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2006年11月26日 (日)

鴨長明の閑居生活

    鴨長明(1155?-1216)は、生涯にわたり五つの大きな災厄を経験した。すなわち、安永の大火(火災)、治承の旋風(風災)、福原遷都、養和の飢饉(水災)、元暦の大地震(地災)である。鴨長明が生きた中世初期は激動の時代で、世間の中にあって心身が片時も休まることがなかった。60歳を数え、すっかり零落した長明が、余生の安心のために導き出した結論は、閑居した上での、天台宗・浄土教の教えに基づいた宗教生活であった。河合神社の禰宜職に就く念願がかなわなかったのがその原因ともいわれるが、京都郊外の日野山の奥に方丈の庵を建て、隠者として一人暮らしの道を選んだ。朝には「法華経」を読誦して罪障を懺悔し、夕には阿弥陀仏の名号を唱え、極楽往生を願ったのである。宗教生活といっても、実に気楽なものであった。「方丈記」によると、もし念仏を唱えるのが面倒で、読経するのにも身がはいらない時は、思うままに休み、怠けるのである。誰もいない一人住まいなので、咎める人もいない。また、仏道修行の一つである無言の行をしなくても、一人で暮らしているのだから、言葉による罪を犯さなくてすむわけである。仏教徒として戒律を守る努力をしなくても、戒律を破る環境ではないので、閑居は好都合であった。(参考:「名言で読む日本史人物伝」学習研究社)

2006年11月25日 (土)

粋なジャズ・シンガー、アニタ・オデイ

   11月23日、ロサンゼルスの病院でジャズ歌手のアニタ・オデイ(1918-2006)が亡くなった。87歳。アニタ・オデイは1918年12月、イリノイ州シカゴで生まれた。20歳頃からシカゴでプロ歌手として歌っていたが、1941年から43年までジーン・クルーパ楽団の専属となって活躍した。1944年から45年まではスタン・ケントン楽団に移籍し、花形歌手として活躍。続けて再び短期間クルーパ楽団に戻った後に独立、クラブにも積極的に出演、50年代に入るとノーマン・グランツの下で続々とレコーディングを行い、その人気を不動のものとした。

   日本で彼女の名が知られるようになったのは、映画「真夏の夜のジャズ」(1958年)の出演からである。この映画はニューポート・ジャズ・フェスティバルの模様を収録したもので、熱溢れるジャズと海をテーマとした美しい画面で、多くの観客を感動させた。1964年にバーブ・レーベルから離れた後、しばらくレコーディングに恵まれなかったが、1969年ニューヨークで本格的に復帰し、生涯歌い続けた。一方、麻薬や酒におぼれ、麻薬からは手を切ったが、アルコール依存は長く続き、1996年には自宅で酔って階段から転落、回復してから再び舞台に立ち、今年はCDをリリースした。

   代表作は「ハニーサックル・ローズ」「スイート・ジョージア・ブラウン」など多数あるが、スタンダードナンバーをアレンジした曲にスキャットを織りまぜ粋に表現することがアニタの持ち味である。ビリー・ホリディ(1915生)、エラ・フィッツジェラルド(1918生)、ペギー・リー(1920生)、ドリス・デイ(1924生)、サラ・ボーン(1924生)らと共にジャズ黄金時代の最後の花形歌手だった。

2006年11月24日 (金)

図書館の危機を煽る学者たち

   今、公共図書館の現場ではさまざまな現象が起こっている。委託、派遣、PFI、指定管理者制度などなど。

   そして某日、わが職場では「館長面談」というのがあった。職員一人一人と館員が30分くらいフリーな内容で話をするのである。もちろん人事異動のための本人の希望をきくことがメインであるが、いろいろな雑談もした。館長は改革派であり(東京出張で糸賀や薬袋の研修を受けている)、終わりに「図書館はどう変わるのか」(図書館の学校2006.No.69)のコピーを渡された。それは2005年11月10日、11日に行われた図書館セミナー「デジタルで変わる図書館」と「公共図書館の運営システムが変わる」をテーマの公開討論記録である。出席者は糸賀雅児、小川俊彦、高山正也、冨江伸治。

   糸賀はすでにいろいろな講演や論文でいっているが、開口一番「日本の公立図書館は、危機的状況をとっくに通り越してもはや手遅れです」と述べている。以下「これからは公務員の方々は図書館で働きたくても働けなくなるでしょう」高山正也は「あなたは公務員をとりますか、図書館員をとりますか、と問う時代になってきている」といい、専門職のグレード制に熱心である。これらの学者たちは政府と情報系企業とアメリカ制度(アメリカと日本とは国情が異なり合わないことのほうが多い)を引き合いに出し、戦後制度の見直し論(実は戦前回帰のことである)を主張しているのでいわば改革派といえばわかりやすいかも知れないが、実は保守系なので「うわべだけの改革派」なのだ。

