倉田百三の恋愛遍歴
倉田百三(1891-1943)は、「出家とその弟子」や「愛と認識との出発」などの作品で知られ、大正期の人道的ヒューマニスト、求道者のイメージがある。これらの作品は若き日の実際の恋愛体験にもとづくものであるが、彼は昭和期の晩年に至るまで、女性への愛の遍歴は続き、倉田文学の理解には伝記的研究を欠くことができない要素であろう。ここでは代表的な五人の女性をとりあげる。
小出豊子 倉田の少年時代の初恋は小出トヨ(豊子)であった。自伝的小説「光り合ふいのち」において、倉田は小泉時子の名で、その愛を描いている。それは、広島県の三次中学の卒業を前にした五年の時のことであった。二人は文通する仲になった。倉田がトヨよりも年下であることと若すぎることが理由でトヨの両親に反対され、倉田の初恋は実らなかった。
女子大生H・H 倉田21歳。第一高等学校(現在の東大教養部)の学生時代、日本女子大学に通う妹艶子の級友H・Hと恋愛に陥る。彼女との熱烈な恋愛の心境を記した「異性のうちに自己を見出さんとする心」を書く。しかし、この恋もH・Hの両親の反対のため悲恋に終わる。倉田は失恋の痛手と結核の発作を起こし、一高を退学、須磨に療養する。絶望の極に達し、自殺を思ったりする。この体験が「愛と認識への出発」へと結実する。
看護婦の神田はる 大正4年、看護婦の神田はる(お絹のモデル)と知り合い、ともに讃美歌を歌い祈り、かつ食事をする親しい仲となる。翌年には神田はると結婚生活に入る。大正6年、長男地三が生まれる。この年、「出家とその弟子」を岩波書店より出版し、大きな反響をよび、ベストセラーとなる。
おしかけ女房の伊吹山直子 大正8年、伊吹山直子が福岡の結婚式場より脱出し、倉田を頼って上京する。その後、妻はると離婚し、大正13年に伊吹山直子と結婚する。大正15年には「一夫一婦か自由恋愛か」を岩波書店より出版している。
絶対の愛・山本久子 長い闘病生活を経て、倉田が到達することができた境地が「絶対的生活」ということであった。昭和11年12月、17歳の少女である山本久子(仮名)との文通はじまる。しかし翌年にはこの恋愛も破綻している。文学を志望し、教えを受けたいと百三に手紙を寄せたのが機縁となって、文通をかわすうちに熱烈な恋愛に落ちていった。百三の45歳の時である。二人は浜松の弁天島で落ち会ったり、京都方面にニ、三日宿泊し肉体関係を持つ。久子が東京のアパートに身を寄せ、百三と三日同棲したところで、久子の親族が連れ戻しにきて、この愛も破綻する。この手紙は生前百三がさる雑誌社の編集者にあずけておいたのを、死後公表したもので、書簡集「絶対の愛」の刊行は社会的にかなりの論議を呼んだ。
倉田百三は、思想的にはキリスト教、仏教、西田哲学、白樺派、そして昭和になってからは超国家主義と複雑な軌跡をたどるが、女性との愛の遍歴だけは一生変わることがなかった。
« 幸徳秋水、内村鑑三、「万朝報」を退社する | トップページ | 戦前図書館界の功労者たち »
「日本文学」カテゴリの記事
- 畑正憲と大江健三郎(2023.04.07)
- 地味にスゴイ、室生犀星(2022.12.29)
- 旅途(2023.02.02)
- 太宰治の名言(2022.09.05)
- 心敬(2022.08.11)
コメント