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2007年1月31日 (水)

聖徳太子を救った男

    一万田尚登(いちまだひさと、1893-1984)は、昭和21年、新木栄吉が公職追放になると、その後任として日銀総裁になった。GHQは、それまで紙幣に登場していた聖徳太子、和気清麻呂、武内宿禰、日本武尊ら7人の肖像を使用することを禁止するといいだした。そこで一万田は「他の人はともかく、聖徳太子は軍国主義とも封建主義制度とも関係ない人だから残すように」と申し入れた。GHQ側は「聖徳太子は天皇家の一族だから」という理由で、これを突っぱねる。一万田は聖徳太子が定めた十七条憲法を持ち出す。「冒頭の、和を以って貴しとなす、とした太子は平和主義者なのだ」と多少、奇妙な論理を持ち出して食い下がり、とうとうGHQ屈服させたという。一万田の日銀総裁8年7ヵ月といのは歴代総裁の最長記録だが、ちょっぴり自慢げに「聖徳太子に救われた人は多かろうが、太子を救ったのは私だけだと思っている」と話していたという。

アーミッシュ派

    モルモン教が日本でその名を知らしめたのは、1970年の日本万国博覧会(大阪万博)にモルモン教のパビリオン「モルモン教館」が出展していたことが大きいだろう。ほかのパビリオンは混んでいたので、ゆっくり見れたモルモン教館は、強烈な印象があったという人も多いのではないだろうか。戸別訪問の宣教活動で知られるエホバの証人(ものみの塔)は戦後のように思われるが、実は戦前から「灯台社」として布教活動されている。これらの宗教に比べアーミッシュの歴史そのものは最も古いが、日本ではほとんど知られることなく、アメリカ映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」(1985年)によるところが大きいのではないだろうか。

    アーミッシュ派はプロテスタントのメノー派(メノナイト派、絶対平和主義で知られる一派)に属するスイス人ジャコブ・アマン(1644?-1730?)が、17世紀末に始めた一宗派。初期にはアルザス、スイスに広がったが、現在はアメリカに約4万4000人ほど残るだけである。アメリカへは1727年から50年にかけてドイツ系移民が多数が入植、そこからオハイオ、インディアナ、イリノイ、ネブラスカなどの中西部に移動していった。おもにペンシルベニア州に居住し、移住後も彼らの宗教、言語、風俗、教育を維持し、ペンシルベニア・ダッチという独特の言語を話す。聖書解釈において厳格主義をとるが、有名なのは生活様式で、原則として現代の技術による機器を生活に取り入れることを拒む。電気、電話などは使用しない。自動車は使わず、馬車を使っている。近代的な農業機械は使用しないが、優秀な農業者である。アーミッシュの服装は、男はつばの広い帽子をかぶり、ひげを蓄える、女は黒の靴下、靴をはく。教会のような建物はなく、子供の教育も自分たちで行なう。(参考:「アメリカを知る事典」平凡社)

2007年1月29日 (月)

紫電改と松山三四三航空隊

   子供の頃、ちばてつや「紫電改のタカ」を「週刊少年マガジン」(昭和38年7月~昭和40年1月)で愛読していた。その後なぜか「紫電改」という名が育毛剤に使われて奇異な感じがしたものだ。「紫電改」という名機は「零戦」「隼」についで親しみのある戦闘機であり、それが川西航空という地元の鳴尾で製作されたのを知ったのは最近のことである。

   紫電改は、太平洋戦争末期、日本の空を守るべく登場した。もともとは水上機専門であった川西航空が製作していた水上戦闘機「強風」を次期主力戦闘機の開発が進まないことから海軍の命令で陸上機「紫電」に転用。ところが問題が続出し、大幅に設計変更し、「紫電改」が誕生した。

    昭和19年10月20日、アメリカ軍がレイテ島に上陸すると、航空特攻作戦が開始された。そして総力をあげてこれを阻止しようとする日本軍との間に、太平洋戦争最大の航空決戦が繰り広げられた。フィリピンに進出した三四一航空隊の紫電隊も、本来の制空の任務よりも重武装をかわれて、もっぱら敵上陸地点や出没する敵魚雷艇の攻撃などに使われた。三四一空に合流したマルコット基地の戦闘機七0一飛行隊も同様で、連日の出撃に犠牲は増えて可動機数は減る一方だったが、飛行隊長白根斐夫少佐は、いつも部隊の先頭に立って攻撃に向かった。そして10月末のある日、上陸拠点付近の敵魚雷群を銃撃中に対空砲火を浴び、帰らぬ人となった。

    昭和20年1月8日、第三四三航空隊の志賀淑雄少佐が松山基地に着任した。続いて源田実大佐、林喜重大尉が着任した。この部隊にやってきたメンバーには、磯崎千利、松場秋夫、坂井三郎、指宿正信、宮崎勇、杉田庄一という撃墜王たちが参集した。こうして紫電改を主力とした三四三空の編成は、搭乗員だけでも120名、それに整備員その他地上員までふくめると、3000名をこえる大部隊となった。しかし時すでに遅し。紫電改の生産はわずか400機そこそこで、その活躍期間も半年に満ずに終戦を迎えることになった。(参考:碇義朗「紫電改」光人社)

2007年1月28日 (日)

マーガレット・ミッチェルの家系

   マーガレット・ミッチェル(1900-1949)は1900年、アメリカ合衆国南部のジョージア州アトランタ市ケイン街296番地に生まれ、マーガレット・マナリンと命名される。父ユージン・ミューズ・ミッチェルは同市の弁護士で、アトランタ弁護士会長、アトランタ歴史協会会長を兼ねた人、当時34歳。アトランタ市史及びジョージア州史の権威として知られていた。母メーベル・スティーヴンスは南北戦争当時の第九ジョージア歩兵隊員でジャクスン将軍の兵站総監本部付大尉として勤務したジョン・スティーヴンスの娘、当時28歳。ラッセル(夭折)とスティーブンスの二人の兄がある。スティーヴンスはマーガレットより5歳の年上で父と同じく弁護士。アトランタ歴史協会会報の編集者で、アトランタ弁護士会会長、同弁護士クラブ会長を勤めたことがある。ミッチェルの家族はアトランタ市が創設される前から同市内あるいはその近郊に住んでいたが、母方の祖先はスコットランドおよびアイルランド、フランス等の血が混じっている。母方はアイルランドとスペインのバスク地方の出身。ともに独立戦争当時から南北カロライナ州およびジョージア州に住み、アトランタ市には百年以上も定住した家族の出で、ミッチェルはつねづね家族が同市に住むようになってから自分で五代目だということを自慢にしていた。(参考:「河出世界文学全集23」ミッチェル年表)

2007年1月21日 (日)

アメリカの孤立主義外交

   「外国民に対するわれわれの行動の重要な原則は、通商を拡大するに当たってできる限り政治的結合をさけることである。欧州は一連の重要な利害関係をもっているが、それらはわれわれには全く無関係か、あるいはあっても非常にうすいものである」。

   これは、1799年のワシントン大統領の「告別の辞」であるが、ここにみられる孤立主義の傾向は、その後のジェファーソン大統領によってもその就任演説(1801年)で再確認された。孤立主義の政策は新興国アメリカにとって現実的な政策であったが、またそれはアメリカ人のナショナリズムの表現でもあった。彼らは専制政治、君主政治のヨーロッパ諸国に対して自由な市民の共和国としての自国の特色を誇りとし、そこにナショナリズムの拠り所を見いだした。ヨーロッパの邪悪な宮廷外交は共和国とは無縁のものであり、それにかかわることは共和国の徳性を損なうと考えられた。こうして、ヨーロッパに対する孤立政策はアメリカ外交の伝統として確立し、アメリカがヨーロッパに影響を及ぼしうる大国になってからも、孤立主義は存続した。ただし孤立主義の時代にも、ラテン・アメリカに対するアメリカ外交は積極的であったし、東アジアの国際政治にもある程度関与するようになっていた。アメリカの孤立主義外交は、1899年マッキンレー大統領時代に、国務長官ジョン・ヘイによって提議された中国の領土保全、門戸開放、機会均等の三原則、すなわち門戸開放宣言で、海外進出の帝国主義的政策への一つの転換を迎えたといわれる。(参考:有賀貞「アメリカを知る事典」平凡社)

