを教えた東海林太郎もいる。梅原龍三郎は高峰秀子の肖像画を何枚も描いている。文人では、川口松太郎、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、井伏鱒二。なんと太宰と志賀は不仲は周知のとおりだがデコちゃん贔屓では一致している。今日出海、池島信平、大宅壮一、山田風太郎、扇谷正造、宮城道雄。映画界では、黒澤明、木下恵介、市川崑、小津安二郎、成瀬巳喜男など当然ながらも多数いる。

   最近、終戦後すぐの新東宝時代の作品「花ひらく真知子より」「三百六十五夜」を見た。曽根真知子、小牧蘭子の役だが、戦後の暗い世相でも秀子の顔をみれば元気がでた男性も多かっただろう。「三百六十五夜」は主題歌「緑の風におくれ毛が やさしく揺れる恋の夜」(霧島昇・松原操)という大ヒットメロドラマ。主演は上原謙と山根寿子だが、上原を追いかける大阪のお金持ちの娘・蘭子はおきゃんな恋敵役なのだが、見ている男はデコちゃんの美しさ、可愛さに惹かれてしまい、ヒロインの山根寿子には古風すぎて新鮮味が感じられない。当時はまだ和服の似合う女性、とデコちゃんのような新しい女性の二派に分かれていたのだろうが。やっぱり若い監督の市川崑も主役でない高峰に惹かれたのであろう。のちに東映がリメイクしたが、小牧蘭子の役を美空ひばりが演じているのは、多くの新東宝版を見た人が助演の高峰秀子の印象が強かったからに他ならないと思う。

武田信玄の諏訪氏経略と山本勘助

   天文10年、武田晴信(のちの信玄)は父信虎を駿河に追いやると、翌年6月、諏訪氏への侵略を開始した。諏訪には高遠城主の高遠頼継という者がおり、晴信は頼継と結んで、諏訪頼重を滅ぼした。

   諏訪氏を滅ぼした後、晴信は頼重が前夫人との間になした当時14歳の姫君がとても美人であったので側室に迎えようとした。これに板垣信形・飯富兵部・甘利備前等の老臣は反対した。このとき山本勘助は「もし諏訪御料人をお召しおきになり男子が生まれたならば、諏訪の忠臣たちは、お家再興のため武田に仕えるであろう。これは武田家のためではござらぬか」と説いたので、三人とも「なるほど、それもそうじゃの」と納得し、めでたく晴信は諏訪氏の女を側室に迎えいれることができた。(参考:海音寺潮五郎「武将列伝」)

明治の成金王と脱獄王

   鰹節店の丁稚から身を興し、幕末のどさくさに鉄砲商で巨万の富を得た明治の成金王・大倉喜八郎(1837-1928)と脱獄6回、神出鬼没に全国各地に現れ、貧しい人の家に金を投げ込んだりする庶民のヒーロー「五寸釘の寅吉」こと西川寅吉(1854-1941)。成金王と脱獄王、この二人の数奇な人生の妙味は刑務所にあった。

   明治のはじめ、刑務所は集治監といった。明治12年内務省直轄の集治監が東京の小菅と宮城に建設された。その前年、大倉喜八郎の手によって宮城刑務所の建設が始められた。明治14年には北海道の石狩川右岸シベツプトに全国一の集治監を建設する話が持ち上がり、その工事請負にやはり宮城で実績のあった大倉が当たった。樺戸集治監の獄舎が大倉組によって建設され、篠崎から当別までの道路建設も大倉組であった。そのころの集治監は、刑務所というよりも強制収容所といったものであり、囚人には苛酷な労働が強いられた。北見道路の突貫工事には囚人約200人の死者がでた。北海道には樺戸(月形町)をかわきりに、空知(栗山町)、釧路(標茶町)、網走(網走市)など要所に建設され、囚人は開拓と労働に従事させられた。樺戸と網走では道路建設が、空知や釧路では炭鉱、硫黄鉱山の労働などに動員された。樺戸の囚人によるによる上川道路(現在の国道12号)建設が名高い。

