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2006年11月10日 (金)

石川啄木とカンニング事件

友がみなわれよりもえらく見ゆる日よ

花を買ひ来て

妻としたしむ

    石川啄木は豊かな天分と、時代に先駆したすぐれた才能を持ちながら、不遇な人生を送り、上京後の創作生活にも失敗して、この歌の作られた明治43年当時は、東京朝日新聞社の一校正係としての職に甘んじていた。これに反して盛岡中学校時代、文学や人生を論じて将来を語りあった多くの友人たちは、それぞれの目的に向かって輝かしいコースを歩んでいたのである。

   盛岡中学校の啄木の同級生中、高等学校から帝国大学に学んだのは、小野弘、田中館要橘、足沢慶次郎、佐々木一郎、小原弥兵衛、丹下秀夫、村上四郎、柴内保次、横川斎の9名。仙台医学専門学校には船越金五郎、宮杜一郎、福永延、平沢拙三の4名が入学し、千葉医専へは藤井謙三が、慈恵院医専へは池田隆が、また京都医専には岩動康治がそれぞれ入学している。地元の盛岡高等農林学校へは、遠藤喜蔵、小原恒一、獅子内謹一郎、生内定三、高村章一郎、村上順平、中村貞治、川越千代司、小沢東三郎、久保田晴一の9名が進学している。また米国留学生としては伊藤久治、久保田練兵、川村哲郎、吉田与平治、一条友吉らがあり、札幌農学校、東京高等商業学校など各種専門学校を目ざした者も少なくない。また陸軍士官候補生に本堂英吉、小瀬川浩策の二名が選ばれているので、盛岡の学窓を出て7年をへた明治43年の秋には、軍人・医師・官吏・実業家・教員・新聞記者として、それぞれの方面に華やかに活躍していたことだろう。

   啄木がこのように出世していく友人たちと異なり「悲しき人生」を歩むことになるのは、やはりカンニング事件が起因していると言わざるをえない。それは明治35年7月15日の学期末の数学の試験に特待生孤崎嘉助らと不正行為を行ったことである。この日の職員会議で謹慎処分、保証人召換、答案無効の処分が決定した。そして10月27日、突然「家事上の或都合」を理由に盛岡中学を退学、月末何らの経済上の保障もないままに上京している。そして明治37年には堀合節子と婚約、翌年結婚と困窮生活が生涯ついてまわるようになる。思えば明治期の学歴社会においてエリートコースをはずした彼の人生の蹉跌は、悲しむべきカンニング事件がそのはじまりであった。

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