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2007年1月 1日 (月)

シェラの講演「図書館の社会学的基盤」

   アメリカの図書館学者ジェッシ・H・シェラが、1976年、インドのサラダ・ランガナタン図書館基金のためにおこなった連続講演の記録が「図書館の社会学的基盤」(藤野幸雄訳、日本図書館協会)である。図書館学者でありドキュメンタリストであるシェラの機械文明に対する考えを中心に(インドはガンジーで知られるように反近代、機械文明否定の思想も生まれ、また現在はIT先進国であり、零の観念が古くからあった国、ランナタンの国であるという、思想の多様性が特徴である)その中から「推移と変遷」の一部分を抜粋して紹介する。

               *

   トーマス・ハクスレイはかって次のような問いかけをしました。「これらの新しい物事すべてにたいして、何をしようというのだろうか」。エルティング・モリソンの指摘によれば、「ハクスレイが真に問おうとしたのは、『これらの物事すべてを活用して、いかに自分たちの環境を変えてゆくのか』ということです。これは、図書館員であるとに否とにかかわらず、皆が当面している、真に基本的な根本の問題です。こうした「もの」から本当に利益を受け、技術面で起っているこのような恐るべき変化のゆえに生ずるすべての不幸、苦悩、あらゆる種類の社会的断絶に投げこまれないようにするには、いかなる心構えをすべきでしょうか。これが解かねばならぬ、そして図書館職にあっても解決されねばならない問題なのです。図書館の職業は全く新しい見地から見なおさざるをえなくなっています、そしてそれを始める時期が来ているのであります。

   ところでわれわれは、こうした変化と闘ってゆくことができますし、それを十分に利用できるよう、職業を組織することもできます。しかし明らかに変化はやって来ているのです。ただ、一つのことが明らかであると思います。進歩がオートメーション、情報検索の分野でいかに急激であろうとも、変化はそれでも一晩にして起こるものではありません。突然にまったく見知らぬ新しい世界にとびこんでいたということはありません。いくらかの時間は残されています。これから先も解決しなければならない技術の問題が沢山あるわけですから、確かにいささかの時間は残されていると思います。この変化は長い進化の過程を通って来るので、その中で一歩ずつ前進する、時には恐らく後退ということもあるわけです。

   しかし問わねばならない本当の問題は、エルティング・モリソンが『人間、機械、現代』で指摘している通り、環境、全社会機構、文化的環境を、こうした変化を有利に生かせるようにしておく必要がある、そうでないと破局に直面する、ということであります。これらのメカニズムは当然社会問題をひき起こします。思想統制という最後の問題まで起こるでしょう。われわれの代わりに機械が「考え」させようというのでしょうか。機械は逸脱した情報の強力なチャンネルになりかねないのです。印刷もあらゆる種類の不道徳、反社会的方向に使われうるのと同じ様、機械の発明も、いったん出来上ってしまえば、反社会的目的に使われるのです。これが人間が環境をコントロールする場合の、進歩するごとに起こる問題です。しかし一方では、人間はさらに環境のコントロールを求めて行きます。そして、なlりふり構わず、環境をいじくりまわし、出来る限りは自分の従わせ、自分の要求に合うよう変えてゆく点で何ができるか見たい、というのが人間の本性です。こうした機械の進歩が正しい目的に使われるよう、悪い人の手に渡らないよう、つまり機械が誤って使われないようにするために、歯止め、社会的、政治的な安全装置ができているかどうか確かめておかねばなりません。いうまでもなく原子爆弾がこうした管理を必要とする好例です。新しいこの情報科学全体には、原子爆弾のような潜在的に危険なものが何かありうるかも知れない。これもコントロールすることを学ばねばならないのです。

