大阪時代の内村鑑三
内村鑑三の大阪在住時代は明治25年9月から明治26年4月までの僅か半年余りの期間である。内村32、33歳のこの時期は、あの不敬事件の直後であり、二番目の妻の横浜加寿子の死、そして自身にも肺炎と腸チフス、不眠症が続いていた。札幌、越後と転地療養したが、失職のため経済状況が切迫していた。彼には年老いた両親とまだ若い弟二人、妹一人の世話をする責任があった。
内村鑑三の生涯にわたる旺盛な執筆活動は、このような経済的な事情が背景にあるように思われる。かれは東京市内の教会の英語バイブルクラスを担当し、「六合雑誌」に投稿したりしていた。明治25年9月、大阪市梅田の泰西学館という中学校に定職を見つけた。家族を東京に残して内村は単身この学校の教員として翌年の4月まで大阪で暮らすこととなる。この大阪時代に多数の論文を執筆しているが「文学博士井上哲次郎君に呈する公開状」もその一つである。著作物では彼の代表作のひとつ『基督信徒の慰め』も大阪時代のものである。「愛するものの失せし時」「国人に捨てられし時」「基督教会に捨てられし時」「事業に失敗せし時」「貧に迫りし時」「不治の病に罹りし時」と六つの章は、まさに彼が現実の試練を経験する中で霊のなぐさめを説明したものである。そして教会から追い出され「余は無教会となりたい」と書いている。後年の無教会主義者内村鑑三はこの大阪時代に初めて「無教会」という言葉を使ったのである。
もうひとつ内村の大阪時代に大きな出来事がある。明治25年12月25日に岡田シズと結婚している。シズ夫人は当時18歳、以後内村の生涯の終わりまで苦楽をともにすることになる。夫人の父岡田透は、当時京都市の判事であり、弓術の大家でもあった。この夫人の協力を得て、内村は明治26年1月初旬から日曜学校を始める。来会者は20名くらいだった。4月には蔵原惟郭の招きで熊本英学校に転任する。だがこの学校もまた一学期いただけで退職する。教育者としての内村は、北越学館、一高、泰西学館、熊本英学校と短期間に転任したが、教育界に失望したようである。日本の学校教育は人物養成を目的と称しているが、実は役人または職人養成のためのものでしかない。永遠にわたる真理をきわめんと欲するのが学生の願いでもなければ、またこれを彼らに吹き込んで彼らを「真個のゼントルメン」に作り上げようとするのが教師の目的でもない。それゆえ既成の学校で自分が働くのは無益である。「口を噤まれし余にとりては今は筆をとるよりほかに生存の途がなくなった」と後年その当時を回想して内村は述べている。教育界を去るべく決心したかれに残された職業は、筆一本で生きる評論家としての仕事以外になかった。(参考:関根正雄「内村鑑三」清水書院)
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