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2006年12月31日 (日)

図書館関係ケペル蔵書目録

   大晦日、蔵書の整理をしていると古い本がいろいろでてきた。昭和40年代から50年代の図書館白書とか報告書とか冊子類が多い。図書館学関係の本は退職された先輩がらいただいた本も多い。せめて書名でも記した文献リストをつくる。(未完成になることは知りつつ)「市民の図書館」の時代を証言する一級の資料だ。たとえば「愛知の図書館を考える県民集会記録」には前川恒雄の基調講演が3ページから22ページにわたり詳細に記録されており、図書館史的にも貴重。

図書館労働実態調査予備調査報告 1978 日本図書館協会図書館員の問題調査研究委員会編 日本図書館協会  1973.3.30  石塚久芳、池田政弘、市川雄基、工藤又四郎、小島惟孝、小山俊子、加藤トシ子、正能孝一、佐藤寿子、坪内哲雄、戸室幸治、長谷川周、船木俊子、保土田政子、森崎震ニ、盛岡博

公共図書館のサービス指標及び整備基準試案 昭和60年3月全国公共図書館協議会 21p  前田陽一

ニュータウンの中の図書館 吹田市立千里図書館の利用者調査 大阪大学人間科学部 社会教育論講座 図書館利用者の意見調査 質問表 105p 元木健

住民のための図書館を考えよう、理論を学びあおう 第1回神奈川図問研教室の記録 図書館問題研究会神奈川支部 1973.10  48p坪野忠、岡崎文子、木村武子、近藤泰子、酒川玲子、原田淳夫、藤田静江、山本宏義、若杉秀子

予約制度は定着しているか 予約制度調査報告書 1991 図書館問題研究会予約制度調査研究グループ 991.6.30   103p 奥本陽子、西村一夫、森崎震二

昭和48年度 富山市における図書館サービス網整備方策報告書 昭和49年3月 富山県教育委員会刊 増刷図問研富山支部 74p 村上清造、清水正三、菅原峻、佐藤留人、橋本宗ニ、細田英夫、参納哲郎、仲俣新一、堀田多門、江上隆、奥沢利治、北岡義則、萩沢稔、辻沢与三一、桐田正夫、朝日奈満里子

愛知の図書館を考える県民集会記録 1981.7.19 図書館問題研究会愛知支部 自治労愛知県本部 名古屋市職員労働組合教事支部図書館ブロック  1981.9.19  49p 基調講演「図書館システムを考える」前川恒雄、伊藤逞子、船坂清伸、梶川雅宏、小木曽真、福岡泰

住民のなかの図書館をめざして 府中市とその図書館 図書館問題研究会東京支部府中市の図書館調査委員会編 1971.6  148p

青少年と図書館 横浜市の図書館政策と青少年図書館 図書館問題研究会神奈川支部 1971.2.1  81p  乾節子、今村博、木村武子、近藤泰子、酒川玲子、多田秀子、角田あや子、坪野忠、中山立也、長谷川光児、前沢桂子、伊藤美代子、七条光生、若林緑

図書館学の課題 森耕一著 大学図書館問題研究会 1980.4  12p  (1980.1.19 京都教育文化センターでの講演会のレジュメ)

京都の図書館白書 1982 図書館問題研究会京都支部、みんなの京都市立図書館・社会教育センターをつくる会 1982.9.12  大槻政美、大前哲彦、荻野義雄、小野泰昭、芝田幸子、中西俊夫、西村弘、早川幸子、林寺厳州、藤原恵美子、八木隆明、山室真知子、埜上衛、井上晶子、井上英之、今田直弘、尾上日出丸、河原忠、篠原俊夫、芝田正夫、深井耀子、三上啓子

大阪の公共図書館白書 1983 「貸出に関する」報告書 1983.図書館問題研究会大阪支部 129p  柏悦子、斉藤健一、高橋敏一、滝川朗子、武田瑠美、中川徳子、西田博志、西村一夫、前田章夫

大阪の公共図書館白書 1973 図書館問題研究会大阪支部 186p塩見昇、三苫正勝、池内進、宇野知代、栗原均、天満隆之輔、中川徳子、中野照子、拝田顕、橋詰淳子、森耕一

愛知の図書館  1990  図書館問題研究会愛知支部 990.7.8  90p 小木曾真、河合朝子、黒岩弘之、佐藤兼夫、田中敦司、尾頭良造、福岡泰、船坂清伸、若松憲和

三顧の礼

   大晦日の多忙な日に読書できる幸せに感謝している。林羅山の「除日講起す」の故事で学生時代のことを思い出した。大学に入ると「つがんの会」に来ないかと誘われた。「つがん??」と聞き直すと、司馬光の「資治通鑑」を大勢で声を出して読む会のことであった。昭和40年代後半から50年前半ころまで存在していたと思う。実は膨大な書物の「資治通鑑」は購入して持っていたのだが、結局、一度も参加しなかった。東洋史専攻の学生だったが、漢文の素読には自信がなかった。正月には箕面の大庭先生のお宅に伺ったことも思い出した。大勢のお弟子さんたちがいたが、いまでも東洋史を研究されているのだろうか。ケペルは、新自由主義的な考えなどにはなじまず、また歴史家としても、図書館員としても失格なのだろう。本とアジアが好きなだけである。ただ一つアメリカのいいところは、専門の研究をする学者ではなくて、「ライター」という人がたくさんいる、とむかし聞いたことがある。「リーダー・ダイジェスト」発祥の国である。専門書を読むには時間もかかるし、難しい本を読むのも骨がおれるだろう。平易な読みやすい文章で、一般読者向けにある程度の教養的で専門的な事柄を紹介するという社会的に啓蒙的役割を担っている。印刷の時代はなかなかライターにもなれないと思ったが、ブログでそのことができないだろうか、という思いでこの半年間に500項目以上を書いた。結局、孤独なケペルにも、いろいろな人との出会いでこの世に生かされていると感じている。以下、「つがんの会」を思い出して声を出して読む。

                *

琅邪の諸葛亮、字は孔明、襄陽の隆中に寓居し、毎に自ら管仲・楽毅に比す。時人之を許すもの莫きなり。惟だ頴川の徐庶と崔州平とのみは、謂ひて信に然りと為す。備荊州に在りしとき、士を襄陽の司馬徽に訪ふ。徽曰はく、「儒生・俗士は、豈に時務を識らんや。時務を識る者は、俊傑に在り。此の間自ら伏龍・鳳雛有り。」備問う、「誰とか為す。」曰はく、「諸葛孔明と龐士元なり。」と。徐庶備に新野に見ゆ。備之を器とす。庶備に謂ひて曰はく、「諸葛孔明は臥龍なり。将軍豈に之を見るを願ふか。」と。備曰はく、「君與倶に来たれ。」と。徐曰はく、「此の人は就きて見る可きも、屈致す可からざるものなり。将軍宜しく駕を枉げて之を顧みるべし。」と。(「資治通鑑」)

2006年12月30日 (土)

明治初期のキリスト教宣教

   幕末に最初のプロテスタント宣教師が横浜に来日したのは、安政6年(1859年)である。ヘボン、バラ、ブラウンらの感化を受けて、洗礼を受けた人々を横浜バンドという。(バンドとは「同志的結合」の意)まだ禁制下で横浜バンドと呼ばれる同志11名は福音主義に立ち、明治5年、日本基督公会を設立した。ブラウンの影響で植村正久(1858-1925)、井深梶之助(1854-1940)、押川方義(1849-1928)らによって日本基督教団が形成された。

   横浜のほかにも各地でバンドが形成された。熊本バンドは熊本洋学校のアメリカ陸軍士官であったL・ジェーンズの感化を受けた青年たちが明治9年1月「奉教趣意書」に署名した。札幌バンドは、札幌農学校で農学者W・S・クラークの感化を受け、明治10年3月「イエスを信じる者の契約」に署名した人々のことをいう。横浜と熊本・札幌の違いは、熊本・札幌は「お雇い外国人」と呼ばれる教師・技師が来日し、たまたまその人がキリスト者であり、その感化によってキリスト教を信じるグループができた。これに対して、横浜バンドはブラウン、バラは正規の神学教育を受けた聖職者であり、教派の組織的な活動の一つであったことであろう。

    ところで特に注目すべきことは、初期キリスト者には、旧幕府の出身が多い点である。植村は旗本植村祷十郎の長男、井深は会津藩井深宅右衛門の長男、押川は松山藩橋本昌之の三男、山路愛山も旧幕臣である。相馬黒光も仙台藩儒者の孫娘である。江戸、会津、松山、仙台と地域にかかわらず旧幕軍の子弟は、新時代に陽の目をみることがなく、キリスト教に救いをもとめる者がいたのであろうか。あるいは、明治政府に対する反骨精神が宗教に傾斜したのであろうか。現在、日本のキリスト伝道が行き詰っている原因の解明は初期指導者たちの出自と関係がないだろうか。

2006年12月29日 (金)

炎の戦陣

   燃えよ剣、第20話「炎の戦陣」。慶応4年の年が明けると、薩長を中心とする新政府軍と、旧幕府軍との武力衝突が避けられないものとなり、正月三日、鳥羽伏見の戦いが勃発した。新選組の布陣する奉行所は、至近の御香宮(ごこうのみや)に陣を構えた薩摩軍の砲撃を受けて炎上し、白兵戦は銃撃によって阻まれ、とうとう淀方面へ撤退せざるをえなくなった。四日は鳥羽街道の上鳥羽で小戦を行ない、淀城下に宿陣した新選組は、五日には最大の犠牲者を出すことになる千両松付近での戦闘を迎える。六日には橋本で敗れて大坂まで敗走することになる。この戦いで井上源三郎(北村英三)、吉村貫一郎、会津藩の大砲奉行の林権助(永井柳太郎)らも奮戦むなしく、戦死する.。永倉新八(黒部進)は、官軍の兵に暴行されそうになった娘おすみ(新井麻夕美)を助ける。

   ところでこの祇園の舞妓になるという娘は新井春美によく似ているように見える。新井麻夕美と新井春美は別人だろうか。それとも芸名を変えたのか謎である。新井春美はNHKのデレビ小説「風見鶏」で有名人になったが、芸歴は古いらしい。「風見鶏」のヒロイン選考は夏目雅子と激しく争ったが、これまでの実績がものをいって掴んだ役だった。麻夕美=春美であっても不思議はないと思う。

佐々城信子、最愛永久の妻去りぬ後

   星良(相馬黒光)の家に佐々城信子が突然やってきたのは、明治29年の4月のある日のことである。独歩と信子が周囲の猛反対を押し切って結婚したのは昨年の11月11日のことであった。佐々城家との絶縁することが条件だったため、府外に新居を構え、収入の道もとだえ、窮乏した新婚生活のスタートであった。

