明治・大正の演歌師の添田啞蝉坊の「へんな心」の三番の歌詞は次のようなものである。
田尻さん 田尻さんや
東京市内 到るところ
塵芥(ごみ)の山だ ゴミの山だ
どうかせぬか 田尻さんや
コレラコレラ 怖くないか
おいら怖い 怖いよ あーーーあ
怖いよ
これにヴェルディの「女心の歌」の曲をつけて歌ったらしい。
ところでここに登場する田尻さんというのは、当時の東京市長(第6代)であった田尻稲次郎(在任大正7年4月5日~大正9年11月27日)のことである。原敬内閣時代(大正7年~10年)の第一次大戦後の不況と米不足が世相批判の背景にある。
田尻稲次郎(1850-1924)。嘉永3年8月6日、薩摩藩士田尻次兵衛(1794-1855)の子として京都で生まれる。明治4年にアメリカ留学。その後、帰国命令があったが、それに従わずアメリカ人ケプロンの援助によってエール大学文科、経済学を専攻して卒業、同大学院で経済学と財政学を専攻。明治12年帰国。相馬永胤、目賀田種太郎、駒井重格と共に専修学校(専修大)を創立。明治14年、東京大学理財学講師をやる。その後大蔵省銀行局長、主税局長、大蔵次官、大蔵総務局長に就任。明治21年、博士号を得て、明治34年に会計検査委員長となった。大正7年、東京市長に就任する。
演歌にまで歌われた田尻は諧謔味あふれる言動で知られ、数々の逸話が残されている。たとえば「北雷」という号。倹約家の田尻は背広が夏冬各1着のみであだ名が「きたなり先生」。号「北雷」は、あだ名をもじったものである。大蔵省の主税局長になっても竹の皮包みの弁当をさげ、徒歩で通勤していたが、人力車を勧められ「余に二足あり。何ぞ車を要せん」といった。また行政の腐敗・堕落を憂慮していた田尻は「今の司法省はとても駄目だ。あれは死法省だろう。シホーが悪い。活法省にしなければいかぬ。愚痴の痴か。それは病ダレに知事の知の字だ」などと警句を連発し、新聞記者たちには人気があった。
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