    西川寅吉は14歳で無期刑となって三重の牢獄に入れられた。その後、静岡で捕まって、東京の小菅、樺戸集治監へ送られ3度脱獄した。熊本で捕まり、次は空知、標茶、さらに網走へ移った。樺戸では濡らした獄衣を塀にたたきつけ、一瞬の吸着力を利用して塀を乗り越えた。大倉喜八郎もたびたび樺戸へ足を運んだといわれるが、まさか囚人の寅吉と顔を合わせたことはないだろうが、明治の元祖成金・大倉喜八郎(91歳)と脱獄王・西川寅吉(87歳)は、北の大地の開拓地で、その接点があった。ただし、ふたりがお互いの名前や存在を知っていたかどうかも分からない。監獄を建設した男と脱獄した男、両雄の壮絶な人生に乾杯!!

2007年2月 5日 (月)

奇怪な三角関係

   大正12年、マキノ・プロの大部屋女優の長谷川泰子は、当時まだ立命館中学の中原中也(1907-1937)と知り合い、翌年から2人は同棲をはじめた。そして大正14年3月、2人は上京する。中原は詩作に専念し、富永太郎(1901-1925)、小林秀雄(1902-1983)等と交わった。小林秀雄は東大生の秀才で、やがて新進評論家となる。長谷川泰子は東京での暮らしの寂しさからか、やさしくてエリート学生の小林と親しい関係になる。やがて小林は中原から泰子を奪って同棲する。しかし、その生活も3年間転居を繰り返したあげく、小林は泰子のもとを逃げ出す。昭和3年、小林は奈良の志賀直哉のもとに身を寄せる。これが近代文学史上に知られる「奇怪な三角関係」のあらましであるが、運命的な出会いがそれぞれの青春の蹉跌であったことは事実であろう。このことを小林自身は後年「中原中也の思い出」で次のように書いている。

               *

    私は中原との関係を一種の悪縁であったと思っている。大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪えた経験は、後になってからそんな風に思い出したがるものだ。中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人協力の下に、(人間は憎しみ合うことによっても協力する)奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間との間を目茶苦茶にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は、告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。だだ死後、雑然たるノートや原稿の中に、私は、「口惜しい男」といふ数枚の断片を見つけただけであった。(昭和24年8月「文芸」)

           *

汚れちまった悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れちまった悲しみに

今日も風さへ吹きすぎる

   中原中也は昭和12年、急性脳膜炎で没したが、かっての友人であった小林秀雄の手によって詩集「在りし日の歌」が翌年出版された。

2007年2月 4日 (日)

銀箔は貼られてなかった銀閣寺

   今日2月4日は「銀閣寺の日」ということであるが、これには歴史的に考えると多少問題がある。銀閣寺とは俗称であり、足利義政の死後は、その遺命により禅寺とし、彼の法号に因んで慈照寺と名づけられた。義政生前は「東山殿」と呼ばれ、つまり2日4日は、工事の着工記念日であり、このときはまだ観音殿つまり銀閣は完成していない。応仁の乱の直後の財政難の時代であり、工事はなかなか進まなかったようである。一年有半の歳月を費やして、竣工したのは翌年の文明15年(1483)6月27日である。実際に観音殿(銀閣)が完成するのは、さらに6年後の1489年である。

