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2006年10月30日 (月)

近藤勇と虎徹

   懐かしのテレビドラマ「新選組血風録」第1話「虎徹という名の剣」(昭和40年 NET)を見る。監督は河野寿一、キャストは近藤勇(舟橋元)、土方歳三(栗塚旭)、沖田総司(島田順司)、原田左之助(徳大寺伸)、井上源三郎(北村英三)、斉藤一(左右田一平)、永倉新八(有川正治)、藤堂平助(国一太郎)、山南敬助(早川新吉)、山崎蒸(坂口祐三郎)、ナレーターは栗塚旭。

   近藤勇が20両で虎徹を買った。隊士たちは本物の虎徹ならとても20両では買えないという。土方も虎徹を売りにきたおみね(丘さとみ)の様子から偽物と思う。あとで病床に臥す浪人のおみねの父(嵐寛十郎)は虎徹と偽って売ったことを怒りながら死ぬ。その後、おみねは本当のことを土方に打ち明けたが、土方は「近藤がその剣を虎徹であると信じて込んでいるのだからそれでいいのだ」という話。

    近藤勇が長曽祢虎徹の刀を差料としたという話は巷間よく伝えられている。だが、その刀は無銘であったとか、偽物であったとか、二代目興正の作であるとか、諸説紛々として確証のない話である。ともかく偽物の刀を、刀の判らない近藤は虎徹と信じ込んで大いに喜んだというのは話としては、面白いがフィクションであろう。

 越前の長曽祢鍛冶集団の一人虎徹興里(1605-77?)は、江戸に出て和泉守兼重に入門し、甲冑師から刀鍛冶に転じた。明暦頃のことである。抜群の地鉄冴え、数珠刃という頭の揃った互の目刃に太い足の入った新機軸の刃文とともに、斬れ味のよさによって一世を風靡した。

2006年10月28日 (土)

高校世界史の工具書

   「今、なぜ高校生にとって世界史の学習が必要か」を語ることは、とても大切なことである。大学受験まであまり期日がないとおもうが、あせらないでほしい。とくに大学入試センター試験に世界史を選択しない学生でこれから世界史を履修される学生の皆さん、「世界史は社会に出たとき役立つ知識がいっぱいつまっています。将来理解されるとおもいます。どうか世界史の授業をきちんと履修してください」

 前回は世界史の概説書を紹介したので、今回は用語事典、年表、地図、便覧、問題集などを紹介します。

「世界史辞典」前川貞次郎、会田雄次、外山軍治 数研出版 昭和33年以来現在もおそらく版を重ねている代表的小事典。赤色。

「世界史辞典」今来陸郎、羽田明 文研出版。黒色。現在は刊行していないのではないか。

「世界史年表」三上次男、大野真弓、秀村欣ニ 中教出版。昭和39年。各国王朝・統治者表を見ると、ノルウェー王国のインリング朝(860-1047)10代とあり、ハーラル1世、オーラフ1世、オーラフ2世と知らない王名が記載されているのも興味がわく。

「コンサイス世界年表」三省堂編集所、昭和51年。今枝愛真、菊池勇次郎、松俊夫、松村潤。年号と干支が記載されていのが重宝である。諸氏系図、官制、王朝系図など豊富。

「世界史用語集」全国歴史教育研究協議会 成田喜英。昭和40年3月。世界史の用語を編年的に配列している。240ページ

「世界史用語集B」全国歴史教育協議会 山川出版社。平成7年。成田喜英の昭和40年の前掲書をもとに、人見春雄、臺靖が編集執筆。平成7年3月。359ページ。

「一問一答 世界史用語問題集」山川出版社 九里幾久雄、坂本博、原田善治 山川出版社 平成元年。216ページ。では第1問「地質学上、新生代の後半から現代までを何というか」答えは「第4紀」である。ケペルはできなかった。

