無料ブログはココログ

« 「赤と黒」と「パルムの僧院」との優劣論 | トップページ | セネカ・フォールズ会議と婦人運動 »

2007年1月17日 (水)

新田義貞と勾当内侍の悲恋

    新田義貞と勾当内侍(こうとうのないし)との出会いは、後醍醐天皇の親政が実現するが、天皇と足利尊氏が不仲になり今にも争乱が起ころうとしていた不穏な時代だった。ある秋の夜、内裏の警固にあたっていた義貞が、琴の音にひかれて宮中をさまよい、そこで見かけた勾当内侍を見染めた。内侍は書道家の藤原経尹(つねただ)の娘といわれる。宮廷に出仕するようになったのは、16歳の春ごろ。宮中に並ぶものがないほど、あでやかな女官として評判だった。その美貌を「春の風一片の花を吹き残すかと疑はる」と太平記は形容している。義貞は思い余って内侍に恋歌を贈る。

   我袖の泪に宿る影とだに

       しらで雲井の月やすむらん

    しかし、内侍は、これを読もうともせず返してくる。使いをしたものの話によれば、もし、これが天皇の耳に入ったならばどうするのです、といったという。ふたりの仲は噂として広まり、後醍醐天皇の耳に達した。天皇は忠臣の義貞に、酒の盃とともに内侍を与えたのだった。

    深まりゆく二人の愛欲。義貞は内侍との別れを惜んだため、尊氏追撃の絶好の機会を失った。建武3年、尊氏の京都占領で、義貞は恒良、尊良親王を奉じて京都を離れ、越前国金ヶ崎へ落ちのびた。内侍は琵琶湖畔で船上の義貞を見送ったとされる。近江国堅田に残される哀話では、内侍は漁師の家に身を隠した。今にも足利方に差し出されるのではと不安な日々。二年後に義貞が福井の藤島で自害すると、内侍は悲しみのあまり、琵琶湖で入水自殺を図ったとされるという説と嵯峨の奥往生院にあって義貞の菩提を弔ったとする説がある。

« 「赤と黒」と「パルムの僧院」との優劣論 | トップページ | セネカ・フォールズ会議と婦人運動 »

「日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 「赤と黒」と「パルムの僧院」との優劣論 | トップページ | セネカ・フォールズ会議と婦人運動 »

最近のトラックバック

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30