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2006年12月17日 (日)

俗論派の椋梨藤太

   椋梨藤太(1805-1865)という名は、長州における悪人の代名詞みたいなものである。本名は椋梨景治という。蛤門の変で正義派が失脚すると、それに変わって椋梨は政務員に進出し、藩政を掌握し、正義派を粛清をし、幕府に恭順した。しかし椋梨政権は、元治元年8月から12月までであった。

   元治元年12月に功山寺で挙兵した高杉晋作は、翌慶応元年1月2日、再び萩藩新地会所襲撃して下関を掌握した。また、伊佐(美祢市)などに進駐していた諸隊は、1月7日から太田・絵堂(美東町)で俗論派政府軍と激突し、勝利した。その結果、萩では中立派の鎮静会議員が事態収拾のために、俗論派を追放した。

   椋梨は俗論派の同志12人と共に、慶応元年2月14日、小舟に乗って萩城下を脱出した。計画では江崎(阿武郡田万川町)に上陸して中国山脈を越え、岩国にはいって藩主吉川監物に救いを求めるということであった。江崎に舟をつける予定だったが、海が荒れたため、石州飯之浦(益田市)に変更して上陸したが、青原で津和野藩に捉えられた。12人は、ただちに萩へ護送されたが、途中で岡本吉之進、山県与一、小倉源五右衛門の3人は自決した。12人の中には椋梨の次男の中井栄次郎もいた。中井は井上聞多を襲った刺客の一人である。椋梨藤太・中井栄次郎、親子は萩の野山獄で斬罪となった。中井は23歳だった。その他、南新三郎、令泉太郎兵衛、小川八十槌、児玉久吉郎、木村松之允、小倉半左衛門らがいた。

   武力により藩権力を奪取した正義派は武備恭順策による挙藩軍事体制をつくりあげた。また、但馬から木戸孝允が戻り、周布政之助なきあとの正義派の領袖として長州藩を主導し、幕府との対決に踏み出した。

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「日本史」カテゴリの記事

コメント

ブログを拝見しましたが、椋梨藤太にも、自分なりの正義があったのではないかと思ってます。藤太としては、幕府や徳川将軍家を敵に回すのは、無謀で愚かなことであることを知っているからこそ、反対派を処刑するといった、強引な行動をしたのではないでしょうか。もし、藤太とその一派が主導権を握り続けていたら、戊辰戦争において、会津藩の面々が壮絶な悲劇に巻き込まれたり、新選組の運命が狂ったりすることがなかったのではないかと思うのです。見方によっては、藤太は、悲運な長州藩士だったのかもしれません。

おっしゃることはよく理解できます。この記事はブログを書き初めで一面的だったなあ、と感じています。「花燃ゆ」では比較的温厚な内藤剛志が演じていますが、成田三樹夫か藤岡重慶など悪役俳優が演じたら勧善懲悪の時代劇らしくなっていたでしょう。長州藩の勢力争いは一般的に俗論派、正義派、と呼んでいましたが、これも違和感があるらしく、最近では保守派、改革派とマイルドになっています。

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