新島襄と内村鑑三
日本のキリスト者として対照的な二人の偉大な先達は新島襄(1843-90)と内村鑑三(1861-1930)である。二人とも上州人であり、上州武士の魂によって生き抜いたヒューマニストであり、良心主義の人物であった。
新島襄は元治元年に密出国してアメリカに渡り10年間滞在。その間、洗礼を受けキリスト教徒となる。国を興すのは教育と知識と国民のりっぱな品行の力にあるという信念のもとに、帰国後、明治8年京都に同志社英学校、明治10念同志社女学校を創立した。小崎弘道、横井時雄、海老名弾正らを世に送る。
札幌農学校を卒業した内村は、開拓使御用掛として勤務しながら、教友(信仰の同志)とともに新しい教会をきずく仕事にとりかかった。明治15年、外国宣教師からの独立、自給、簡易信条などを特徴とする札幌基督教会を設立した。これが、札幌バンドと呼ばれるようになったキリスト者集団である。明治16年、内村は、札幌県御用掛を辞めて農商務省に勤め、東京のキリスト者と交わりを深めていった。そこで、浅田タケと知り合い結婚、離婚。失意の内村は、新島襄のすすめで、明治18年、アメリカのアマースト大学、ハートフォード神学校に学んだのち、キリストの贖罪の真理への開眼ののち、明治21年帰国した。
内村鑑三の名は、第一高等中学校不敬事件や日露非戦論によって、また無教会キリスト教の創始者として知られる。しかし天才的キリスト者である反面、人間に巣食う矛盾や偏狭、激しい愛情の念、人によって差別し、冷酷な仕打ちをする強い個性を如何とも為しえなかった。たとえばアマースト大学その他で恩義のある先輩新島襄と同志社への批判攻撃は痛烈であるが的はずれであり、新島の教育実践の正しいことは、今日誰の目にも明らかであろう。有島武郎や小山内薫ら文学者をはじめ知識人、学生の多くは、その後、内村を離れたけれども、内村のもとにとどまった者のなかからは、傑出したキリスト者が現れた。内村の門下には藤井武、塚本虎二、矢内原忠雄、三谷隆正らがいる。
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