  造営が竣工した日、義政は長谷御所から浄土寺山荘に移った。「女中連れの賑やかな移転であった。山荘の落成を祝賀して貴戚権門が多数参集した。冠蓋織るが如くであった」と横川景三は書いている。義政の満足想うべきである。しかしまだ住居部分の山荘が落成しただけで、実は全体の構想の二分ばかりにすぎなかった。延徳元年(1489年)に、ようやく観音殿(銀閣)が上棟された。銀閣は2層からなり、第一層心空殿は正面4間・側面約3間で和様書院造風の構造。第ニ層潮音閣は3間四方、禅宗様仏風で、堂中に観音像を安置する。東山殿の建物は10箇所と伝えられる。そのうちでも特に念を入れて造ったのは持仏堂である。仏間には阿弥陀三尊像を安置し、その名を東求堂と名づけた。またこの堂内に小書院の「同仁斎」がある。この部屋は書斎で、書画奇玩を鑑賞するに最適の設備が施された。しかもその大きさは僅かに四畳半敷である。後世この小室を茶室の祖と称する。東求堂に対して「西指庵」があった。ここも義政が造営に力を入れたところである。亀泉集証は文明17年4月9日始めてここに入り、「実に天下の奇観なり」と讃えている。

  また俗に銀閣と称されている観音殿がある。これまで銀箔が貼られていたのではないかという言い伝えもあったが、このほど奈良文化財研究所のエックス線による分析で、銀閣は創建当時から一度も銀箔が施されていなかったことが科学的に証明された。では、なぜ銀閣寺と呼ばれたのであろうか。ひとつは、北山の金閣寺に対する呼び方として銀閣寺が定着したとする説。二つ目には、池の反射光が漆塗の外壁に映って銀色に輝いて見えたからという説がある。本堂・東求堂の南面に庭園が広がり、庭の主要部には錦鏡池がある。また庭の西北隅、即ち本堂の南面に不思議な砂盛りがある。これを銀沙灘(ぎんさだん)と呼ぶ。

ゴードン将軍死す

   エジプト(ムハンマド・アリー朝)の支配下におかれたスーダンでは、ムハンマド・アフマド(1844-1885)がジハードをくりひろげた。これを一般的には「マフディーの乱」(1881-1898)というが、明らかに自由を求める抵抗運動であり「マフディー運動」あるいは「マフディー戦争」というべきであろう。19世紀スーダンにおけるイスラム原理主義によるマフディー運動の正統性を世界史で学習する意義は今日の中東情勢を考えるうえで重要性を持っている。近年、大学入試問題でも「マフデーの乱」あるいは「マハディーの乱」は出題頻度が高いらしい。

   彼は船大工の子として生まれ、1881年アバ島でマフディー(救世主)であることを宣言し、重税に苦しむ貧農や牧畜民、あるいは地元商人などを組織して反乱を起こし、イギリスの命令によってエジプト提督が送り込んだ軍を完全に撃破した。イギリスの威信を傷つけられたために、ヴィクトリア女王を初めとして本国の世論は怒り狂った。1884年1月、グラッドストーンは事態を掌握するため戦闘的なゴードン将軍(1833-1885)を現地ハルトゥームへ送ることになった。チャールズ・ジョージ・ゴードンは1863年の太平天国の鎮圧に活躍し、常勝軍の指揮者として知られ「チャイニーズ・ゴードン」と呼ばれるようになった英雄である。

   ゴードンはハルトゥームに着くや、スーダンから出るナイルの航路を守るために軍隊を要求してきた。グラッドストーンはためらった。彼は植民地主義的介入になることを恐れ、マフディーへの攻撃は「自由を求める人民に敵対する戦争」になるだろうと下院に警告した。だが、結局グラッドストーンは折れ、1884年10月に、ウルズリー卿の指導下カイロからナイル川をさかのぼるべく準備を整えた1万人の救援部隊に30万ポンドの資金が交付された。