   現代は恐怖、不安を煽られる時代であるが、多くの場合、それはつくられた「現実」であったり、虚像としての民営化モデルだったりする。つまり、変化は意識の面だけで、現実にはそれほど図書館が変わっていなかったり、変わっていても一部の田舎の図書館だけだったりする。都市部の中核的な図書館はいまも「市民の図書館」を基本に運営しているところが多い。館長にそれを言うと即座に「君は甘い!」と言われた。そうかも知れない。しかし人は恐怖の中よりも希望の中でもっと豊かに成長できるものである。学者は頭がいい。社会学の清水幾太郎という人は戦後の思想界をリードしてきた学者だが、転向するのも早かった。よく彼の経歴を調べたらなんと戦前の専門は「流言蜚語」のプロだった。国民を煽るのはうまいはずだ。当世流行の図書館学者も頭はいいしアジの手口も清水以上だ。危機、恐怖、不安を煽ることにかけてはプロであるが、彼らの著作物や言説が本当の意味での学としての図書館学といえる内容なのであろうか疑問に思っている。曲学阿世という言葉は封印して、30年後に再読して判定するという老後の楽しみができたわけだ。

    ケペルは館長に次の論文を読んでほしいと勧めた。「つくられた現実、虚像としての民営化」田井郁久雄、「みんなの図書館2006年10月号」。本稿は「談論風発、図書館批評誌」創刊号 2006.4.6よりの転載である。とくに「山中湖情報想像館は先進的なモデルか」はいまマスコミなどで話題の図書館であるが、はたして本当に「これからの図書館像」の学者たちがおすすめするような図書館なのだろうか。その結末をみるのがこれからの楽しみである。

   全国の図書館で働く司書資格のない方々へ。ケペルの考えはこうである。「大丈夫。そんなに気にしなくていいよ。学者は政府の構造改革、民営化推進のため恐怖、不安を煽っているのだ。虚妄の論理にだまされないで」

      詩

      生 長 (武者小路実篤)

どうしてもとどかなかった枝に

ふと手を上げて見たら

楽にとどくようになった。

鏡に照らして白髪を見る

   若いころには大志を抱くが、はたせぬままに年老いることを詠ったもの。

   鏡に照らして白髪を見る

               張九齢(初唐)

宿昔 青雲の志

蹉跎たり 白髪の年

誰か知らん 明鏡の裏

形影 自ら相憐れまんとは

  昔は、功名をあげて出世する大志をいだいていた。しかし、人生、失敗が多く、いつのまにか白髪の年になってしまった。だれが予想したであろう、鏡の中で、私と私の影とが互いに憐れみ合うようになろうとは。

          *

               偶成

                     朱熹(南宋)

少年老い易く学成り難し

一寸の光陰軽んずべからず

未だ覚めず 池塘春草の夢

階前の梧葉 已に秋声

    若い時代はうつろいやすく、学問というものはなかなか成就しない。それ故、ほんのちょっとした時間すらも、おろそかにしてはならない。池のほとりに春の草が萌え出した楽しい夢からいまださめきらないうちに、早くも庭先のあお桐の葉を落とす秋が来たことに驚くのだ。(参考:石川忠久「漢詩をよむ」1985)

男子の本懐

    浜口雄幸(1870-1931)は、その威厳ある特異な風貌と篤実な人柄とから「ライオン宰相」と呼ばれ、昭和初期に軍縮の信念を持って国際協調路線を模索した。こうした中、昭和5年、海軍軍司令部の反対を抑えてロンドン軍縮条約に調印した。動揺する財部彪海相に対して、浜口は「玉砕スルモ男子ノ本懐ナラズヤ」(財部彪日記)と励ました。11月、軍縮に反感を抱く右翼青年に狙撃され、重傷を負った。このとき浜口が発した有名な言葉が「男子の本懐」。随行した秘書官の創作説もあるが、現場に駆けっけた四女富士子は「父の本心」と創作説を否定する。その後、条約批准をめぐる議会に病躯を押して登院。翌年8月、61年の生涯を閉じた。

2006年11月22日 (水)