「世界史問題集」 世界史教育研究会編 山川出版社 昭和51年。183ページ。

「ハイグレード世界史の完成」村上博信編 山川出版社 平成2年。193ページ。

「標準世界史年表」亀井高孝、三上次男、林健太郎 吉川弘文館 昭和37年 104ページ。

「標準世界史地図」亀井高孝、三上次男、堀米庸三 吉川弘文館 昭和30年 64ページ。

「詳蜜世界史地図」 帝国書院 初版は何年か不明であるが18訂版が平成4年である。

「図説資料新世界史」浜島書店 発行年不明であるが年表から推測すると昭和53年ころ。図版、地図、年表、資料を合わせたもの。

「世界史図表」(年表・地図・資料) 第一学習社 昭和44年。160ページ。

「総合新世界史図説」 帝国書院 初版は不明。191ページ。

「世界史地図・年表」 山川出版社 初版は昭和48年。

「新編世界史資料」 一橋出版 昭和57年 160ページ。

「世界史総覧」 東京法令出版社 192ページ。

「最新世界史図説 タペストリー」帝国書院 320ページ。

「ビジュアルワイド 図説世界史」東京書籍 平成9年 256ページ。

「図説ユニバーサル新世界史資料」帝国書院 248ページ。

「図解高校世界史」一橋出版 平成3年 

    近年、印刷技術の格段の進歩によりビジュアルな図説が次々と刊行されている。また、大学受験用ではなく社会人にも世界史の知識の要求が生まれて、新刊書コーナーには世界史関係のビジュアルなムックがでている。

2006年10月27日 (金)

伝説の船成金、内田信也

    第一次大戦後、船舶は世界的に不足し、その需要は増大する一方であった。船価や運賃が短期間に急上昇し、10倍になる場合もしばしばみられ、思惑と投機がさかんに行われた。こうして、わずかの資金で巨万の富を得た成金がでた。海運業で成功した「船成金」に内田汽船を創設した内田信也、山下汽船をつくった山下亀三郎などがいる。

    内田信也(1880-1971)。茨城県生まれ。東京高等商業学校を卒業後、三井物産へ就職。船舶部で10年間用船業務を担当したのち、第一次大戦勃発と同時に退職した。船舶1隻の神戸内田汽船を開業し、たちまち社業を拡張、60割の株式配当・政治献金にからむ珍品五個事件など、海運業でわずか34歳で成功した船成金であった。その後、政界へ入り連続して代議士に当選、政友会の幹部になった。昭和11年、鉄道相として鉄道疑獄に連座、昭和15年無罪判決後は昭和18年宮城県知事で東北地方行政協議会会長となり、ついで昭和19年東条改造内閣の農商相に就任。辞任後貴族院議員。敗戦後、公職を追放され、追放解除後の昭和27年衆議院議員、第五次吉田内閣で一時農相をつとめた。(参考:「図説日本文化の歴史12」)

2006年10月19日 (木)

久松文雄「スーパージェッター」

   「秦始皇帝」(文藝春秋)を一気に読破する。といってもコミック中国史。ていねいな線で書き上げた品のいい少年漫画風。作者はなんと「スーパージェッター」の久松文雄だった。ケペルは「少年サンデー」を昭和34年の創刊号から愛読していた。「0マン」「スポーツマン金太郎」「伊賀の影丸」「おそ松くん」「オバケのQ太郎」「怪球Xあらわる」毎週発売日には「エスペロー」という書店に40円を握り締めて走った。しかし昭和40年にもなると、そろそろ漫画を卒業しなければという気持ちも少年ながら芽生えてきた頃だった。そんなとき「スーパージェッター」の連載が始まった。その頃の「少年サンデー」は小沢さとる「サブマリン707」、手塚治虫「W3」や「バンパイヤ」などのSF漫画に人気があった。未来の国からやってきた「スパージッター」は「手塚治虫より手塚的!?」といわれるほど、品のいい柔らかなタッチでスマートなキャラクターだった。もちろん絵をまねて描くことも好きだったので、手塚治虫や横山光輝の描く影丸のような美少年が好きだった。スパージェッターと流星号はまさに少年の夢の世界であった。テレビのアニメ化もされ大人気であったように思う。しかしながら久松文雄は「風のフジ丸」「冒険ガボテン島」を描いてからあまりその作品を見ることはなかった。いま、平成6年の「秦始皇帝」をはじめ「項羽と劉邦」「李陵」「呉越燃ゆ」とコミック人物中国史をライフワークとしてじっくり取り組んでおられるという。昭和18年生まれということでまだお若いのに驚く。「スーパージェッター」はなんと21歳の時の作品だったとは。手塚治虫、横山光輝、巨匠の亡き後、少年漫画の伝統を生かしてがんばってほしい。

