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2006年12月10日 (日)

J.S.ミルの「意見の自由」論

   ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)は、経済学者ジェームズ・ミル(1773-1836)の長男としてロンドンに生まれる。ミルの一生は、イギリスがナポレオンとの戦争を開始した直後から、その後の経済的困難の時代を経て、その繁栄を天下に誇示したビクトリア女王の治世の前半までの、もっとも変化のはなはだしい時代に相当する。その変化は、一言でいえば、工業化と民主化の進展といえよう。すなわち、新しい産業技術が各方面に普及するとともに社会の階級的構造を変えていく。他方、経済上の自由放任の勝利は国民の生活水準を高めるが、それと並行して工場法の制定、労働組合の結成の承認、選挙法の拡張、地方自治の拡大などは、社会の民主化を進めていった。

 このような工業化と民主化とを当時の人々は文明の進歩と称していたが、イギリスが平和のうちにこの進歩の思想に浴しえたのは多くの原因による。しかし、その一つの原因として、自由主義の原理に立ちながら、その工業化の必然と民主化の必要とを訴え、かつ改革の行き過ぎのもたらす危険を警告して世論の指導にあたった思想家の存在を見逃すことはできない。イギリスが大陸の諸国と異なるのは、その自由主義が単にブルジョワの思想にとどまらず、労働者を含めて国民的政治信条となったことであり、そのことがイギリス労働運動が革命的にならなかった理由であるが、そのような自由主義の民主主義化をもたらした思想家の代表者が、ジョン・スチュアート・ミルである。主著に「経済学原理」「代議政治論」「功利主義論」などあるが、ここでは有名な「自由論」の一部を紹介する。(「世界の名著38」早坂忠訳)

 

           *

 

   われわれは今や、四つの明白な根拠にもとづき、意見の自由と意見の発表の自由が、人類の精神的幸福にとって必要である、と認めた。その根拠の要点を、ここでもう一度簡単に述べておこう。

 

第一、もしある意見が沈黙を強いられるとしても、ことによったらその意見は正しいかもしれない。これを否定することは、われわれ自身の無誤謬性を仮定することである。

 

第二、沈黙させられた意見が、たとえ誤謬であるとしても、それは真理の一部を含んでいることがごくふつうである。そして、ある問題についての一般的ないし支配的な意見も、真理の全体であることは、めったに、あるいはけっしてないのだから、残りの真理が補足される機会をもつのは、相反する意見の衝突によってだけである。

 

第三、たとえ一般に受け入れられている意見が、真理であるのみならず真理の全体であるとしても、それが精力的にかつ熱心に論争されることを許されず、また実際論争されるのでないかぎり、それは、その意見を受け入れているほとんどによって、その合理的な根拠についてはほとんどなんの理解も実感もなしに、偏見のような形でいだかれることになるであろう。

 

第四、もし自由な討論がなければ、教説そのものの意味が、失われるか弱められるかして、人格と行為に与えるその重要な効力をうばわれてしまう、という危険にさらされることになるであろう。教義は、永遠に無力な単なる形式的告白となり、しかもいたずらに場所をふさぎ、理性や個人的体験から、なんらかの真実なそして衷心からの確信が生まれるのを妨害するものとなるのである。

 

 

 

 

 

 

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