アービング、クーパー、ブライアント

    19世紀前半のアメリカの文学は長足の発展を見た時期である。それまでの17~18世紀のアメリカ文学は、牧師・役人・政治家たちが、本職の余暇に創作したものであったが、アービング、クーパー、ブライアントは文学を糊口の道とし得た最初の人々であった。この三人、とくにワシントン・アービング(1783-1859)は英文学の影響下にあり、これを抜け出ることができなかった。アーヴィングの初期の作品の一つである「ニューヨーク史」(1809)には、アメリカ人らしいユーモアが見られるにもかかわらず、有名な「スケッチ・ブック」(1819-20)にはかえってアメリカ的なものよりもイギリス的なものの方が多く、その後はヨーロッパ中世への憧れを示すもの、ヨーロッパ的異国情緒の作品が多く、アメリカの西部の持つ意味については無関心であった。文体もゴールドスミスらを範としていた。

    ジェイムズ・フェニモア・クーパー(1789-1851)はアービングとは異なり、代表作「革脚絆物語」(1823-41)の五部作(なかでも「モヒカン族の最後」は著名)において、辺境や大平原を舞台とし、好んでアメリカ的背景を扱った。ナティ・バンボーという主人公を通して、民主主義という新しい政体と社会の重要性とそのなかに含まれる危機を指摘し続け、その指摘は今日の世界にそのままあてはまるところが多い。

   ウィリアム・カレン・ブライアント(1794-1878)は、イギリスのトマス・グレイ(1716-1771)等「墓畔詩人」の影響下に、少年時代から瞑想詩を書いていたが、ワーズワースの影響を受け、ニューイングランドの自然をロマン的・神秘的態度で歌い、17世紀の詩人テイラーや、神学者エドワードの伝統を新しく生かした。ニューヨークの「イブニング・ポスト」紙に入り、同紙の主筆となって、ほとんど一生をその職に捧げた。そして、常に穏健公正な自由思想を唱え、労働者や農民の同情者としてペンをとった。彼の詩で有名なものは「死生観」(1817年9月)である。この詩は荘重典雅な調べで、そこに見られる落ち着きある格律、人生にそそいでいるまじめな視線は、詩を閑人の社交的装飾と考えて、押韻の美辞麗句のみに気を取られていた時代人の迷妄をさまさせるものであった。(参考:「世界文学史年表」中央公論社)

2007年1月20日 (土)

セネカ・フォールズ会議と婦人運動

    アメリカは独立した当時は大西洋岸の細長い地帯を占めるにすぎなかったが、19世紀にはいると、当時の合衆国とほぼ同じ面積をもつルイジアナをフランスから買収したのを手はじめにして、西にむかって領土を拡張していった。西部開拓にはなにものにも屈しない開拓魂「フロンティア・スピリット」が生まれ育つ。伝統や家柄にしばられない自由と独立の精神、そして近隣の人たちとの自然な協力、ここにアメリカ民主主義の健全な基礎がはぐくまれてゆく。1828年には貧しいフロンティア農民の子であったジャクソンがはじめての西部出身の大統領にえらばれ民主主義を一段と発展させた。1820年代から40年代にかけて、労働組合運動、勤労者党の運動、反メーソン運動、奴隷解放運動、第2次信仰復興運動、選挙権拡大を要求するロード・アイランド州のドアの乱(1842年)、ニューヨーク州の地代反対一揆(1839-46)等が噴出した。この間、白人男子普通選挙制が諸州に普及した。もちろん婦人には参政権はなかった。

   進歩的な思想を持ったスコットランド婦人のフランシス・ライトのアメリカ訪問が、アメリカの婦人をめざめさせたといわれる。ライトは聴衆を前にして、神学と婦人の権利についての講演を行ない聴衆に衝撃を与えた。やがてフィラデルフィアのクェーカー教徒であるルクレシア・モットやスーザン・B・アンソニー(1820-1906)やエリザベス・ディー・スタントン(1815-1902)などの婦人運動家に影響を与えた。彼女たちは男性ばかりでなく、大多数の同性たちからも侮りの目で見られながら、それに屈せず奴隷制度反対・女権拡張・労働者の福祉増進運動等に精力的に闘った。1848年、世界最初の女性の権利獲得のための会議がニューヨーク州の田舎町セネカ・フォールズで開かれた。奴隷制廃止論者、禁酒運動家などを含めた男女約300名が参加した。モットとスタントンが会議の発案者となり、スタントンは「すべての男女は平等につくられている」と唱える「所感の宣言」を行ない、会議は男女平等を達成するための11の決議案を採択した。

   女権運動の指導者たちは、支持者を全然持たなかったわけではない。ラルフ・ワルドー・エマーソン、リンカーン、ホーレス・グリーリーのような著名人たちが、婦人の利益のために働き講演を行なった。この時代の婦人解放は成果をあげたというよりもまだむしろ啓蒙の時代であったとは言え、決定的な改善が行なわれた。1839年、ミシシッピー州は既婚婦人に財産管理権を与えた。同様の法律が次の10年間に7の州で定められた。1820年にエマ・ウィラードは、少女のために専門学校を開き、1887年にはマウント・ホリヨークに女子大学が設立された。

   1848年のセネカ・フォールズ会議以後、婦人参政権運動がスタントン、アンソニー、ルーシー・ストーン(1818-1902)らの指導者によって展開された。当初は奴隷制廃止運動と密接な関係にあったが、南北戦争後、女性よりも黒人の権利保障を優先させる奴隷制度廃止論者との対立で破れた。また、婦人参政権運動も分裂し、1869年以後は、スタントンとアンソニーの率いる組織と、ストーンの率いる組織とが別々に活動した。スタントンらは参政権は女性解放という目的のための一手段と考え、結婚、労働など広範な問題を論じるのに対し、後者は、既存の制度内での参政権獲得を目標にし、より穏健だった。1890年、両者が合併、全国アメリカ婦人参政権協会が成立し、新しい世代の指導者の下で参政権を目標とする穏健な運動が進められた。19世紀末までにワイオミング、コロラド、アイダホ、ユタの各州で婦人参政権が成立し、連邦議会でも1887年以後は婦人参政権を規定する憲法修正案が毎年提出されたが、協会の運動自体は停滞気味だった。しかし、1910年代までに婦人参政権に対する一般的支持が広まり、運動も、婦人党を結成したポール、協会の新会長キャットの下で活発化した。そして第一次大戦下の女性の社会進出を背景に、1920年、婦人参政権を規定する憲法第19修正の成立をみた。(参考:有賀夏紀「アメリカを知る事典」平凡社)

2007年1月17日 (水)

新田義貞と勾当内侍の悲恋

    新田義貞と勾当内侍(こうとうのないし)との出会いは、後醍醐天皇の親政が実現するが、天皇と足利尊氏が不仲になり今にも争乱が起ころうとしていた不穏な時代だった。ある秋の夜、内裏の警固にあたっていた義貞が、琴の音にひかれて宮中をさまよい、そこで見かけた勾当内侍を見染めた。内侍は書道家の藤原経尹(つねただ)の娘といわれる。宮廷に出仕するようになったのは、16歳の春ごろ。宮中に並ぶものがないほど、あでやかな女官として評判だった。その美貌を「春の風一片の花を吹き残すかと疑はる」と太平記は形容している。義貞は思い余って内侍に恋歌を贈る。

   我袖の泪に宿る影とだに

       しらで雲井の月やすむらん

    しかし、内侍は、これを読もうともせず返してくる。使いをしたものの話によれば、もし、これが天皇の耳に入ったならばどうするのです、といったという。ふたりの仲は噂として広まり、後醍醐天皇の耳に達した。天皇は忠臣の義貞に、酒の盃とともに内侍を与えたのだった。

    深まりゆく二人の愛欲。義貞は内侍との別れを惜んだため、尊氏追撃の絶好の機会を失った。建武3年、尊氏の京都占領で、義貞は恒良、尊良親王を奉じて京都を離れ、越前国金ヶ崎へ落ちのびた。内侍は琵琶湖畔で船上の義貞を見送ったとされる。近江国堅田に残される哀話では、内侍は漁師の家に身を隠した。今にも足利方に差し出されるのではと不安な日々。二年後に義貞が福井の藤島で自害すると、内侍は悲しみのあまり、琵琶湖で入水自殺を図ったとされるという説と嵯峨の奥往生院にあって義貞の菩提を弔ったとする説がある。