   信子は「これから姿を隠すから一円貸してくれ」という。まもなく今度は顔色を変えた独歩がやってきて「信子は何処に行ったのか知らないか」と詰問する。良のもとを去った信子は知り合いの病院に隠れていた。そうとは知らない独歩は、その後も半狂乱になって信子ほ探し回り、良のもとへも日に二度も三度も様子を聞きに来る。良も「あんまり我侭すぎて従妹ながらも愛想が尽きてしまう」と信子を責めている。独歩もついに諦めて離婚を承知する。「欺かざるの記」の23日には「最愛永久の妻信子様」とある。

   「苦痛忍び難し。されど忍ばざるを得ざる苦痛なるが故に、いよいよ苦痛なり。この世の苦しみもあるかな。信子、信子。われを許せ。われ実に御身を楽しますあたわざりき。御身のわれに注ぎし真心のほど、しみじみうれしかりしぞや。今や御身遂にわれを絶えざる苦痛の墓に葬りて去りぬ。これもとより余自から招きたる事実なり。今後御身いかにするとも余帰らずんば、余には無窮の苦悩あれど、余が御身に注ぐ愛はますます深かるべし。余は一生、御身を愛すべし。今後、信子遂にわれに帰らずんば、余は信子に関してはたれにも一言せざるべし。何事をも語らざるべし。万斛の愛と悲と、これを沈黙の中に蔵せん。余は永久、信子を愛すと感ずることによりて一種の慰籍あるなり。われ、浮世の浪にただよう時も、依然信子を愛せん。われ死する後も信子を愛せん。これ詩的表明にあらず、余が信仰と希望はこれなり。されど、されど神のめぐみ深きや、必ず信子の今日の第二の空想を破り給うて余が家に復帰せしめ給うことを信ず。これ真に信子の幸なればなり。信子は離婚後の空想に誘われつつあり。この空想の空に帰したる時、彼の女はいかにすべき。大苦痛その心を襲わん、彼の女は一生悲痛の子とならん。余、悲痛の子となり信子また悲痛の子となる。これ離婚の与うる処なり。ああ信子は悲哀の子なるかな。信子、信子、来ってわが愛に投ぜよ。浮世の夢を追うて苦しむなかれ。」

最愛の妻に逃げられた或る文士の悲しみ

    わが国の成人で国木田独歩の名を知らぬ人はあるまい。しかし独歩38年の人生で文名が高まったのは晩年のことだという。経済的にはつねに苦しく、浪漫派の詩人という一面と民友社、報知新聞社、民声新報社などのジャーナリストとしての現実主義者の面もある。一時、星亨と組んで代議士になろうとしたこともある。

   ケペルが初めて国木田独歩の作品を読んだのは小学生の時である。いまから半世紀ほど前のことだ。学習雑誌に「画の悲しみ」が載っていた。挿絵もはっきり覚えている。絵の得意な少年が自分より上手な少年が転校生にいて、ライバル意識を燃やすが、その少年は死んでしまう。そのようなセンチメンタルな話だったが、むかしから愛読者が多いのだろう。独歩とは自分にとって、小学生の読解力でも童話や漫画以外の文学作品というものに初めてふれさせてくた恩でもある。とくに「独歩、独り歩む」という筆名に少年の心ひかれるものがあった。漱石や鴎外より前に独歩を読んでいたことは、いまから思うと幸せなことだと考えている。たしか、独歩が好きになり、友だちから本を借りて「春の鳥」を続けて読んだのも小学生のときだ。中学生になってから、挿絵入りの旺文社文庫で「坊ちゃん・草枕」「吾輩は猫である」「三四郎」と読み大人の世界を文学で知るようになる。しかし、独歩を深く知ろうとしたことは一度もない。「欺かざるの記」もこの度、初めて読んだ。明治26年2月から29年5月9日までの独歩23歳から26歳までの記録である。キリスト教、北海道への憧れ、異性への思い、勉強、明治の青年の思いがすべてつめられている青春の書である。明治29年5月8日には次のように記されている。

   「余は過去の生涯は、決して真面目なる者にはあらざりき。決して謹慎なるもの、厳格なるものにはあらざりき。一個放逸なるもの、浮薄なるもの、狂熱的なるもの、高慢なるものなりき。罪多く、徳行少なく、忍耐薄く、怠慢多く、多く空しく思うて、少なく弱く行いたり。余は信子を熱愛すること今も変らざるなり。されど余の彼の女を愛したる方法は完全の者にあらず。余が愛は殆んど迷溺のものなりき。不健全なりき。一言もって評すればわが今日までの生涯は決して科学的ならざりき。余はわが使命を重んずることをせざりき。われは生命その者の神秘にして荘重なるものなることを知りて感ぜざりき。余が今日の苦悩は一個、天上よりの大成なり。余をして余の過去のすべてを反省悔悟せしむる高丘なり。(中略)信子と余とは深き恋に入りて、しかして遂に辛苦を排して婚したり。しかして今や、信子、余を捨てて去れり。されど余が彼の女を愛する点においては真実、少しも劣らざるなり。ますます余が愛は加わらんとするなり。されど今や決して交換的にはあらざるなり。余は彼の女の心の発達を望む。決して虚栄の夢を逐わざらんことを祈る。鬱悶に沈みやせんと恐る。その品性の高貴なる発達を願うて止まざるなり。余は今日まで人に依頼すること余りに多かりき。今後は神に頼るべし。正しきを踏みて神に頼るべしる人に接するには神をのみ仰ぐ大胆真率誠実の人として接せんことを理想とせん。」

2006年12月28日 (木)

美女ありき、早月葉子と佐々城信子

   むかしビビアン・リー主演の「美女ありき」 という映画があった。ナポレオンを破ったネルソン提督(ローレンス・オリヴィエ)とレディー・ハミルトンとの不倫の恋の物語だが、ネルソン死後、夫人は生活にも困窮する。美女が落魄して老いていく話はせつない。「美女ありき」とは上手くつけた邦題である。有島武郎「或る女」のテーマは、もちろんこの映画のような通俗的なものではなく、近代日本の女性の生き方を真剣に問うたものであるが、ここでは文学研究の立場ではなく、風俗史というか、スキャンダル、三面記事的にとりあげている。興味がそそられるのは、「落魄の美女」である。早月葉子(佐々城信子)は、近代的な教養がある驕慢な美女、映画では田中絹代と京マチコが演じたがイメージがまったく違う。なぜか、ビビアン・リーが浮かんでくる。スカーレットやアンナ・カレー二ナの役とだぶるからだろうか。

  有島武郎「或る女」は最初「或る女のグリンプス」という題で「白樺」に明治44年1月から大正2年3月まで、16回にわたって発表され、第21章で早月葉子が日本に帰ってくる直前までが描かれている。有島33歳から35歳までの作品。6年経って、大正8年3月、「或る女のグリンプス」が改作改題されて「或る女」前編として発表され、その3ヶ月後に「或る女」後編が発表された。有島41歳である。これまで前編から後編への作品主題の変化があるのではないかとか、後編の評価には賛否両論あるが、吉田精一は文学的価値は後編も低下していないと論じている。

   主人公の早月葉子のモデルは、国木田独歩と結婚して一年たたないうちに独歩を去って世間を騒がせた佐々城信子であることは、広く知られている。この女性を有島が意識するようになったのは、彼女の許婚者が有島の札幌農学校時代の級友である森広であることに起因する。この良家の娘のきわめて自由奔放な生き方に反発を覚えはしたものの、しかし明治という封建的因習が残る時代に、女性がどのように生きたらいいのかを自己のテーマにしていた有島は、次第に佐々城信子に深い共鳴すら覚えるようになったに違いない。小説「或る女」はどこまで事実と関連するのであろうか。まず、佐々城信子の生涯をふりかえってみよう。明治11年7月20日、医師の佐々城本支と社会運動家の佐々城豊寿との長女として東京神田西小川町に生まれる。海岸学校(青山女学院)で学ぶ。16歳のとき札幌と伊達に居住し、臨時教員として英語を教えた。一時、東京の三田四国町に戻り、この時、国木田独歩と知り合った。母の反対を押し切り二人は結婚する。新居は神奈川県逗子。しかし、現実の生活は夢のようには行かず、苦しい生活が続いた。独歩と離婚した信子は、再び北海道へ渡った。そこで独歩との間にできた浦子を出産。浦子を里子に出して3年間、札幌で暮らす。明治34年、無理やり信子をアメリカに追いやるように、森広との縁談が進められた。しかし、信子は乗船した鎌倉丸の事務長武井勘三郎と恋におち、アメリカに上陸せずに日本に引き上げた。同船していてそのことを知った鳩山春子はスキャンダルとして新聞に告発したため、信子は世間の非難を浴びた。このことで武井も会社を辞めさせられた。武井の妻は勘三郎との離婚を承知しなかったので、二人は正式な夫婦にはなれなかった。しかし、勘三郎と信子の間に一女、瑠璃子が生まれた。大正10年勘三郎と死別する。大正14年、妹のよしゑが病気のため栃木県真岡に移住した。真岡で信子は娘の瑠璃子と二人暮らしで、日曜学校を開き、聖書と讃美歌を教えた。昭和24年9月22日、老衰と肝臓炎のため71歳で死去した。50歳代の信子をみた人の証言によると「背の高いすらりとした美人だった」という。

   なお小説「或る女」の登場人物と実在人物との比定は次のとおりである。早月葉子(佐々城信子)、木部孤筇(国木田独歩)、倉知(武部勘三郎)、木村(森広)、田川夫妻(鳩山和夫・鳩山春子)、早月親佐(佐々城豊寿)、五十川女史(矢島楫子)、その他(内村鑑三)

2006年12月27日 (水)

中村屋サロンと仲間たち

   相馬黒光(そうまこっこう、1876-1955)。本名は、星良(ほしりょう)といった。明治9年、仙台の士族の娘として生まれた。良は自由民権運動の女性闘士だった景山英子(福田英子)と福田綾子にあこがれていた。若いころ押川方義の教会に入り洗礼を受ける。明治24年、宮城女学校に入るが校長と対立して退学。押川は横浜のフェリス女学校の教頭星野光多に連絡をとって、良をフェリスに入学させる手続きを取ってくれた。明治28年、明治女学校に入り、星野天知、北村透谷、島崎藤村を知る。明治30年、作家志望をあきらめ、相馬愛蔵(1870-1954)と結婚し、東大正門前のパン屋を譲り受け、明治34年12月から開業する。明治40年には本拠を新宿におくほど繁盛した。

   相馬黒光はパン屋の女主人として、9人の子を産み、店を繁盛させたが、彼女が有名なのは、中村屋サロンといわれ、「サロンの女王」として輝くほど、芸術家や文人が集まったことである。海外からの亡命者をかくまってくれるという噂を聞いて頼ってきた外国人もいた。荻原守衛、中村彝、中原悌二郎、柳敬助、中村不折、戸張孤雁、鳥居龍蔵、津田左右吉、会津八一、岩波茂雄、岡田虎二郎らが出入りした。またロシアのエロシェンコ、インドのビハリ・ボースら亡命者の保護者として果たした役割は大きい。