連合艦隊長官の更迭

    山本権兵衛(1852-1933)は、日本海軍建設の父といわれる。47歳で海軍大臣となり在任8年、この間、日露戦争に手腕を発揮した。明治36年10月、ロシアとの開戦を決意した山本は、常備艦隊(のちの連合艦隊)司令長官日高壮之丞中将を、舞鶴鎮守府司令長官東郷平八郎中将に代えることを決意した。日露戦争は日本海海戦の大勝で決着がつけられた。日露戦争後、軍参議官となった山本はイギリスのフィッシャー元帥に「あの大事な時になぜアドミラル日高を更迭したのか」とたずねられた。そのとき山本は「東郷は日高より、ちょっと少しばかりいい」と答えたという。そのちょっと少しの内容は推測するしかないが、日高になくて東郷にあるもの、それは沈着冷静な判断力ではないだろうか。

2006年11月19日 (日)

フランスとマンドリンと朔太郎の青春

   萩原朔太郎(1899-1938)は、明治42年第六高等学校(岡山高校)第1学年で落第した。明治43年4月、慶応義塾大学予科1年入学、同月退学。明治44年5月、慶応大学予科1年に再入学したが、家事の都合によるとの理由で11月に退学している。

   萩原朔太郎、26歳。このころの生活については未詳の部分が多いが、自伝で岡山高校を「病気のために中途退学し、爾後東京に放浪す」といっており、かなり永いあいだ滞京していたと推定できる。

    明治44年早春から夏ころにかけて、マンドリン音楽界の権威であった比留間賢八、田中常彦、アドルフォ・サルコリにマンドリンを習う。この年か翌年あたりに、上野音楽学校に入学しようとしたが、望みを果たせなかったという。「10月頃、日本を去ろうと思い、帰郷してその旨を父に話したが実現せず」とある。

    「旅上」は大正2年(28歳)5月、白秋の「朱欒」に、掲載されたもので中央詩壇への初登場である。

      旅上

ふらんすへ行きたしと思へども

ふらんすはあまりに遠し

せめては新しき背広をきて

きままなる旅にいでてみん。

汽車が山道をゆくとき

みづいろの窓によりかかりて

われひとりうれしきことをおもはむ

五月の朝のしののめ

うら若草のもえいづる心まかせに。

田尻稲次郎(東京市長)

    明治・大正の演歌師の添田啞蝉坊の「へんな心」の三番の歌詞は次のようなものである。

田尻さん 田尻さんや

東京市内 到るところ

塵芥(ごみ)の山だ ゴミの山だ

どうかせぬか 田尻さんや

  コレラコレラ 怖くないか

  おいら怖い 怖いよ あーーーあ

  怖いよ

   これにヴェルディの「女心の歌」の曲をつけて歌ったらしい。

   ところでここに登場する田尻さんというのは、当時の東京市長(第6代)であった田尻稲次郎(在任大正7年4月5日~大正9年11月27日)のことである。原敬内閣時代(大正7年~10年)の第一次大戦後の不況と米不足が世相批判の背景にある。

Staff_lf2     田尻稲次郎(1850-1924)。嘉永3年8月6日、薩摩藩士田尻次兵衛(1794-1855)の子として京都で生まれる。明治4年にアメリカ留学。その後、帰国命令があったが、それに従わずアメリカ人ケプロンの援助によってエール大学文科、経済学を専攻して卒業、同大学院で経済学と財政学を専攻。明治12年帰国。相馬永胤、目賀田種太郎、駒井重格と共に専修学校(専修大)を創立。明治14年、東京大学理財学講師をやる。その後大蔵省銀行局長、主税局長、大蔵次官、大蔵総務局長に就任。明治21年、博士号を得て、明治34年に会計検査委員長となった。大正7年、東京市長に就任する。

   演歌にまで歌われた田尻は諧謔味あふれる言動で知られ、数々の逸話が残されている。たとえば「北雷」という号。倹約家の田尻は背広が夏冬各1着のみであだ名が「きたなり先生」。号「北雷」は、あだ名をもじったものである。大蔵省の主税局長になっても竹の皮包みの弁当をさげ、徒歩で通勤していたが、人力車を勧められ「余に二足あり。何ぞ車を要せん」といった。また行政の腐敗・堕落を憂慮していた田尻は「今の司法省はとても駄目だ。あれは死法省だろう。シホーが悪い。活法省にしなければいかぬ。愚痴の痴か。それは病ダレに知事の知の字だ」などと警句を連発し、新聞記者たちには人気があった。

2006年11月18日 (土)