2006年10月18日 (水)

今西進化論

    今西錦司(1902-1992)。京都有数の西陣織元「錦屋」の跡取り息子として生まれた今西は、生まれながらのリーダーとしての素質を備え、先駆的な登山家なしい探険家として、大勢の有為の人々に慕われ、戦前は朝鮮の白頭山、大興安嶺、戦後はヒマラヤ・マナスル、はてはアフリカでゴリラやチンパンジーの調査行を組織した。

    今西はスケールの大きな学際的な学者だった。京都大学で渓流の石の下に棲むカゲロウ幼虫の生態研究を皮切りに、動物行動学へ、霊長類学へと手を広げて、次々に新しい学問領域に向かって飛躍し、ついには自然科学の領域を突き抜けてしまって、哲学もまぜた自然学の教祖のようになった。今西の薫陶を受けた今西グループには、民俗学の梅棹忠夫、植物学の中尾佐助、文化人類学の川喜田二郎、地質学の藤田和夫、サル学の伊谷純一郎と、各分野の第一人者が綺羅星のようにいる。

   河出書房が昭和43年から刊行した「世界の歴史 全25巻 別巻1」は、京大系でしめられているが従来のシリーズ物世界史と比較してユニークな編集であった。とくに第1巻の「人類の誕生」は今西錦司の責任編集であるが、協力者として池田次郎、河合雅雄、伊谷純一郎、中尾佐助、梅棹忠夫、木村重信、谷泰などの気鋭の学者の名前があとがきに記されている。従来の世界史の第1巻は文明の誕生からはじまり、だいたいオリエント学者か東洋史学者が書くことが多かった。生態学者の今西錦司が世界史を書くということで話題になった。ただ、現在の生態学で今西進化論が世界的にどう評価されているかケペルは何も知らない。今日、彼の名は渓流釣りと登山家として知られるが、進化論の研究そのものは有効なのだろうか。

2006年10月15日 (日)

貧乏な大帝王

    カール5世(1500-58)は、カスティリャ王国のイサベラ女王(1451-1504)の孫で、皇帝となったのは18歳のときだった。ドイツ皇帝、ナポリ王、スペイン王、オランダ王を兼ね、カリブ海、メキシコその他征服諸地方の主権者で威勢天地に輝き、「スペイン一度動かば、天下これによって振動す」という言葉を生んだほどである。

    しかし、この大帝王も銀行家フッガーの前には頭があがらなかった。大銀行家というのは、各国の王に融資して大もうけをしたものである。カール5世も、神聖ローマ帝国の皇帝位をフランス王フランソア1世と競争し、7人の選挙候の買収のために85万フロリンの借金をした。当選確定後、選挙候ひとりにつき10万フロリンを支払い、諸侯の侍臣・貴族・判事などに贈るために、ほぼ同額の追加借り入れをし、戴冠式のためさらに12万フロリン以上を借り入れた。ペルーの征服によってもたらされた莫大な金銀も、借金払いの征服によってもたらされた莫大な金銀も、借金払いにあてられ、生涯貧乏したのである。(参考:井沢実「大航海と新大陸」小学館)

2006年10月13日 (金)