   しかし到着は遅すぎた。部隊が川を160kmさかのぼるのに3ヶ月を要し、先発隊がハルトゥームに到着したとき、町は2日前にマフディーに攻略されたとのニュースが待っていたのである。ゴードンは1月26日にすでに殺されており、切り落とされた彼の首はマフディーが持ち去っていたのである。太平天国鎮圧の英雄「ゴードン死す」の知らせはイギリスを震撼させた。国民のなかで異常なまでの興奮の波がわき起こり、グラッドストーンはさんざん非難された。ダウニング街を埋めた群集はもはや彼をGOM(グランド・オールドマン:大御所)とは呼ばす、MOG(マーダラー・オブ・ゴードン:ゴードンを殺した男)とやじった。ヴィクトリア女王は救援隊の派遣が遅れたことを非難する電報をグラッドストーンに送りつけたが、首相に対する女王の立腹が係官にもわかるよう、電報に暗号を使うなと命じたほどである。アフマドは1885年に死んだが、その権威による教団国家は維持された。フランスのアフリカ横断政策を恐れるイギリスは、再度制圧に乗りだし、1898年、キッチナー将軍率いるイギリス軍はマフディー軍を破り、スーダンを支配下におさめた。1899年からスーダンはエジプトとイギリスによる共同統治に置かれた。

   映画「カーツーム」(1966年)ではゴードン将軍をチャールトン・ヘストン、ムハンマド・アフマドをローレンス・オリビエが演じている。豪華スター出演のわりには、あまり評判はよくない。昔、TVで見たように思うのだが筋に記憶がない。おそらく歴史的背景を理解していなかったからだろう。機会があれば見たい作品である。

現代詩の難解性による功罪論

    大正詩壇で活躍された佐藤春夫は、昭和34年当時、朝日新聞に「現代詩はなぜ難解か」という一文を発表している。その主な内容は「私は年を取っているのでもう格別に努力を払って現代を追いかけようとは思わない。だが私も他の人々とともに現代詩を難解だと思う。その意図するところは分かっているつもりにもかかわらず、現代詩はやはり難解である。」と嘆いている。

   日本の近代詩の成立には、例えば島崎藤村、土井晩翠、与謝野鉄幹、薄田泣菫、伊良子清白、河井酔名、蒲原有明、北原白秋、木下杢太郎、高村光太郎、三木露風、室生犀星、萩原朔太郎、宮沢賢治、中原中也など感傷と主情とを以て、暗誦するほど親しまれた詩が多数うまれた。佐藤春夫が嘆く「現代詩は難解になった」とは、現代詩史のどの時点をさすのであろうか。佐藤春夫には具体的な記述がないので、あくまでケペルの推測であるが、それはモダニズム詩人とか知性詩といわれる詩人たちの出現によるものであろう。吉田精一の「現代詩」(学燈文庫)から参考すると、「日本詩人」以後の一雑誌氏による合同運動として、特筆すべきは「詩と試論」(]昭和3年)である。昭和4年更に「文学」と改めて昭和8年までつづいた。ここによった詩人には、安西冬衛、上田敏衛、神原泰、北川冬彦、近藤東、滝口武士、竹中郁、春山行夫、北園克衛、三好達治、佐藤一英、滝口修造、西脇順三郎、吉田一穂等がある。この運動の目的は要するに主知的な詩であり、更に超現実的な詩風の追求であった。それを一口にいえば、単に感覚すればよい、意味をぬきにした想像の世界の創造であり、夢を現実のうちに建設しようという試みである。代表例として、西脇順三郎の「天気」という詩があげられる。

     天気

(覆された宝石)のやうな朝

何人か戸口で誰かとささやく

それは神の生誕の日

   この詩を何度となく読み返したが、佐藤春夫のいうことがわかっただけで、詩のいわんとするところはさっぱり理解できなかった。高校時代の教科書にも西脇順三郎の詩があったが、やはり難解だという印象があった。では、村野四郎の「体操詩集」は現在も中学校の教材として使われ、わかりやすいのではないかという人がいるであろう。