2006年12月25日 (月)

理髪店の回転看板の由来

  Q。理髪店の前でぐるぐる回っている赤・白・青のらせん状の看板をなんというか。三択で。

1.有平棒

2.サイン・ポール

3.バーバーズ・ポール

   答えは、なかなかややこしい説明を要する。日本では、明治の初め頃、理髪店を示す目印として「有平棒」(あるへいぼう)が全国に広がった。安土桃山時代にポルトガルから伝来した南蛮菓子の有平糖(ねじれた形で色分けされていた)に似ていたことに由来する。しかしながら、「有平棒」とはさすがにおかしな名称なので、今では「サイン・ポール」というのが一般的ではある。ところが、広告業界で「サイン・ポール」といのは、地上広告塔、つまり立て看板という広範囲な意味である。つまり、サイン板とポールを組み合わせたサイン・スタンドのことをいい、理髪店の看板だけを意味する名称ではない。海外(英語圏)では、バーバーズ・ポールとよんでいる。

   ちなみに、なぜ赤・白・青の色なのか。通説では赤は動脈、白は包帯、青は静脈を表わしているといわれるが歴史的にみると正確ではない。一説によると、中世ヨーロッパ、髪を切る行為は手術などのために毛を剃る行為と一緒で、理髪と外科医とが同一職業だったことから、あのような看板になったとか。瀉血という治療のために静脈の血を抜くこともしていた。瀉血に使用するポールは血で染まるため、めだたぬように赤色に塗られていた。そしてそのポールは包帯を洗って干す棒としても使われていた。そして店先に45度の角度で置かれたことが、外科医の象徴となったことが、サイン・ポールの由来である。やがて理髪店は外科医と分離し、その頃に青が加わったという。赤白青の看板が最初に使われたのは1540年頃、フランスにおいてである。

我が国で今日のようなスタンド型サインポールが登場したのは昭和8年からである。竹鼻商店(現・菊星)は、昭和8年、電動式の「スタンド型サインポール」(40円)を発売した。

滝沢馬琴と建部綾足

    滝沢馬琴に「本朝水滸伝を読む并に批評」(1833年)という建部綾足の「本朝水滸伝」についての評論がある。建部綾足(1719-1774)は宝暦・明和・安永期、滝沢馬琴(1767-1848)は寛政・享和・文化・文政・天保・弘化期に活躍した人であり、ほぼ半世紀離れていることを念頭におく必要がある。

   まず「作者の書ざまを批評す」とて、綾足が古言雅言を用いたのを失敗なりとして、人情を写し趣を尽すには俗語を以てせざるべからざることを主張する。第一条、柘の枝が人間に化することに典拠の無いことを難とする。第二条、道鏡が御祈り仕る段に、衣を穢したるを以て新衣を賜る事により僭上の兆を現わす趣向を賞讃し、「水滸伝」の高俅の出世と趣が変わって大変良いと言い、一部の専文であるとする。第三条、押勝は読者の贔屓着き難き故、晁蓋に批するは可なるも宋江に擬するは不可であると言う。第六条、恵美押勝等が祖王にして倶して不憶白猪の老翁にめぐり逢う段は佳作とする。しかし、この伊吹山寨は梁山泊に最も適している所で、看官も期待しているのにそうしないのは了解に苦しむ。第九条、巨勢金丸の描いた姿画で守部を欺いたのは、名画入神の徳というのではなく、幻術を用いた如くである。これは金丸のために不祥とすべきものである。古学者にして画家であった作者には似気なき事である。第十条、文を古雅にして事を今様にしているが、寧ろ事は古雅にして為すとも文を俗体にしなければならない。古雅は学者同好の二三子の間にこそ施すべきものである。第十二条、武雄・武荒兄弟が猟野を殺すが、この兄弟は敵役ではないのにかくするのは勧懲上よくない。負傷に止めるべきだ。第十三、和気清麿美は真の清麿ならず巨勢金石であったと言う趣向は大変佳い、看官の意表に出るものでさすが作者である。第十七条、越中国司家持が道鏡を滅ぼさんとする奈良麿に粮を送ったのは、身の職分を空(あだ)にして賊に公粮を与えたことになる。かくては勧懲が正しくない。かかる筋を作るのは「水滸伝」の骨髄を知らぬ所以である。第十九条、浄瑠璃の趣に似て文は面白いが、勧懲に遠い。奸賊道鏡を滅ぼして民の塗炭を救おうとする輩が、あるいは山賊の業を為すならば、道鏡の奸悪と五十歩百歩ではないか。作者の学問浅きが故に理義にかなわぬ作意である。

   以下、省略するが、馬琴はたいへん緻密に評論している。馬琴の傲慢な性格のため、多くの批判を加えているものの、綾足の作品を先駆的業績とみなし、大いに顕彰しているように感じられる。また馬琴の文学論としても、たいへん面白い内容が含まれていると思われるが、実はケペルは国文は得意ではないので仔細にはわからないことも多い。江戸期に「水滸伝」と称した読本が他にもあると思われるが、どのような特徴があるのか調べてみたい。(参考:浜田啓介「日本古典文学大辞典」)

幕末の剣術の流派

   「燃えよ剣」、伝蔵と裏通り先生が将棋を指しながらの会話。

伝蔵「近藤勇はんは何流だす」、裏通り「天然理心流だ」、伝蔵「伊東甲子太郎はんは何流だす」裏通り「北辰一刀流だ」、伝蔵「藤堂平助はんは何流だす」裏通り「北辰一刀流だ」。藤堂平助は試衛館以来の新選組生え抜きの近藤勇の同志であるが、剣術の同門である伊東甲子太郎の誘いに応じて新選組を離脱し、高台寺として新選組と反目し、京七条油小路に散った。伝蔵いわく「ほんま、お侍はんの流派ちゅうのは難しいもんだすなぁ」

    幕末期、剣術の流派は北辰一刀流、神道無念流、鏡心明智流の三大流派を筆頭に500もの流派が存在した。ここで幕末の剣客の流派をまとめてみよう。

北辰一刀流

千葉周作、清河八郎、伊東甲子太郎、山南敬助、藤堂平助、内海次郎、坂本龍馬

神道無念流

斉藤弥九郎、桂小五郎、芹沢鴨、永倉新八、新見錦、野村弥吉(井上勝)、品川弥二郎、渡辺昇、鈴木三樹三郎

天然理心流

山本満次郎、近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、大谷勇雄、中島登、佐藤彦五郎、小島鹿之助

宝蔵院流

谷三十郎

心形刀流

島田魁

大嶋流槍術

加納道之助

2006年12月24日 (日)

団子鼻のトル子さんとデコちゃん

   「団子鼻のトル子さん」とは、轟夕起子(1917-1967)であり、「デコちゃん」とは高峰秀子(1924-  )のことである。最近、川本三郎が日本映画の黄金期のことを本にしたり、ケーブルテレビなどで古い日本映画を観る機会が増えたのでケペル世代でもその魅力を知ることができる。戦前・戦後の映画を見ていると、失われた生活風俗がディティールとして描かれているのでアーカイブスとしても貴重な作品が多い。なぜ田中絹代、原節子ではなくて、轟夕起子と高峰秀子かというと、明るくて元気な元祖国民的アイドル女優だからだ。

    轟夕起子は大正6年9月11日、東京市麻布区新堀町で生まれた。本名西山都留子(つるこ)をもじって、トルコの愛称がつく。小夜福子とのコンビで娘役のトップスターになる。山田耕筰が芸名の名付け親、撮影中に失明しかかって自殺未遂、マキノ正博監督との秘密結婚、「おつかいは自転車に乗って」(昭和18年)の大ヒットなど、話題は豊富である。高峰秀子は昭和4年に子役で出演し、娘役となってから「秀子の応援団長」「秀子の車掌さん」、戦後は「陽気な女」「銀座カンカン娘」「カルメン故郷に帰る」で、暗い世相を吹き飛ばしてくれた。轟と高峰が共演した作品も多いが、昭和21年2月の「陽気な女」(佐伯清監督)では、野村恒子(轟)と新井陽子(高峰)が灰燼に帰した東京の街を二人で元気で生きようと語り合うシーンは女性は頼もしいと感じた。新東宝の「細雪」でも幸子(轟)、妙子(高峰)で共演している。頭の回転がよくて天才肌、歌も芝居もうまい、ふたりの会話はどんなに楽しいだろうか。轟の晩年は不遇といわれるが、日活の文芸作品「陽のあたる坂道」「あじさいの歌」やテレビのホームドラマの母親役で存在感のある演技を示していた。

お雪と磯部玉枝

   燃えよ剣、第10話「堀川の夜雨」では、お雪という女性が登場する。武家の女で、京都で江戸の女性に出会った土方歳三は惚れる。きりっとした武家の作法を身につけていて、しかも火のような情熱をうちに秘めている。司馬遼太郎の原作には「まつ毛の美しい女」とある。演ずる磯辺玉枝は、まさに原作のお雪のイメージどおりだった。歳三を見つめる表情だけで、その想いを表現している。原作のお雪は、箱館まで歳三を慕って追ってくる。原作の描写を抜粋する。

   < おれの名は、悪名として残る。やりすぎた者の名は、すべて悪名として人々のなかに生きるものだ > 歳三は、もはや自分を、なま身の自分ではなく劇中の人物として観察する余裕がうまれはじめている。いや余裕というものではなく、いま過去を観察している歳三は、歳三のなかからあらために誕生した別の人物かもしれなかった。「お雪」と、つよく抱き締めた。お雪の体を責めている。お雪は懸命にそれを受けつけようとしていた。歳三は、もはやいま生きているという実感を、お雪の体の中にもとめる以外に手がなくなっていた。いや、もう一つある。戦うということである。それ以外に、歳三の現世はすべて消滅してしまった。お雪も、歳三のそういう生命のうめきというか、最後に噴きだそうとする何かを体中で感じとっているのか、悲嘆などはまったく乾ききったような心で歳三を受けた。

    女優の磯部玉枝については、昭和20年11月23日生まれで日活にいたことしか知らない。山本陽子にしても磯部玉枝にしても、吉永小百合の全盛時代の日活では、いい役がつかなかったのだろうか。日活は昭和40年代になると、アクションから任侠路線に変更したが失敗した。磯部玉枝も任侠映画とテレビ時代劇が芸能活動の中心であった。彼女の女優としての存在たらしめたのは、土方歳三の愛人、お雪の情感溢れる演技であろう。

安食堂でみかけたスター

   「スクリーン」誌の増田貴光の記事を拾い読みしていたら、心惹かれる記事があった。(昭和45年9月号)

   ワイキキの三流食堂(キャフェテリア)で、ジョン・エリックスンに会いました。彼も僕も3ドルほどの安い晩めしを食べていたわけですが、僕の安い晩メシは、もともとにしても、「ラプソディー」等、いっとき、リズ・テイラーと共演した事のあるスターが、3ドルの晩メシ、とは、いささかわびしい気持ちになりました。でも「緑の火エメラルド」や「ハニーにおまかせ」で貴方は日本ではポピュラーですよ」と、おせじを云いましたら、大変喜んで、サインしてくれました。