霊柩車に会ったら親指を隠せ

   長嶋茂雄は現役の頃、霊柩車を見るとその日は調子が良くてヒットがでたという話をよく聞いたことがある。「霊柩車に会ったら親指を隠せ」という迷信は、ケペルはあまり聞いたことがないがネットで調べるとかなりポピュラーな迷信の一つであるらしい。とても奥深い内容があるようにも思える。もともとは「道で葬式に会ったら、親指を隠せ」だった。なぜ、親指を隠すのか?死んだばかりの人間の魂は、まだ成仏できないまま、さまよっているため、この恐怖の誘いを断わるため親指を隠すポーズをとることがいいらしい。「夜、山道を歩くとき、親指を隠してないとキツネにだまされる」というのも、類似の迷信である。

共謀罪と治安維持法

   図書館関係者はじめ多くの団体は反対意見を表明してきたが、ついに教育基本法改正案が衆議院を通過した。例えば、図書館問題研究会は「図書館設置が教育の目的と切り離され、権力による支配や介入を許し、愛国心などを教育の目標として生涯にわたって達成するための機関と位置づけられる。それは現行図書館法そのものの改編・改悪へとつながり、あらゆる市民に知的権利を保障するために資料・情報を提供し続ける民主主義の砦としての図書館にとって、重大な危機といわざるを得ない」(教育基本法改悪法案の廃棄を求める決議)と述べている。

    だが図書館の危機はこれにとどまらない。いま政府は共謀罪の法案の成立を進めている。共謀罪の特徴は、犯罪を実行しなくても、事前に話し合い、合意しただけで罪になることである。内容的には4年以上の懲役・禁固にあたる罪が、「団体の活動として犯罪実行のための組織により行われる場合」の共謀を罰する。対象犯罪が、「死刑、無期、10年を超える懲役・禁固に当たる刑」の場合は5年以下の懲役・禁固。それ以外の場合は2年以下の懲役・禁固。政府は国際的な組織犯罪、テロ行為、地下鉄サリン事件などの事例を想定して、処罰の早期化によって治安強化を図るねらいがある。ところが法の濫用によっては、集団の抗議行動や製品の不買運動などが業務妨害とされ、その協議をすること自体が共謀罪に問われることもありえる。自由にものがいえない世の中になり、民主主義の根幹である表現の自由や市民の言論の自由が脅かされかねないのである。すでに多くの団体が反対声明をだしているところである。マスコミ・ジャーナリズム関係では、日本ペンクラブ、日本ジャーナリスト会議、日本マスコミ文化情報労組会議、出版流通対策協議会、日本新聞労働組合連合などなど。多くの識者は、共謀罪は戦前の治安維持法に勝るとも劣らない悪法と述べている。ところで日本図書館協会はこの共謀罪について明確な見解を発表しているのであろうか。「知る自由」「読む自由」と最も密接な関係にある団体が沈黙することは何か理由があるのだろうか。HPを見たが本年度の見解・意見・要望は「中古電気用品に対する電気用品安全法の運用について」ほか二件のみで共謀罪に関しては見当たらなかった。ちなみに図問研ではすでに「改正手続法、共謀罪の廃案を求める決議」を平成18年7月11日第53回全国大会で決議しいてる。

   日本図書館協会はついに教育基本法改正に対しても反対声明をだすことはなかった。「図書館雑誌」最新号(11月号)ではNEWSのトップで「教育基本法改正について意見表明相次ぐ」の記事があるが、よく読むとまるで他人事のような内容なのだ。学校図書館を考える全国連絡会、図書館問題研究会、学校図書館問題研究会の反対理由を紹介しているが、不思議なことに協会がどういう意見なのか不明なのだ。このような最近の日本図書館協会の重要問題への対応の立ち遅れや貸出重視に対する見直し論議の背景には一部の政府、文部省寄りの図書館学者が協会を支配し、戦後民主主義を軌道修正する動きがみられ、協会の保守化傾向が顕著になってきていることが理由にある。今後、これからの図書館像が愛国心教育と思想統制によって、戦前の治安維持法下のような思想善導機関となることが大いに懸念されるところである。

2006年11月17日 (金)

大阪時代の内村鑑三

   内村鑑三の大阪在住時代は明治25年9月から明治26年4月までの僅か半年余りの期間である。内村32、33歳のこの時期は、あの不敬事件の直後であり、二番目の妻の横浜加寿子の死、そして自身にも肺炎と腸チフス、不眠症が続いていた。札幌、越後と転地療養したが、失職のため経済状況が切迫していた。彼には年老いた両親とまだ若い弟二人、妹一人の世話をする責任があった。