      体操

僕には愛がない

僕には権力を持たぬ

白い襯衣の中の個だ

僕は解体し、構成する

地平線がきて僕に交叉る

僕は周囲を無視する

しかも外界は整列するのだ

僕の咽喉は笛だ

僕の命令は音だ

僕は柔い掌をひるがえし

深呼吸する

このとき

僕の形へ挿される一輪の薔薇

   村野の第2詩集「体操詩集」(昭和14年)は、その機知とイメージの美しさにおいて現代詩史上特筆すべき詩業として、詩壇の評価はいまも高い。詩から湿った叙情性や詠嘆性を一切取り除くことに成功した。いわば「体操詩集」は、日本の詩が近代史から現代詩に進んでいくポイントになった詩集である。「体操」「鉄亜鈴」「鉄亜鈴」「鉄鎚投」「吊環」「鉄棒」「鞦韆」「棒高飛」「登攀」「スキー」「飛込」「フーブ」「拳闘」「槍投」「競走」「肋木」などがある。とくに「鉄棒」はよく知られている。ところが実際読んでみると難解であることに気づかされる。例にあげた「体操」の詩の「僕には愛がない」とあるが、体操と愛とはどう関連があるのだろうか。解説書には適切な紹介が示されていることと思うが、これらはつまり「暗喩」というものだそうだ。最もやさしく理解できる「鉄棒」にも作者の意図するところは、実は別にあるのかもしれない。かような詩が新しい発展を示したことは疑いえないが、同時にそれは詩を空想のおもちゃとし、一般的な根強い人間性の共感を欠く結果を招いたことはたしかである。(参考:吉田精一「現代詩」学燈社)

2007年2月 3日 (土)

木下藤吉郎の出世と天下平定

   天文5年、幼名日吉丸は、織田信秀の足軽木下弥右衛門の長男として生まれた。弥右衛門は戦傷で働けなくなり、彼が8歳のときに死んだ。あちこちに奉公したが、すぐ暇を出され、針売りなどして諸国を放浪。はじめ、今川義元の臣、松下嘉兵衛に仕え、ついで織田信長に仕える。時に日吉、18歳。木下藤吉郎と称す。御小人組を振り出しに、炭薪奉行、厩方知行三十貫、侍小路に屋敷を拝領と短時日のうちに出世してゆく。26歳の時、弓之衆、浅野又衛門の娘、寧々と結婚する。その初仕事が洲股築城だった。蜂須賀小六の手勢二千を使って築城に成功。浅井・朝倉攻めで大功をたて、遂に小谷城の主となった。翌年、小谷攻略の手がらを買われ、一躍、長浜の城主に。姓も木下藤吉郎から羽柴筑前守秀吉に。やがて信長の中国攻略が本格化し、秀吉は5年10月、中国征討の総大将として播磨に出陣した。中国は毛利の強力な地盤であったから敵の抵抗も猛烈で、三木城を落とすにも3年がかりの攻防をくりかえした。ようやく5年目の天正10年、備中高松城を水攻めにして対毛利戦の決着をつけんとしていた。天正10年6月、逆臣明智光秀を山崎の合戦に破り、秀吉は一躍、天下人候補の最右翼となった。信長の継承者を決める清洲会議でも、居並ぶ諸侯を圧して主導権を手中に治めた。必然、重臣の筆頭、柴田勝家と反目せざるをえなかった。もともと、秀吉は、勝家とは反りが合わなかった。賤ヶ岳の戦で勝家を破り、ついで信孝を滅ぼし北陸を平定し、従四位下参議となる。尾張国小牧・長久手に織田信雄・徳川家康と戦ったが、のち和睦する。天正13年、紀伊の根来・雑賀衆を討ち、また四国の長宗我部元親を屈服させる。同年内大臣、ついで藤原姓を称し従一位関白となる。同年大坂城が完成。同年豊臣姓勅許。天正14年、太政大臣。天正18年、北条氏直を滅ぼし、奥州を平定して全国を統一する。