共同便所のイリュージョン・関根正二

    関根正ニ(1899-1919)。大原美術館所蔵の「信仰の悲しみ」という絵は、関根自身が次のように語っている。「日比谷公園を歩いていたとき、突如、共同便所の中から、様々な光に燦爛として現れ出た行列の女たちの幻想を描いたものだ」そのパステル下絵を見ると、妊んだような女が五人、手に赤い実か花のようなものを持ち、やや喜々として関根の方を見ているようでもあり、どこか「天使の慰め」のようである。関根は初め、この下絵を「楽しき国土」という題にしていたとのことであるが、この下絵の性質は関根の幻想の性質をよく語っている。これ以後の関根の作品はすべて「天使の慰め」であり、関根の幻視のなかで、女性=天使がいつも関根を慰め(「信仰の悲しみ」下絵「慰められつつ悩む」)、関根のために祈り(「神の祈り」)、関根を誘惑するように見守っている(「三星」)。グリューネヴァルト的な暗鬱な背景をもち、黄色の女を先頭にして進んでいるが、中央の朱(関根のバーミリオン)の女が基調となっている。関根のデッサンは硬質な力強さをもち、顔、眼の表情にアクセントか置かれ、関根の幻想に限りない真実を付与している。当時友人だった今東光によると中央の女性は、関根が好きだった女性の田口真咲に似ているという。

    関根正二は、現実と自己の絵画のなかの世界との分裂の意識に苦悶し、極限の錯乱を経て、永遠の幻視の作品を描き残した、近代日本美術史の唯一の異色の画家であった。大正8年6月16日、スペイン風邪をこじらせた肺炎がもとで衰弱し、20歳の若さで夭折した。

2006年10月10日 (火)

木村昌福少将とキスカ島撤収作戦

    昭和18年4月に入ってアッツ、キスカ両島に対する米軍の攻撃が激しくなり、5月29日アッツ島は玉砕した。連合艦隊司令長官古賀峯一は、第5艦隊の河瀬四郎中将にキスカ守備隊の撤収を命じた。潜水艦による撤収は5月27日からすでに開始されていたが、米軍の攻撃が激しく、6月23日、880人を収容したところで中止していた。

    翌24日、河瀬中将は第1水雷戦隊の木村昌福少将に対し、駆逐艦による全軍撤収を命じた。だが木村は連日の好天のため突入を中止した。制海制空権のない日本軍は、北太平洋特有の霧を利用しての作戦でなければ撤収作戦の成功はないと確信していた。そしてようやく29日に突入を開始した。旗艦の軽巡「阿武隈」、「木曾」をはじめ駆逐艦6隻により、5000余名を1時間足らずで収容した。撤収部隊は8月1日、幌延に無事帰還した。

   米軍は日本軍の撤収にまったく気づかす、その後1ヶ月にわたってキスカ島に猛烈な砲撃を加えた。そして大部隊を上陸したときは、すでにキスカ島はもぬけのからであった。連合艦隊内で木村少将は「臆病者」「肝なし」と蔑まれた。しかし木村少将の冷静な判断力が多くの人命を救い「キスカの奇跡」をおこしたのである。

2006年10月 9日 (月)

ジョン・ロックの「人間知性論」

知性の研究は楽しく有益

    およそ人間を人間以外の感覚できる存在者の上に置いて、あらゆる点ですぐれさせ、支配させるものは知性であるから、知性はまさにその貴さから言って絶対確実に、研究の労に値する主題である。この知性は目に似て、私たちに他のあらゆる物ごとを見させ、知覚させながら、自分自身にはいっこうに注意しない。そこで、知性をある距離に置いて、知性自身の対象とするには技術と努力がいる。

    とはいえ、この研究途上に横たわる困難がなんであれ、私たちを自分自身にこれほどひどくわからなくさせておくものがなんであれ、確かに、私たちが自分自身の心を照らしだせる灯火はすべて、自分自身の知性について識ることのできるものはすべて、非常に楽しいだけでなく、他のものごとの探求に当たって私たちの思惟を導くうえに大きな利益をもたらすだろう。(「世界の名著 27 ロック ヒューム」大槻春彦訳)