   全体の問題点が、技術者は何でもできる、というところにあるのはもちろんです。しようと思えば、議会図書館でも空中につり上げることだって出来ます、これは悪くない考えかも知れません。ちょっと時間を要することでしょう、でも結局は実現の方法を見出せるでしょう。問題は、「それをさせたいと思うのか、これはしたいと思っていることなのか。これは社会にとって最上のことなのか」というところにあります。これらは図書館員がぶつかってみたい哲学的問題であると考えます。図書館業務のなかのコンピューター、オートメーションについての熱意(熱意といえなければ楽観といってもよい)の点では誰にもひけをとらない積りであります。

   しかし本にもまだ或る価値があると思いますので、失ないたくありません。図書は何といっても有益な発明品です。磁気テープと比べても多くの有利な点を持つものです。何の装置もなしに、おそらく眼鏡でもあれば読めるものです。持ち回ることもできますし、いづてもどこでもとりかかれるものです。どんな意見でも余白に書きこめますし、磁気テープとかこれから出現する他のこうしたメディアではできないような扱いができるわけです。だから本はすたれないと思います。本はこの世に残ると考える者です。

   しかし、コンピュータもなくならないものだ、とこれも確信を持っていえます。そこでわれわれは二つの世界に生きることになりましょう。図書館員は実際、少なくとも相当長い間は二つの世界に住まねばならないのです。そしてこうした二つの世界に生きるためには、この二面性から生ずる問題は、社会における自己の役割につき再びとり上げてみる、あるいは少なくとも真面目に考えてみる必要があると思います。すなわち、図書館員が行なおうとしているのは何か。トーマス・ハクスレイのいった「これらの新しいことをどうしようとしているのか」。現在の書誌的環境を変えて行くのか。これほど増えてゆく「もの」を可能な限り十分に利用できるよう、新しい社会においては自分たちの役割をどのように確認するのでしょうか。

   さて、ご承知の通り、とくにアメリカ人はこうした新しい発明品には、やみつきになっています。われわれは機械・道具が好きです。したいと思うことを単純に、やさしく、機械なしですます方をとらず、際限もなく機械の道具を使うのです。例えば、多くの人はライターを持ち歩いていますが、それはしよっちゅう燃料が切れたり、新しい石を必要としています。誰か言ったことがあります。もしマッチがライターより後に発明されていたら、誰しも「これは何と簡単ですばらしいのだろう」ということでしょう。しかるにライターは機械であるから好きなのです。このような発明品がわれわれを捕える催眠作用、これは考えておかねばならない人間の一反応であります。

   機械に向かって進めという圧力は図書館員にたいして再三再四行なわれます。大学図書館にいる友人の多く、公共図書館にいる者でさえ、目上の人たち、大学管理者とか公共図書館理事会から、機械化せよとのかなり強い圧力を体験しています。すばらしい機械が持てる今では、誰もがオートメーションを口にしています。そしてもちろん、IBMのセールスマンの一隊が反応をかきたてるよう、あらゆる手段を尽しています。何人かの友人はまったく困った立場に立たされているのです。図書館という職業はこうしてこみ入った機械を扱う準備が整っていないことをよく知っているからです。それでも管理者たちはいうのです。「機械化しよう。そうすれば支出をうんと節約できる」。もちろんこれらの図書館員は、こんないい方が誇張であると知っています。でもオートメーション化の主題はかなり執拗で、図書館員が理のある見方をしようとしても、変化を望まない、時代遅れな奴だと非難されるたげです。この衝突は、現在経験しているような急激な変化を通るとき、職業内部に起る恐るべき断絶となっていることは疑いをいれません。