「赤と黒」と「パルムの僧院」との優劣論

   現在、スタンダールとバルザックを19世紀フランス文学を代表する二大小説家である、と考える読者は多いであろう。しかしながら、スタンダールという筆名で知られるマリ=アンリ・ベール(1783-1842)は、小説を書くことが彼の職業であったことは実は一度もない。スタンダールはその人生において軍人、食料品商、参事院書記官、ジャーナリスト、イタリア駐在フランス領事であり、著述はそれと並行してあるいはその間隙をぬっておこなわれた。59年間の生涯に書き残されたものの量はかなり多く、また内容も戯曲習作、美術史、音楽家評伝、旅行記、歴史、評論、小説など多岐にわたっており、小説はその一部にすぎない。作品のおもなものを執筆順にあげると次のようなものである。

  「イタリア絵画史」「ローマ、ナポリ、フィレンツェ」「ナポレオンの生涯」(未完、死後刊行)「恋愛論」「ラシーヌとシェイクスピア」「ロッシーニの生涯」「アルマンス」「ローマ漫歩」「赤と黒」「アンリ・ブリュラールの生涯」(未完、死後刊)「リュシヤン・ルーヴェン」(未完、死後刊)「ナポレオンに関する覚書」(未完、死後刊)「パルムの僧院」「カストロの尼」(ほかに二編をふくむ短編集)「ラミエル」

    このうちスタンダールの生前に出版された長編小説は、「アルマンス」(1827)、「赤と黒」(1830)、「パルムの僧院」(1839)の三作だけである。「アルマンス」は発表当時はほとんど無視され、「赤と黒」と「パルムの僧院」は多少の反響はよんだものの、成功作というにはほど遠かった。スタンダールは生前職業作家となることはついにできなかったし、文学的栄光もなかった。ところが、スタンダールの死後10年ほど経ったころから、一部の読者のあいだに「赤と黒」と「パルムの僧院」が読まれはじめ、やがてテーヌやブルジェのような当時著名な批評家、小説家が、スタンダールを熱心に賞賛するようになる。

    スターンダルの愛好家、研究家のことをスタンダリアンというそうだが、スタンダリアンの間でしばしば話題にのぼることのひとつに「赤と黒」と「パルムの僧院」のどちらがスタンダールの代表作であろうか、という問題である。ともに傑作であるこのふたつの小説が、なにからなにまで対照的といってもよいほど異なるので、いささか無意味でもある優劣論に興味がわくのであろう。代表的なものとして、アルベール・チボーデの意見を紹介する。

   スタンダールの作品のなかでまずなにかひとつ読んでみたいという者は、「赤と黒」から始めるのがよい。だが彼の著作をひととおり親しみ、その世界に魅力を感じている者にたいしては、「パルムの僧院」こそ最高傑作として薦められよう。

   また、小説家であるとともにすぐれた文学鑑賞家であったアンドレ・ジイドが、彼の選んだフランス小説ベストテンの第一位に「パルムの僧院」をあげていることを考えると、チボーデの所説はかなりの一般性が認められるような気がする。(参考:「世界文学全集8パルムの僧院」集英社、小林正、石川宏)

千代尼句集

朝顔に釣瓶とられて貰い水

    朝、起きだして井戸端へ行ってみると、井戸の釣瓶に朝顔の蔓がからみついているので、それをちぎって水を汲むには忍びず、そのままにして近所から貰い水をした、というのである。やさしく風雅な思いやりが、きわめてはっきり、万人に分かりやすいように表現されている。通俗的な意味で俳句を代表する作としてよく知られ、英・独・仏語にも翻訳されて海外にまで聞えた句である。

里の子の肌まだ白しももの花

春になって、村里には美しく桃の花が咲いた。そのあたりに遊んでいる里の子は、まだ日焼けもせず、膚は白いままである。

落鮎や日に日に水のおそろしさ

秋も深く、上流で産卵を終えた鮎は流れを下ってゆき、その水のようすは、一日一日恐ろしげなものになってゆくような気がする。

月の夜や石に出て鳴くきりぎりす

皎々たる秋月の下、つめたく光る庭石の上で、きりぎりすが切々とむせぶように鳴いている。人目のおよばぬ物陰でなくかなしい性を持つきりぎりすであるだけに、月の光にさそわれて石に出て鳴く姿はいやさらに哀れである。

    加賀千代(かがのちよ、1703-1775)。千代女。加賀国松任の人。表具師福増屋六左衛門の娘として生まれ、幼少から俳諧を好み、17歳のとき各務支考に師事。金沢藩の足軽のもとに嫁し、子供を産んでからまもなく夫に死なれたというが、嫁に行かなかったという説もある。51歳のときに剃髪して尼になり、素園と号したのちは家業を離れて俳諧に専念した。美濃派や伊勢派の地方俳壇と親しかったため、作風は親しみやすいものであった。生前から女流歌人として著名であり、『千代尼句集』『松の声』などの作品がある。安永4年没、年73歳。

   夫との死別後によんだ「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さ哉」が伝わるが、これは千代の生まれる9年前に遊女浮橋がよんだものである。また「蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら」「ほととぎすほととぎすとて明けにけり」「しぶかろかしらねど柿のはつちぎり」などの句も千代の作といわれることがあるが、これらはいずれも伝説的な誤伝によるもので、千代女の作品ではない。

2007年1月16日 (火)

徳川家光と酒井忠勝

   徳川家光は、若いころから、おしのびで町に出ることがよくあった。これをあやぶんで諌める人も少なくなかったが、なかなか家光は聞き入れない。ところが家光は不思議なことに気づいた。それはいつも夜行に出かけようとして草履をはくと、これが暖かいのである。だれが暖めるのだろうかと、それとなく注意していると、それは老中の酒井忠勝(1587-1662)であった。忠勝がいつも家光の草履を懐中に入れて暖めていたのである。家光はこれを知って、それほどまで自分のことを按じていてくれるのかと感じ、それからは夜の外出をやめたという。(参考:辻達也「江戸開府」中央公論社)

2007年1月14日 (日)

足立の分類

   耳垢には「じとじと」の湿ったタイプと「かさかさ」の乾いたタイプの2種類があることを、学問的に初めて明らかにした学者は、足立文太郎(1865-1945)である。2種類の耳垢があるのはモンゴロイド特有のもので、黒人や白人は「かさかさ」はなく、ほぼ全員が「じとじと」のタイプだという。日本人は先に「じとじと」の縄文人が住みつき、あとから来た渡来人と混血した結果、新モンゴロイドは耳垢が「かさかさ」に変化していったという。この足立文太郎は小金井良精の門下生で、人類学者、解剖学者、嗅覚研究家でもある。解剖学では、とくに「足立の分類」で世界的に知られている。肉眼解剖、とくに腹腔動脈などの血管の破格には「足立の分類」といわれる様々な血管を観察し分類できることが大切であり、足立の「日本人の動脈系統」(昭和3年)「日本人の静脈系統」(昭和8年)の著書は現在でも解剖学者にとって必読の書であるという。なお、作家の井上靖は昭和10年に足立文太郎の長女ふみと結婚している。

北村兼子と人見絹枝

  『北村兼子、炎のジャーナリスト』大谷渡著と『人見絹枝、炎のスプリンター』人見絹枝著という昭和初期に活躍された二女性に関する本が出版されているが、二人には共通点がある。女性記者であること、昭和6年に亡くなっていることである。北村兼子(1903-1931)は大阪朝日新聞の記者(のちフリーライター)であり、人見絹枝(1907-1931)は大阪毎日新聞記者であった。北村は昭和6年7月26日(享年28歳)、人見は同年8月2日(享年24歳)に亡くなっている。一週間のうちに、当時最も人気があり才能も豊かだった女性記者の二人を失ったのである。二人の名前は、一般的には人見絹枝のほうが良く知られているであろう。(おそらくアムステルダム五輪の800メートルの銀メダリストとして)。ここでは北村兼子について簡略に述べたい。手元のコンサイス日本人名事典にも、人見絹枝はあるが、北村兼子は収録されていない。事典の改訂などの際には、北村兼子の評価をご検討いただきたいものである。

