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2006年12月18日 (月)

反芸術の系譜

    20世紀に入ると、現代人は限りなく複雑化していく社会に対するひそかな不安がたえずつきまとうようになった。たとえば、イタリアの形而上派の画家ジォルジオ・デ・キリコは、静まりかえった広場、人気のない建物、長くのびた影などを主要モチーフとした白日夢のような町の風景を描いた。「街の神秘と憂鬱」(1914年)という作品には、どこか郷愁を誘う神秘的雰囲気と不気味な不安感がただよっている。それは、機械文明を讃美する未来派の騒々しい楽観主義の裏返しの世界といってよい。

   キリコが鋭敏に感じ取った不安は、第一次世界大戦という未曾有の災厄によって現実のものとなった。大戦の最中、中立国のスイス、チューリッヒには各国の芸術家が移り住み、ドイツの詩人、フーゴー・バルたちが経営するキャバレー・ヴォルテールを集いの場所としていた。不安定な社会状況をも反映して、彼らは芸術のみならずあらゆる領域の既成価値の否定を表明、辞書から「ダダ DaDa」(この語はたとえばフランス語では玩具の馬、クル族では聖牛の尻尾を意味するというが、元来、何ものをも意味していないために名づけられた)という単語を無差別に取り出し運動の名称とした。

   中心人物にルーマニアの詩人トリスタン・ツァラと画家のマルセル・ヤンコ、ドイツの詩人のリヒァルト・ヒューゼンべック、フランスの美術家ジャン・ハンス・アルプがいた。ツァラが「ダダ第一宣言」を書いたが、彼らの活動は各々の詩を同時に朗読したり、非道徳的パフォーマンスを行ったり、偶然による素描やコラージュを発表した。

   1917年、ニューヨークでは、マルセル・デュシャンとフランシス・ピカビアらが同様の活動をした。彼らは画家としては優れているとはいえなかったが、芸術家としての批評家的な慧眼から、芸術の網膜化・視覚化現象を批判し、精神に仕える芸術の誕生を唱えた。デュシャンは1916年、反芸術(Anti-Art)の名の下にみずからも委員であったアンデパンダン展にR・マットという匿名で逆さにした便器を「泉」と題し搬入したが、展示を拒否された。これがいわゆる「既成品のオブジェ」である。

   チューリッヒのダダイスト、ヒュールゼンべックは、1918年故国のドイツのベルリンに帰り、ダダを推進するが、このベルリン・ダダは政治的な色彩が濃い。ドイツのケルンでは、むしろシュールレアリストとして高名なマックス・エルンストらがダダ的な活動を行ない、これにアルプが加わるが、彼らはベルリン・ダダの政治性に反対していた。ドイツではまたハノーヴァーにダダが波及し、1919年、クルト・シュヴィッタースが「メルツ」という無意味な言葉を作り、コラージュや廃品の部屋を構築した。

   パリではアポリネールたちの「シック」(1916年)誌やアンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴンたちの「リテラチュール」(1919年)のなかにダダ的精神が生じていたが、1919年、ツァラがパリに赴き、熱狂的に迎えられたときパリ・ダダが確立した。1920年ニューヨークから戻ったデュシャンは「モナ・リサ」の複製にカイゼル鬚をつけ、「L.H.O.O.Q.」(これを続けて読むと「彼女は尻が熱い<欲情している>」の意味になる)を発表、また詩人たちのダダ祭も催された。

    主として破壊的な方向をもったダダのなかから、いわば創造的な方向を目指して生まれたのがシュールレアリスムである。シュールレアリスム(その名はアポリネールの「ティレシアの乳房」の副題、シュールレアリスト劇にもとづく)は、ダダの芸術化として、ブルトンによって始められた。1924年、「シュールレアリスム第一宣言」がなされ、文学、美術にわたる前衛運動となったが、美術の上で中心となったのは、デュシャンの流れをくむグループ、とくにエルンストであった。さらにホアン・ミロ、イーヴ・タンギー、サルバドール・ダリなども加わる。また直接グループに参加しなかったがやはり典型的なシュールレアリスト、ポール・デルヴォー、ルネ・マグリットたちがいた。(参考:町田甲一「美術」武蔵野美術大学)

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