東沢瀉と必死組、精義隊
東沢瀉(ひがし たくしゃ 1832-1891)。精義隊を創設した幕末の志士。陽明学者。東正純、通称は東崇一郎という。明治維新以前には白沙の号を用い、明治3年秋、沢瀉山の麓に移居して以降、主に沢瀉の号を用いるようになった。
天保3年10月9日、岩国錦見村沙原に生まれる。父の東祐利(1793-1863)は岩国藩士で、由宇代官から河内藤谷代官、勘定吟味役を歴任した人物であったが、その父は晩年まで藩に仕えたため、沢瀉が家督を相続し出仕することになったのは、文久元年4月、30歳の時であった。そして同3年3月、養老館の助教に任用され、儒学者としては一応、名誉ある地位に就くことになる。しかし尊王攘夷の荒波が、やがて岩国にも波及していく。東沢瀉は尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、兵制改革をし、岩国藩に精義・日新・建尚・敬威の四隊が編成されることとなった。この中、精義隊は必死組が名を改めたものである。しかし、必死組は過激な行動に走り、御用人や御目付への直談判を要求したり示威行進をしたこともあって、責任問題が持ち上がった。そこで沢瀉と栗栖天山(1841-1866)が責任をとって自首し、慶応2年11月17日、二人の柱島流罪が決まった。
沢瀉は柱島で3年近くを送り、明治2年秋、赦免を得て戻ることになる。維新後、沢瀉塾を開く。著書に「証心録」「沢瀉語録」「禅海翻瀾」など。
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