ダゲレオタイプとカロタイプ

  フランス人のルイ・ダゲールが1839年に発明した銀板写真(ダゲレオタイプ)は、その後10年も経たない1847年にはパリだけでカメラの売り上げ台数が2000に達した。1849年には約10万人のパリっ子がポートレート写真を撮った。大衆の熱狂ぶりを見た批評家ボードレールは「スクラップ金属に写ったとるに足らぬ自分の姿を一目見んものと狂奔する男のナルシズム、なんとおぞましいわが社会」と嘆いた。1853年になるとアメリカにも1万人を超えるダゲレオタイプ写真家が誕生した。そのなかでもアメリカ北部出身の写真家、アルバート・S・サウスワースとジョシア・J・ハウズが芸術的にも技術的にも高度な水準であった。2人は1844年ボストンに合名会社サウスワース・アンド・ハウズ社を設立した。時の有名人、ヘンリー・ワーズワース、ロングフェロー、ハリエット・ストウ、元大統領ジョン・クインシー・アダムスなどが客として来た。作品「エマーソン学校」という写真は、ボストンのある女学校の陽の射しこむ教室で、授業を受けている少女たちを屋内写真に収めている。これほど人気を博したダゲレオタイプも10年後にはすたれてしまった。イギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが銅板のかわりに紙を用いて画像を恒久的に定着する技法を発明したのである。タルボットはのちにカロタイプの名で知られるようになった写真法を考案するにいたった。これは近代写真術の基礎ともなったネガ・ポジ法を採用していた。しかしそれも、やがてガラス板を使って原版をつくる方法が発明され、カロタイプもすたれてしまった。

神子上典膳、小金原の決闘

  神子上典膳(1569-1628)は、伊勢の神職荒木田家に属する神苑衛士の家、神子上に生まれた。剣の道を求める熱意のあまりの烈しさに、獅子咬み典膳とさえ異名された。上総の万喜城主土岐氏の家来であった典膳は、旅の途中の伊藤一刀斎に勝負を挑み、負けてしまった。寝食を忘れ築きあげてきた修行と自身が打ち砕かれるや、翻然、一刀斎に師事する。

   伊藤一刀斎には、典膳より前に小野善鬼(善鬼三介)という、第一の高弟がいた。徳川家康が一刀斎を召し抱えようといった時、一刀斎は辞退して、代わりに門人の典膳を推挙した。それを面白く思わなかった兄弟子の善鬼が怒って、試合を挑んだ。場所は総州小金原である。試合は凄絶をきわめ、なかなか決着がつかない。善鬼は隙をみて、傍らにおいてあった秘伝書を横づかみに奪い、逃走した。一刀斎と典膳は慌てて後を追いかけた。善鬼は追いつかれ、もはや逃げることができないと見ると、そこにあった大きな瓶のかげに隠れた。典膳がその瓶をどけようとすると、一刀斎は「足を払われるから、瓶と共に斬れ」と叫んだ。典膳は瓶もろともに善鬼を斬った。善鬼は奪った秘伝書だけをしっかりと口にくわえ、目をカッと見開き、すさまじい忿怒の形相のまま息絶えていた。そして、これ以後、一刀斎は消息不明となった。神子上典膳は名を小野次郎右衛門忠明と変えたが、苗字の小野は母方の姓ともいわれるが、一説には善鬼を哀れんだ典膳が、小野善鬼の「小野」を引き継いだとも言われている。小野忠明は、柳生家と共に将軍家師範となり、一刀流を継承した。

2007年2月 2日 (金)

風吹ジュンの不思議な魅力

   女優の風吹ジュン(54歳)が好調である。映画「魂萌え!」(阪本順治監督)では、夫を急に亡くした59歳の未亡人役を演じている。実際より5歳年長の役ということに興味をおぼえる。テレビの「風林火山」では、武田信虎の正室、武田信玄の母、大井夫人の役である。

