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2006年12月11日 (月)

堺利彦と売文社

    明治43年9月、赤旗事件の刑期を終えて出獄した堺利彦(1870-1933)は、明治43年12月31日、売文社という団体を設立した。大逆事件で明治44年1月に幸徳秋水は死刑となったが、堺利彦、大杉栄、荒畑寒村は、その難をまぬがれた。「社会主義冬の時代」のなかで、堺は生計をたてる目的もあり、また散らばって潜伏している同志との結び目を大切にしたい気持ちもあり、大逆事件の裁判進行中の大晦日に、四谷南寺町の自宅に「売文社」の看板をかけ、なかば韜晦の姿勢をとりつつ、持久できる方法をとった。かつては小説も書き、エッセイも巧みであった堺にとっては、「小生は稍上手に文章を書き得る男なり」という自負も持っていた。従って「文を売って口を糊するに亦何の憚る所あらん」という構えをあえてとり、堂々と代金をとって原稿の作成、翻訳の仕事、下請け、つまり文を売る仕事に応じた。それも広告、手紙、報告書、一切こまごました仕事すべて、という態度に徹した。立案もすれば添削もやる。文を売ることを卑しいとせず、ビジネスと考え、着々実行に移す。そこに堺利彦独特の持久作戦とユーモアとが混在していた。「売文社」なる発想、その看板、堺の手で作った広告、それに協力した当時の理解者、いずれも社会主義運動史に残るほほえましいエピソードであるとともに、これが大杉栄・荒畑寒村らの「近代思想を生み出す下地となり、大正文学史とも結合、やがて堺自身も「近代思想」に協力するとともにみずから「へちまの花」と称する小冊子を発刊、土岐哀果(善麿)もまた「生活と芸術」を創刊、「冬の時代」における三誌雁行時代を迎えることとなる。堺は「へちまの花」ののちこれを改題した「新社会」(大正4年)をつづけ、協力してくれる仲間たちとの広場を静かに強く、息の長いかたちで作り出していった。大杉栄、荒畑寒村、高畠素之、山川均、橋浦時雄、和田久太郎などが参加した。大正8年3月、解散する。(参考:「筑摩現代文学大系89」月報94「現代文学事典」)

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