   北村兼子は昭和初期の数年間、ジャーナリストとして大活躍している。得意の政治経済評論や随筆を収めた13冊の著書を出版し、新聞や雑誌に膨大な数の論文、記事を発表している。手元の「関西大学120年のあゆみ」によると、北村は関西大学の初めての女子学生だったらしく眼鏡美人の写真が掲載され、「大正12年10月、北村は法学部法律学科に入学し、15年春に所定の全課程を修了した。教育制度上の制約から資格は聴講生だったが、在学中に卓抜した才能を開花させた。2年生のとき、「大阪毎日新聞」や、大阪朝日新聞社発行の「婦人」に論文を発表して注目され、大正14年に法科3年在学のまま、大阪朝日新聞社会部記者に採用され、たちまち人気記者となった。昭和2年、北村はフリーのライターに転じ、翌3年にホノルルで開催された汎太平洋婦人会議に、4年に万国婦人参政権ベルリン大会に日本代表として出席した。得意の英語とドイツ語を駆使し、北村は活躍の舞台を世界に広げた。ヨーロッパの旅から帰国、台湾と中国の旅を終えたあと、航空機時代の到来を予見した北村は訪欧飛行を計画し、飛行機の操縦免許を取得したが、出発1ヵ月前の昭和6年7月に腹膜炎のため死去した。藤田嗣治、滝川幸辰、鶴見裕輔、武内作平、小泉又次郎、福沢桃介らは彼女の支援者だった」とある。これらの記述から受ける北村のイメージは、これまで「大空に飛ぶジャーナリスト」「モダン・ガールの新聞記者」でしかなかった。しかし最近あることから、北村が学問的かつ人道的であり、性差別に闘う現代に繋がる進歩性を持ったすぐれた記者であることを確信するにいたった。 

生江孝之を批判した北村兼子

    生江孝之(1867-1957)の名は「日本社会事業の父」として広く知られている。その略歴を記す。慶応3年11月12日、仙台藩士の生江元善の次男として仙台市上樋で生まれた。中学校時代からキリスト教の洗礼を受けていた生江は、伝道者になるべく東京英和学校(:現・青山学院)へ進学。しかし、学費の不足などにより退学する。その後、長期受刑者などを収容する集治監の教戒師の道を志す。このころから社会的弱者、貧しき人たちへ心を寄せるようになる。そして再び、社会事業への道を歩むため、青山学院神学部へ進学する。卒業後、渡米し、ボストン大学で学ぶ。明治37年2月、神戸に帰国。船のなかで非行少年を更生させる施設「感化船」の新設を企画していた神戸市より協力を求められた。用意された肩書きは神戸市外事係長。ところが、着任して1週間後に日露戦争が開戦したため、感化船計画は棚上げになった。明治41年、内務省嘱託となる。その後、多くの社会事業に尽力し、「日本基督教社会事業史」「児童と社会」「社会事業綱要」などを著わし、キリスト教徒として社会連帯責任の観念に基づいた社会事業の必要性を説いた。ところが生江の論文に「産児制限問題私見」(社会事業研究16-12,1928.12)というのがある。わが国では戦前から優生学的見地から強制断種の思想が優勢であったが、生江も優生思想に賛意を表し、優生思想が日本に普及し、昭和15年の国民優生法、昭和23年の優生保護法制定へとつながる流れを実践の現場からつくってしまった学者の一人である。生江のこの論文が発表された直後の次号に、北村兼子は「優生学ちょっと待つて」社会事業研究17-1、1929.1)を発表している。北村は人道的理由や今後の医学の可能性を挙げて、優生思想を批判している。その後も優生思想はナチス政権のヒトラーによって支配的になることはご承知のとおりであろう。わが国においても近年ようやくにして優生保護法が母性保護法と改正され、生きる権利を奪う優生思想が撤廃された。その長き間、古典的優生思想は学術的にはほぼ非科学的抽象論的な擬似科学であることは世界の国々で知られていた。日本では遺伝的な優劣という意味での優生学を法制化していた数少ない国であった。学者の生江孝之の功罪を論ずる知識は持たないが、当時25歳の気鋭のジャーナリストが「日本社会事業の父」といわれ一流の学者であった当時62歳の生江を同じ専門誌上で批判していることに驚きを感じる。そして北村の批判が正当であることは明らかであろう。もちろん記者である北村の論ずる事柄は実に広範囲であろう。その全貌を残念ながらほとんど知らない。ここに書名のみ知るものをあげると、「ひげ」「恋の潜航」「怪貞操」「婦人記者廃業記」「新台湾行進曲」など。ちなみに24歳で亡くなった人見絹枝の著書も多い。「最新女子陸上競技方法」「戦ふまで」「スパイクの跡」「ゴールに入る」「女子スポーツを語る」など。二人の女性が如何に短期間に精力的な活動をしたか驚くばかりである。

2007年1月13日 (土)

神戸における保育所の誕生

   乳幼児をあずかり、保護者が安心して業務につけるようにすると共に、幼児の保護にあたる社会的施設は、わが国では明治の日清日露戦役時において託児所と呼ばれて誕生した。

   古くは、江戸時代の佐藤信淵の構想にあった慈育館および遊児廠はその先駆とみられるが、実際に設けられた施設としては、明治23年に新潟市の赤沢鐘美・赤沢仲子夫妻によって設けられたものが最初である。この後、日清戦争により女工を工場に確保するための経営者の要請により、明治27年、東京紡績株式会社、大日本紡績株式会社、明治29年には福岡県三井炭鉱内に、明治35年には鐘淵紡績株式会社が東京墨田にその託児所として開設した。独立の保育所としては明治33年に東京市に私立の二葉幼稚園(:現在の二葉保育園)が当時の華族女学校(後の女子学習院)の付属幼稚園の保母であった野口幽香子、斎藤峰子の2人によって設立されたものが最初である。この後、日露戦争の際の出征軍人の遺族の援護が目的で各地に多くの託児所ができた。ここでは、神戸の例を年表でみる。

明治37年  6月、佛通寺並びに葺合八幡神社境内(楠町6丁目)において婦人奉公会の経営で出征軍人児童保管所の名で託児所が開設される。9月、薬仙寺(兵庫区逆瀬川町)に出征軍人児童保管所を開設する。11月、佛通寺保育所狭隘につき楠社境内に神戸在職軍人会本部を移転、楠社児童保育所と改名。

明治38年  1月、福昌寺(通称八王子)に、出征軍人児童保育所を開設。3月、徳照寺(宇治野町)に出征軍人児童保育所を開設。楠社、八幡、薬仙寺の4保育所に夜間保育の設備をつくる。8月、西出町に簡易保育所を開設する。9月、神戸婦人奉公会により薬仙寺境内に薬仙寺保育所を開設(兵庫南逆瀬川2丁目)。11月、吾妻通に簡易保育所を開設。

明治39年  5月、婦人奉公会解散式を挙げる。6月、神戸婦人奉公会が解散。8月、財団法人設立認可申請書を内務省に提出する。10月、内務省より財団法人設立認可指令を受ける。山手クラブにて第1回評議員会を開催。薬仙寺保育所跡に「財団法人神戸児童保育所」開設。11月、楠社、八幡、薬仙寺保育所は財団法人神戸児童保育所の名によって独立経営し、西山町吾妻通の簡易保育所は閉鎖する。

           *

   その後、戦役紀念保育会が運営した保育所の一つ水笠保育所の流れをくむのが神戸保育園(長田区水笠通3丁目4-14)であり、今日に至る。(参考:「神戸保育園100年史」)

2007年1月11日 (木)

加山雄三、有山崧の図書館の若大将

   岩倉具視と三条実美は幕末維新の急進派公卿としてその名を歴史に残している。しかし岩倉は公武合体派、三条は倒幕派であり、なにかと二人のそりは合わなかった。岩倉は三条より12歳上であったことから、公衆の面前で「おい小僧!」と呼び捨てにしていたこともある。岩倉は前権中納言堀河康親の次男に生まれ、のちに岩倉具慶(ともよし)の養子に入った。岩倉は朝廷復権のために、皇妹和宮の将軍家への降嫁による公武合体を画策した。しかし、急進派公卿や志士から四奸両嬪の一人にあげられ、文久2年、朝廷より罷免され、洛外追放処分を受け、洛北岩倉村で蟄居生活を送る。三条実美は五摂家に次ぐ名家の清華家の出で、尊王攘夷運動の先頭にたっていた。しかし、文久3年8月8日、会津・薩摩に追われ、都落ちする。世に言う「七卿落ち」である。起死回生を願う両卿を提携させ、武力倒幕路線に導いたのが土佐の中岡慎太郎であった。岩倉は、徳川慶喜に大政奉還を迫った。同年10月、慶喜は大政奉還を上表し、12月9日、朝廷は王政復古を宣言する。岩倉は薩長に討幕の密勅を下した。密勅には、国事掛の署名もなく、天皇が裁可されたものかも疑わしいものだったが、時代はすでに動いていた。

    戊辰戦争においても岩倉一門の公卿の活躍は大きかった。三男の岩倉具定(1851-1910)は東山道鎮撫総督、四男の岩倉具経(1853-1890)は東山道鎮撫副総督となる。奥羽鎮撫総督の九条道孝、沢為量、醍醐忠敬の三公卿があたった。沢為量の娘の沢久子は岩倉具定の妻である。沢為量の養子の沢宣嘉(1833-1873)は九州鎮撫総督となっている。ちなみに岩倉具定と久子の子が岩倉具顕。具顕が女優の青木しのぶと結婚してできた娘・池端具子(1918-1970)は女優の小桜葉子である。その長男の池端直亮、つまり加山雄三である。さらに小桜葉子の弟の子が喜多嶋修、その妻が内藤洋子である。有山崧(土方歳三、佐藤彦五郎の一族で左幕)が「中小レポート」で図書館運動を展開しているとき、加山雄三や内藤洋子(岩倉具視の一族で討幕)はエレキとヨットで湘南サウンドを楽しんでいたとは、幕末維新と昭和は100年の歳月を経ても不思議な縁でつながっているものだ。

2007年1月 9日 (火)

黒田清輝と天真道場

    明治26年、黒田清輝(1866-1924)は、フランスから帰国した。外光派の画家ラファエル・コランに師事して、対象の形態を明確にとらえる古典的な描法と印象派風の色彩表現とを折衷する画風を学んだ。滞欧時の作品「読書」「厨房」、帰国直後の作品「舞妓」などに、すでに才能が開花しているのをうかがうことができる。明治27年、久米桂一郎と天真道場を開くと、そこに藤島武二、湯浅一郎、北蓮蔵、岡田三郎助、和田英作、小林万吾、中沢弘光などの俊英が集まった。天真道場の規則の中に、「当道場に於い絵画を学ぶ者は天真を主とす可き事」とあるが、ここにいう「天真」とは「拘束を排し自由を欲する近代の芸術家の意識のありよう」である。明治28年の「朝妝」事件も黒田清輝の先駆者としての自負をしめすものであろう。裸体画であるため囂々たる非難が集まったが、黒田は少しも動じなかった。

幕末仙台藩、遠藤文七郎

   「燃えよ剣」第24話「北へ」。慶応4年4月、奥羽地方25藩の家老たちが白石に集まって、同盟を結び、仙台藩をその盟主とした。これが奥羽列藩同盟である。つづいて、5月3日には、長岡藩・新発田・村松・村上・黒川・三日市などの6藩がその同盟に加わり、奥羽越列藩同盟となった。(厳密に言うと奥羽諸藩と越後諸藩が一所に会して、衆議をしたこともないし、調印行為がないので奥羽越列藩同盟の存在を否定する学者もいる)しかしながら、戊辰戦争において上野の彰義隊が敗れて、東北に逃れていた輪王寺宮公現法親王を推戴して旧幕閣老を参謀として迎え入れ、白石に公議府、福島に軍事局が設けられ、同盟の主導部が形成されるかに見えた。しかし、仙台藩の重役陣が薩長色に変わった。執政は恭順派の遠藤文七郎である。遠藤は実在の人物であり、ドラマでは悪役俳優の藤岡重慶が演じている。土方歳三は9月12日、仙台城に登城し、遠藤に面会している。原作では、「弟をもって兄を討ち、臣(薩長)をもって君(徳川家)征す。人倫地に堕ち、綱常まったく廃す」と土方にしてはめずらしく熱弁をふるったが、相手の遠藤には「論ずるに足らず」と軽蔑されている。遠藤文七郎は今でも薩長に仙台藩を売った男という評判があるが、見方を変えれば、藩内分裂をまとめて、仙台を戦禍から救った人物ともいえる。ともかく、ドラマ「燃えよ剣」は土方が主役なので、京都時代に二人は出会っており、土方は「あいつを斬っておくべきだった」と悔しがった。結局、開陽丸で榎本武揚、大鳥圭介、土方歳三らは北の蝦夷へ向かう。

   この頃の幕末維新の混乱の中でドラマには、登場しない重要人物がいる。朝敵の盟主となった輪王寺宮(のちの北白川宮能久親王、1847-1895)である。ところで、明治元年(慶応4年)9月12日(すでに9月8日には明治と改元された)のとき、その後の輪王寺宮は、どうなったのであろうか。一時は、京都政府睦仁親王(明治天皇)に対立して、僧籍の身でありながら北方幕府方に就いて南北鼎立の時代があった。歴史上は天皇としての即位は認められていない。だが列国公使団は、これを「南方政府」「北方政府」とよんでいたようである。仙台の仙岳寺にいた輪王寺宮は仙台が降伏すると、まもなく江戸に帰り、伏見宮御預となる。明治2年、罪を赦され、伏見宮に復帰。弟の北白川宮智成親王の遺言により還俗して北白川宮家を相続し、北白川宮能久(よしひさ)親王と呼ばれた。明治28年、台湾征討軍の指揮に当たったが、同地で不運の死をとげた。

2007年1月 8日 (月)

釜山と韓国ドラマ「海風」

    韓国の港町・釜山は日本と因縁浅からざるものがある。日本と韓国とを結ぶ最短距離として下関・博多ー釜山間の航路がますます重要性をましている。映画「チルソクの夏」を見て日・韓の高校生のスポーツを通じての交流があることを初めて知った。釜山は古代には無名の土地であったが、李朝のとき富山浦と呼ばれ、日本人の居留民が住み倭館が設けられた。日清・日露戦争後は急速に大港市として発展し、首都ソウルにつぐ大都市になった。1950年に始まった朝鮮戦争のとき、韓国の首都が一時ここに移され難民が殺到して人口が急激にふえた。

   さて韓国ドラマ「海風」(1995年PSB制作、演出ファン・ウンジ)は、ぺ・ヨンジュンが「愛の挨拶」(1994)に続く初期の単発ドラマである。港町釜山の水産市場チャガルチを舞台に、一人の青年が人間として成長していく姿を描いている。大学生チャン・ムンニョン(ぺ・ヨンジュン)の父(イ・ナックン)は、チャガルチ市場で成功し、一代で財を成した苦労人だった。しかし、裕福な家庭に育った息子のムンニョンはそんな父の苦労も知らずに、気楽な日々を送っていた。ある日、ソウルのナイトクラブに遊びに行った帰り、前方不注意で人をはねてしまう。突然の出来事に、気が動転したムンニョンは、ひき殺してしまったと思い、そのまま逃げ、釜山にたどりつく。金もろくになく、空腹のあまりに無銭飲食をした食堂で、出前のアルバイトをすることになる。ムンニョンは釜山でさまざまな人々と出会う。口は悪いが心は温かい食堂のおばさんたち(クォン・ギソン、ナム・ユンジュン)。船の上で放浪しながら暮らすヨングク(「宮廷女官チャングムの誓い」のメン・サンフン)。孤児で辛い境遇でありながら、心の純粋な少女ミスン(チン・ジェヨン)。刺身屋の娘で気の強いキルジャ(チャン・ソヒ)。釜山の情け深い人々に触れるうちに、ムンニョンの心は変わり始める。嫌々ながらしていた仕事にも積極的になり、すっかりチャガルチに溶け込んでいくのだった。ムンニョンはしだいにたくましく成長し、ミンスに心惹かれ二人はつきあうようになる。キルジャは店の常連の裕福な男({初恋」でヨン様と共演したソン・ヒョンジュ)と無理やり結婚させられそうになり、ついに家出しようとする。デビュー間もない頃のぺ・ヨンジュンは「愛の挨拶」「海風」「若者のひなた」と少し気の弱い金持ちのボンボンの役が似合った。そして何より眼鏡がトレードマークとなった。オシャレで洗練された「微笑みの貴公子」といわれる以前の素朴な韓国青年の姿がほほえましい。

有山崧と土方歳三

有山崧と土方歳三との関係

   有山崧(1911-1969)と前川恒雄。全国の図書館関係者でその名を知らないものはいない。今、図書館は、いつでもだれでも本を借りられ、気軽るに利用する場所となっている。このような公共図書館の形が40年前に最初に実践されたところが、日野市である。そしてこの図書館を中心となって作り上げたのが、当時の日野市長だった有山崧(ありやまたかし)という人物なのだ。有山市長は、幕末の新選組最大の支援者だった佐藤彦五郎俊正(1827-1902)と妻ノブ(土方歳三の実姉)の曾孫にあたる。その関係を詳しく言えば、佐藤彦五郎の四男の彦吉が有山家に養子となり、維新後、すぐに渡米した。銀行家となった有山彦吉は地元で有数の資産家となった。その後、彦吉の子の有山亮は日野町長となる。亮の子が有山崧である。

有山崧の略伝

   明治44年、日野市に生まれる。東京帝国大学哲学科卒業後、文部省嘱託として社会教育局成人教育課勤務。戦後、日本図書館協会再発足と同時に総務部指導部長となり、昭和24年事務局長に就任。全国各地の研究集会に出席し、戦後の図書館の振興に尽力する一方、図書館法制定にむけて精力的に活動した。昭和38年に刊行された『中小都市における公共図書館の運営』の企画・推進に努め、図書館界を大きく転換させた。昭和40年、日野市長に当選。市政の面から日野市立図書館の創設・発展に努めた。

有山崧と前川恒雄

   有山が市長に選ばれる半年ほど前、一人の男が日野市教育委員会職員に採用されている。後の日野市立図書館の館長になる前川恒雄である。有山は昭和25年ごろから全国各地の図書館で開かれるワークショプで若い人材を捜していたが、前川恒雄は有山の理念を最も実践活動に結びつけた男だった。日図協、図問研で活動したのち、前川はイギリスに留学し、昭和38年、日本図書館協会で「中小レポート」を有山の下で書き上げた。そのレポートの中に「公共図書館の本質的な機能は、資料を求めるあらゆる人々やグループに対して、効果的かつ無料で資料を提供するとともに、住民の資料要求を増大させるのが目的である」と書いている。つまり、閲覧中心の図書館をいつでもだれでも本を借りられる場所にしよう、多く利用してもらえる場にしようとするものだった。レファレンスや読者援助と貸出業務との関係をどう考えるかという議論も、読者援助こそ重要であるとする小田泰正と、資料提供(貸出との追求)こそ読者援助の核心であるという前川恒雄との間に論争がかわされたが、貸出の追及こそが読者のサービスにつながるとする前川理論が実践的で正しいものであることはその後の歴史が明らかに証明している。近年一部学者が唱える「市民の図書館からの脱却」は邪説である。なにごとにも初心を忘れないようにしたいものである。

   なお、このページの作成にあたりましては、このブログに寄せていただいた方からの有益な情報にもとづいています。ここに感謝申し上げます。

2007年1月 3日 (水)

黒田清隆、妻殺しの真実

   五代友厚は、大久保遭難の直後に松方巌に次のような手紙を送っている。

   「内閣の光景は暗夜に火を失するに似たり、いずれも首を傾け、慨歎の他これなく、深く御推計下さるべく候。実は迂生も午前に駆けつけ、夕刻暇を以て大隈方へ廻り、尚向来の目的を論じ、且嘆息致しおり候処、黒田にも来会、共々慨歎を増す。然るに黒田は、頃日妻君暴殺せし云々の事を頻りに新聞上に触れられ云々の事情も之あり候より、辞表を提出したる事も之あり候えども、もはや一歩も跡に引かず、大隈にも一層に勉励を頼むという趣意にして大隈に迫り、もとより大隈にも共に斃る迄は尽すべしとの事にして、堅く明誓を為すに至る」(大久保利通文書)。

   黒田清隆は明治11年3月のある日、泥酔して帰宅し、妻の出迎えが遅いとかなんとかいう、つまらないことから逆上し、病みがちの妻せいを斬り殺したのだと巷間に広められてしまった。この事件は「団々珍聞」4月13日号に痛烈な1ページ大の風刺画を掲げスッパぬかれた。警視庁はすぐ処罰したが、口から口へとひろがる世論にはふたはできない。ついに黒田は辞表を出して家にひきこもった。伊藤博文と大隈重信は黒田の処罰を迫ったが、大久保は黒田を弁護して「黒田は断じてさようなことをする無慈悲な人間ではない。拙者がそれを保証するから、しばらく拙者にまかされたい」といいきって、腹心の川路利良に検視を命じた。川路は夫人の墓を掘り起こして、医師は病死と診断した。こうして、黒田は大久保に説得されて、辞表を撤回した。五代の手紙にもあったように、紀尾井坂の兇変はそれから数日後の5月14日に起こったのである。黒田のスキャンダルが罪に問われなかったことも、ひとつの引き金となって、大久保利通が島田一良に斬殺されたのだともいわれている。しかしこのころの時勢は西南の役の直後の不穏な時代、大久保、黒田に対する風あたりも強く、黒田の妻殺しは陰謀説とも考えられる。黒田は直情径行、酒乱の癖があるという事、小樽沖で軍艦から高嶋村に発砲し娘を一人死なせた事、黒田みずから辞職すると言った事、川路大警視は薩摩出身で黒田、大久保とグルである事、などの理由から、いまでも黒田清隆の妻殺しを事実としている人もいる。(夏堀正元「明治の北海道」岩波書店)。とくに色川大吉の影響が大きいのだろう(「日本の歴史21」中央公論社)。もっとも本書の付録の石川達三との対談で「いまでも白黒はわからないのじゃないですか。もちろん妻を斬っただろうとは思いますけども、確実な証拠というものはないわけですね」と色川は語っている。(昭和41年9月10日)黒田の妻殺しの真実は、どうやら歴史家よりも小説家のほうが興味がそそられる話のようだ。

2007年1月 2日 (火)

河上肇と漢詩

    「貧乏物語」で知られるマルクス主義経済学者の河上肇(1879-1946)は、4年半に及ぶ獄中生活で漢詩と親しむ。

            無題       昭和8年2月18日

年少 夙に松陰を欽慕し

後 馬克斯礼忍を学ぶ

読書万巻 竟に何事ぞ

老来 徒に獄裏の人と為る

               *

注釈○松陰ー吉田松陰。河上は若いころから同郷の先輩である松陰を敬慕していた○馬克斯礼忍ーマルクス・レーニン。現代中国語では、馬克思・烈寧と書く。○竟ーついに、と読む。○老来ー年老いてから。

   河上肇は、この年の1月12日、東京中野の隠れ家で検挙され、1月27日、豊多摩刑務所に収容された。容疑は、治安維持法違反。獄中生活は昭和8年1月から昭和12年6月まで4年半に及ぶ。その間、学者として非転向を貫いた。この詩は、翌2月の18日、獄中から夫人にあてた書簡に見える。(参考:一海知義「河上肇詩注」岩波書店)

▼この記事は、ゼファーさんからのご指摘により一部訂正しました。(平成19年6月15日)

一夜の饗宴で佐々城信子の奏でた曲は?

   有島武郎の名作「或る女」のヒロイン早月葉子は、世間には多少名の聞えたクリスチャンの女丈夫を母親として、物質的にも恵まれた家庭に育ち、キリスト教の学校で学んだのだけれども、自由奔放な性格の葉子にとって、周囲のキリスト教的な雰囲気は息がつまるように感じられた。人間の自然な感情の動きを無視したせせこましい禁欲ずくめの歪んだ教育の中で、葉子は次第に反抗心を養い、周囲に対し嘲笑的になっていく。女学校の年ごろでもう幾人もの年上の男性を誑かす術を心得ている。そこへ折りから日清戦争の従軍記者で卓抜な文才を認められた木部が、世なれない純真な青年の姿で葉子の前に現れる。

         *

   それは恋によろしい若葉の六月のある夕方だった。日本橋の釘店にある葉子の家には七八人の若い従軍記者がまだ戦塵の抜けきらないようなふうをして集まって来た。十九でいながら十七にも十六にも見れば見られるような華奢な可憐な姿をした葉子が、慎みの中にも才走った面影を見せて、ふたりの妹とともに給仕に立った。そして強いられるままに、ケーベル博士から罵られたヴァイオリンの一手も奏でたりした。木部の全霊はただ一目でこの美しい才気の漲り溢れた葉子の容姿に吸い込まれてしまった。葉子も不思議にこの小柄な青年に興味を感じた。そして運命は不思議な悪戯をするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容貌(骨細な、顔の造作の整った、天才ふうに蒼白い滑らか皮膚の、よく見ると他の部分の繊麗な割合に下顎の発達した)まで何処か葉子のそれに似ていたから、自意識の極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見つけ出したように思って、一種の好奇心を挑発せられずにはいなかった。木部は燃えやすい心に葉子を焼くようにかき抱いて、葉子はまだ才走った頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗宴はさりげなく終わりを告げた。(有島武郎「或る女」)

   早月葉子は、国木田独歩に恋愛と結婚の喜びと失恋の嘆きを体験させた佐々城信子がモデルである。そして木部が独歩であることは言うまでもない。独歩の「欺かざるの記」の6月10日によれば「令嬢年のころ十六もしくは七、唱歌をよくし風姿素々、可憐の少女なり」とある。小説では、ヴァイオリンを奏でたとあり、日記では唱歌をうたったことなっている。

   だがこのほかに、信子はこの晩餐会で「雪の進軍」を歌ったという説もある。映画「八甲田山」でも印象的に使われていた軍歌「雪の進軍」は永井建子の作詞・作曲で明治28年1月につくられ、当時大流行していたらしい。「雪の進軍氷をふんで どこが河やら道さへ知れず」という男性的でリズミカルな曲であるが、可憐な信子がこの軍歌をどのように歌ったのだろうか。

2007年1月 1日 (月)

シェラの講演「図書館の社会学的基盤」

   アメリカの図書館学者ジェッシ・H・シェラが、1976年、インドのサラダ・ランガナタン図書館基金のためにおこなった連続講演の記録が「図書館の社会学的基盤」(藤野幸雄訳、日本図書館協会)である。図書館学者でありドキュメンタリストであるシェラの機械文明に対する考えを中心に(インドはガンジーで知られるように反近代、機械文明否定の思想も生まれ、また現在はIT先進国であり、零の観念が古くからあった国、ランナタンの国であるという、思想の多様性が特徴である)その中から「推移と変遷」の一部分を抜粋して紹介する。

               *

   トーマス・ハクスレイはかって次のような問いかけをしました。「これらの新しい物事すべてにたいして、何をしようというのだろうか」。エルティング・モリソンの指摘によれば、「ハクスレイが真に問おうとしたのは、『これらの物事すべてを活用して、いかに自分たちの環境を変えてゆくのか』ということです。これは、図書館員であるとに否とにかかわらず、皆が当面している、真に基本的な根本の問題です。こうした「もの」から本当に利益を受け、技術面で起っているこのような恐るべき変化のゆえに生ずるすべての不幸、苦悩、あらゆる種類の社会的断絶に投げこまれないようにするには、いかなる心構えをすべきでしょうか。これが解かねばならぬ、そして図書館職にあっても解決されねばならない問題なのです。図書館の職業は全く新しい見地から見なおさざるをえなくなっています、そしてそれを始める時期が来ているのであります。

   ところでわれわれは、こうした変化と闘ってゆくことができますし、それを十分に利用できるよう、職業を組織することもできます。しかし明らかに変化はやって来ているのです。ただ、一つのことが明らかであると思います。進歩がオートメーション、情報検索の分野でいかに急激であろうとも、変化はそれでも一晩にして起こるものではありません。突然にまったく見知らぬ新しい世界にとびこんでいたということはありません。いくらかの時間は残されています。これから先も解決しなければならない技術の問題が沢山あるわけですから、確かにいささかの時間は残されていると思います。この変化は長い進化の過程を通って来るので、その中で一歩ずつ前進する、時には恐らく後退ということもあるわけです。

   しかし問わねばならない本当の問題は、エルティング・モリソンが『人間、機械、現代』で指摘している通り、環境、全社会機構、文化的環境を、こうした変化を有利に生かせるようにしておく必要がある、そうでないと破局に直面する、ということであります。これらのメカニズムは当然社会問題をひき起こします。思想統制という最後の問題まで起こるでしょう。われわれの代わりに機械が「考え」させようというのでしょうか。機械は逸脱した情報の強力なチャンネルになりかねないのです。印刷もあらゆる種類の不道徳、反社会的方向に使われうるのと同じ様、機械の発明も、いったん出来上ってしまえば、反社会的目的に使われるのです。これが人間が環境をコントロールする場合の、進歩するごとに起こる問題です。しかし一方では、人間はさらに環境のコントロールを求めて行きます。そして、なlりふり構わず、環境をいじくりまわし、出来る限りは自分の従わせ、自分の要求に合うよう変えてゆく点で何ができるか見たい、というのが人間の本性です。こうした機械の進歩が正しい目的に使われるよう、悪い人の手に渡らないよう、つまり機械が誤って使われないようにするために、歯止め、社会的、政治的な安全装置ができているかどうか確かめておかねばなりません。いうまでもなく原子爆弾がこうした管理を必要とする好例です。新しいこの情報科学全体には、原子爆弾のような潜在的に危険なものが何かありうるかも知れない。これもコントロールすることを学ばねばならないのです。

   全体の問題点が、技術者は何でもできる、というところにあるのはもちろんです。しようと思えば、議会図書館でも空中につり上げることだって出来ます、これは悪くない考えかも知れません。ちょっと時間を要することでしょう、でも結局は実現の方法を見出せるでしょう。問題は、「それをさせたいと思うのか、これはしたいと思っていることなのか。これは社会にとって最上のことなのか」というところにあります。これらは図書館員がぶつかってみたい哲学的問題であると考えます。図書館業務のなかのコンピューター、オートメーションについての熱意(熱意といえなければ楽観といってもよい)の点では誰にもひけをとらない積りであります。

   しかし本にもまだ或る価値があると思いますので、失ないたくありません。図書は何といっても有益な発明品です。磁気テープと比べても多くの有利な点を持つものです。何の装置もなしに、おそらく眼鏡でもあれば読めるものです。持ち回ることもできますし、いづてもどこでもとりかかれるものです。どんな意見でも余白に書きこめますし、磁気テープとかこれから出現する他のこうしたメディアではできないような扱いができるわけです。だから本はすたれないと思います。本はこの世に残ると考える者です。

   しかし、コンピュータもなくならないものだ、とこれも確信を持っていえます。そこでわれわれは二つの世界に生きることになりましょう。図書館員は実際、少なくとも相当長い間は二つの世界に住まねばならないのです。そしてこうした二つの世界に生きるためには、この二面性から生ずる問題は、社会における自己の役割につき再びとり上げてみる、あるいは少なくとも真面目に考えてみる必要があると思います。すなわち、図書館員が行なおうとしているのは何か。トーマス・ハクスレイのいった「これらの新しいことをどうしようとしているのか」。現在の書誌的環境を変えて行くのか。これほど増えてゆく「もの」を可能な限り十分に利用できるよう、新しい社会においては自分たちの役割をどのように確認するのでしょうか。

   さて、ご承知の通り、とくにアメリカ人はこうした新しい発明品には、やみつきになっています。われわれは機械・道具が好きです。したいと思うことを単純に、やさしく、機械なしですます方をとらず、際限もなく機械の道具を使うのです。例えば、多くの人はライターを持ち歩いていますが、それはしよっちゅう燃料が切れたり、新しい石を必要としています。誰か言ったことがあります。もしマッチがライターより後に発明されていたら、誰しも「これは何と簡単ですばらしいのだろう」ということでしょう。しかるにライターは機械であるから好きなのです。このような発明品がわれわれを捕える催眠作用、これは考えておかねばならない人間の一反応であります。

   機械に向かって進めという圧力は図書館員にたいして再三再四行なわれます。大学図書館にいる友人の多く、公共図書館にいる者でさえ、目上の人たち、大学管理者とか公共図書館理事会から、機械化せよとのかなり強い圧力を体験しています。すばらしい機械が持てる今では、誰もがオートメーションを口にしています。そしてもちろん、IBMのセールスマンの一隊が反応をかきたてるよう、あらゆる手段を尽しています。何人かの友人はまったく困った立場に立たされているのです。図書館という職業はこうしてこみ入った機械を扱う準備が整っていないことをよく知っているからです。それでも管理者たちはいうのです。「機械化しよう。そうすれば支出をうんと節約できる」。もちろんこれらの図書館員は、こんないい方が誇張であると知っています。でもオートメーション化の主題はかなり執拗で、図書館員が理のある見方をしようとしても、変化を望まない、時代遅れな奴だと非難されるたげです。この衝突は、現在経験しているような急激な変化を通るとき、職業内部に起る恐るべき断絶となっていることは疑いをいれません。

    しかしながらわれわれは前に進んでおります。このことは疑う余地がないと思います。ランガナタン博士も私と同様、1957年にドーキングで行なわれた有名な分類会議に出席した時のことを憶えておいでと思いますが、イギリスの代表たちは、一週間の会議のうち半日だけを機械のことを話し合うためにとりたいといいだしたのです。他の時間には誰にせよ機械のことをしゃべるのは許されませんでした。それで木曜の午前だったかいつだったか、機械について話し合ったのです。アメリカ人はこの他の時間には機械のことは何もいってはならない、と警告されていたのです。主催者側はこの取りきめを守らせるのに成功したというわけにはいきませんでしたが、ともかくそのように努めていました。ところで、ドーキング会議の続きがエルシノアで開かれた時には、機械はかなり目だった議題となっております。私がウェスタン・リザーヴ大学の図書館学校にドクメンテーション・センターを創設した時、何年もの間機械のことでどんなに「からかわれた」か、よく憶い出すことができます。忘れられないくらいです。機械が図書館の職を奪いさるとか、機械の方が図書館員より利口だ、などと私が思ったとでもいうのでしょうか。「からかわれ」たのは、こればかりではありません。私がこの職業にたいして妨害している、全く真面目な口調でいわれました。私は長くつとめたこの職業を馬鹿にしたことなどなかったのですが。しかし今までオートメーションは恐ろしく真剣にとり上げられています。

   オートメーションはこれからやってくるものではありません、すでに存在していますし、きわめて分化しているほどです。物理的に入手できる方法として、高度に縮小する技術を持っています。地理的に遠い所へもファクシミリで送る利用法を話し合っています、これはいずれは頁、論文、本全部を送れることになり、相互貸借にとって代るでしょう。コンピューターはすでにあらゆる種類の図書館業務に広く使用されつつあります。内容を手に入れる問題もゆっくりではあるがある程度の進歩をとげています。新しい世界はそこまで来ています。図書館職の多くのことが変えられて行くところです。この変化に適応するのがわれわれの責任です。そうしないと他の者がこの職を占領してしまうでしょう。社会史を知っている方なら、18世紀のいわゆるラダイトは、自分たちの工場に入れられた機械を打ち壊した労働者たちだったのを憶えておいででしょう。今日ではきわめて原始的とも見える機械の導入に、彼らとしてはその結果起こる断絶を見たからなのです。その時ラダイトたちは絞首刑にあいました。図書館員もラダイトにならないよう、同じような運命に見舞われないようにしたいものです。まさか図書館員を絞首刑にする者はいないでしょう、しかし忘れられるということはありうるのです。私どもはこの新しい世界の中で生きることを学ばねばなりません。機械とともに生きることを学びとらねばならないのです。目前に横たわる大きな問題は未来の図書館員の教育、明日の世界に生きる図書館員を教育することです。これが最終回のお話で私がとり上げる問題となりましょう。

              *

    引用がたいへん長文となってしまった。少し前の文献であるが、現代の図書館を考えるうえにたいへん示唆に富む文献であることは、読まれたかたは理解されるであろう。情報革命、反機械文明、反情報、オートメーション、イノーベーション、原子力などの20世紀に生み出された図書館のニ面性が生ずる諸問題に関する発言を探していたのだが、日本の図書館学者からの発言や研究は少ない。機械の国、大量生産の国アメリカで、チャプリンの映画「モダンタイムス」のような辛辣な文明批判の作品が生まれるのも、移民がもたらした文明の多様性であろう。アメリカ人は道具や機械の国だが、一方で宗教の国でもあり、自由な精神を尊重している。したがって、図書館学者は政治や国の政策とも一定の距離をおいて、一面に偏ることなく両面を思考しているようだ。後発の日本の図書館学の場合、内発的な研究の成果は少なく、アメリカの図書館学からのうわべだけの導入という外発的なものであるため、韓国より遅れているからなんとかしなければというレベルでしかない。シェラのいうような「機械に向かって進め」の日本版が21世紀になって出た国策的な提言「これからの図書館像」だが、それがもたらした結果は図書館市場が注目されて、関連企業が喜んでいるだけのようだ。

   シェラの講演録を読んで感じるのは、バトラーからの影響があるようで、社会学的な研究方法で、図書館の原理、原論を追求している。ひるがえって、現在の日本の図書館学者はどうだろう。目立つのは、細分化されたテーマの研究であるか、図書館改革とか提言とかいった政治、政策、経済と連動した言説である。そもそも図書館改革とか提言とかは、図書館学者の本分なのだろうか、疑問に感ずる。

初心忘るべからず

    一年の始めの月を象徴するにふさわしい色は、何といっても白だろう。真っ白な雪、お供えやお雑煮の餅、社に詣でると魔除けのための白い色。「清浄」、「真っ白な心」、「純粋な心」、「素朴」、「初心」どれもいい言葉だ。そして「初心忘るべからず」という言葉を連想する。

   広辞苑をみると「学び始めた当時の気持ちを忘れてはならない。常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事に当たらねばならないの意」とある。

   出典は、世阿弥の「当流に、万能一徳の一句あり。初心忘るべからず」(『花鏡』)である。世阿弥(1363-1443)は観阿弥の子で足利義満に認められて、以後その支援をえて、二条良基ら当代一流の文化人との交流をつうじて芸道・学問に精進し、名声をたかめ、乞食の所行とさげすまれてきた猿楽を室町時代を代表する芸能にまで押し上げることに貢献した。生まれたままの心で、初心を忘れず、自然に感謝し、小さい一草一花の美しさに新鮮な喜びを感じたいものである。

衛八處士に贈る

謹賀新年、今年もよろしくお願いします。

   衛八處士に贈る   杜甫

人生相見ざること

動もすれば参と商との如し

今夕 復た何の夕べぞ

此の燈燭の光を共にす

少壮 能く幾時ぞ

鬚髪 各各巳に蒼たり

舊を訪へば半ば鬼と為る

驚呼すれば中腸熱す

焉んぞ知らん 二十歳

重ねて君子の堂に登らんとは

昔別れしとき 君未だ婚せず

兒女 忽ち行を成す

怡然として父執を敬し

我に問ふ 何れの方より来たると

問答 未だ已むに及ばざるにを

兒を驅りて酒漿を羅ぬ

夜雨 春韮を剪り

新炊 黄梁を間じふ

主は称す 會面難しと

一挙に十觴を累ぬ

子が故意の長きに感ず

明日 山岳を隔てなば

世事 兩つながら茫茫たらん

(大意) この乱世の中で、20年ぶりの友との再会。至難のことだけにうれしい夜だ。友もその家族もわたしをあたたかくもてなしてくれる。わたしは友の厚い友情にかえって胸いっぱいで酔えないのだ。友も同じ気持ちらしい。しかし明朝また別れてしまえば、お互いわからぬままになってしまうだろう。

 

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