   内村鑑三の生涯にわたる旺盛な執筆活動は、このような経済的な事情が背景にあるように思われる。かれは東京市内の教会の英語バイブルクラスを担当し、「六合雑誌」に投稿したりしていた。明治25年9月、大阪市梅田の泰西学館という中学校に定職を見つけた。家族を東京に残して内村は単身この学校の教員として翌年の4月まで大阪で暮らすこととなる。この大阪時代に多数の論文を執筆しているが「文学博士井上哲次郎君に呈する公開状」もその一つである。著作物では彼の代表作のひとつ『基督信徒の慰め』も大阪時代のものである。「愛するものの失せし時」「国人に捨てられし時」「基督教会に捨てられし時」「事業に失敗せし時」「貧に迫りし時」「不治の病に罹りし時」と六つの章は、まさに彼が現実の試練を経験する中で霊のなぐさめを説明したものである。そして教会から追い出され「余は無教会となりたい」と書いている。後年の無教会主義者内村鑑三はこの大阪時代に初めて「無教会」という言葉を使ったのである。

   もうひとつ内村の大阪時代に大きな出来事がある。明治25年12月25日に岡田シズと結婚している。シズ夫人は当時18歳、以後内村の生涯の終わりまで苦楽をともにすることになる。夫人の父岡田透は、当時京都市の判事であり、弓術の大家でもあった。この夫人の協力を得て、内村は明治26年1月初旬から日曜学校を始める。来会者は20名くらいだった。4月には蔵原惟郭の招きで熊本英学校に転任する。だがこの学校もまた一学期いただけで退職する。教育者としての内村は、北越学館、一高、泰西学館、熊本英学校と短期間に転任したが、教育界に失望したようである。日本の学校教育は人物養成を目的と称しているが、実は役人または職人養成のためのものでしかない。永遠にわたる真理をきわめんと欲するのが学生の願いでもなければ、またこれを彼らに吹き込んで彼らを「真個のゼントルメン」に作り上げようとするのが教師の目的でもない。それゆえ既成の学校で自分が働くのは無益である。「口を噤まれし余にとりては今は筆をとるよりほかに生存の途がなくなった」と後年その当時を回想して内村は述べている。教育界を去るべく決心したかれに残された職業は、筆一本で生きる評論家としての仕事以外になかった。(参考:関根正雄「内村鑑三」清水書院)

2006年11月12日 (日)

宮沢賢治『春と修羅』

    宮沢賢治は、大正13年に入ると創作熱は高まり、1月に『春と修羅』序文を記し、2月には後の「風の又三郎」の原型となる「風野又三郎」を生徒に筆写させている。そして、4月20日、これまでの心象スケッチを集成した『春と修羅』が東京の関根書店から刊行される。函入り布装で320ページ、定価は2円40銭。発行部数は1000部で自費出版である。収録作品の出し入れなど詩集の構成にも非常に配慮がなされていることがわかる。

    刊行3ヵ月後の大正13年7月23日、読売新聞に辻潤(1884-1944)の批評が掲載される。「この詩人はまったく特異な個性の持主だ」「私はツァラトゥストラを忘れても「春と修羅」を携えることを必ず忘れはしないだろう」と、ニーチェまで引き合いに出して絶賛している。つづいて「日本詩人」で1年を回顧する批評を書いた佐藤惣之助(1890-1942)が『春と修羅』に言及したのである。「この詩集はいちばん僕を驚かした。何故なら彼は詩壇に流布されている一個の語彙も所有していない。かつて文学書に現はれた一聯の語彙を持ってはいない。彼は気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた」「僕は十三年度の最大収穫とする」と激賞した。これらの好評に対して賢治は「まだ挨拶も礼状も書けないほど、恐れ入っています」と、当時中学生の森佐一(のちに直木賞受賞する森荘已池)への手紙に記している。

2006年11月10日 (金)

石川啄木とカンニング事件

友がみなわれよりもえらく見ゆる日よ

花を買ひ来て

妻としたしむ

    石川啄木は豊かな天分と、時代に先駆したすぐれた才能を持ちながら、不遇な人生を送り、上京後の創作生活にも失敗して、この歌の作られた明治43年当時は、東京朝日新聞社の一校正係としての職に甘んじていた。これに反して盛岡中学校時代、文学や人生を論じて将来を語りあった多くの友人たちは、それぞれの目的に向かって輝かしいコースを歩んでいたのである。