   ジョン・エリックスン(JOHN ERICSON)、日本語表記では、エリクソン、エリクスンなどいろいろだが、ともかく1950年代から70年代にかけて活躍した二枚目スターらしい。とくに「ハニーにおまかせ」(日本公開は昭和41年)は、女探偵ハニー・ウェスト(アン・フランシス)は確かに日本では有名だ。「禁断の惑星」以来、アン・フランシスの人気は根強いものがある。ジョン・エリックスンはアンの相棒のサム・ホルトという役だった。エリックスンは、その後も「女刑事ペパー」(アンジー・ディキンスン 昭和50年)、「ナイトライダー」(昭和57)、「超音速攻撃ヘリ、エアーウルフ」(ジョン・マイケル・ビンセント、昭和59)などのTVヒット作品に単発ながら出演しているようなので、かならずしも落ちぶれたスターというほどではない。安食堂で晩メシをとっていたジョン・エリックソンは、貧乏ではなくて、きっとつつましい生活を好む単なる「いい人」なんだろう。気軽にサインしてくれたし。

   ところで「スクリーン」誌の増田貴光のコーナーの後任は、なんとディスク・ジョッキーみのもんた。「ヤングのためのおしゃべりコーナー」という欄だが、読んでみると、まるで内容のない記事だった。増田貴光とみのもんた、芸能人の明暗は、神のみぞ知るである。

土方歳三の肖像写真

   文久3年の八月十八日の政変の直後の23日、新選組は尊攘派の取り締まりを行なった。桂小五郎を捕縛するため、土方歳三は三条大橋北、鴨川沿いの岩屋町の妓楼を急襲する。しかし、桂は大坂に出向いていたため不在で、従者ふたりを捕らえたのみだった。翌24日早朝、平野国臣の潜伏先をつきとめ、三条小橋近くの豊後屋を襲う。平野は逃走したものの、天誅組の挙兵に加わった古東領左衛門の捕縛に成功した。このとき、二階の別室には堀真五郎、品川弥二郎、時山直八が滞在しており、障子の隙間から新選組の姿を見ている。堀の「伝家録」によると、豊後屋の主人が御用改めがあることを泊まり客に告げると、間もなく隊士たちが階段を上がってくる。彼らに藩と姓名を尋ねると、新選組はそのまま立ち去った。一隊は11名で、これを率いた男の相貌は「長面、色白にして背高く、火事装束」をまとっていたという。歳三の身長は「両雄士伝補遺」に、「五尺五寸」、ほぼ167センチと記されており、当時としては長身の部類である。彼らを尋問したのは歳三だったに違いないと菊池明は推測している。土方歳三の肖像写真は、ガラス原版は存在しないが、プリントした「紙焼き写真」が数パターン残っているので、土方の相貌については現在では多くの人が知っているであろう。明治2年4月、函館を脱した市村鉄之助が、7月になって日野の佐藤家に届けた写真、土方家所蔵、平家所蔵、小島資料館、市立函館図書館所蔵の写真などである。それぞれ修正がされており、若干の違いはあるが、絵柄としては同類の写真である。市立函館図書館所蔵の写真は「お土産写真」の一つと思われる。明治期には「お土産写真」と呼ばれる、維新期の有名人や、美人芸者などの写真が販売されていた。「土方歳三」というブランドに、当時どれほどの人気があったか不明だが、これらの写真は写真師が少しでも歳三を美男にしようと修正の手を加えたものである。ただし歳三の写真は、土佐の志士で農商務大臣や宮内大臣などを歴任し、伯爵となった、同姓の土方久元(1833-1918)のものと誤認された時期があったという。(参考:菊池明「土方歳三の35年」新人物往来社)

2006年12月23日 (土)

増田貴光と映画雑誌「スクリーン」

   洋画ファンのための雑誌「スクリーン」が創刊60周年を迎えて、2007年2月号に「歴代人気スター100人」の附録がとても懐かしくていい。昭和23年の表紙は、表がタイロン・パワー、裏が原節子で、定価は4円80銭。昔は「映画の友」のほうが人気があったが、ハリウッド映画が次第に低下するなかで、ヌーベルバーグのヨーロッパ映画中心のスクリーンに人気がでた。もっとも男子のお目当ては水着の外国女優の写真だったが。

   スクリーンの長い歴史から見れば、ほんのひとときの閃光のようなものなのだが、なぜかスクリーンというと映画評論家の増田貴光を思い出す。記事としては「ヤング・シネ・ジャーナル」「貴光のおしやべりルーム」など短いコラムなどで荻昌弘のような専門の映画評論は皆無だが、昭和45年から49年にかけてのテレビでの活躍ぶりが印象にあるからであろう。「また、貴方とお会いしましょう」とカッコよく視聴者に指を差し、若いわりに古い映画もよく知っていたことに驚かされた。「ベルト・クイズ・Q&Q」の司会、ラジオのパーソナリティー、「夜の虫」「こころの傷」とレコードまで出している。当時、高校の文化祭の人気タレント投票ではダントツの一位の人気者だった。例の川口松太郎宅への「一件落着証詐欺事件」や週刊誌などのホモ騒動などが芸能界の引退原因であろうが、罪はすでにつぐなわれ、ホモに対する社会観念も当時と現代では変化しており、あの70年代初頭の映画評論家・タレント増田貴光の全仕事を見直してもいいのではないだろうか。

   いま「スクリーン」の古雑誌を読み直すと、増田貴光の書いた一文には、映画の虚像の世界と現実との世界との混同、妄想がよくみられる。例えば、「スクリーン」昭和45年11月号には次のような記事がある。

   試写をみてから、既にみつきもたつというのに、今だに僕には「サテリコン」にとり憑かれていて、昨夜も巨大な鉄の船に乗り、斜めに引きあげられてくる鉛色の鯨に押しつぶされた夢をみて、怖ろしい勢いで眠りから醒めました。そんなふうに僕は完全に「サテリコン」の深みに飲み込まれていて、浮きあがる事が出来るのは、他の映画を観ている時だけです。信じて頂けないかも知れませんが、食事中でも「サテリコン」を想い浮かべると、激しい嘔吐にみまわれてそれ以上食が進まなくなったりするのです。おまけに、「サテリコン」を観てからというもの、自分自身、すっかりスランプに落ち込んでしまいました。あの魅惑的で、毒々しい画面のひとつひとつに、毎日どっぷりと浸っていたい気持でいっぱいなのに、朝、目が醒めるとテレビ局からの車が待っていて、毎日の生放送の司会に出かけてゆき、カメラの前に立つと、ニッコリ笑って「今日はお元気ですか」なんて云わなければならない。常々、人間が生きていく為のそういう矛盾は感じてはいるものの、それが一層ひどくなってスランプになったんです。しかし、何という事でしょう。そのスランプが僕には楽しくて楽しくて仕方がないのです。吐き気だって、「ゲッー」とやっている時は、大変良い気持ちなのです。酒を飲みすぎた時の吐き気等は我慢がならない程不快なのに、僕はこの違いに自分でも吃驚しています。TBSに高樋洋子さんという凄いほどの才能を持っている女性ディレクターがいて、彼女も「サテリコン」を観て、そんな状態になったと聞いて、こんな仲間がもっといたらなあ、と再び「サテリコン」の事を考え始めるのです。僕の「サテリコン」病は、まだまだ続きそうです。もしかしたら、一生、続くかも……。

   映画中毒症という病名は存在しないが、感受性豊かな若者が映画を観て、また多忙な仕事の中で人間性を喪失することは、十分に考えられると思う。そして精神医学の未発達であった1970年代という時代状況を考えると、増田貴光という時代の寵児に、社会はやさしくあってもいいような気がする。

 おなじく「スクリーン」昭和45年9月号には、彼の1週間の仕事のスケジュールがのっている。

 月曜日から金曜日までは、「ベルト・クイズ・Q&Q」の司会。生放送で12時から。火曜日の6時は「土曜映画劇場」の解説の収録。土曜日はNHKで青少年番組の司会。その真夜中に「オール・ナイト・フジ」という3時間あまりの超ワイドテレビ番組の映画コーナーで、新しい映画の紹介をしている。その他、毎週ではないけれど、ファッション・ショウの司会とか、いろいろなテレビやラジオ番組のゲスト出演がある。そして、「スクリーン」を始めとして三冊の月刊誌にレギュラーで原稿を書いている。まだある。検察庁主催の「風俗取締り委員会」という15人の委員で構成されている会の、僕もなぜか委員のひとりに選ばれて、ピンク映画やモーテルなどを見学して、意見や感想等を述べる、ということ。

裏通り先生と松本良順

   燃えよ剣、第15話「わかれ雲」では、伊東甲子太郎(外山高士)は近藤勇、土方歳三らと話し合い、伊東グループは御陵衛士として新選組からの分離がいよいよ決定的になる。(慶応3年3月16日)そのなかで、試衛館以来の同志である藤堂平助(平沢彰)は苦悩する。鷲尾真知子が若い。

   毎回、町医者の裏通り先生(左右田一平)と八木家の下男の伝蔵(小田部通麿)との会話がとても楽しい。裏通り先生は架空の人物だが、松本良順(1832-1907)という名医は幕末・明治に実在し、新選組とも親しい関係にあったという。裏通り先生の台詞にも「大阪に松本良順という名医がいるから、みてもらいなさい」という場面があった。

   松本良順は、医師佐藤泰然の次男として、天保3年6月、江戸麻布で生まれた。松本家の養子となり、西洋医学を長崎のポンペに学び、文久3年に西洋医学所頭取を拝命し、将軍家侍医となる。元治元年には近藤勇と交流し、慶応元年に上洛したさいには屯所を訪れるなど、新選組の理解者だった。緒方洪庵没後、西洋医学所頭取を継ぐ。戊辰戦争では旧幕軍に同行し、負傷者の治癒にあたりながら会津から仙台に向かったが、継戦を断念し、横浜から船行して縛につく。明治2年12月に放免され、明治5年、陸軍初代の軍医頭となり、軍医制度の確立に尽力。明治7年、初代の陸軍軍医総監となり、陸軍医務局長も務めた。のち西南戦争にも従軍した。男爵となり、明治40年3月20日に死亡。

2006年12月18日 (月)

児島喜久雄の「意識的芸術活動」

    西洋美術史学の創始者である児島喜久雄(1887-1950)の「芸術」の定義は次のようなものである。

作家ー芸術家ーが、その意識的芸術活動によって、みずからの生活感情を、芸術的ー美的ーに表現したものである。

   児島は、ディルタイ(1833-1911)の「詩人の想像力」(1887)を読んで、劈頭の「意識的芸術的試作」という言葉にふれ、それから「意識的芸術活動」という言葉を造語して、芸術の定義づけに用いた。つまり、意識的な芸術活動の参加によって初めて、芸術とみなされるのであり、美意識の意識的な働きがまだ働かない段階は、芸術以前のものと解されるといのである。