    しかしながらわれわれは前に進んでおります。このことは疑う余地がないと思います。ランガナタン博士も私と同様、1957年にドーキングで行なわれた有名な分類会議に出席した時のことを憶えておいでと思いますが、イギリスの代表たちは、一週間の会議のうち半日だけを機械のことを話し合うためにとりたいといいだしたのです。他の時間には誰にせよ機械のことをしゃべるのは許されませんでした。それで木曜の午前だったかいつだったか、機械について話し合ったのです。アメリカ人はこの他の時間には機械のことは何もいってはならない、と警告されていたのです。主催者側はこの取りきめを守らせるのに成功したというわけにはいきませんでしたが、ともかくそのように努めていました。ところで、ドーキング会議の続きがエルシノアで開かれた時には、機械はかなり目だった議題となっております。私がウェスタン・リザーヴ大学の図書館学校にドクメンテーション・センターを創設した時、何年もの間機械のことでどんなに「からかわれた」か、よく憶い出すことができます。忘れられないくらいです。機械が図書館の職を奪いさるとか、機械の方が図書館員より利口だ、などと私が思ったとでもいうのでしょうか。「からかわれ」たのは、こればかりではありません。私がこの職業にたいして妨害している、全く真面目な口調でいわれました。私は長くつとめたこの職業を馬鹿にしたことなどなかったのですが。しかし今までオートメーションは恐ろしく真剣にとり上げられています。

   オートメーションはこれからやってくるものではありません、すでに存在していますし、きわめて分化しているほどです。物理的に入手できる方法として、高度に縮小する技術を持っています。地理的に遠い所へもファクシミリで送る利用法を話し合っています、これはいずれは頁、論文、本全部を送れることになり、相互貸借にとって代るでしょう。コンピューターはすでにあらゆる種類の図書館業務に広く使用されつつあります。内容を手に入れる問題もゆっくりではあるがある程度の進歩をとげています。新しい世界はそこまで来ています。図書館職の多くのことが変えられて行くところです。この変化に適応するのがわれわれの責任です。そうしないと他の者がこの職を占領してしまうでしょう。社会史を知っている方なら、18世紀のいわゆるラダイトは、自分たちの工場に入れられた機械を打ち壊した労働者たちだったのを憶えておいででしょう。今日ではきわめて原始的とも見える機械の導入に、彼らとしてはその結果起こる断絶を見たからなのです。その時ラダイトたちは絞首刑にあいました。図書館員もラダイトにならないよう、同じような運命に見舞われないようにしたいものです。まさか図書館員を絞首刑にする者はいないでしょう、しかし忘れられるということはありうるのです。私どもはこの新しい世界の中で生きることを学ばねばなりません。機械とともに生きることを学びとらねばならないのです。目前に横たわる大きな問題は未来の図書館員の教育、明日の世界に生きる図書館員を教育することです。これが最終回のお話で私がとり上げる問題となりましょう。

              *

    引用がたいへん長文となってしまった。少し前の文献であるが、現代の図書館を考えるうえにたいへん示唆に富む文献であることは、読まれたかたは理解されるであろう。情報革命、反機械文明、反情報、オートメーション、イノーベーション、原子力などの20世紀に生み出された図書館のニ面性が生ずる諸問題に関する発言を探していたのだが、日本の図書館学者からの発言や研究は少ない。機械の国、大量生産の国アメリカで、チャプリンの映画「モダンタイムス」のような辛辣な文明批判の作品が生まれるのも、移民がもたらした文明の多様性であろう。アメリカ人は道具や機械の国だが、一方で宗教の国でもあり、自由な精神を尊重している。したがって、図書館学者は政治や国の政策とも一定の距離をおいて、一面に偏ることなく両面を思考しているようだ。後発の日本の図書館学の場合、内発的な研究の成果は少なく、アメリカの図書館学からのうわべだけの導入という外発的なものであるため、韓国より遅れているからなんとかしなければというレベルでしかない。シェラのいうような「機械に向かって進め」の日本版が21世紀になって出た国策的な提言「これからの図書館像」だが、それがもたらした結果は図書館市場が注目されて、関連企業が喜んでいるだけのようだ。

   シェラの講演録を読んで感じるのは、バトラーからの影響があるようで、社会学的な研究方法で、図書館の原理、原論を追求している。ひるがえって、現在の日本の図書館学者はどうだろう。目立つのは、細分化されたテーマの研究であるか、図書館改革とか提言とかいった政治、政策、経済と連動した言説である。そもそも図書館改革とか提言とかは、図書館学者の本分なのだろうか、疑問に感ずる。

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