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2006年12月28日 (木)

美女ありき、早月葉子と佐々城信子

   むかしビビアン・リー主演の「美女ありき」 という映画があった。ナポレオンを破ったネルソン提督(ローレンス・オリヴィエ)とレディー・ハミルトンとの不倫の恋の物語だが、ネルソン死後、夫人は生活にも困窮する。美女が落魄して老いていく話はせつない。「美女ありき」とは上手くつけた邦題である。有島武郎「或る女」のテーマは、もちろんこの映画のような通俗的なものではなく、近代日本の女性の生き方を真剣に問うたものであるが、ここでは文学研究の立場ではなく、風俗史というか、スキャンダル、三面記事的にとりあげている。興味がそそられるのは、「落魄の美女」である。早月葉子(佐々城信子)は、近代的な教養がある驕慢な美女、映画では田中絹代と京マチコが演じたがイメージがまったく違う。なぜか、ビビアン・リーが浮かんでくる。スカーレットやアンナ・カレー二ナの役とだぶるからだろうか。

  有島武郎「或る女」は最初「或る女のグリンプス」という題で「白樺」に明治44年1月から大正2年3月まで、16回にわたって発表され、第21章で早月葉子が日本に帰ってくる直前までが描かれている。有島33歳から35歳までの作品。6年経って、大正8年3月、「或る女のグリンプス」が改作改題されて「或る女」前編として発表され、その3ヶ月後に「或る女」後編が発表された。有島41歳である。これまで前編から後編への作品主題の変化があるのではないかとか、後編の評価には賛否両論あるが、吉田精一は文学的価値は後編も低下していないと論じている。

   主人公の早月葉子のモデルは、国木田独歩と結婚して一年たたないうちに独歩を去って世間を騒がせた佐々城信子であることは、広く知られている。この女性を有島が意識するようになったのは、彼女の許婚者が有島の札幌農学校時代の級友である森広であることに起因する。この良家の娘のきわめて自由奔放な生き方に反発を覚えはしたものの、しかし明治という封建的因習が残る時代に、女性がどのように生きたらいいのかを自己のテーマにしていた有島は、次第に佐々城信子に深い共鳴すら覚えるようになったに違いない。小説「或る女」はどこまで事実と関連するのであろうか。まず、佐々城信子の生涯をふりかえってみよう。明治11年7月20日、医師の佐々城本支と社会運動家の佐々城豊寿との長女として東京神田西小川町に生まれる。海岸学校(青山女学院)で学ぶ。16歳のとき札幌と伊達に居住し、臨時教員として英語を教えた。一時、東京の三田四国町に戻り、この時、国木田独歩と知り合った。母の反対を押し切り二人は結婚する。新居は神奈川県逗子。しかし、現実の生活は夢のようには行かず、苦しい生活が続いた。独歩と離婚した信子は、再び北海道へ渡った。そこで独歩との間にできた浦子を出産。浦子を里子に出して3年間、札幌で暮らす。明治34年、無理やり信子をアメリカに追いやるように、森広との縁談が進められた。しかし、信子は乗船した鎌倉丸の事務長武井勘三郎と恋におち、アメリカに上陸せずに日本に引き上げた。同船していてそのことを知った鳩山春子はスキャンダルとして新聞に告発したため、信子は世間の非難を浴びた。このことで武井も会社を辞めさせられた。武井の妻は勘三郎との離婚を承知しなかったので、二人は正式な夫婦にはなれなかった。しかし、勘三郎と信子の間に一女、瑠璃子が生まれた。大正10年勘三郎と死別する。大正14年、妹のよしゑが病気のため栃木県真岡に移住した。真岡で信子は娘の瑠璃子と二人暮らしで、日曜学校を開き、聖書と讃美歌を教えた。昭和24年9月22日、老衰と肝臓炎のため71歳で死去した。50歳代の信子をみた人の証言によると「背の高いすらりとした美人だった」という。

   なお小説「或る女」の登場人物と実在人物との比定は次のとおりである。早月葉子(佐々城信子)、木部孤筇(国木田独歩)、倉知(武部勘三郎)、木村(森広)、田川夫妻(鳩山和夫・鳩山春子)、早月親佐(佐々城豊寿)、五十川女史(矢島楫子)、その他(内村鑑三)

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