    児島は芥川龍之介(1892-1927)、恒藤恭(法学者1888-1967)とも一高時代からの友人であった。初期の芥川には表現技巧の洗練こそが芸術の芸術性を保証するのだと考えて、やはり「意識的芸術活動」を標榜している。若い二人の間になんらかの芸術論が闘わされたのであろう。

   志賀直哉は「児島喜久雄の憶ひで」を次のように書いている。

   児島は子供から絵が上手で「明星」によくカット絵を出したりしている事は知っていた。中学の二三年で、藤島武二、長原止水などと肩を並べて新しい傾向のカットを描いている早熟さには驚いたものである。三宅克己に水彩画を習ひ、上野の白馬会にも出品していた。

    学習院、一高、東大哲学科を大正2年卒業。「白樺」同人として、美術批評を行なう。「白樺」創刊号の表紙は児島が描いたものである。東北大学、東大教授となり西洋美術史講座を担当する。大正10年から15年までヨーロッパ留学し、ボーデ、ヴェルフリン、ヴェントゥーリ、バノフスキーなど美術史家と接し、主として古代とルネサンス美術を研究した。著書として「美術館めぐり」「レオナルド研究」「古代彫刻の臍」「ショパンの肖像」「美術概論」「希臘の鋏」など。ちなみに岩波新書赤版の装丁は、昭和13年の創刊の折に児島が担当したものである。

反芸術の系譜

    20世紀に入ると、現代人は限りなく複雑化していく社会に対するひそかな不安がたえずつきまとうようになった。たとえば、イタリアの形而上派の画家ジォルジオ・デ・キリコは、静まりかえった広場、人気のない建物、長くのびた影などを主要モチーフとした白日夢のような町の風景を描いた。「街の神秘と憂鬱」(1914年)という作品には、どこか郷愁を誘う神秘的雰囲気と不気味な不安感がただよっている。それは、機械文明を讃美する未来派の騒々しい楽観主義の裏返しの世界といってよい。

   キリコが鋭敏に感じ取った不安は、第一次世界大戦という未曾有の災厄によって現実のものとなった。大戦の最中、中立国のスイス、チューリッヒには各国の芸術家が移り住み、ドイツの詩人、フーゴー・バルたちが経営するキャバレー・ヴォルテールを集いの場所としていた。不安定な社会状況をも反映して、彼らは芸術のみならずあらゆる領域の既成価値の否定を表明、辞書から「ダダ DaDa」(この語はたとえばフランス語では玩具の馬、クル族では聖牛の尻尾を意味するというが、元来、何ものをも意味していないために名づけられた)という単語を無差別に取り出し運動の名称とした。

   中心人物にルーマニアの詩人トリスタン・ツァラと画家のマルセル・ヤンコ、ドイツの詩人のリヒァルト・ヒューゼンべック、フランスの美術家ジャン・ハンス・アルプがいた。ツァラが「ダダ第一宣言」を書いたが、彼らの活動は各々の詩を同時に朗読したり、非道徳的パフォーマンスを行ったり、偶然による素描やコラージュを発表した。

   1917年、ニューヨークでは、マルセル・デュシャンとフランシス・ピカビアらが同様の活動をした。彼らは画家としては優れているとはいえなかったが、芸術家としての批評家的な慧眼から、芸術の網膜化・視覚化現象を批判し、精神に仕える芸術の誕生を唱えた。デュシャンは1916年、反芸術(Anti-Art)の名の下にみずからも委員であったアンデパンダン展にR・マットという匿名で逆さにした便器を「泉」と題し搬入したが、展示を拒否された。これがいわゆる「既成品のオブジェ」である。

   チューリッヒのダダイスト、ヒュールゼンべックは、1918年故国のドイツのベルリンに帰り、ダダを推進するが、このベルリン・ダダは政治的な色彩が濃い。ドイツのケルンでは、むしろシュールレアリストとして高名なマックス・エルンストらがダダ的な活動を行ない、これにアルプが加わるが、彼らはベルリン・ダダの政治性に反対していた。ドイツではまたハノーヴァーにダダが波及し、1919年、クルト・シュヴィッタースが「メルツ」という無意味な言葉を作り、コラージュや廃品の部屋を構築した。

   パリではアポリネールたちの「シック」(1916年)誌やアンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴンたちの「リテラチュール」(1919年)のなかにダダ的精神が生じていたが、1919年、ツァラがパリに赴き、熱狂的に迎えられたときパリ・ダダが確立した。1920年ニューヨークから戻ったデュシャンは「モナ・リサ」の複製にカイゼル鬚をつけ、「L.H.O.O.Q.」(これを続けて読むと「彼女は尻が熱い<欲情している>」の意味になる)を発表、また詩人たちのダダ祭も催された。

    主として破壊的な方向をもったダダのなかから、いわば創造的な方向を目指して生まれたのがシュールレアリスムである。シュールレアリスム(その名はアポリネールの「ティレシアの乳房」の副題、シュールレアリスト劇にもとづく)は、ダダの芸術化として、ブルトンによって始められた。1924年、「シュールレアリスム第一宣言」がなされ、文学、美術にわたる前衛運動となったが、美術の上で中心となったのは、デュシャンの流れをくむグループ、とくにエルンストであった。さらにホアン・ミロ、イーヴ・タンギー、サルバドール・ダリなども加わる。また直接グループに参加しなかったがやはり典型的なシュールレアリスト、ポール・デルヴォー、ルネ・マグリットたちがいた。(参考:町田甲一「美術」武蔵野美術大学)

2006年12月17日 (日)

シャンパーニュの大市

   ヨーロッパ中世の商業活動の三つの中心地は、北イタリア諸都市、北海沿岸地域、そして中間的位置にあるシャパーニュの大市である。大市は中世商業の象徴のようなものである。大市は大きな街道が交差する場所に発達し、宗教的催しや君主の保護によっていっそう活気づけられた。シャンパーニュの大市は、11世紀以降フランドルとイタリア北部を陸路で結ぶ貿易軸上に位置していた。当時、この道筋にそって三つの大市グループが花開いていた。毛織物業の中心諸都市の近くに開かれるヘント(ガン)、リール、イープル、トゥルーなどのフランドルの大市、アルプスを越えて取引を広げようとするイタリア商人が早くから訪れたボケール、アヴィニョンなどにおけるプロヴァンスの大市、これら二大中心の中間に、フランドル人やドイツ人など北から来る商人たちにとって、また、イタリア、プロヴァンスやカタロニアの貿易商にとって、いずれも半行程の出会いの場所として、12世紀以降、シャンパーニュの大市が発展した。

   13世紀に4つの町が国際商業の場所となった。トロワ、バール=シュル=オーブ、ラニー、プロヴァンがそれである。これらの場所で開かれる大市は、一つの場所で平均45日開かれると次の場所に移り、年間を通じてほとんど切り目なく取引の流れが続くように開かれた。

   「寒い大市」は秋と冬に開かれた。ラニー大市は1月2日に始まり、バール大市は四旬節の少し前に、トロワのサン=レミ大市は万霊節(11月2日)に開始された。これに対して、夏は「暑い大市」の季節であった。プロヴァンのサン=キラス大市は5月に、トロワのサン=ジャン大市は7月だった。

    シャンパーニュの大市は、14世紀のはじめに衰退が始まった。羊毛生産地イギリスとの結びつきを強めたフランドルは繰り返しフランスと対立状態になったから、その商人たちは急速にシャンパーニュ大市を見捨てた。いずれにせよ、シャンパーニュのフランス王国への併合は、1285年以降、大市に課せられる税の加重を引き起こして、フランス・ルートからイタリア商人を迂回させた。これはブリュージュ、ジュネーブ、ニュルンベルクという新しい商業中心地の繁栄につながった。(参考:アラン・プレシ著「交易のヨーロッパ史」)

俗論派の椋梨藤太

   椋梨藤太(1805-1865)という名は、長州における悪人の代名詞みたいなものである。本名は椋梨景治という。蛤門の変で正義派が失脚すると、それに変わって椋梨は政務員に進出し、藩政を掌握し、正義派を粛清をし、幕府に恭順した。しかし椋梨政権は、元治元年8月から12月までであった。

   元治元年12月に功山寺で挙兵した高杉晋作は、翌慶応元年1月2日、再び萩藩新地会所襲撃して下関を掌握した。また、伊佐(美祢市)などに進駐していた諸隊は、1月7日から太田・絵堂(美東町)で俗論派政府軍と激突し、勝利した。その結果、萩では中立派の鎮静会議員が事態収拾のために、俗論派を追放した。

   椋梨は俗論派の同志12人と共に、慶応元年2月14日、小舟に乗って萩城下を脱出した。計画では江崎(阿武郡田万川町)に上陸して中国山脈を越え、岩国にはいって藩主吉川監物に救いを求めるということであった。江崎に舟をつける予定だったが、海が荒れたため、石州飯之浦(益田市)に変更して上陸したが、青原で津和野藩に捉えられた。12人は、ただちに萩へ護送されたが、途中で岡本吉之進、山県与一、小倉源五右衛門の3人は自決した。12人の中には椋梨の次男の中井栄次郎もいた。中井は井上聞多を襲った刺客の一人である。椋梨藤太・中井栄次郎、親子は萩の野山獄で斬罪となった。中井は23歳だった。その他、南新三郎、令泉太郎兵衛、小川八十槌、児玉久吉郎、木村松之允、小倉半左衛門らがいた。

   武力により藩権力を奪取した正義派は武備恭順策による挙藩軍事体制をつくりあげた。また、但馬から木戸孝允が戻り、周布政之助なきあとの正義派の領袖として長州藩を主導し、幕府との対決に踏み出した。

2006年12月14日 (木)

東沢瀉と必死組、精義隊

   東沢瀉(ひがし たくしゃ 1832-1891)。精義隊を創設した幕末の志士。陽明学者。東正純、通称は東崇一郎という。明治維新以前には白沙の号を用い、明治3年秋、沢瀉山の麓に移居して以降、主に沢瀉の号を用いるようになった。

   天保3年10月9日、岩国錦見村沙原に生まれる。父の東祐利(1793-1863)は岩国藩士で、由宇代官から河内藤谷代官、勘定吟味役を歴任した人物であったが、その父は晩年まで藩に仕えたため、沢瀉が家督を相続し出仕することになったのは、文久元年4月、30歳の時であった。そして同3年3月、養老館の助教に任用され、儒学者としては一応、名誉ある地位に就くことになる。しかし尊王攘夷の荒波が、やがて岩国にも波及していく。東沢瀉は尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、兵制改革をし、岩国藩に精義・日新・建尚・敬威の四隊が編成されることとなった。この中、精義隊は必死組が名を改めたものである。しかし、必死組は過激な行動に走り、御用人や御目付への直談判を要求したり示威行進をしたこともあって、責任問題が持ち上がった。そこで沢瀉と栗栖天山(1841-1866)が責任をとって自首し、慶応2年11月17日、二人の柱島流罪が決まった。

