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2007年1月 3日 (水)

黒田清隆、妻殺しの真実

   五代友厚は、大久保遭難の直後に松方巌に次のような手紙を送っている。

   「内閣の光景は暗夜に火を失するに似たり、いずれも首を傾け、慨歎の他これなく、深く御推計下さるべく候。実は迂生も午前に駆けつけ、夕刻暇を以て大隈方へ廻り、尚向来の目的を論じ、且嘆息致しおり候処、黒田にも来会、共々慨歎を増す。然るに黒田は、頃日妻君暴殺せし云々の事を頻りに新聞上に触れられ云々の事情も之あり候より、辞表を提出したる事も之あり候えども、もはや一歩も跡に引かず、大隈にも一層に勉励を頼むという趣意にして大隈に迫り、もとより大隈にも共に斃る迄は尽すべしとの事にして、堅く明誓を為すに至る」(大久保利通文書)。

   黒田清隆は明治11年3月のある日、泥酔して帰宅し、妻の出迎えが遅いとかなんとかいう、つまらないことから逆上し、病みがちの妻せいを斬り殺したのだと巷間に広められてしまった。この事件は「団々珍聞」4月13日号に痛烈な1ページ大の風刺画を掲げスッパぬかれた。警視庁はすぐ処罰したが、口から口へとひろがる世論にはふたはできない。ついに黒田は辞表を出して家にひきこもった。伊藤博文と大隈重信は黒田の処罰を迫ったが、大久保は黒田を弁護して「黒田は断じてさようなことをする無慈悲な人間ではない。拙者がそれを保証するから、しばらく拙者にまかされたい」といいきって、腹心の川路利良に検視を命じた。川路は夫人の墓を掘り起こして、医師は病死と診断した。こうして、黒田は大久保に説得されて、辞表を撤回した。五代の手紙にもあったように、紀尾井坂の兇変はそれから数日後の5月14日に起こったのである。黒田のスキャンダルが罪に問われなかったことも、ひとつの引き金となって、大久保利通が島田一良に斬殺されたのだともいわれている。しかしこのころの時勢は西南の役の直後の不穏な時代、大久保、黒田に対する風あたりも強く、黒田の妻殺しは陰謀説とも考えられる。黒田は直情径行、酒乱の癖があるという事、小樽沖で軍艦から高嶋村に発砲し娘を一人死なせた事、黒田みずから辞職すると言った事、川路大警視は薩摩出身で黒田、大久保とグルである事、などの理由から、いまでも黒田清隆の妻殺しを事実としている人もいる。(夏堀正元「明治の北海道」岩波書店)。とくに色川大吉の影響が大きいのだろう(「日本の歴史21」中央公論社)。もっとも本書の付録の石川達三との対談で「いまでも白黒はわからないのじゃないですか。もちろん妻を斬っただろうとは思いますけども、確実な証拠というものはないわけですね」と色川は語っている。(昭和41年9月10日)黒田の妻殺しの真実は、どうやら歴史家よりも小説家のほうが興味がそそられる話のようだ。

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