   盛岡中学校の啄木の同級生中、高等学校から帝国大学に学んだのは、小野弘、田中館要橘、足沢慶次郎、佐々木一郎、小原弥兵衛、丹下秀夫、村上四郎、柴内保次、横川斎の9名。仙台医学専門学校には船越金五郎、宮杜一郎、福永延、平沢拙三の4名が入学し、千葉医専へは藤井謙三が、慈恵院医専へは池田隆が、また京都医専には岩動康治がそれぞれ入学している。地元の盛岡高等農林学校へは、遠藤喜蔵、小原恒一、獅子内謹一郎、生内定三、高村章一郎、村上順平、中村貞治、川越千代司、小沢東三郎、久保田晴一の9名が進学している。また米国留学生としては伊藤久治、久保田練兵、川村哲郎、吉田与平治、一条友吉らがあり、札幌農学校、東京高等商業学校など各種専門学校を目ざした者も少なくない。また陸軍士官候補生に本堂英吉、小瀬川浩策の二名が選ばれているので、盛岡の学窓を出て7年をへた明治43年の秋には、軍人・医師・官吏・実業家・教員・新聞記者として、それぞれの方面に華やかに活躍していたことだろう。

   啄木がこのように出世していく友人たちと異なり「悲しき人生」を歩むことになるのは、やはりカンニング事件が起因していると言わざるをえない。それは明治35年7月15日の学期末の数学の試験に特待生孤崎嘉助らと不正行為を行ったことである。この日の職員会議で謹慎処分、保証人召換、答案無効の処分が決定した。そして10月27日、突然「家事上の或都合」を理由に盛岡中学を退学、月末何らの経済上の保障もないままに上京している。そして明治37年には堀合節子と婚約、翌年結婚と困窮生活が生涯ついてまわるようになる。思えば明治期の学歴社会においてエリートコースをはずした彼の人生の蹉跌は、悲しむべきカンニング事件がそのはじまりであった。

紅花緒

    ドラマ新選組血風録第12話「紅花緒」は結束信二のオリジナル脚本である。京下駄商人の清作(橋爪功)は侍になるため新選組に入隊する。勘定方となった清作は公金を運ぶ途中に護衛隊士の裏切りにあい、命惜しさに逃げ出した。士道不覚悟の罪で切腹となる。清作の妹(土田早苗)から「あんたは鬼や」と罵声を浴びせられ、無言のまま去っていく土方歳三。

   司馬遼太郎の原作にはないが、この話のメインテーマには新選組の基本精神である「士道とは何か」の問いかけがよく現れている。一つの集団が生成するとき、その集団活動の目的意識、行動倫理を明確にするための規約が設けられる。幕末動乱時に生まれた武力集団新選組には「局中法度書」があった。

一、士道に背きまじきこと

一、局を脱するを許さず

一、勝手に金策致すべからず

一、勝手に訴訟取扱うべからず

一、私の闘争を許さず

右条々相背き候者は切腹申し付くべき候也

    隊士の高田清作がわが命惜しさに公金を護らず、下役のものが重傷を受けながら公金を必死で護ろうとした。この事実をもってして、近藤は高田に切腹を申し付けたのである。通常であれば役目不行届きにつき罷免が妥当であろう。しかし新選組の苛酷な法度の下では至るところは死である。

槍は宝蔵院流

    備中松山藩剣術師範谷三治郎を父とする谷三兄弟は、共に池田屋事件に参戦している。長男の谷三十郎、次男の谷万太郎、三男の谷昌武である。小説では谷三十郎は宝蔵院流槍術の遣い手となっているが、史実は神明流剣術の遣い手である。

   池田屋事件の後、末弟昌武は近藤勇の養子となり近藤周平と改名し、谷三十郎は七番隊の隊長になった。谷三十郎の死については諸説があって、永倉新八は病死としているが、斉藤一の手にかかって斬殺されたという説、酒席での喧嘩説など種々あって判然としない。

   ドラマ「新選組血風録」では、大坂での討幕派征伐隊として三番隊と七番隊が出動した際の斉藤一と谷三十郎との対立がもとで斉藤が谷を斬殺したことになっている。

今回の土方歳三の決め台詞。

「君は卑怯と言われた。武士としては笑ってはすませまい」

2006年11月 5日 (日)

儒学の発達

   江戸時代、徳川幕府は封建社会の秩序を維持するため、権力のほかに思想・学問の力を借りる必要があった。そのため封建制を合理化した儒教、とくに朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため、幕府や藩にも受け入れられた。京都相国寺の禅僧であった藤原惺窩(1561-1619)は朱子学を修め、還俗して朱子学の啓蒙につとめた。その門人の林羅山(1583-1657)は家康に用いられ、この門流から林鳳岡(1644-1732)、柴野栗山(1736-1807)、安井息軒(1799-1876)らが出た。このほか惺窩の系統には石川丈山(1583-1672)、松永尺五(1592-1657)、尾藤二洲(1745-1813)、木下順庵(1621-98)、室鳩巣(1658-1734)、新井白石(1657-1725)、三浦梅園(1723-89)があり、土佐の南学の流れには山崎闇斎(1618-82)、野中兼山(1615-63)、古賀精里(1750-1817)がある。

