牧口常三郎の青年時代と北海道
牧口常三郎(1871-1944)は、昭和5年11月18日、戸田城聖とともに「創価教育学会」を創設したことで知られる宗教家・教育思想家・地理学者。のち戦争に反対し、不敬罪と治安維持法違反を理由に弾圧を受け、昭和19年11月18日、73歳で巣鴨拘置所で獄死している。まさに身命を賭して自己の信念を貫いた生涯である。
明治4年6月6日、柏崎県刈羽郡荒浜村で、船乗りであった父・渡辺長松と母・イネの子として生まれる。本名渡辺長七。六歳のとき、親戚にあたる牧口善太夫の養子となる。
明治14年ごろのある日、長七(14歳)は突然北海道へ行くことを決意する。故郷の荒浜村を去って、北海道へ渡ろうとした動機については、はっきりしたことは何もわからない。当時の北海道には札幌農学校と北海道尋常師範学校があった。風のたよりに聞いて北海道を好きな学問ができる場所と考えたのかもしれない。北海道に渡った長七は、小樽警察署の給仕として雇われた。仕事の合い間は必ず本を読んでいる長七は「勉強給仕」とあだ名された。明治24年、20歳のときに独学で北海道尋常師範学校(:現在の北海道教育大学)に編入学する。明治26年には、名を常三郎と改め、北海道尋常師範学校附属小学校訓導となる。当時、教師仲間でも敬遠されていた僻地教育の難事業に取り組み、僻地教育の先駆となる。
明治25年ころの北海道の状況をみてみよう。人口は、函館58000人、小樽26000人、札幌25600人。札幌は行政の要地だったが、人口が函館の半分だったことや、小樽よりも少ないことがわかる。いま札幌は大都市だが、港町の函館や小樽のほうが栄えていた。北海道はようよく開拓が始まさったばかりの新開地で、内陸部の中心である空知や上川地方の開拓が始まったのが明治20年代の初めで、23年滝川、24年氷山、25年東旭川というふうに移民がおくりこまれて屯田兵村がつくられ、原生林をきりひらいていた。
牧口は師範学校をでて、地理の授業を受け持っていた。その頃、地理学は新しい学問であった。とくに牧口の授業は生徒に人気があった。単に地図を広げて、山や川の名前を示すような授業でなかった。一つの山を例にあげると、その山が人々の生活とどのようなかかわりをもっているか、また、人間の生活が、自然をどのように変化させてきたかなどと考えを進めていくのであった。牧口は実際の教育を通し地理科の重要性を痛感した。当時の地理教育が、ただ平板な暗記的羅列的なものであっただけに、地理教育の改善を意図して、のちに「人生地理学」(明治36年刊)を著わすのである。地理学研究に打ち込む牧口に影響を及ぼしたのは内村鑑三と志賀重昂である。当時の地理書といえば、内村鑑三「地理学考」(明治25年刊。のちに「地人論」と改題)と志賀重昂の「日本風景論」(明治27年)があげられる。札幌農学校出身の内村鑑三、新渡戸稲造、志賀重昂と牧口常三郎がいずれも北海道という開拓地で学問を開花し、教育や宗教へとそれぞれの課題を深化・発展させたことは注目される。(参考:美坂房洋「牧口常三郎」聖教新聞社 1972)
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