   沢瀉は柱島で3年近くを送り、明治2年秋、赦免を得て戻ることになる。維新後、沢瀉塾を開く。著書に「証心録」「沢瀉語録」「禅海翻瀾」など。

2006年12月13日 (水)

「浮雲」と屋久島

   林芙美子(1903-1951)の名作「浮雲」は、屋久島の豪雨を有名にしたという。

   「ここは、雨が多いんだそうですね」富岡が一服つけながら、軽い箱火鉢を引き寄せて聞いた。「はァ、一ヶ月、ほとんど雨ですな。屋久島の月のうち、三十五日は雨といふ位でございますからね……」

    この有名な件は「一月(ひとつき)に35日雨が降る屋久島は……」とブログ検索で調べても、現在、屋久島の枕詞のように使われている。しかし林芙美子は「屋久島紀行」を残しているように綿密な現地取材をする作家なので、おそらくこの言葉は現地の人から実際に聞いた言葉であろう。また小説の主人公の終焉の地であるところから、文学ファンにとって、屋久島は暗く悲しいイメージがつきまとった。しかし現在は世界遺産として観光客も多く暗いイメージは微塵もない。身近に屋久島に旅行した人に話を聞いたが、小説「浮雲」のことは全然知らなかった。戦後の話は遠い過去だったのだ。

    終戦直後、幸田ゆき子は恋人の富岡兼吾を追って、仏印ダラットから福井の敦賀へ引き揚げてきた。だが、富岡には妻がいるばかりか、複数の愛人とも情事を重ねている。それでも、富岡と別れられないゆき子は、もう一度やり直そうと二人は旅にでる。ゆき子は屋久島に向かう途中で病気になる。やっとのことで屋久島にたどりつくが身動きできないようになった。ある豪雨の日、勤務中の富岡に急変の知らせが届く。富岡は、明かりを持ってきてゆき子の死に顔を見つめて、すすり泣くばかりだった。

                       *

   風が出た。ゆき子の枕許のローソクの灯が消えた。富岡は、よろめきながら、新しいローソクに灯を点じ、枕許へ置きに行った。面のように、表情のない死者の顔は、孤独に放り出された顔だったが、見るものが、淋しそうだと思ふだけのものだと、富岡は、ゆき子の額に手をあててみる。だが、すぐ、生き身でない死者の非情さが、富岡の手を払いのけた。富岡は、新しい手拭いも、ガーゼもなかったので、半紙の束を、屋根のように拡げて、ゆき子の顔へ被せた。

                       *

「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」

長州の萩、岩国

    萩は、長州藩36万石の城下町である。薩長土肥と称され、幕末・明治に活躍した多くの人材を生み出したところだ。阿武川のデルタに出現した城下町だったが、この城下に軒を列ねる武家屋敷は、その静かなたたづまいの中から、火のように燃える志士たちを生んだ。高杉晋作・桂小五郎、前原一誠らの中級武士はもちろん、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、吉田稔麿、入江九一等々の足軽に至るまで枚挙にいとまないくらいである。高杉と並び称された久坂玄瑞も、この城下に住んだ医者の子である。松下村塾がこれらの志士たちを生む大きな力であったが、それは萩の城下と川ひとつを隔てた松本村であった。長州には清末、長府、徳山、岩国など多くの支藩があった。その中で、岩国藩はすこしく本藩と異なる方向で政局に処したことがあった。しかし、それでも本藩の志士たちの影響だろうか、東沢瀉(ひがしたくしゃ)のような熱血の志士を生み出している。(参考:奈良本辰也編「幕末・維新をいろどる群像」旺文社)

「燃えよ剣」と「部長刑事」

    燃えよ剣、第8話「月明無名小路」。京の町、無名小路に面した古道具屋の番頭利助(宗近晴見)は、仕事に無関心な主人喜右ェ門に不審を抱いていた。店には志士の吉田稔麿(楠年明)などが出入りする。利助はおよう(松川純子)と土蔵を開けてみると、多数の武器弾薬が隠されていた。利助は賞金ほしさに新選組に通報した。主人は古高俊太郎(幸田宗丸)という勤皇の志士で、京に火を付け、長州勢をひきいれ、混乱に乗じて天子様を奪う計画であった。この回は池田屋事件の序幕である。

    吉田稔麿(1841-1864)は、吉田松陰の門下、四天王の一人である。池田屋で重傷を負い、いったん長州藩邸の門まで帰り、自刃した。稔麿に重傷を与えたのは、沖田総司だといわれている。ところで、吉田稔麿を演じているのは楠年明。関西に住んでいる人なら一度は見たであろう長寿番組「部長刑事」(1958-2002)の新田刑事だ。そういえば、井上源三郎の北村英三は大鍋部長、新見錦の飯沼慧は沼部長、と「燃えよ剣」は実にたくさんの「部長刑事」の役者さんがでているのも懐かしい。

士道不覚悟

    燃えよ剣、第7話「鬼の通る町」。井上源三郎(北村英三)は沖田総司と湯葉料理を食べにいく。新選組と知った店主は順番を優先させようとする。しかし、井上は「順番だから待つ」と言う。店の女中おさち(坂本幸子)は新選組に好感を持つ。その夜、おさちは夫・杉田要助(大丸二郎)から新選組に入隊したことを聞かされ、共に喜びあう。数日後、土方は会津藩の使者を送る任務を井上に任せる。ところが、井上は杉田を少しでも女房に逢わせようと気をきかせて、その任務を杉田に命じた。役目を終えて杉田はおさちとの逢瀬を楽しんだ。しかし会津の使者は何者かによって斬殺されていた。近藤は「士道不覚悟」を指摘し、土方は杉田に「切腹」を命ずる。わずか入隊三日後のことだった。

   燃えよ剣26話の中でも7位と比較的上位にランキングされている。源さんの人気でもあろうが、若い大丸二郎と坂本幸子のフレッシュコンビに涙する人もいるだろう。大丸は「女と味噌汁」に出演していた青年であり、坂本は「でっかい青春」の女学生だった。その後、あまり活躍することなく消えていったが、思えばふたりにとっては「鬼の通る町」が代表作といえるのだろう。美男美女の二人がなぜ活躍できなかったのかは、今となっては知るよしもないが、「大丸二郎」「坂本幸子」と芸名が余りに平凡だったのが一因かもしれない。

    井上源二郎(1829-1868)は近藤勇より5歳年長の六番隊隊長。武蔵多摩郡日野宿の八王子同心井上藤左衛門の三男。長兄平助、次兄松五郎とともに天然理心流三代近藤周助の門人となる。慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いに参戦、翌4日、淀千両松で甥の井上泰助とともに激戦の最中に討死した。川村三郎書簡に「文武劣等の人」と書き残されているが、真摯篤実の人望家として「源さん」の愛称で親しまれていたと伝えられる。「源さん」のイメージは、俳優北村英三と全く重なり合うようだ。

2006年12月12日 (火)

寒山子詩一編

        千雲万水間

                                    中唐 寒山

 千雲万水の間

 中に一閑士あり

 白日 青山に遊ぶ

 夜 帰りて巌下に睡る

 倏爾として春秋を過り

 寂然として塵累無し

 快よき哉 何の依る所ぞ

 静かなること秋江の水の若し

(千層にも重なった雲、万条にも流れる川のあるこの寒山に、のんびりと過ごす一人の隠者がいる。昼は青山に遊び、夜、帰ってからは岩の下で眠る。たちまち歳月が過ぎ去り、ひっそりと静かで、俗世とは縁が切れている。なんと快いことだろう、頼るものの無いことは。心はまるで、秋の大川のように静かである。)

    寒山は生没年不詳。詩の内容その他から、中唐ごろの人と見なされる。浙江省の天台山にある国清寺(こくせいじ)に出入りし、数々の奇行で知られた。その実在性は疑わしく、単なる伝説上の人物ともいわれるが、俗世に背を向け自然と一体になって暮らしたその人物像や、禅の影響を感じさせるその詩風は、後世に大きな影響を与えた。『寒山子詩集』二巻がある。これは、寒山が村の家々の壁や山中の木、石などに書きつけた詩三百余編を集めて作ったものと伝えられる。(参考:石川忠久「漢詩への誘い 杭州の巻」2004.10)

2006年12月11日 (月)

堺利彦と売文社

    明治43年9月、赤旗事件の刑期を終えて出獄した堺利彦(1870-1933)は、明治43年12月31日、売文社という団体を設立した。大逆事件で明治44年1月に幸徳秋水は死刑となったが、堺利彦、大杉栄、荒畑寒村は、その難をまぬがれた。「社会主義冬の時代」のなかで、堺は生計をたてる目的もあり、また散らばって潜伏している同志との結び目を大切にしたい気持ちもあり、大逆事件の裁判進行中の大晦日に、四谷南寺町の自宅に「売文社」の看板をかけ、なかば韜晦の姿勢をとりつつ、持久できる方法をとった。かつては小説も書き、エッセイも巧みであった堺にとっては、「小生は稍上手に文章を書き得る男なり」という自負も持っていた。従って「文を売って口を糊するに亦何の憚る所あらん」という構えをあえてとり、堂々と代金をとって原稿の作成、翻訳の仕事、下請け、つまり文を売る仕事に応じた。それも広告、手紙、報告書、一切こまごました仕事すべて、という態度に徹した。立案もすれば添削もやる。文を売ることを卑しいとせず、ビジネスと考え、着々実行に移す。そこに堺利彦独特の持久作戦とユーモアとが混在していた。「売文社」なる発想、その看板、堺の手で作った広告、それに協力した当時の理解者、いずれも社会主義運動史に残るほほえましいエピソードであるとともに、これが大杉栄・荒畑寒村らの「近代思想を生み出す下地となり、大正文学史とも結合、やがて堺自身も「近代思想」に協力するとともにみずから「へちまの花」と称する小冊子を発刊、土岐哀果(善麿)もまた「生活と芸術」を創刊、「冬の時代」における三誌雁行時代を迎えることとなる。堺は「へちまの花」ののちこれを改題した「新社会」(大正4年)をつづけ、協力してくれる仲間たちとの広場を静かに強く、息の長いかたちで作り出していった。大杉栄、荒畑寒村、高畠素之、山川均、橋浦時雄、和田久太郎などが参加した。大正8年3月、解散する。(参考:「筑摩現代文学大系89」月報94「現代文学事典」)

新選組二番隊組長永倉新八

   「燃えよ剣」第6話「残陽奈良街道」の主人公は永倉新八(黒部進)である。ある夜、女(北林早苗)が永倉の巡察中に不貞浪士がいると声をかけられ、罠にはまり若い見習い隊士の土井新之助が斬殺された。奈良から土井の父と妹が来たが、永倉は隊長としての責任を感じて、仇討ちを誓う。女は労咳の夫の薬代を稼ぐために、新選組の隊士である弟から得た情報を討幕浪士に売っていたのだ。山崎の調査で隊士の酒井兵助が長州の間者であることがわかり、永倉は酒井を斬る。