    陽明学は、明の王陽明が始めた学問で、初め朱子学を学んだ中江藤樹(1608-48)や門人の熊沢蕃山(1619-91)らが取り入れて日本で説いた。陽明学は現実を批判して知行合一の立場で矛盾を改める革新性をもっていた。山片蟠桃(1748-1821)、佐久間象山(1811-64)、吉田松陰(1830-59)などがあらわれている。

   孔・孟の思想への復帰をとなえた古学派には、伊藤仁斎(1627-1705)、伊藤東涯(1670-1736)、荻生徂徠(1666-1728)、太宰春台(1680-1747)、広瀬淡窓(1782-1856)があり、多く社会・政治の問題に関心をもった。朱子学に疑いをもつ儒者には、山鹿素行(1622-85)、貝原益軒(1630-1714)がある。益軒はまた本草学者で、農学者には宮崎安貞(1623-97)がある。また石田梅岩(1685-1744)は仏教と儒教をもとに心学をはじめ、手島堵庵(1718-86)、中沢道二(1725-1803)らによって農村都市に普及した。

猿飛佐助と真田十勇士

   真田十勇士とは、大阪の出版社である立川文明堂が出版した「立川文庫」が猿飛佐助のヒットに続き、真田幸村の家臣の中の活躍を次々と書き下ろし、ついに十勇士とした架空のヒーローたちである。猿飛佐助幸吉(ゆきよし)、霧隠才蔵宗連(むねつれ)、三好清海入道、三好伊佐入道、穴山小助、望月六郎、海野六郎、筧十蔵、根津甚八、由利鎌之助春房(はるふさ)の10人。豊臣家滅亡の悲劇性、大阪人の江戸への反感が真田十勇士の人気の背景にある。

   立川文庫版「猿飛佐助」によると「ところは信州鳥居峠の麓に、鷲塚佐太夫といふ郷士があった。もとは信州川中島の城主森武蔵守長可の家来であったが、主君武蔵守小牧山の合戦に討死以来、根が忠義無類の鷲塚佐太夫二君に仕える心はないと、浪人してほどからぬ鳥居戸峠の麓に閑居なし、少々の貯えあるに任せて田地川畑を買い求めて郷士となった。この佐太夫に二人の子があり。姉は小夜、弟は佐助。ところが姉の小夜は、生まれながらの美人であって気質もいたってやさしい、それに引き替え弟佐助は、当年10歳だが、生まれつきの大力無双、おまけに身軽なことは驚くばかり、毎日鳥居峠の山中に入り込み大木によじ登り、木から木へ伝って飛びまわり、樹の上で猿なぞと、鬼来いごっこをして遊ぶ有様、なんしろ身軽なことであった。」とある。佐助は甲賀忍者の戸沢白雲斎に見込まれ、忍びの手ほどきを受け修行に励む。5年で家伝の忍法を授けられ免許皆伝の域に達する。15歳のときに真田幸村に見出され、猿飛佐助幸吉の名を授かり家臣として活躍。その後、秀頼公に従い、九州島津家へ落ち延び、豊臣再度の旗揚げに尽力したところで物語はひとまづ終わっている。

東映城の栄枯盛衰記

    昭和29年から昭和36~37年頃までの約10年間、東映といえば時代劇というほど、時代劇の東映は隆盛をきわめた。「日本映画界の興行収入の半分は、東映がいただく」と大川社長は豪語したとおり、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗、月形竜之介、東千代之介、中村錦之助、大川橋蔵、伏見扇太郎、里見浩太郎、中村賀津雄、北大路欣也、松方弘樹、山城新伍など綺羅星のスターが存在した。しかし日本の社会は昭和30年代半ばに変貌し、大きく転換していく中で、時代劇も変化していった。昭和37年の大川橋蔵の「天草四郎時貞」(大島渚)は、時代劇の根底的変質を象徴した作品となった。翌年には、「十三人の刺客」(工藤栄一)、「十七人の忍者」(長谷川安人)など、いわゆる集団残酷時代劇が登場する。昭和39年にはこうした傾向はますます強まり、「大殺陣」(工藤栄一)、「忍者狩り」(山内鉄也)、「十兵衛暗殺剣」(倉田準二)、「幕末残酷物語」(加藤泰)などこれまでの明朗時代劇をあとかたもなく粉砕してしまった。これらは作品的にはすぐれたものであろうが、一般観客にはとまどいを感じた部分があった。このような時代劇の衰退とともに、東映はチャンバラ映画から任侠映画、やくざ路線に切り替えるわけである。昭和30年代半ばから第二東映を設立し、現代劇にもジャンルを広げてきたが、ここにきて高倉健を中心とした映画が昭和39年「日本侠客伝」(マキノ雅弘)、昭和40年「網走番外地」(石井輝男)がヒットする。既成の時代劇スターの中には、これらやくざ映画の出演を嫌がる俳優もいた。大川橋蔵のように「銭形平次」テレビシリーズ一本をライフワークとしたスター、独立プロを立ち上げ時代劇再興を夢みた中村錦之助、松方弘樹のようにやくざ映画と時代劇を両方出演するスター、里見浩太郎、北大路欣也のようにテレビ時代劇中心に活動するスターと昭和40年頃はまさに時代劇スターの分岐点だった。