静御前、凛然と舞う

   雪の吉野山で愛する義経と別れた静御前は、やがて身柄を拘束され鎌倉へと送られる。頼朝と政子は鶴岡八幡宮に参詣したおり、静を回廊に召し出し、頼朝の前で当代一の舞を見せろという屈辱的な要求をするのだった。静は病気だといって断ったが、政子の所望と頼朝の命令で、仕方なく舞うことになる。工藤左衛門尉祐経が鼓をうち、畠山二郎重忠が銅拍子をつとめた。静は「しんむじょう」という曲を歌い始めた。その清明で美しい声と舞い姿に、そこに集う人々は貴賎の別なく感嘆の声をあげた。ところが曲が半ばまで進んだとき、工藤祐経の鼓が、急に終結に向かう急調子に転じた。どうやら祐経は、曲がその場にふさわしくないと思ったようだ。人々は「情けを知らぬ祐経よ、もう一差し舞わせよ」と口々に注文した。心を込めて歌っていた静とて心外である。そして、所詮は夫の敵の頼朝の面前での舞だ。いっそ義経への想いのたけを歌に託そうと決心した。静の即興の歌声が、前にも増して朗々と、そして切々と八幡宮の境内に染み渡った。

  しづやしづ賤の

 をだまき繰り返し

 昔を今になすよしもがな

 吉野山峯の白雪踏み分けて

 入りにし人の跡ぞ恋しき

    歌に託して、義経への恋慕と悲嘆を洩らしたのであった。居並ぶ者たちは、皆感動したが、頼朝は憤った。政子が「女心を察してあげて」ととりなすと、頼朝は御簾の端を少しあげた。その様子を見ていた静は舞台に戻り、下の句を替えて歌い直した。

 吉野山峯の白雪踏み分けて

 入りにし人の跡絶えにけり

   すると頼朝は、今度は御簾を高々とあげた。頼朝と静のこの勝負、静の勝ちであった。

2006年10月 4日 (水)

白樺派と第四次新思潮の「俊寛」競作

   同人雑誌「白樺」は明治43年に創刊され、第一次大戦後のデモクラシー思想の高揚にのって、大正中期には主要な文芸思潮となった。おもな作家は武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、里見弴らで、のちに長与善郎、倉田百三などが加わった。しかし、白樺派の自己肯定や理想主義に飽き足らず、人間の実態をみつめ、人間の醜悪さや卑小さをも理知の目をもってとらえようとする新現実主義が起こる。芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、山本有三らの新思潮派や広津和郎、宇野浩二、葛西善蔵らの奇蹟派の文学がそれにあたる。この主義は広範で漠然としたものであり、作家の層も厚かったが、当時ようやく隆盛に向かいはじめた出版ジャーナリズムの波にのって、めざましく文壇に進出した。大正6年ごろ、倉田百三は戯曲「俊寛」を書き上げ、「新思潮」に投稿したが、芥川や菊池は一高時代ほぼ同期だった倉田を嫌っていたため、この原稿を没にした。止むを得ず倉田は白樺一派の小雑誌「生命の川」に連載した。「俊寛」は大正7年3月その第一章を「白樺」に発表された。倉田百三の「俊寛」に刺激されて菊池寛も「俊寛」(大正10年10月)を書き、芥川龍之介も同じく彼の「俊寛」(大正11年1月)、山本有三も「俊寛」を書いている。「白樺」対「新思潮」の競作であったが、出来は倉田の「俊寛」がいちばん力作で、すぐれているという吉田精一の批評である。

2006年10月 3日 (火)

