儒学の発達
江戸時代、徳川幕府は封建社会の秩序を維持するため、権力のほかに思想・学問の力を借りる必要があった。そのため封建制を合理化した儒教、とくに朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため、幕府や藩にも受け入れられた。京都相国寺の禅僧であった藤原惺窩(1561-1619)は朱子学を修め、還俗して朱子学の啓蒙につとめた。その門人の林羅山(1583-1657)は家康に用いられ、この門流から林鳳岡(1644-1732)、柴野栗山(1736-1807)、安井息軒(1799-1876)らが出た。このほか惺窩の系統には石川丈山(1583-1672)、松永尺五(1592-1657)、尾藤二洲(1745-1813)、木下順庵(1621-98)、室鳩巣(1658-1734)、新井白石(1657-1725)、三浦梅園(1723-89)があり、土佐の南学の流れには山崎闇斎(1618-82)、野中兼山(1615-63)、古賀精里(1750-1817)がある。
陽明学は、明の王陽明が始めた学問で、初め朱子学を学んだ中江藤樹(1608-48)や門人の熊沢蕃山(1619-91)らが取り入れて日本で説いた。陽明学は現実を批判して知行合一の立場で矛盾を改める革新性をもっていた。山片蟠桃(1748-1821)、佐久間象山(1811-64)、吉田松陰(1830-59)などがあらわれている。
孔・孟の思想への復帰をとなえた古学派には、伊藤仁斎(1627-1705)、伊藤東涯(1670-1736)、荻生徂徠(1666-1728)、太宰春台(1680-1747)、広瀬淡窓(1782-1856)があり、多く社会・政治の問題に関心をもった。朱子学に疑いをもつ儒者には、山鹿素行(1622-85)、貝原益軒(1630-1714)がある。益軒はまた本草学者で、農学者には宮崎安貞(1623-97)がある。また石田梅岩(1685-1744)は仏教と儒教をもとに心学をはじめ、手島堵庵(1718-86)、中沢道二(1725-1803)らによって農村都市に普及した。
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