石狩事件と牧口常三郎
14歳の少年の身で郷里新潟から単身北海道へ来た牧口常三郎は、明治34年、30歳の春、突如一切の職務を辞して北海道を去る。唐突なこの転出は、牧口の内面における選択の決断と、師範学校寄宿舎において発生した生徒間の刃傷事件に舎監として責任を明らかにするという外的要因との、二者によるものである。ここでは、その外的要因である、明治30年代の教育界における学校紛擾の一例をみる。
石狩事件の発端は、明治33年10月上旬に発生した3年生たちのストライキ、「石狩事件」にあった。4年生を除く全校生徒が校長・職員に引率されて石狩地方へ修学旅行中の10月6日、石狩の旅館を発って銭函へ向かう予定のところ、3年生8人が連合して出立を拒否、校長・職員らの説得にも抗して8日朝まで石狩に滞在して同日帰校したという事件である。牧口は、4年生の東京・鎌倉地方への修学旅行を引率して10月5日小樽を出発しており、この「石狩事件」には立ち合っていない。明治34年2月9日、石狩事件にからむ生徒間の刃傷事件が附属小学校体操室で発生した。翌10日職員会議を招集して事後処理を協議し、道庁に報告する。生徒19人の放校処分、校長横山栄次はじめ舎監および教諭以上の職員全員の進退伺を道庁長官に提出した。教諭兼舎監であった牧口も、当然に進退伺を提出したものと考えられる。
このような学校紛擾は、当時全国各地の師範学校・中学校等に頻発した。学校紛擾の直接的要因は各学校ごとにさまざまであったが、概して教育への国家統制が強化されてきたことと、教師と生徒たちとの世代間格差(幕末期に育った教員と維新後の新教育を受けてきた生徒)などが、その底流に横たわっていた。北海道師範学校も例外ではなく、一生徒切腹事件(明治20年1月)、清川校長排斥事件(明治26年)、石切山マラソン事件(明治32年)など多発していた。(参考:『牧口常三郎全集 7』)
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