    彼女は昭和46年にモデルとしてスカウトされユニチカ・マスコットガールとして、テレビCMでそのキュートな笑顔と舌足らずの独特なしゃべり方で男の子の注目を浴びた。ある芸能人水泳大会番組で水着コンテストがあり、彼女が優勝したのを記憶する。長い髪と小柄で均整のとれたプロポーションだった。そして22歳のとき「愛がはじまる時」で歌手デビュー。当時、天地真理、麻丘めぐみ、山口百恵とアイドル歌謡曲が全盛であった。風吹ジュンとの同期は伊藤咲子、木之内みどり、リンリン・ランラン、テレサ・テン。だが、彼女は他のアイドルとはちょっと変わった魅力があった。女性歌手は十代でのデビューが主流であったので、実年齢よりも若くしようとしていたようだが、やはり大人女性の妖しい雰囲気があった。ハスキーボイス、ジーパン、甘ったるいムード、ブリジット・バルドーのような小悪魔的な魅力はきわめて個性的な存在だった。大学に通う途中の店先に飾られたベニヤ板張りの風吹ジュンのポスターをながめながら通った。しかし、内心は歌と演技は下手、蓮っ葉なしゃべり方、やがて消えて行くだろうと思っていた。この予測は一時ある程度あたったようにおもえたが、結果的には見事にはずれた。風吹ジュンは、女優としての道で大成し、いまも快進撃を続けている。「阿修羅の如く」「蘇る金狼」「無能の人」「コキーユ」と出演作品を並べてもどれが出世作といえるかわからないほど地味である。むしろ彼女はこれからまだまだ活躍する女優なのかも知れない。若い頃の長い髪をなびかせた風吹ジュンでなく、目じりにすこし小じわがあって、声のしゃがれた色っぽいおばさんが結構受けているようなのだ。役柄もなんの変哲もない普通の家庭の主婦。おそらく監督とかディレクターたちは枯れたアイドルに不思議な魅力を感じるのであろう。

   彼女の栄光の影にも、知られざる苦労があったのではないか。海道はじめ「スナッキーで踊ろう」というレコード・ジャケットを見ると吉沢京子と小山ルミと風吹ジュンがゴーゴーを踊っている。このレコードの発売は昭和43年1月なので、彼女は15歳のときにすでに京都から上京してモデルをしていたようだ。その3年間、大都会で暮らし、どのような経緯で初代ユニチカ・マスコットガールになったか知らないが、その芸能活動はさぞかし悲惨なものだったろう。以前、テレビのインタビューで自分の芸名のことを「風吹という字では、ふぶき、とは読みませんよね」と語っていた。しかし、国語のルール無視でも事務所の方の命名法は大正解だったように思う。

2007年2月 1日 (木)

「万葉集」冒頭の歌

   万葉集をひらくと、いちばんはじめに、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に皇居のあった雄略天皇の作と伝える求婚の歌がある。

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持つ この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

(通釈)かごもまあ、よいかごを持ち、ふくしもまあ、よいふくしを持って、この丘で菜を摘んでいらっしゃる娘さんよ、あなたの家がどこか聞きたい。おっしゃってください。大和の国は、この私がぜんぶ従えているのです。この私がすべて領有しているのです。こういう私にこそ、おっしゃるがよろしい、あなたの家をも、あなたの名前をも。

   犬養孝は「時は春、所は国原の見渡せる丘(おそらく天ノ森の丘あたりか)、籠を持ちへらを持つ若菜つみの野の乙女に、名をたずねて求婚の情を示す、とらわれぬ人間真情の律動は、春風とともに、よみがえってきて、万葉開幕の象徴の感さえおぼえさせられる。もちろん作者は雄略天皇と伝えられるだけあって、もともと求婚の民謡風のものが、5世紀後半の英雄的君主の物語とからみあって、伝承発展をとげ、宮廷の大歌として、舞いなど伴ってのこされたものであろう。」と記している。(参考:犬養孝「万葉の旅」現代教養文庫)

« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »