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2006年12月17日 (日)

シャンパーニュの大市

   ヨーロッパ中世の商業活動の三つの中心地は、北イタリア諸都市、北海沿岸地域、そして中間的位置にあるシャパーニュの大市である。大市は中世商業の象徴のようなものである。大市は大きな街道が交差する場所に発達し、宗教的催しや君主の保護によっていっそう活気づけられた。シャンパーニュの大市は、11世紀以降フランドルとイタリア北部を陸路で結ぶ貿易軸上に位置していた。当時、この道筋にそって三つの大市グループが花開いていた。毛織物業の中心諸都市の近くに開かれるヘント(ガン)、リール、イープル、トゥルーなどのフランドルの大市、アルプスを越えて取引を広げようとするイタリア商人が早くから訪れたボケール、アヴィニョンなどにおけるプロヴァンスの大市、これら二大中心の中間に、フランドル人やドイツ人など北から来る商人たちにとって、また、イタリア、プロヴァンスやカタロニアの貿易商にとって、いずれも半行程の出会いの場所として、12世紀以降、シャンパーニュの大市が発展した。

   13世紀に4つの町が国際商業の場所となった。トロワ、バール=シュル=オーブ、ラニー、プロヴァンがそれである。これらの場所で開かれる大市は、一つの場所で平均45日開かれると次の場所に移り、年間を通じてほとんど切り目なく取引の流れが続くように開かれた。

   「寒い大市」は秋と冬に開かれた。ラニー大市は1月2日に始まり、バール大市は四旬節の少し前に、トロワのサン=レミ大市は万霊節(11月2日)に開始された。これに対して、夏は「暑い大市」の季節であった。プロヴァンのサン=キラス大市は5月に、トロワのサン=ジャン大市は7月だった。

    シャンパーニュの大市は、14世紀のはじめに衰退が始まった。羊毛生産地イギリスとの結びつきを強めたフランドルは繰り返しフランスと対立状態になったから、その商人たちは急速にシャンパーニュ大市を見捨てた。いずれにせよ、シャンパーニュのフランス王国への併合は、1285年以降、大市に課せられる税の加重を引き起こして、フランス・ルートからイタリア商人を迂回させた。これはブリュージュ、ジュネーブ、ニュルンベルクという新しい商業中心地の繁栄につながった。(参考:アラン・プレシ著「交易のヨーロッパ史」)

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