    永倉新八は、剣の腕前に優れ、池田屋事件で奮戦した。短命に終わった隊士が多いなか、その後、戊辰戦争を戦い抜き、北海道に渡って杉村治備と名乗って「浪士文久報国記事」「新撰組顛末記」などを残し、新選組の生き証人となった。

   永倉新八(1839-1919)は天保10年4月11日、江戸下谷三味線堀にあった福山藩邸の御長屋で生まれる。父は永倉勘次といい、代々福山藩の江戸定府取次役をつとめた家柄である。幼名は栄治といった。早くから剣の道に志し、神道無念流の岡田十松について研鑽につとめた。その後本所亀沢町にあった百合本昇三の道場に住み込み、さらに剣技をみがき、25歳のときには武者修行に出かけている。帰国後しばらく北辰一刀流の流れをくむ坪内主馬に招かれて師範代をつとめるうちに、近藤の天然理心流ともまじわる機会が増え、小日向柳町の近藤道場に出入りするようになった。永倉は神道無念流や北辰一刀流の連中とも親しかったので、浪士隊の徴募についても情報が入りやすい位置にいたのであろう。近藤らにそのことを伝えたのは彼だということである。

横井也有の「蝶々と蜻蛉」

    横井也有(1702-1783)。俳人。尾張藩士の横井時衡の長男。26歳で家督を継ぐが、53歳で名古屋前津の知雨亭に隠棲、自適の生涯を送った。享年82歳。

    俳諧は貞門派の祖父、父の影響を受け各務支考に私淑し、その一門の武藤巴雀、太田巴静に学ぶ。俳文集「鶉衣」は著名である。永井荷風は「日本の文明滅びざるかぎり、日本の言語に漢字の用あるかぎり、千年の後と雖も、必ず日本文の模範となるべきもの」と絶賛している。鶉衣の中でも「蝶々と蜻蛉」が名高い。

   蝶々と蜻蛉(とんぼ)

   蝶の花に飛びかひたる、やさしきもののかぎりなるべし。それも鳴く音のあいなければ、籠に苦しむ身ならむこそ猶めでたけれ。さてこそ荘周が夢もこのものには托しけめ。ただとんぼうのみこそ、彼にはやや並ぶらめど、糸に繋がれ、もちにさされて、童のもてあそびとなるだに苦しきを、あはうの鼻毛に繋がるるとはいと口をしき諺かな。美人の眉にたとへたる蛾といふ虫もあるものを。

   蝶が花に飛びかかっているのはいいし、鳴かないので籠に入れられないのも好きで、昔中国の荘子が夢で蝶になったというのももっともである。蜻蛉は捕らえられて子どものもてあそび物となったり、悪いことわざなどにも出てきて面白くない。

横井也有の俳句

庭ばかり流行る医者ありけふの菊

頼政の忌日もしらで網代守

南天や米こぼしたる花のはて

   また近年の健康ブームで、横井也有の「健康十訓」が知られるようになっている。

      健康十訓

  一、少肉多菜

  二、少塩多酢

  三、少糖多果

  四、少食多噛

  五、少衣多浴

  六、少言多行

  七、少欲多施

  八、少憂多眠

  九、少車多歩

  十、少憤多笑

   この「健康十訓」は清水義範の「福沢諭吉は謎だらけ」に紹介されていたものであるが、「心訓」は偽作であるが、「健康十訓」は本物なのだろうか。本物であるならば横井也有はスゴイ!! とくに九訓目の「少車多歩」つまり、「車に乗るより、よく歩け」は現代のモータリゼーションの時代を予見しているかのようである。相当な多才多能の人だったことは間違いない。

2006年12月10日 (日)

J.S.ミルの「意見の自由」論

   ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)は、経済学者ジェームズ・ミル(1773-1836)の長男としてロンドンに生まれる。ミルの一生は、イギリスがナポレオンとの戦争を開始した直後から、その後の経済的困難の時代を経て、その繁栄を天下に誇示したビクトリア女王の治世の前半までの、もっとも変化のはなはだしい時代に相当する。その変化は、一言でいえば、工業化と民主化の進展といえよう。すなわち、新しい産業技術が各方面に普及するとともに社会の階級的構造を変えていく。他方、経済上の自由放任の勝利は国民の生活水準を高めるが、それと並行して工場法の制定、労働組合の結成の承認、選挙法の拡張、地方自治の拡大などは、社会の民主化を進めていった。

 このような工業化と民主化とを当時の人々は文明の進歩と称していたが、イギリスが平和のうちにこの進歩の思想に浴しえたのは多くの原因による。しかし、その一つの原因として、自由主義の原理に立ちながら、その工業化の必然と民主化の必要とを訴え、かつ改革の行き過ぎのもたらす危険を警告して世論の指導にあたった思想家の存在を見逃すことはできない。イギリスが大陸の諸国と異なるのは、その自由主義が単にブルジョワの思想にとどまらず、労働者を含めて国民的政治信条となったことであり、そのことがイギリス労働運動が革命的にならなかった理由であるが、そのような自由主義の民主主義化をもたらした思想家の代表者が、ジョン・スチュアート・ミルである。主著に「経済学原理」「代議政治論」「功利主義論」などあるが、ここでは有名な「自由論」の一部を紹介する。(「世界の名著38」早坂忠訳)

           *

   われわれは今や、四つの明白な根拠にもとづき、意見の自由と意見の発表の自由が、人類の精神的幸福にとって必要である、と認めた。その根拠の要点を、ここでもう一度簡単に述べておこう。

第一、もしある意見が沈黙を強いられるとしても、ことによったらその意見は正しいかもしれない。これを否定することは、われわれ自身の無誤謬性を仮定することである。

第二、沈黙させられた意見が、たとえ誤謬であるとしても、それは真理の一部を含んでいることがごくふつうである。そして、ある問題についての一般的ないし支配的な意見も、真理の全体であることは、めったに、あるいはけっしてないのだから、残りの真理が補足される機会をもつのは、相反する意見の衝突によってだけである。

第三、たとえ一般に受け入れられている意見が、真理であるのみならず真理の全体であるとしても、それが精力的にかつ熱心に論争されることを許されず、また実際論争されるのでないかぎり、それは、その意見を受け入れているほとんどによって、その合理的な根拠についてはほとんどなんの理解も実感もなしに、偏見のような形でいだかれることになるであろう。

第四、もし自由な討論がなければ、教説そのものの意味が、失われるか弱められるかして、人格と行為に与えるその重要な効力をうばわれてしまう、という危険にさらされることになるであろう。教義は、永遠に無力な単なる形式的告白となり、しかもいたずらに場所をふさぎ、理性や個人的体験から、なんらかの真実なそして衷心からの確信が生まれるのを妨害するものとなるのである。

    東大、筑波大学、慶応義塾などの権威ある図書館学者たちの作文「これからの図書館像」に対するケペルのブログの意見に中傷や攻撃があるが、このミル先生の自由4原則を読んだ限りにおいて、良心的で誠実な態度で自由に意見を述べることは、かのミル先生も容認してくれるのではないだろうか。

福沢諭吉「心訓七則」

   世に福沢諭吉の「心訓七則」というのがある。福沢の数多い箴言のなかでも、今日でも世人に最も良く知られた言葉である。額装された「心訓」が100円ショップでも購入できる。けれども残念ながらこの心訓は福沢の言葉ではない。どこかの知恵者が勝手に、それもどうやら戦後になってつくり上げた、偽作である。「福沢諭吉全集」第20巻の附録で、富田正文が「福沢心訓七則は偽作なり」と断定している。近年、清水義範の「福沢諭吉は謎だらけ」でいろいろこれに関して推理しているが面白い。とくに福沢諭吉の「脱亜論」は時事新報社の石河幹明が書いた論説で1933年の「福沢諭吉全集」に収められたという平山洋の「福沢諭吉の真実」の新説を採用している。そして「脱亜論」は戦前それほど知られておらず、1951年の遠山茂樹、1961年の竹内好らによって、福沢諭吉の「脱亜論」はよく知られるようになったのだという。

訂正とお詫び(12月18日)論説「脱亜論」の初出は、明治18年3月16日付の時事新報の無署名の社説であるが、昭和8年7月刊行の慶応義塾編「続福澤全集第2巻」(岩波書店)に福沢諭吉の著作物として収録されたものである。「福沢諭吉の真実」の著者の平山洋氏から、「脱亜論」は福澤諭吉の真筆であると考えておられる旨のご指摘があったので、ここに訂正とお詫びを申し上げる。

              心訓

一、世の中で一番楽しく立派な事は 一生涯を貫く仕事を持つという事です。

一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。

一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。

一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。

一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。

一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。

一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。

2006年12月 9日 (土)

宇野千代という生き方

   宇野千代(1897-1996)の処女作「脂粉の顔」が「時事新報」の懸賞に入選してから、70数年にわたり発表した作品は、量的には多くない。長篇というよりは、中篇小説として「色ざんげ」「おはん」などあるほかは、短編小説ばかりである。尾崎士郎、東郷青児、北原武夫らとの恋愛生活や奔放なくらしぶりで女流作家としての話題性が豊富であること、出版社スタイル社の経営、きものデザイナーなど実業家としての社会的活動もあり、宇野千代流の生き方が彼女のファンを魅了しているようである。しかしながら、文学性において寡作といいながら、彼女の作品はいずれも文学上の理想を純一に保っており、通俗小説や中間小説に向かわせないものがある。しかし宇野千代自身はあまり文学に理屈をつけるタイプではないことは、つぎの瀬戸内寂聴との対談にあらわれている。宇野は「瀬戸内さん、あなたは小説家を特別の職業のように思っているらしいけれど、そうではないのですよ。小説家はパン屋や八百屋と同じような、ただの仕事なのよ」といったという。

    昭和63年、日本近代文学館主催の「女性作家十三人展」には現役作家として宇野千代、佐多稲子の二人が選ばれている。樋口一葉、与謝野晶子、田村俊子、野上弥生子、岡本かの子、宮本百合子、平林たい子、林芙美子、円地文子、壺井栄、有吉佐和子、宇野千代、佐多稲子の13人である。

2006年12月 8日 (金)

芹沢鴨暗殺

    「燃えよ剣」第5回「祇園・島原」。近藤勇と土方歳三は会津藩公用人の外島機兵衛に呼ばれた。外島がいった。「京都では、いかに顕職の士でも、祇園と本願寺、知恩院、この三つの一つでも憎まれれば役職から失脚する、ということがござる。ご存知でござるか」「いや、いっこうに迂遠です」「土方先生は?」「さあ」外島はいった。「代々の所司代や地役人の謳いなした処世訓でござるが、僧と美妓は、いかなる権門のひいきがあるかもしれず、かれらの陰口は思わぬ高い所にとどくものです。じつを申すとわが主人が、芹沢先生の御行状一切、われらよりもよく存じておられる。多くは申しませぬ。この一時、十分にお含みくだされますように」「わかりました」近藤はいった。目に余る悪行を繰り返す局長芹沢鴨(名和宏)、新見錦(飯沼慧)は、近藤一派に暗殺された。飯沼は「新選組血風録」でも新見錦だった。現在も舞台で活躍しているという名優である。

