猿飛佐助と真田十勇士
真田十勇士とは、大阪の出版社である立川文明堂が出版した「立川文庫」が猿飛佐助のヒットに続き、真田幸村の家臣の中の活躍を次々と書き下ろし、ついに十勇士とした架空のヒーローたちである。猿飛佐助幸吉(ゆきよし)、霧隠才蔵宗連(むねつれ)、三好清海入道、三好伊佐入道、穴山小助、望月六郎、海野六郎、筧十蔵、根津甚八、由利鎌之助春房(はるふさ)の10人。豊臣家滅亡の悲劇性、大阪人の江戸への反感が真田十勇士の人気の背景にある。
立川文庫版「猿飛佐助」によると「ところは信州鳥居峠の麓に、鷲塚佐太夫といふ郷士があった。もとは信州川中島の城主森武蔵守長可の家来であったが、主君武蔵守小牧山の合戦に討死以来、根が忠義無類の鷲塚佐太夫二君に仕える心はないと、浪人してほどからぬ鳥居戸峠の麓に閑居なし、少々の貯えあるに任せて田地川畑を買い求めて郷士となった。この佐太夫に二人の子があり。姉は小夜、弟は佐助。ところが姉の小夜は、生まれながらの美人であって気質もいたってやさしい、それに引き替え弟佐助は、当年10歳だが、生まれつきの大力無双、おまけに身軽なことは驚くばかり、毎日鳥居峠の山中に入り込み大木によじ登り、木から木へ伝って飛びまわり、樹の上で猿なぞと、鬼来いごっこをして遊ぶ有様、なんしろ身軽なことであった。」とある。佐助は甲賀忍者の戸沢白雲斎に見込まれ、忍びの手ほどきを受け修行に励む。5年で家伝の忍法を授けられ免許皆伝の域に達する。15歳のときに真田幸村に見出され、猿飛佐助幸吉の名を授かり家臣として活躍。その後、秀頼公に従い、九州島津家へ落ち延び、豊臣再度の旗揚げに尽力したところで物語はひとまづ終わっている。
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