最愛の妻に逃げられた或る文士の悲しみ
わが国の成人で国木田独歩の名を知らぬ人はあるまい。しかし独歩38年の人生で文名が高まったのは晩年のことだという。経済的にはつねに苦しく、浪漫派の詩人という一面と民友社、報知新聞社、民声新報社などのジャーナリストとしての現実主義者の面もある。一時、星亨と組んで代議士になろうとしたこともある。
ケペルが初めて国木田独歩の作品を読んだのは小学生の時である。いまから半世紀ほど前のことだ。学習雑誌に「画の悲しみ」が載っていた。挿絵もはっきり覚えている。絵の得意な少年が自分より上手な少年が転校生にいて、ライバル意識を燃やすが、その少年は死んでしまう。そのようなセンチメンタルな話だったが、むかしから愛読者が多いのだろう。独歩とは自分にとって、小学生の読解力でも童話や漫画以外の文学作品というものに初めてふれさせてくた恩でもある。とくに「独歩、独り歩む」という筆名に少年の心ひかれるものがあった。漱石や鴎外より前に独歩を読んでいたことは、いまから思うと幸せなことだと考えている。たしか、独歩が好きになり、友だちから本を借りて「春の鳥」を続けて読んだのも小学生のときだ。中学生になってから、挿絵入りの旺文社文庫で「坊ちゃん・草枕」「吾輩は猫である」「三四郎」と読み大人の世界を文学で知るようになる。しかし、独歩を深く知ろうとしたことは一度もない。「欺かざるの記」もこの度、初めて読んだ。明治26年2月から29年5月9日までの独歩23歳から26歳までの記録である。キリスト教、北海道への憧れ、異性への思い、勉強、明治の青年の思いがすべてつめられている青春の書である。明治29年5月8日には次のように記されている。
「余は過去の生涯は、決して真面目なる者にはあらざりき。決して謹慎なるもの、厳格なるものにはあらざりき。一個放逸なるもの、浮薄なるもの、狂熱的なるもの、高慢なるものなりき。罪多く、徳行少なく、忍耐薄く、怠慢多く、多く空しく思うて、少なく弱く行いたり。余は信子を熱愛すること今も変らざるなり。されど余の彼の女を愛したる方法は完全の者にあらず。余が愛は殆んど迷溺のものなりき。不健全なりき。一言もって評すればわが今日までの生涯は決して科学的ならざりき。余はわが使命を重んずることをせざりき。われは生命その者の神秘にして荘重なるものなることを知りて感ぜざりき。余が今日の苦悩は一個、天上よりの大成なり。余をして余の過去のすべてを反省悔悟せしむる高丘なり。(中略)信子と余とは深き恋に入りて、しかして遂に辛苦を排して婚したり。しかして今や、信子、余を捨てて去れり。されど余が彼の女を愛する点においては真実、少しも劣らざるなり。ますます余が愛は加わらんとするなり。されど今や決して交換的にはあらざるなり。余は彼の女の心の発達を望む。決して虚栄の夢を逐わざらんことを祈る。鬱悶に沈みやせんと恐る。その品性の高貴なる発達を願うて止まざるなり。余は今日まで人に依頼すること余りに多かりき。今後は神に頼るべし。正しきを踏みて神に頼るべしる人に接するには神をのみ仰ぐ大胆真率誠実の人として接せんことを理想とせん。」
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