2006年12月 7日 (木)

里御坊の女

    「燃えよ剣」第4回「里御坊の女」。宝鏡寺尼門跡の里御坊だった大仏裏の古家に佐絵(赤座美代子)が住み、人に歌学を伝授している。というのは表むきで、この里御坊は、諸藩脱藩の士の隠れ場所の一つであった。佐絵はかれらの考えに共鳴し、この古家を管理しながら、かれらを世話し、勤皇烈女、といった存在になっている。武州で土方歳三に片腕を斬られた七里研之助(亀石征一郎)はこの里御坊にいた。監察山崎の探索で場所がわかった。土方と七里の決闘は一瞬に終わった。

2006年12月 6日 (水)

三条木屋町紅屋

    「燃えよ剣」第3回「三条木屋町紅屋」。時は文久3年春。清河八郎率いる浪士組の本隊は江戸幕府より呼び戻された。京都に残った芹沢鴨、新見錦、近藤勇ら13人は、ともに浪士組を脱退して京都に残ることに決めた。これによって「壬生浪士」は幕府の雇用から離れることになったが、幸い会津藩主松平容保が、「この13人は当藩で預かる」といってくれたので、会津藩お預かりという身分で京都に滞在することが可能になった。ドラマ中で紅屋で長州の志士に名乗るとき、「京都守護職会津中将(松平容保のこと)預、土方歳三」といったのはそのためである。なお正式な肩書きは「松平肥後守殿御預浪士」(まつだいらひごのかみどのおあずけろうし)である。3月12日、深夜、そのことが決定すると、一同は喜んで朝まで酒を飲み明かしたという。この浪士隊に転機が訪れたのは8月である。禁門の政変が勃発し、蛤御門の警備に出陣する。松平容保は、浪士隊を会津藩の部隊に格上げし、会津藩に昔からあった「新選組」の名称を与えた。新選組結成時の役員は次のとおり。

局長 芹沢鴨、近藤勇、新見錦

副長 山南敬助 土方歳三

助勤 沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、平山五郎、野口健司、平間重助、斉藤一、尾形俊太郎、山崎蒸、谷三十郎、松原忠司、安藤早太郎

調役並監察 島田魁 川島勝司、林信太郎

勘定役並小荷駄役 岸島由太郎、尾崎弥兵衛、河合耆三郎、酒井兵庫 (計26名)

春の月かげ

   「燃えよ剣」第2回。文久3年2月、洛外の田畑が広がるのどかな里に、関東より得体の知れない侍のような集団がやってきた。新徳禅寺や村会所、数軒の郷士宅に分宿していた浪士団はほどなく関東へと去ったが、不幸にも去らなかった浪士たちがいた。のちに新選組とその名を轟かす男たち。京都では壬生狼と呼ばれた。その党首となる芹沢鴨、近藤勇たちの宿として割り当てられたのが八木源之丞家であった。壬生狂言では筆頭宗家を務める壬生住人士の家柄で、家族は妻のまさ、秀二郎、道之助、為三郎、勇之助の男子と、六人の女子がいたといわれる。

   八木家では、浪士のために離れを提供していた。六畳、四畳半、三畳の部屋と外に少し板敷きもあるという造りであった。だが、この部屋に十三人の男たちが起居する図は、想像してもあまり気持ちのよいものではない。芹沢鴨たちはさっさと母屋に移り、後にその部屋を血に染めて絶命する。芹沢が暗殺された時、八木家の勇之助少年は、とばっちりで足に刀傷を負っている。八木源之丞は明治26年に90歳で亡くなっている。八木家では隊士たちのことを「素朴ないい人たちだった」と今でもいい伝えている。

2006年12月 4日 (月)

土方歳三と和泉守兼定

   「燃えよ剣」第1回「新選組前夜」が時代劇専門チャンネルでスタートした。尊王倒幕運動が激化する幕末。尊攘派の志士の横行に手を焼いていた幕府は、天下に人材を求めようとする清河八郎(御木本伸介)の浪士募集策をいれ、江戸の浪士隊が結成された。江戸の貧乏道場天然理心流試衛館の近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、山南敬助、藤堂平助、原田左之助、井上源三郎らは浪士隊に参加する。文久3年2月8日、小石川伝通院に集まった試衛館のほか、神道無念流の使い手の芹沢鴨、新見錦ら水戸派と共に浪士隊234人は中仙道を京に向かう。

   土方歳三(栗塚旭)は、愛宕下の刀屋町をはじめ、江戸中の刀屋を駈けまわって、「和泉守兼定はないか」ときいた。名代の大業物である。「初代や三代兼定ならございますが」という者もある。おなじ和泉守兼定でも初代と三代目は凡工で、値も安い。浪人にはころあいの差料である。歳三は、「ノサダだ」と、いった。二代目である。

   歳三はどしゃ降りのある日、小さな古道具屋孫六に入った。「和泉守兼定はないか」「ございます」といったのは、なんと両眼白く盲いた老人(加藤嘉)である。「たしかか」「疑いなさるなら、買って頂かなくともよろしゅうございます」「いや、その眼で鑑定はたしかかと申しているのだ」「刀のことなら」老人は乾いた声で嗤った。「みせてくれ」老人は、奥から、触れるもきたないほどに古ぼけた白鞘の一口を出してきた。「ごらんあれ」抜いてみた。赤さびである。歳三は、自分の顔が蒼ざめてゆくのがわかるほどに怒りをおぼえた。が、さあらぬ体で、「値いは、いかほどか」「五両」歳三は、だまった。しばらくこのひからびた老盲をにらみすえていたが、やがて、「なぜ、やすい」といった。「刀にも、運賦天賦の一生がございます。この刀は、誕生れた永正のころなら知らず、その後は一度も大名大身のお武家の持物になったことがない。ながく出羽の草深い豪家の蔵にねむり、数百年ののち盗賊にぬすまれてやっと暗い世に出た。その賊が、手前どものほうに持ち込んだ、といういわくつきのものでございます」容易ならぬことを老人は明かした。その筋にきこえれば、手に縄のかかる事実だ。それを明かすとは、どういう真意だろう。「見込んだのさ」老人はぞんざいにいった。「これに五両を置く」と歳三はいった。すぐ、愛宕下で砥がせた。みごとな砥ぎで、だれがみてもまぎれもない和泉守兼定であった。「斬れる」刀をもつ手が、慄えそうであった。歳三は、その夜から、沖田総司がいぶかしんだほど、挙措がおかしくなった。歳三はその夜も出かけた。辻斬りが、目的ではない。辻斬りに逢いたくて、歳三は毎夜、うわさの場所を点々と拾って歩いてゆく。ついに出逢った。歳三の右手浅くにぎった和泉守兼定が風のように旋回した。男は即死である。(斬れる)その夜が、正月三十日。数日後の二月八日に歳三ら新徴の浪士三百人は中仙道をへて京へのぼった。文久三年二月二十三日の夕刻である。歳三は、壬生宿所に入った。袖に、江戸の血が、なお滲んでいる。

2006年12月 3日 (日)

三島由紀夫「仮面の告白」

    三島由紀夫は、昭和22年11月、東京大学法律学科を卒業、高等文官試験に合格、大蔵省に入った。父の三島梓の意向に従ったもので、祖父、父についで官僚のエリートコースを歩み出した。しかし、その勤務のかたわら、寝食を惜しんで執筆した。昭和21年7月号の「人間」に「煙草」を発表してから、24年7月に「仮面の告白」を出版するまで、ちょうど3年のあいだに三島は、文藝雑誌、婦人雑誌、綜合雑誌に次々と作品を発表し、ことに昭和23年9月に大蔵省を退職し、文筆生活に入ってからは、ほとんど毎日巧みに構成された短編小説や戯曲を発表している。こうして新進作家としての地位を築きつつあるとき、河出書房の坂本一亀(坂本龍一の父)から、書き下ろし長編小説の依頼を受けた。昭和24年7月に「仮面の告白」が刊行されると、毀誉褒貶あい半ばしたものの大きな反響があり、作家としての地位を確立した。この作品は、主人公の「私」は、ギイド・レーニの「聖セバスチャン」の絵や、おわい屋の青年の紺の股引きによって自覚を促される同性愛的性向の持主であり、園子との初恋も、彼の努力にかかわらず、そのために不毛で退屈な遊戯におわるというものである。三島の文学と人間を知るためには最も大事な作品である。「作家は処女作に向かって成熟する」(亀井勝一郎)といわれるが、「仮面の告白」(厳密には処女作ではないが)には三島が後に発展させていったテーマがみな萌芽の形で隠されている。

壮絶、土方歳三の最期

   「新選組血風録」第26話は最終回「燃える生命」。明治2年5月官軍の総攻撃が始まり、土方歳三はわずかな手兵を率い、馬に乗って出陣した。流弾に当たって戦死。武州日野の農家に生まれ、少年のころから夢みた「武士道」を実践し、新選組副長となった。京都、会津、仙台、箱館と死地を求めて転戦し、35歳の命を絶った。

    最後に、このドラマを盛り上げた主題歌「新選組の旗は行く」渡辺岳夫作曲、高橋掬太郎作詞が心にしみる。

    新選組の旗は行く

1 花の吹雪か 血の雨か

  今宵白刃に 散るは何

  誠一字に 命をかけて

  新選組は 剣を執る

2 三つ葉葵に 吹く嵐 

  受けて立つのも 武士の意地

  加茂の千鳥よ 心があらば

  新選組の 意地に泣け

3 明日はこの身が 散らば散れ

  燃える命に 悔いはない

  月に雄叫び 血刀かざし

  新選組の 旗は行く

「映画の父」はリュミエール兄弟

    1889年、アメリカの発明家トーマス・A・エジソンは、動く映像をスクリーンに映写する実験を行なった。しかし、エジソンが1894年に公開したのは、スクリーンに映写する装置ではなく、箱の中にフィルムを装填する「キネトスコープ」で、一度に一人しか観ることのできないものだった。エジソンが「キネトスコープ」を先に完成させた訳は、スクリーン映写型の装置は大量販売には向かないと判断したためだといわれる。ほかにも、同様の実験を行なった科学者は数多くいた。ドイツのスクラダノフスキー兄弟や、イギリスのロバート・ウィリアム・ポール、フランスのオーギュスタン・ル・プランスなど。しかし結果的に観客の前にスクーリーンに映画を映すというスタイルの興行を1895年にパリで行なったフランスのリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」が「映画の父」の称号を勝ち取ったのである。(参考:「週刊20世紀シネマ館」)

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