.ルソーと中江兆民

   中江兆民(1847-1901)は、「東洋のルソー」と呼ばれたように、ルソーの紹介者として知られている。億兆の民の意味で、庶民を表わす兆民を号につかった。土佐で漢学、長崎・江戸でフランス語を学び、明治4年から7年までフランスに留学した。パリ・コミューン直後のパリで政治学者アコラス(1820-91)に学ぶ。中江は18世紀の啓蒙思想家に目をむけ、とくにルソーにつよい関心をもった。彼は、ルソーと同じく、長いあいだ封建的隷属に馴れて、人権の観念など夢想だにしなかった民衆の目をひらくことに努力した。彼の奇言奇行は多く、封建的偏見に対する風刺であり、反抗であった。明治15年、ルソーの「社会契約論」の漢訳・解説した「民約訳解」を著わし、大成功を収めた。民権運動時代の政治青年、たとえば植木枝盛、大井憲太郎たちのバイブルとなった。

    彼の「民約訳解」は原著の半分にも満たなかったが、当時の日本の状況からみて、必要にして十分な箇所、すなわち人民主権、直接民主政の理論の部分であった。門人には幸徳秋水、酒井雄三郎ら、日本の初期社会主義者が出ている。

2006年10月 1日 (日)

倉田百三の恋愛遍歴

    倉田百三(1891-1943)は、「出家とその弟子」や「愛と認識との出発」などの作品で知られ、大正期の人道的ヒューマニスト、求道者のイメージがある。これらの作品は若き日の実際の恋愛体験にもとづくものであるが、彼は昭和期の晩年に至るまで、女性への愛の遍歴は続き、倉田文学の理解には伝記的研究を欠くことができない要素であろう。ここでは代表的な五人の女性をとりあげる。

小出豊子 倉田の少年時代の初恋は小出トヨ(豊子)であった。自伝的小説「光り合ふいのち」において、倉田は小泉時子の名で、その愛を描いている。それは、広島県の三次中学の卒業を前にした五年の時のことであった。二人は文通する仲になった。倉田がトヨよりも年下であることと若すぎることが理由でトヨの両親に反対され、倉田の初恋は実らなかった。

女子大生H・H 倉田21歳。第一高等学校(現在の東大教養部)の学生時代、日本女子大学に通う妹艶子の級友H・Hと恋愛に陥る。彼女との熱烈な恋愛の心境を記した「異性のうちに自己を見出さんとする心」を書く。しかし、この恋もH・Hの両親の反対のため悲恋に終わる。倉田は失恋の痛手と結核の発作を起こし、一高を退学、須磨に療養する。絶望の極に達し、自殺を思ったりする。この体験が「愛と認識への出発」へと結実する。

看護婦の神田はる 大正4年、看護婦の神田はる(お絹のモデル)と知り合い、ともに讃美歌を歌い祈り、かつ食事をする親しい仲となる。翌年には神田はると結婚生活に入る。大正6年、長男地三が生まれる。この年、「出家とその弟子」を岩波書店より出版し、大きな反響をよび、ベストセラーとなる。

おしかけ女房の伊吹山直子 大正8年、伊吹山直子が福岡の結婚式場より脱出し、倉田を頼って上京する。その後、妻はると離婚し、大正13年に伊吹山直子と結婚する。大正15年には「一夫一婦か自由恋愛か」を岩波書店より出版している。

絶対の愛・山本久子 長い闘病生活を経て、倉田が到達することができた境地が「絶対的生活」ということであった。昭和11年12月、17歳の少女である山本久子(仮名)との文通はじまる。しかし翌年にはこの恋愛も破綻している。文学を志望し、教えを受けたいと百三に手紙を寄せたのが機縁となって、文通をかわすうちに熱烈な恋愛に落ちていった。百三の45歳の時である。二人は浜松の弁天島で落ち会ったり、京都方面にニ、三日宿泊し肉体関係を持つ。久子が東京のアパートに身を寄せ、百三と三日同棲したところで、久子の親族が連れ戻しにきて、この愛も破綻する。この手紙は生前百三がさる雑誌社の編集者にあずけておいたのを、死後公表したもので、書簡集「絶対の愛」の刊行は社会的にかなりの論議を呼んだ。

   倉田百三は、思想的にはキリスト教、仏教、西田哲学、白樺派、そして昭和になってからは超国家主義と複雑な軌跡をたどるが、女性との愛の遍歴だけは一生変わることがなかった。

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