フランスとマンドリンと朔太郎の青春
萩原朔太郎(1899-1938)は、明治42年第六高等学校(岡山高校)第1学年で落第した。明治43年4月、慶応義塾大学予科1年入学、同月退学。明治44年5月、慶応大学予科1年に再入学したが、家事の都合によるとの理由で11月に退学している。
萩原朔太郎、26歳。このころの生活については未詳の部分が多いが、自伝で岡山高校を「病気のために中途退学し、爾後東京に放浪す」といっており、かなり永いあいだ滞京していたと推定できる。
明治44年早春から夏ころにかけて、マンドリン音楽界の権威であった比留間賢八、田中常彦、アドルフォ・サルコリにマンドリンを習う。この年か翌年あたりに、上野音楽学校に入学しようとしたが、望みを果たせなかったという。「10月頃、日本を去ろうと思い、帰郷してその旨を父に話したが実現せず」とある。
「旅上」は大正2年(28歳)5月、白秋の「朱欒」に、掲載されたもので中央詩壇への初登場である。
旅上
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
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