   東映はテレビ製作に力を入れるべく、昭和39年「東映京都プロダクション」を設立する。第1回作品が「忍びの者」である。品川隆二の熱演もさることながら、原健策の悪玉ぶりが絶妙である。そして昭和40年に「新選組血風録」がスタートする。このニ作品ともに、従来のテレビドラマには見られなかった迫真のリアリズムがあり、視聴者を魅了したことはいうまでもない。

2006年11月 3日 (金)

胡沙笛を吹く武士

   司馬遼太郎の「新選組血風録」は15編の短編集である。それぞれの物語には、土方歳三、沖田総司はじめ有名隊士が登場するが、各回の主役は無名隊士が多い。手元にある数冊の新選組の隊士総覧とか名簿類を探しても実在しない隊士も多い。もちろん読者も小説であるから虚構は承知のうえであろう。しかし後年の司馬作品の特徴はかなり歴史的事実に重きをおくようになっているので、読むにはかなり注意を要する作品であろう。「新選組血風録」(昭和39年刊行)がでるまでは司馬は歴史小説といよりも忍者小説の作家と思われていた時代で、フィクションを存分に取り入れ、その分、物語的面白みがあった頃の作品といえる。東映では、この一回読みきり小説がシナリオ化しやすいと判断したのであろう、翌年にはすぐ栗塚旭主演でテレビドラマ全26回を製作した。原作は15編なので、原作にないオリジナルなストーリーも多い。この第4話「胡沙笛を吹く武士」は原作とドラマとの比較ができるが、細かい箇所では原作と異なるところもみられる。この頃の司馬と東映脚本部では、作家より脚本家(結束信二)の力が大きかったようで原作はかなり思い切って変えることは可能だったようである。例えば、原作では鹿内を卑怯者と見抜くのは近藤であって土方は鹿内をかばうように見られるが、テレビでは土方が主役なので鹿内の心中の変化に気づくのは土方である。近藤勇を演じる舟橋元はもともと新東宝の青春スターであったが、東映では前年テレビ「忍びの者」(品川隆二主演)の明智光秀役でお茶の間に人気の出た栗塚旭をスターに育てようと企画し、原作を変えて土方中心のシナリオにしている。

  「胡沙笛を吹く武士」の主役の新選組隊士は鹿内薫という奥州南部出身の純朴な男である。無口で一人で胡沙笛というアイヌが吹いていたという珍しい笛を吹くのが唯一のなぐさみである。ある日、小つる(高森和子)という祇園の髪結の女とその笛が縁で親しい仲にまで発展した。組頭の原田作之助(徳大寺伸)の世話で二人は所帯を持つようになった。しかし愛する妻と子ができてから鹿内はこれまでとは別人のように怯懦になった。京都から出ることを小つるに相談したが、京女は田舎暮らしがいやだという。あるとき探索を命ぜられた鹿内は弱気になり「士道不覚悟」の罰をうけることになる。近藤の命で原田はやむなく鹿内を斬殺する。

   鹿内薫の実在は確認できなかったが、史書には鹿内主税という名がみえる。島田魁の記録では、局長附の一員となって、横倉甚五郎は「慶応3年12月大坂にて脱走」と記す。原田左之助は新選組の幹部で妻がいる実在の隊士。原田は坂本龍馬殺害事件で「こなくそっ」という掛け声を放ったことで知られる(原田は愛媛県出身。今は原田殺害説は否定されている)上野戦争で29歳で死ぬ。司馬は恐らく所帯もちの原田と絡めて対比させることで、鹿内の悲劇性を強めよう考えたのであろう。

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