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2007年1月14日 (日)

北村兼子と人見絹枝

  『北村兼子、炎のジャーナリスト』大谷渡著と『人見絹枝、炎のスプリンター』人見絹枝著という昭和初期に活躍された二女性に関する本が出版されているが、二人には共通点がある。女性記者であること、昭和6年に亡くなっていることである。北村兼子(1903-1931)は大阪朝日新聞の記者(のちフリーライター)であり、人見絹枝(1907-1931)は大阪毎日新聞記者であった。北村は昭和6年7月26日(享年28歳)、人見は同年8月2日(享年24歳)に亡くなっている。一週間のうちに、当時最も人気があり才能も豊かだった女性記者の二人を失ったのである。二人の名前は、一般的には人見絹枝のほうが良く知られているであろう。(おそらくアムステルダム五輪の800メートルの銀メダリストとして)。ここでは北村兼子について簡略に述べたい。手元のコンサイス日本人名事典にも、人見絹枝はあるが、北村兼子は収録されていない。事典の改訂などの際には、北村兼子の評価をご検討いただきたいものである。

   北村兼子は昭和初期の数年間、ジャーナリストとして大活躍している。得意の政治経済評論や随筆を収めた13冊の著書を出版し、新聞や雑誌に膨大な数の論文、記事を発表している。手元の「関西大学120年のあゆみ」によると、北村は関西大学の初めての女子学生だったらしく眼鏡美人の写真が掲載され、「大正12年10月、北村は法学部法律学科に入学し、15年春に所定の全課程を修了した。教育制度上の制約から資格は聴講生だったが、在学中に卓抜した才能を開花させた。2年生のとき、「大阪毎日新聞」や、大阪朝日新聞社発行の「婦人」に論文を発表して注目され、大正14年に法科3年在学のまま、大阪朝日新聞社会部記者に採用され、たちまち人気記者となった。昭和2年、北村はフリーのライターに転じ、翌3年にホノルルで開催された汎太平洋婦人会議に、4年に万国婦人参政権ベルリン大会に日本代表として出席した。得意の英語とドイツ語を駆使し、北村は活躍の舞台を世界に広げた。ヨーロッパの旅から帰国、台湾と中国の旅を終えたあと、航空機時代の到来を予見した北村は訪欧飛行を計画し、飛行機の操縦免許を取得したが、出発1ヵ月前の昭和6年7月に腹膜炎のため死去した。藤田嗣治、滝川幸辰、鶴見裕輔、武内作平、小泉又次郎、福沢桃介らは彼女の支援者だった」とある。これらの記述から受ける北村のイメージは、これまで「大空に飛ぶジャーナリスト」「モダン・ガールの新聞記者」でしかなかった。しかし最近あることから、北村が学問的かつ人道的であり、性差別に闘う現代に繋がる進歩性を持ったすぐれた記者であることを確信するにいたった。 

生江孝之を批判した北村兼子

    生江孝之(1867-1957)の名は「日本社会事業の父」として広く知られている。その略歴を記す。慶応3年11月12日、仙台藩士の生江元善の次男として仙台市上樋で生まれた。中学校時代からキリスト教の洗礼を受けていた生江は、伝道者になるべく東京英和学校(:現・青山学院)へ進学。しかし、学費の不足などにより退学する。その後、長期受刑者などを収容する集治監の教戒師の道を志す。このころから社会的弱者、貧しき人たちへ心を寄せるようになる。そして再び、社会事業への道を歩むため、青山学院神学部へ進学する。卒業後、渡米し、ボストン大学で学ぶ。明治37年2月、神戸に帰国。船のなかで非行少年を更生させる施設「感化船」の新設を企画していた神戸市より協力を求められた。用意された肩書きは神戸市外事係長。ところが、着任して1週間後に日露戦争が開戦したため、感化船計画は棚上げになった。明治41年、内務省嘱託となる。その後、多くの社会事業に尽力し、「日本基督教社会事業史」「児童と社会」「社会事業綱要」などを著わし、キリスト教徒として社会連帯責任の観念に基づいた社会事業の必要性を説いた。ところが生江の論文に「産児制限問題私見」(社会事業研究16-12,1928.12)というのがある。わが国では戦前から優生学的見地から強制断種の思想が優勢であったが、生江も優生思想に賛意を表し、優生思想が日本に普及し、昭和15年の国民優生法、昭和23年の優生保護法制定へとつながる流れを実践の現場からつくってしまった学者の一人である。生江のこの論文が発表された直後の次号に、北村兼子は「優生学ちょっと待つて」社会事業研究17-1、1929.1)を発表している。北村は人道的理由や今後の医学の可能性を挙げて、優生思想を批判している。その後も優生思想はナチス政権のヒトラーによって支配的になることはご承知のとおりであろう。わが国においても近年ようやくにして優生保護法が母性保護法と改正され、生きる権利を奪う優生思想が撤廃された。その長き間、古典的優生思想は学術的にはほぼ非科学的抽象論的な擬似科学であることは世界の国々で知られていた。日本では遺伝的な優劣という意味での優生学を法制化していた数少ない国であった。学者の生江孝之の功罪を論ずる知識は持たないが、当時25歳の気鋭のジャーナリストが「日本社会事業の父」といわれ一流の学者であった当時62歳の生江を同じ専門誌上で批判していることに驚きを感じる。そして北村の批判が正当であることは明らかであろう。もちろん記者である北村の論ずる事柄は実に広範囲であろう。その全貌を残念ながらほとんど知らない。ここに書名のみ知るものをあげると、「ひげ」「恋の潜航」「怪貞操」「婦人記者廃業記」「新台湾行進曲」など。ちなみに24歳で亡くなった人見絹枝の著書も多い。「最新女子陸上競技方法」「戦ふまで」「スパイクの跡」「ゴールに入る」「女子スポーツを語る」など。二人の女性が如何に短期間に精力的な活動をしたか驚くばかりである。

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コメント

初めまして、この日記はとても参考になりました。
ありがとうございます。

2010年6月19日付けの朝日新聞の「磯田道史のこの人、その言葉」に、北村兼子の本の紹介が書かれており、それがとても興味深く、でもまったく知らない人だったためググるったら、こちらに来ました。

とても知性の高い女性だったようですね。わずか27歳で亡くなったのは、とても残念です。

こういう女性を「人生の師」とあおいで生きていきたかったなあ、という思いでいっぱいです。

情報、ありがとうございました。

コメントありがとうございます。北村兼子は関西大学の大先輩なので関心を持っています。磯田道史のコラムを読ませていただきました。壮年の学者さんも関心を持たれるように序々にその名は知られてきているようです。まるでNHK朝ドラヒロインにしたいような人生ですが、漢学の素養と法学の知識で文章は簡潔にして明瞭。行動力、好奇心、そして正義感。自ら売春婦として潜入ルポ。当時、資本主義下、都会では公娼、私娼、種々の新しい接客業も生まれていた。まるでネット時代に新しい風俗産業が増殖しつつある今日、先駆的な「炎のジャーナリスト」だ。「女性運動が男子の権威を奪うというのは誤解」「婦人の力強くなるのは男性の幸であり、児どもの福である」とは名言。

はじめまして。
先のコメントの方と同様に、朝日新聞を見て、検索して参りました。女性飛行士といえば、アメリア・イヤハートを思い浮かべますが、日本にも、こんな素晴らしい女性が居たのですね。この記事を拝見して、北村さんの先見の明に、驚きました。
有り難うございました。

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