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2006年11月12日 (日)

宮沢賢治『春と修羅』

    宮沢賢治は、大正13年に入ると創作熱は高まり、1月に『春と修羅』序文を記し、2月には後の「風の又三郎」の原型となる「風野又三郎」を生徒に筆写させている。そして、4月20日、これまでの心象スケッチを集成した『春と修羅』が東京の関根書店から刊行される。函入り布装で320ページ、定価は2円40銭。発行部数は1000部で自費出版である。収録作品の出し入れなど詩集の構成にも非常に配慮がなされていることがわかる。

    刊行3ヵ月後の大正13年7月23日、読売新聞に辻潤(1884-1944)の批評が掲載される。「この詩人はまったく特異な個性の持主だ」「私はツァラトゥストラを忘れても「春と修羅」を携えることを必ず忘れはしないだろう」と、ニーチェまで引き合いに出して絶賛している。つづいて「日本詩人」で1年を回顧する批評を書いた佐藤惣之助(1890-1942)が『春と修羅』に言及したのである。「この詩集はいちばん僕を驚かした。何故なら彼は詩壇に流布されている一個の語彙も所有していない。かつて文学書に現はれた一聯の語彙を持ってはいない。彼は気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた」「僕は十三年度の最大収穫とする」と激賞した。これらの好評に対して賢治は「まだ挨拶も礼状も書けないほど、恐れ入っています」と、当時中学生の森佐一(のちに直木賞受賞する森荘已池)への手紙に記している。

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